イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「渋谷事変」:第33話『渋谷事変 開門』感想

 かくして人類最強、獄門に封ざる。
 五条悟という規格外が盤面から退場する、呪術アニメ第33話である。
 強く設定しすぎた結果、退場してもらわなきゃいけないインチキ存在をどかすことから”渋谷事変”が始まるのだとしたら、そのための一分間を作るために五話に渡って過去編をやるという、なんとも特異で贅沢な尺の使い方である。
 こっからしばらく出番がない、呪術廻戦のアイコン最後の見せ場として、まさに規格外の怖さと凄さ……それを前置きとした人間らしい脆さが良く効いて、大変良かった。
 やっぱ呪術アニメはメリハリの効かせ方が大変明確で、刺したい所に的確に刺している感じが強い。

 殺し屋、あるいは工作機械のような冷静さと的確さで呪霊を処理していく手際が、ピタリと止まって隙ができる。
 『そうなったとしても、仕方がないよな』と思えるだけの質感があの青い春の物語にはしっかりあって、それに後押しされてバランスブレイカーは退場していく。
 五条悟が居残っていては、惨劇も呪詛も何もかも制圧されてしまうのなら。
 それが生み出すドラマもかき消されてしまうのならば、確かに消えてもらうしかない。
 こういう物語的要請が、夏油傑を乗っ取った”何か”の謀略としっかり重なって、お話としての最適解は悪役こそが果たしているのも、このお話らしくて良いと思う。
 何しろ極力あってほしくないけど、否応なく生まれてしまう呪いを扱う話なのだから、それを生み出し広げる側のほうが、誰かの幸せを願って払う側より、お話の心臓には近いのだろう。
 人間が人間の、社会が社会の形を保つギリギリの一線を、一人で抑え込んでいた(から、単独での事変制圧を押し付けられた)五条悟が獄門に封じられ、遺された有象無象はこの蠱毒をどう生き残るのか。
 ようやく、渋谷事変が始まる。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦「渋谷事変」”第33話より引用

 今回も、出だしのキレが良い。
 誰もが無敵の術師であり、頼れる大人であり、優しい先生だと口にする五条悟が、血に塗れて疲弊も顕に追い込まれている、逆接からの開始。
 この惨状に至るまで一体何があり、この疲弊の先に何が待っているのか、非常に強いフックがある。
 虎杖くんの底抜けに明るく幼い信頼と、追い込まれた五条先生の顔の対比が良く効いていて、胸に刺さって引っ張られるスタートだ。

 毎回日本有数のアニメスタジオじゃなきゃ出来ない、先鋭的でパワフルな表現をビシバシ叩きつけつつも、それが自己完結(あるいは自家中毒)せずドラマの楽しさにしっかり寄与しているのは、呪術アニメのとても良いところだと思う。
 視聴者が見れると思っていた想像を大きく越えて、しかし見たいと思っていた願望を踏み外すことはしないバランス取りはとても難しいと思うけど、しっかり力強い表現力を生かし、見ているものの関心と興奮を維持し、先をハラハラ楽しみに地獄に飛び込めるのは素晴らしい。

 

 

 

画像は”呪術廻戦「渋谷事変」”第33話より引用

 時は巻きどもって、特級呪霊三体との正面衝突が開始される。
 並の人間なら絶望極まるハンディキャップマッチだが、前回叩いた大口は全くビッグマウスではなく、怪物めいたインチキっぷりで五条悟は冷静に、冷酷に暴れまわる。
 普段は封じられている六眼は殺し屋……あるいは獣めいた酷薄を隠そうともせず、『能力を解除して有効打が放てる』という希望を誘い水に、花御をすり潰して殺していく。
 圧倒的な実力差、欠片も見せない情けと甘さ。
 人間を相手にしている感じもなく、一度巻き込まれたらぺしゃんこに潰されるだけの工作機械のような冷たさが、画面を支配する圧倒的な青に宿っていて、大変に良い。
 「懐玉・玉折」においては甘さや後悔、切望の象徴だった青があの惨劇を経て、五条悟の中でどう変化したのかが、殺戮を呼ぶ青から感じられる気がする。
 そしてそんな共感や理解を、軒並みはねのける苛烈さで五条悟は魔を祓っていく。

 むしろ動揺を誘うべく一般人に炎を向け、この怪物にそういう”人間的な”駆け引きは通用しないのだと思い知らされる漏瑚のほうが、心を寄せやすくすらある。
 人間の生命などなんとも思っていない……どころか、生まれつき蹂躙し嘲笑するべき邪悪として生まれついたものにも、圧倒的な存在に挑む恐怖や、共に挑む仲間との絆、使命に準じる心意気はある。
 今まで見せなかった”最強”の証明を、間近にしてなお余裕を作り、仲間をすり潰されてなお立ち向かう漏瑚は健気とすら思える。
 夏油から命じられた一分間が、あまりに重たい命がけだと痛感しつつも、全力を賭し策を弄して必死に足掻く……その必死さを見せれば嘲笑う呪いから嘲笑われる犠牲になると、強者を演じて戦う姿は、悲壮で崇高だ。

 だがそれは、錯覚に過ぎない。
 コイツラは五条先生が真っ向からすり潰すに足りるクソムシだし、”人間”らしく見えたとしても共存不可能な怪物だし、弱いものいじめに思える光景は正しく”駆除”である。
 そういう錯覚を生じさせるだけの適切な演出力が、呪いとして、人類の宿敵として人類から生み出されてしまった輩に確かにある温もりと、それを塗りつぶして十分な残虐外道を共存させる。
 怪物らしさと人間性の共存は、大型呪詛処理装置と化した五条先生と、必死に抗う彼の獲物に共通で、見慣れた渋谷駅を舞台にした非日常の惨劇の中で、呪いと祓えの境目は、奇妙に見えなくなっていく。
 この奇妙な酩酊感が僕は気持ちよかったし、このお話が扱う呪いが人間から出て人間を食い尽くす、矛盾に満ちた真実であることを思い出せて良かった。
 高度に純粋化された祝福は非人間的な呪いにしか見えなくなるし、自動的な現象であることを卒業した呪詛には、人間の体温が宿るのだ。

 そして人間の皮を被った呪いの塊が、懐かしい顔で全てを嘲笑う。
 漏瑚が余裕を失い人間味を滲ませ、死亡フラグをバリバリ立たせてボスの立ち位置から陥落するのに反して、夏油傑は余裕づらを分厚く、嘲笑う超越者の立ち位置を強化していく。
 その何もかもが手のひらの上ってツラは、必死こいて人間の碌でもなさに向き合ってきた”夏油傑”も当然嘲笑っていて、自分自身を呪いに変えてしまった大バカ野郎にそれでも残っている、人間が人間だから宿る青さを踏みつける。
 そういう最悪が、この物語の中枢にあるのだと描き、説得力を持たせるために、五話のエピソードにあんだけ気合の入ったOP/ED設えたってのは、普通じゃ出来ない最適解だよなぁ……。
 アレ見た後だとマジむかつくもんな、あのツラ……。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦「渋谷事変」”第33話より引用

 闇を切り裂いて迫る地下鉄の警笛は、地獄に仏を求める衆生ではなくそれを追い立てる鬼にこそ救いの福音だ。
 鬼を無情に狩り立てる今生如来の圧倒的暴力に、穴を開ける外道の奇策。
 車両いっぱいの人造人間、上層をぶち抜いての人間追加で五条悟の判断力を奪う手筋を、あの青い地獄を生き残った五条悟は上回っていく。
 『人殺しに為るか、呪詛に殺されるか』という二択を押し付けることで、漏瑚は付け入る隙を埋めると思っていたのだが、それを上回る掟破り、0.2秒の領域展開。
 そもそも規格外の異能を複数備えているのに、その応用方法や活かし方、あえて使わないことで隙を作る奸智にまで長けているという、圧倒的な強さ。
 そらー、物語的に死んでもらわないと話回せないわけだが、その状況作るためには、こんだけ手を尽くしてなお足りないわけだ。

 あらゆる存在が意識を失って立ち尽くす中、五条悟は一人加速した時間を生きる。
 尋常ではない処理速度で改造人間共を殺す、その六眼は獣相を未だ宿しているけども、しかしそれはあくまでこれ以上の死人を出さないためだ。
 神をも超えた圧倒的な力を宿しつつ、その使い道を揺るがすことなく、親友が”猿”と蔑むことになった呪霊の源を護るために使う。
 これだけ強大な力をもっていても、自分を一人この状況に追い込むことになった呪術社会は覆せず、それでも世界を変えようと”教師”という道を選んだ男。
 その兵器めいた非人間的な働きは戦闘が始まってから変わりがないが、状況の緊迫度が高まるにつれ、修羅の形相の奥に微か、人間性の光が見えてくる気がする。
 後に夏油傑が打った詰め筋を思うと、そんな人間の証明は救いなんかではなく、世界最強の術師を罠にはめる瑕疵なのだけど。
 でも、五条悟は”それ”を捨てられなかったのだ。

 

 生命の線引をしなければ勝利を掴み取れない、厳しすぎる状況。
 夏油傑がその線を渡ってしまったからこそ、どんなに厳しい課題が突きつけられても、五条悟は一番多くを救える道へと突き進む。
 それは孤独で苛烈な道だが、選んでしまった以上弱音は吐かないし、立ち止まることもしない。
 人造人間鏖殺の時、慮外に加速した世界で彼が見せている表情には、見えている以上の切なさと痛みが宿っているように思えた。
 ああいう顔で、自分しか飛び込めない地獄に分け入って為すべきを為すことで、誰かが諦めてしまった光を少しでも手元に引き寄せられると考えているから、五条悟は伏黒恵を、虎杖悠仁を救った。
 優しい”先生”でいるだけじゃ出来ないことがあるから、眼帯を外して修羅の冷たさで呪いのど真ん中に飛び込んで、怪物と戦っている。
 そんな五条悟という存在を、もう描けなくなるこのタイミグで鮮烈に描き切る気概が、疾走するジャズの奥に感じられてよかった。

 呪霊たちが用意した必勝の罠を、五条悟が思考を止めず上回ったのは、伏黒甚爾が用意した罠に飲み込まれ、削られ隙を作った果ての惨劇を、深く悔いているからだと思う。
 あそこでぶっ殺されたのは理子ちゃんや夏油の魂だけでなく、甘っちょろく力を使いこなせない自分でもあったのだろう。
 取り返しがつかない痛みや苦味を飲み込まされて、大人にされてしまった五条悟はもう負けることを許されず、呪術と戦っているはずなのに腐り切って誰よりも呪術的な業界におもねず、正しいと思うことを貫いてきた。
 そういうツッパった生き方を、夏油傑が守れなかった最悪で最高の二人のスタイルを、時が過ぎてなお人間のまま維持するためには、どんな不測の事態にも、過酷な決断にも最適を選びうる、強い精神力が必要だったのだ。
 悪辣な包囲にも、凶悪な力にも、どんなものにも負けない不屈の正義へと、己を研ぎ澄ます覚悟を、五条悟は磨き上げた。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦「渋谷事変」”第33話より引用

 その鉄心を、嘲笑って突き刺す英雄唯一の死点
 特級呪霊による波状攻撃も、無辜なる犠牲で埋め尽くした地下鉄も、何もかも嘲笑うべき余録でしかなく、満を持して乗っ取った”夏油傑”もまた、その例外ではない。
 半年間の記憶を0.2秒に圧縮することで窮地を脱した五条悟が、青い季節の全てを一分に圧縮したことで、致命的に足元を掬われることになる皮肉。
 それを飲み込めるだけの尊さが、五話の青い思い出には確かにあって、それを全力で踏みつけてくるから、夏油傑……の皮を盗んだ一匹の怪物は、許せぬ呪いの体現となりうる。
 こういう風に嘲笑って、手玉に取って、踏みつけにして、成し遂げたいなにかのために何もかも蔑ろにできる存在が、”呪い”なのだ。
 何より良く分かる場面で、作中最強のバランスブレイカーを退場させていくのはいい手だなぁ、と思う。

 謎の呪霊麻雀で”夏油”が上がるのが『国士無双』なのが、最悪にキレた演出だと思う。
 MAPPA渾身の作画と演出で描かれたように、五条悟は強い。
 非人間的に、正義を執行する機械のような強さと正確さで、人間も呪霊も追いつけないほどに早くて靭やかだ。
 そんな彼があまりに人間らしい呪術界の堕落に、無辜の子ども達を犠牲にするのを当然視するやり口に、馴染めないから単独派遣の決定はなされた。
 『凡百が雁首揃えようが、この規格外の足手まといにしかならない』という正統な判断と同じくらい、既存の社会構造、人間定義を一人で書き換えてしまいかねない異端児を、恐れ妬み恨み……つまりは呪った者たちの想念が濃いから、天下無双の大国士は一人にさせられた。
 そんな彼と唯一並べたかもしれない可能性を、道を踏み外し絡み合わせた先でその手で殺して、その確かな手応えを覚えているからこそ、”夏油傑”の再登場に隙が生まれる。
 たった一人になるしかなく、たった一人になんてなれなかった男相手だからこそ、国士無双を潰せるのだ。

 夏油傑と別れ、教師を志して以来一度も吠えなかった、””俺”としての燃える心。
 それが蘇ってしまったから、呪霊を処理する装置は人間に戻ってしまって封印されていく。
 そんな揺さぶりが効かない怪物に成り果てていたら、そもそもこの物語は始まっていなかっただろうから、必然の結末ではある。
 同時にここで封じておかないと、どうにもならないほど強すぎる存在でもある。
 ただ力がある、というだけではなく、取り返しがつかない過ちや燃え上がる憎悪に飲み込まれ、這い上がって己を見定めていく成長の過程に、コイツの背中だけ追っていけば良い燦然たる星として、五条悟は眩しすぎる。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦「渋谷事変」”第33話より引用

 ここから先の道は、”先生”の手助け無しで進むしかない。
 そうなってくれるのならば、全て手のひらの上で操りきれると、夏油傑の顔をした誰かは嘲笑う。
 その呪い、跳ね除けて何かを示せるか。
 主人公にのしかかるものは重い

 そんな感じの、渋谷事件開門であった。
 獄門疆は牢獄の門なのだから、それが開くのならば何かが捉えられ封じられ、薄暗い闇が行く手を阻むのが必然だ。
 ”開門”という、どこかポジティブな響きのある言葉がこういう使われ方をするの、性格悪くて最高。
 夏油傑の死体が最悪に弄ばれて最悪が始まると同時に、死んだはずのメカ丸から通信が入って第二章スタートなの、生き死にの境界線が揺らいでて”呪術”って感じがする。

 死中に活。
 言うは優しいが眼の前に広がる闇の先には、人類最強すらも飲み込んだ奸智と悪意が待ち構える。
 たった一つで盤面を封じれると、誰もが思った大駒が消えて、足手まといと外苑に留められてきた連中も動くしかない。
 錯綜し加速する呪いと祈りの中で、人と怪物はどんな風に、その生き様を刻むのか。
 呪術廻戦二期、まだまだ始まったばかりです。
 とっても、面白いですね。