イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ひろがるスカイ!プリキュア:第36話『あげは、最強の保育士失格!?』感想

 秋の個別回第二段は、最強の保育士を目指す最年長プリキュア涙と笑顔の別れ!
 聖あげはの総決算となる、ひろプリ第36話である。
 第18話、第28話と積み上げてきた要素を見事に回収し、聖あげはがどうやって子供時代を生き延び、何に影響されて夢を手に入れ、輝く未来につながる今を必死に駆け抜けているのか、見事に描くエピソードとなりました。
 メチャクチャ良かったです。
 あげはさんは個別エピに恵まれてる印象だなぁ……。

 

 お話としては第18話で生き様見せつけたたけるくんに、ありきたりでちっぽけな人生の試練が訪れ、大人として先生として年の離れた仲間として、あげはさんがそれに向き合っていくエピソード。
 プリキュアの魔法を使っても突然の別れは止められないけども、別れを涙だけで終わらせるのではなく出会えた奇跡にほほえみ、これから生まれる未来に顔を上げながら進んでいく事はできるのだと、凄く良いところに結末を持っていった。
 両親の離婚という現実的な理不尽に引き裂かれ、泣いていた子どもは虹ヶ丘ましろという年下のスーパーヒーロー、保育園の先生という身近な英雄に支えられて、『子供の心を守る』を最強の定義とする、強くて優しい大人になった。
 そんな彼女が第18話で手渡したものがたけるくんの中に確かに芽を出して、泣いてる誰かを支えられる小さな英雄になっていることを、お砂場でのありふれた優しさで示す出だしからしてまず良い。
 このモチーフが、虹ヶ丘邸最年少であるツバサくんの一言で笑い続ける強さを一旦投げ捨て、別れを悲しむ生身の自分を取り戻してなお、たけるくんと向き合おうとするあげはさんなりのヒロイズムの体現として、もう一度顔を出すのも最高。
 年の差があろうと、大人と子供であろうと、心の柔らかな部分はいつまでも同じであり、だからこそふれあい繋がり、分かれてなお響き合うことが出来るのだという、凄く広く大きなメッセージを出せていたと思う。

 あげはさんは成人プリキュアという新たな試みを背負い、すでに自分なりの夢と答えを手に入れた頼れる存在として作中に存在していた。
 そんな彼女もまた誰かの庇護を必要とする子どもだった時代があって、そこを色んな人の助けと持ち前の心の強さでなんとか生き延びて、おとなになったのだということが第28話では描かれた。
 今子供の心を守る立派なオトナに思える人は、守られるべき弱さを抱えた子どもだった時代があり、その弱さを忘れないからこそ優しく、強く何かを育む存在になれている。
 そうして優しくしてもらった記憶を忘れることなく、かつて自分が施してもらった慈しみを今度は与える側になって生きていくことが、ありふれた理不尽から人間を守るどれだけ強い奇跡を生み出せるのか。
 たけるくんの旅立ちを飾る美しい虹は、そのことを何より強く語っていたと思う。

 

 成人であるあげはさんは、すでに答えを得ているキャラクターだ。
 『最強の保育士って、一体何ですか?』という問いかけにも、『子供の心を守れる存在』という、真っ直ぐでしなやかな答えをすぐに返してくる。
 それは強さと優しさが結びついた定義であり、アンダーグ帝国の悪党がブン回してきた暴力とは、一線を画する答えだ。
 敵を打倒し、他人を踏みつけにする強さを持っていたとしても、子供の心は傷つくばかりで、あげはさんが掲げる”最強”には程遠い。
 弱くて怖くて泣いてしまう柔らかな心を、自分には縁遠いと跳ね除け遠ざけるのでなく、かつての、今の、いつかの自分と同じなのだと身近に引き寄せて、抱きしめ安心させてあげることにこそ、あげはさんは”最強”を見出している。
 それは物理的暴力の強さではなく、本質的にわかり得ない他者の心にどれだけ近づけるかという、魂の強さを尺度にした定義だ。

 ここまでの敵幹部を見ると、弱い自分を直視したくないから強さの幻影で目を塞ぎ、他人を踏みにじって弱者の地位に貶めることで、強者である自分を再確認する生き方が目立つ。
 エルちゃんの涙を『わからん』と跳ね除けたカバトンにしても、臆病な弱さを押しのけるためにテロ行為に走ってたバッタモンダーにしても、”武人”で思考停止して眼の前の他人(たとえばあげはさんの姉たち)を怯え傷つけてきたミノトンにしても、自分の強さが真実何を生み出すのか……あるいは何を傷つけているかということに、あまりに思慮がない。
 そこを考え出すと、何も生み出せないどころか奪ってかき消している自分を直視することになり、醜い弱さと向き合う厳しさを要求されるからこそ、悪党は弱さから逃げて自分を強いと思い込む。
 思い込みたいからこそ、暴力を強さの証として振り回しているのかもしれない。
 ここらへんは他者に共感する心の柔らかな部分を殺して、機械のように任務を遂行し続けるスキアヘッドも同じだろう。

 

 かつてたけるくんも、身近な友達を押しのけて自分は偉くて強いのだと、いかにも子供っぽく思い込もうとした。
 強い自分を打ち立てるために、悪い誰かを作り上げようとすらしていた。
 あげはさんは保育士として膝を曲げて、その独善に必死に追いすがり、あるいはプリキュアとして超常の力で危機を助けた。
 暴力に脅かされている小さな身体を守ることは、すなわち子どもの心を守ることでもあるので、『最強の保育士≒最強のプリキュア』であることはあげはさんが選んだ生き様を、貫くことにほかならない。
 そういう生き様は守られる誰かの心に染み入って、彼らを誰かを守れる存在に変えていく。
 キュアバタフライの”最強”を引き継いだたけるくんは、友達の涙をせき止め、暴力に脅かされている状況で誰かの手を取れる人になった。
 そうやってあげはさんが手渡したものは、彼女が虹ヶ丘ましろから、分かれてなお家族である姉たちから、たけるくんの祖母から手渡されたもので、花咲いた希望だ。
 年齢が離れていても、離れているからこそ手渡せる強さがどのような声質を持ち、悪党が振り回す独善的な暴力と何が違うかを、たけるくんの成長、それを促すあげは先生の生き方は活写している。

 同時にその強さは人間の弱さと裏腹で、別れを前に迷い、他人と向き合う扉を閉じ、あるいは涙してしまう”人間らしさ”を、このエピソードは肯定する。
 泣いていた子どもから、かつての自分と同じ存在を守れる”最強”になったとしても、あげはさんはたけるくんともっと一緒に過ごし、笑い、生きていたいと思っていた。
 それが敵わないときは、無理して笑っているばかりでなく、泣いても良いのだと告げるのが、ずっとあげはさんに『少年』呼ばわりされていたツバサくんなのが、とても良かった。
 ウイングとして戦闘の中で見せていた強さだけでなく、虹ヶ丘邸で共に暮らす中当たり前に輝いていた、一人の人間としての尊厳と強さを手渡す形で、ツバサくんは頼れる大人がひた隠しにする(隠さなければ”最強”でいることは難しい)弱さを、あらわにして欲しいと願う。
 それは何もかもが幸せに運んでいくわけではない、当たり前の理不尽と哀しみに満ちた普通の(あるいは大人の)世界で人が生きていく以上、当然底にあってしまうものであり、笑顔であり続けること、泣かない大人であることだけが”最強”だと囚われかけていたあげはさんの心を、自由に解き放つ。
 そういう繋がりに年は関係なく、大人に子どもが教えられ、助けられることがあっても良い。
 ずっとひろプリチームの頼れる保護者として、子どもたちを守り続けた”最強”の弱さをそうやって抱きしめてくれる人が、かつて、今、そしていつか来るだろう明日にもいてくれることが、どれだけありがたいのか。
 そういうことも、今回のエピソードは描く。

 

 ツバサくんの言葉に弱くなる勇気をもらって、あげはさんはたけるくんの前で涙を流す。
 自分の心から湧き出る、一緒に楽しい日々を過ごしたからこその哀しみを一切隠すことなく、対等に率直に伝える。
 教え子であり、守るべき子どもでもある相手に立場や責務の鎧を外して、むき出しの熱い涙をさらけ出す勇気は、迫りくる敵に立ち向かう強さとは別で、全く同じだ。
 ワカメ影バリバリの独特の作画が力強い、キュアバタフライとしての戦いが今回しっかり描かれたのは、キュアバタフライと聖あげは、危険に満ちた非日常と平和に思える日常が実は繋がって一つなのだと、僕らに教えてくれる。
 キュアバタフライが猛攻に屈せず戦える理由は、たけるくんとの別れを前に思い悩み、足踏みをしていた誠実と同じところから生まれている。
 強さと優しさの源泉は、いつだって同じところにあるのだ。
 聖あげはは、キュアバタフライは、”プリキュア”は、優しいからこそ強い。
 そういうこれまで幾度も語られ、これから幾度だって語られるべきヒロイズムの真髄を、とてもあげはさんらしい形で語り切ってくれたのは、大変良かった。

 それぞれの個性を混ぜ合わせ、新しい色を生み出すミックスパレット。
 あげはさんの”仕事”として、新アイテム販促ノルマを背負って作中行使されていた力が、最後の最後とても熱い血の通った使われ方をしてたのも、素晴らしかった。
 子どもの心を守ることを”最強”の定義とし、ただ敵を退ける暴力に価値を認めなかった今回、プリキュアが生み出す奇跡が戦場の外側でも眩しく輝き、人と人が別れていく必然を悲しく終わらせない要になれるのだと、空に虹が描かれていく。
 それは華やかな蝶をモチーフとし、アゲアゲなギャルテンションで前向きに輝き続けているキュアバタフライが、一番彼女らしい形で手渡せる未来への餞だ。
 その虹を覚えている限り、たけるくんはまぶたに焼き付いた”最強”を信じて、強くて優しい存在であり続けるだろう。
 あげはさんがそうやって手渡されたものを、人生のありふれた嵐に傷つけられながらも手放さず、必死に守って”最強”であれたように、時を越えて繋がり、広がるものが確かにある。


 強さとは優しさで、弱さと裏腹で、誰かに守られて渡されて、未来へと羽ばたいていける。
  そういう幾度も言われてきた、何度でもいうべき最強の綺麗事を、堂々語り切ってくれるエピソードでした。
 大変素晴らしかったです。
 こういう眩さで聖あげはの”今”を描ききった直後に、そんな彼女を作り出した虹ヶ丘ましろとの過去を掘り下げられるの、個別回を連ねていくフェイズの妙味を強く感じます。
 俺は虹ヶ丘ましろがいっとうスキなので、次回は大変楽しみです。