イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:水底に影を探して

 進級という大きなイベント、アプリ大刷新の大型アップデートを経て、新たな物語に進み出すニーゴの一歩目である。
 イベント形式としてはぶっちゃけダルかったが、ユニット客員の現状を横並びでさらっと見ていくには、悪くない感じだった。
 僕はストーリーを一気に浴びるのが性に合っているので、チマチマ期限切られて全部一気に読みきれないのはなかなかにストレスであるが、こうして体験を制御することでしか生まれない物語ってのも、まぁあるよねとは思う。
 『アプリ運営的には継続的ログインしなきゃストーリー追えない形にして、DAU上げていく施策なんだろうなー……』みたいな、舞台裏のチョコマカした事情が隠しきれてないのは、もうちょい上手くやって欲しい気持ちもある。
 まだまだ始まったばかりなので、転がしていくうちにこなれていくのを期待したい。

 

 さて他ユニットがメジャーデビューを控えたり、アイドル・スタートアップとして新事業計画に取り組んだり、雇用関係を刷新して新しい挑戦に挑める態勢を作ったり、ヒップホップ魔人にベッコベコにされてからの再起を誓ったりする中、ニーゴは表面上(あるいは社会的)には穏やかな進級となった。
 ニーゴがネット上でどういうバズり方をしているか、おそらく意識して書いてないこのユニットにとって、大事なことは常に狭く閉じたサークル、あるいは複雑で深い内面にこそある。
 他ユニットが面白いことも厄介も含めて向き合うべき課題がたくさんある現実から、解き放たれ安らぐことが出来る休憩所……くらいに扱われているセカイも、ニーゴにとってはその主たるまふゆの心を反映する、神秘的で真実味のある迷宮として描かれてきた。
 自分が母に愛されていないこと……正確に言えば、自分が求める愛の形と母が提供する愛(だと思っているもの)が食い違っていることを認め、その不協和に耐えきれず奏の家に身を寄せたまふゆにとって、他ユニットにとっての世界が果たしている避難所の役割は、友達の家にこそあるのかもしれない。
 風邪をひいて弱って、何も求められずただ愛され癒やされていた時間を愛の原点とするまふゆにとって、母が愛と引き換えに求める”いい子”は相当無理をして演じていた虚像であり、実像としての彼女はあの時ベッドに横たわったまま動けていないのだろう。

 なので『湖こわい……近づきたくない……』とバブバブしている様は、情けないというよりはあるがままの実態を一つ受け入れ、そこから人生を這いずる契機と感じられて、妙に泣けてしまった。
 完璧優等生の殻を被りつつも、ぶっ壊れた親子関係の中情緒を適切に育めなかった少女にとって、赤ん坊のように無力で怖がりな自分をあるがままさらけ出せる相手が、まだいることは大きな救いだ。
 それは甘えであると同時に休息で、今自分がどんな状態にあるのか認識する鏡でもある。
 ぶっちゃけ奏の家でぐずってるまふゆは相当限界であるが、そこまで追い込んじゃった家庭のぶっ壊れ方、まふゆ自身のぶっ壊れ方を思うと、彼女の人生がより善くなっていくための必要なプロセスという感じがある。
 いーじゃねぇか今まで、ぶっ壊れるくらいに頑張ってきたんだから……好きなだけ親友の長い髪に絡め取られて、赤子のように眠りなよッ!

 

 とうに壊れて限界だった自分を認識し、新たに生き直すための休息を取っているまふゆを、友達たちは優しく見守り、それで終わらない。
 まふゆの辛さを自分に引き寄せて考え、そうして親身になることで自分の目の前にある課題を超えていく力を得て、ある種のギブ&テイクでユニットやっていく姿が、じっくりと描かれていた。
 今回は新シーズン開幕ということで、各キャラクターが今向き合っている問題をなぞって再確認する感じの描写になったが、父を殺した罪悪感から母の愛と思い出を手がかりに這い出した奏、承認欲求の奥にある絵画への情熱に真摯に向き合う姿勢が出来た絵奈は、半ば己の成長物語をゴールしかけてる感じだ。
 瑞希は未だ明言されざる『言えない秘密』から逃げ、逃げている自分を嫌悪しつつもその先に、必死に進もうとしている段階だ。
 逃げの先輩として、まふゆを今必要な休息に導いた功労者でもある瑞希だが、そんな友達の様子を気にかけることで、自分の現状を観察している感じもあった。
 逃げることは時に必要だが、それは先に進む前提あっての休息だ。

 では僕らにとって前進とは、何を意味するのか?
 『医者になる、いい大学に入る』という、まふゆの母が呪われている社会一般に認められた価値でも、世間が無条件で肯定してくれるアイデンティティを自分に押し付けることでもないことは、そうしようと挑んで違和感に殺されかけた、彼らが一番良く知っている。
 僕らは何がしたくて、どう生きたいのか。
 人類発生以来の難題に立ち返り、深く暗く社会を遠ざけながら、青春を沈思黙考する異形のユニットが、今どういう段階にあるのか。
 そこら辺をスケッチするイベントだった。
 ユニット内部で最も貪欲に未来を求め、最も派手に魂の血を流してきた絵名が、その成長にふさわしく”美大進学”という新しい課題、社会との繋がり方をメインテーマに打ち出してきたのは、それぞれの立場に応じた話運びだなぁって感じ。

 

 今回は世界に現れた新しいエリア、まふゆの心を反射した湖を巡って、イベントが展開する。
 元々そういう気配はあったが、露骨に内的宇宙の具現としてセカイを使ってきて、毛色が違ってきたのは面白かった。
 ””ペルソナ”シリーズ、”Caligula -カリギュラ-”、三宅乱丈”PET”あるいは”FISH”
 心という迷宮に潜ることで思春期の繊細な激動を掘り下げ、内的問題に挑む難しさと強さを描く傑作達の足取りを、ニーゴの物語も正式に追いかけてきた印象を受ける。
 ちっぽけで見えないはずの心にこそ、複雑怪奇な外界と繋がり、殺されず生き抜く答えがある。
 精神と現実の不思議な関係性を可視化する装置として、ココロというダンジョンは様々な作品で扱われ、危険と発見を繰り返しながら少年少女に進むべき道を示してきた。
 愛するべき母が自分を殺している現状を認め、どうすればいいか分からぬまま奏の家に緊急避難したまふゆも、心理迷宮に潜ることで何かを探していく。

 湖はセカイを共有する皆が観測することが出来、しかしそこに沈んだ宝物はまふゆにしか回収できない。
 かけがえのない助けに支えられつつも、水底にある自分を掬い……つまり救う権利と尊厳はまふゆ本人にしかなく、怯えながらも挑む勇気を育むためには、愛の揺り籠で眠ることも大事なのだ。
 なので、存分バブれる場所を用意した奏はマジで偉い。

 身を伸ばせば溺れてしまうかもしれない恐怖に向き合い、自分の心に確かに刻まれた大事なものを回収する戦いは、カウンセリングの様相を帯びている。
 まふゆにとって何が大事で、何がしたいのか。
 何が怖くて、何が痛いのか。
 なかなか言葉にならないものに、ファンタジックな外装を重ねることで可視化していく、一種の箱庭療法としてニーゴのセカイは成立し、機能していく。

 他メンバーが湖の底に見つけたものが、自分が手渡しまふゆに宿った被造物なのに対し、まふゆが仲間の助けを借りて湖に向き合った時浮上したのは、母の与えてくれたりんごだった。
 わかりやすい成果を手渡せる誰かであることを前提に、脅迫混じりに与えられるご褒美としての愛ではなく、世割り切った幼子をただただ慈しむ、無償の愛。
 それを受け取れる、弱くて何も出来なくても愛される自分こそ本当の自分なのだと、まふゆは多分ずっと思っていて、しかし母の期待に応えるうちにその幼さを封じてきた。
 あそこで湖に向き合うことでまふゆが見つけたのは、どれだけ怯えても母を愛し続けている自分、その愛を求め続けている自分であり、ずっとりんごを食べたいと思い続けてきた己の幼さだ。
 母に押し付けられ望むまま演じてきたほど、朝比奈まふゆは大人じゃなかったと、彼女が認めるまでの心理的プロセスが今回のイベントでは掘り下げられている。

 

 これをこの状況に先んじて、なんも知らねぇままシャリシャリ摩り下ろしてバブバブ食わせていた宵崎奏という少女との関係は、音楽創作ユニットの仲間であり同年代の親友であり、失われた母を再演することで己も癒やされているという、複雑に捻れて透明度が高い間柄だ。
 『与えられたものを誰かに与える』という鏡像関係は、自分を優しくケアしてくれた母の面影を追って看護師という夢に向き合ってるまふゆにしても、カーネーションの思い出を取り戻して誰かに優しく出来る強い自分を目指す奏にしても、皆に共通である。
 だから世間一般に通用する、わかりやすいラベルがなかなか貼れないとしても、奏に優しくされているまふゆも、奏に優しくしようとしてるまふゆも、そうして繋がることでお互い何かを照らし合い、生き延びるための術を分け与えている。
 奏がまふゆにりんごを差し出す時、失われた母はそこに蘇っているのであり、思い出とは違うりんごをまふゆが食む時、無力な幼子でいて良い自分を彼女も取り戻している。
 利他と献身だけがニーゴを支えているわけではなく、優しくすることで優しくされる穏やかなエゴイズムが、身勝手な救済が、確かにそこにあるのは健全でいいなと思う。

 喪失はいつでも残酷にそこにあって、傷ついた果てに消えたくもなるけど、しかし今生きてしまっている自分はどうしようもなく生きようとして、血を流しながらもがいている。
 そういうみっともなさと必死さをずっと描いてきたニーゴにとって、虚無に失われてしまったと諦めていたものが形を変えて再生し、生存を可能にする変化を生み出していることは、大きな希望だろう。
 そのわかりやすい表れとして、まふゆのセカイは様相を変えて湖や扉を生み出し、自分がどんな存在であるのか、何を求め何に傷ついているのか、見つめることで変化していく。
 それはまふゆの内面であると同時に、他人が立ち入って安らぎ、仲間と語らいうる開かれた場所で、謎めいた優しい隣人たちが住まう異世界でもある。
 そこに、まふゆの母は入ってこない。
 確かにそこにいた名残を湖底のりんごとして残しつつも、まふゆが何に苦しんでいるのか解かろうとせず、自分が信じる愛を押し付けるだけの怪物は、内側に閉じていながら外に開けてもいる、ココロという迷宮に踏み込めない。
 いつかまふゆの母が、あの灰色で静かで美しい景色に飛び込めたときこそが、朝比奈母子の関係が決定的に変革し、もしかしたら救済される時なのだろうけど、まふゆが母に歩み寄る強さをまだ掴めていない現状では、怪物であり女神でもある存在がセカイにたどり着く日は遠そうだ。

 今回湖底のりんごを見つけさせた物語は、ネットに膾炙するポップな言説では”毒親”として消費されるだろうまふゆの母親を、簡単に切り離さない。
 そこには愛着の鎖が繋がっていて、未だ切れないへその緒は身勝手な愛で赤子の首を絞め続け、それだけが朝比奈まふゆが生き延びる命綱でもある。
 母への愛を捨てられないこと、逃げつつも切り捨てられないことが、まふゆの辛さの根っこにある。
 仲間に支えられ、喪失した幼年期を再獲得しながら、あるいは母を……母を愛する自分を諦めたり、あるいは解っても変わってもくれない怪物にそれでも向き合う勇者な自分を見つけて、まふゆは道の先へ進むだろう。
 それは鏡合わせに、娘を自分のほしいまま、理想という檻に閉じ込めてしまっている不完全と加害性に、向き合う物語にもなるだろう。

 大人が持つ不完全性、あるいは幼さの体現として、母だからこそ娘を愛し殺す彼女の怪物性(≒人間性)を睨み続けているのは、やっぱり面白い画角だと思う。
 『親は、大人は自分たちを解ってくれない敵だ』あるいは『自分たちを完全に理解し、庇護してくれる神様だ』と、シンプルに終わらせるつもりはプロセカには毛頭ない。
 (ここら辺、ユニットの方向性としても構成人員のパーソナルとしても真逆に思えるビビバスが、未だ青春に決着つけれてない大人たちに引っ掻き回されて、自分たちだけの物語と向き合ってるのと、面白い相似を為してる印象)

 母もまた不完全な幼子で、何かに傷つき抱きしめて欲しがっているのだとまふゆが思えたのなら……今奏にしてもらっているような無条件の抱擁を、年や親子の壁を超えて差し出せる所までたどり着けたら、まぁまぁ良い収まりでこじれにこじれた内面追求の物語にも、道が開けていく感じはある。
 既に描かれたまふゆ母のこじれっぷり、エゴの怪物っぷりを思うと道は長そうだし、そういう”正しい”決着だけに突き進みそうにないのがプロセカでもあるが、個人的には我が母なる暗黒にも優しい包容を与えて、そうできるだけの成長をまふゆに授けて、物語が落着してほしいなとは思う。
 まふゆのバブバブを『しょーがねーなー! 人間だもんな!!』と肯定する視線は、まふゆ母のエゴと残酷をも『しょーがねーなー! 人間だもんな!!』と肯定する視線に繋がりうるのか。
 そこまで、まふゆも僕らも寛大で公平でいるべきなのか。
 許容できる欠損の一線は、一体どこに引くべきか。
 今後の話運びは、そこら辺まで突っ込んできそうで期待はしている。

 

 人が人を愛し、許し、抱きしめる。
 当たり前でありながら難しすぎるゴールに辿り着くのに、閉じたサークルの助けだけでは足りないというサインは、進級を果たしたプロセカ全体からも漂っている。
 えむちゃんが学級委員になって、学校という社会でまふゆに積極的にアプローチできるポジションに立ったのも、穂波が家事手伝いの仕事を通じて、朝比奈先輩が完璧人間でも何でもなく超絶限界バブバブちゃんだと把握したのも、ニーゴ外から援助の手が差し伸べられる前奏だと思っている。
 狭く閉じているからこそニーゴであったニーゴが、他ユニットが果たしている社会的、経済的自立/承認とはまた違う形で、自分たちの外側に繋がって交流し、変化していく兆し。
 それは、ニーゴらしさを決定的に壊すのだろうか?

 自分たちを解ってくれる特別な存在への、深くて狭いアプローチの特別さ、心地よさをユニットの特色としているニーゴだけども、暗く病んだ色合いを残しつつ各々なにがしてぇのか、なにがいてぇのか見つめてきた結果、少しはココロも開けてきた。
 どんだけ内面に深く潜ろうと、社会の中に確かに存在してしまっている自分たち(進級を果たし、他ユニットが職業を得て学校の外での自分をガンガン確立して見つけているもの)と己は不可分であり、その繋がりが得難い救いでもある。
 そういう、思いがけない助け舟をどっかで差し出すべく、進級という大きなイベントを用意した感じも受けた。
 ここら辺、”弓引け、白の世界に”が明らかな先取りしてて、弓道部顔面兵器コンビが過酷な心の戦場に肩組んで挑んでいく場面を、今後見たくもなるんだよなぁ……。

 

 という感じの、進級後1発目ニーゴイベであった。
 まふゆが己に向き合う度に、新たなエリアが増えていくココロダンジョンは、現実においてはなかなか言葉にしにくく認識も難しい課題を、可視化し共有する。
 湖の底に沈むことを恐れず、手を伸ばして水鏡に何が映るかをすくい取る。
 心の中の内省はセカイという装置を通じて、他人と共有しやすい小さな冒険に変わる。
 こういうカウンセリングルームとしてのセカイを、今後ニーゴは活用していくんだなぁ、って感じ。
 ここら辺の内的宇宙が、他ユニットではどう扱われるかも含めて、少し舵取りを変えたプロセカの今後が楽しみである。
 朝比奈くんはしばらく、思う存分バブバブするように。