イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「渋谷事変」:第42話『理非』感想

 数多死体が積み重なり、未だ道半ば。
 渋谷の街と一緒に崩壊していく、呪術を秘して続いてきた日常の残骸の中で、血みどろの戦いが加熱していく。
 虎杖悠仁と真人の激戦を描く、呪術アニメ第42話である。

 人が呪いも残せずあっけなく死ぬこと、あるいは末期に祈りとも呪いともつかないものを刻んで死んでいく様子をこのお話は幾度も描いてきたし、今回も次回もその先も描いていくことになる。
 特級呪霊の中でも一番悪辣で性悪な真人が、名前の通り”人間の真実”を醜く凝集して生まれた呪いである事実は、今回展開される戦いの中で色濃く際だってくる。
 この世界に祓魔師はおらず、人が生み出した呪いを払うのもまた呪術師だ。
 サブタイにある”理非”を問うのならば、揺るがない正しさを体現して『お前は生きて良し、お前は死ね』と処断できる立場の者は原則として存在せず、極めて身勝手な判断を暴力で押し通して、誰が生きて死ぬべきか、理非を決めている……極めて現実的なファンタジーである。
 それでも守りたいと思える”なにか”があるから、呪術師は呪詛師にならず日常を影から守るヒーローたりえ……あるいは夏油傑の青春において描かれたように、極めて人間的な”なにか”があればこそ最悪の呪詛師へとなったりもする。
 祈りが呪いへ変貌し、人が人を底なしの悪意で地獄に引きずり込んでなお足りない、”非”に満ちた世界の一つの真実を、おぞましい真人は良く体現している。

 虎杖くんと僕らがどんだけ憎もうと、許せなかろうと、真人はそこに在る。
 やりたい放題人間の身体と霊魂を弄くり回し、保たれるべき尊厳を弄んで、楽しそうに殺し何事にも本気にならず、全てを嘲笑って踏みにじっていく。
 そこに立ち現れているのは払うべき呪いの本質であると同時に、それを生み出す人間の本質……少なくともその一側面であり、真人自身はそんな自分のあり方をニヒルに笑い飛ばしながら、かなり正確に把握している。
 いちゃいけない、あってはならないと人間社会が定義した大殺戮も呪いの開陳も既になされてしまい、虎杖くんを核として宿儺の呪いは、罪なき人達を巻き込んで渋谷を焼いた。
 あって良いはずがないことは実際に起こるし、一番目を背けたいものこそ”真人”を名乗る呪いの渦の中で、虎杖くんが抱く薄らぼんやりとした『正しい死に方、正しい生き方』は薄く、脆い。

 同時にその”理”を信じ保ち続けなければ、世の中に満ちるのは身もふたもない呪いと暴力でしかなく、真人が好き勝手絶頂通りすがりの人達を人間以外に書き換えて、あざ笑いながら使い潰す最悪は、分かりやすいその体現だ。
 呪いが呪いのままむき出しで闊歩する世界は、少なくとも人が人でありたいのならば否定しなければいけない。
 しかし、どうやって?
 許せない相手を憎み、理不尽な世界を恨む気持ちも呪いになっていき、それしか呪術師(この世界唯一のヒーロー)に手立てがないのならば、どうやって呪いが正しいあり方を蝕む毒に抵抗し、打ち勝てばいいのか。
 虎杖くんは主人公として、この問いかけに作品全部使って何らか答えを出さなければいけない。(出ないまま終わることすらありえるなと、作品が”正しさ”に向き合うのシニカルな姿勢を見ていると感じもするが)
 愛するべき人たちを沢山殺し、数多の罪を背負ってなお進む主人公への過酷な態度は、作品がその世界の真ん中に入れてしまった呪術の身も蓋のなさと、本気で向き合うため必要な、通過儀礼とも思える。

 

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第42話より引用

 なんてもの分かりよくまとめたところで、ナナミンが死んでキチィってのは、別に削れもしない実感なのだが。
 一度は報われぬ呪術師の宿命から逃げ、しかし人々の安らぎを戦いを通じて守る己の本性からは逃げ切れず、世界に満ち満ちたロクでもない呪いに追いつかれて、遠い夏の国を夢見ながら死んでいく。
 最先端の市中異界として、その得意なデザイン力を余すところなく活用されている渋谷駅が、今回再開発されたオシャレな表側ではなく、地道で古臭い裏側から描かれているのが、個人的には面白かった。
 大量殺戮者になってしまった虎杖くんも、幻覚に惑いつつも末期まで戦うナナミンも、洗練された情報記号を剥ぎ取った、灰色の旧渋谷を通って死地に戻ってくる。
 自分が作り出した虚無の前で膝を曲げ、あるいは体の半分を焼け焦げさせられて力尽きても、別におかしくないのに、立ち上がって戦いの現場へ理非を問いに来る。
 彼らを貫通する呪いであり、特定の在り方へと引き寄せる引力でもあるものは、血生臭さと美しさが混じり合う場所で、奇妙なダンスを踊っている。

 祈りが呪いになってしまう世界の現実を、七海健人は学生時代灰原悠の死体でもって叩きつけられていて、夏油傑という優しい人が呪いの塊になってしまった現実と併せて、『呪術師はクソ』って真実を、たっぷり学んだんだと思う。
 そこから逃げて戻ってきて、因業のツケを払うかのように死にかけてなお戦っている眩暈の中で、ナナミンは灰原と再開し、末期の呪いを虎杖くんに残す。
 それが若人の人生を蝕む呪詛となりうるのか、ロクでもなさすぎる世界をなんとか生き延び、死んでいく杖になるのか、答えなど見えないままナナミンは後を託して死ぬしかなかった。
 あるいはそこでその言葉が、理性的静止を振りちぎって最後の呪言となった事実が、幾度現実に蝕まれても青い季節に抱いた祈りが、彼の中で祈りのままであったのだと示しているのかもしれない。

 ナナミンが託したものが呪いになるかどうかは、それを受け継いでしまった”生徒”である虎杖くんが今後、どう戦ってどう死ぬかによって証明される。
 人生の奈落に続くかのような、薄汚れて古ぼけた階段の中で幾度も繰り返す、様々な人達の言葉。
 それに突き動かされ、背中をささえられ、あるいは反発して前に進んできた不定形の呪いたちの一つに、ナナミンの遺言も加わっていく。
 リフレインする言葉の中で、彼が呪いと出会う前に倭助に告げられた言葉が、特に大きな存在感を持っているのが面白い。
 呪われきった世界の真実を知り、ちっぽけな祈りを嘲笑って弄ぶクズどもと対峙し、クソ以下の世界でそれでも戦ってる人たちと出会い、そんなちっぽけな尊厳を何もかも焼き切る惨劇を経て、なお響くもの。
 真人なら『伽藍堂だからこそ、他人の言葉がよく響く』と嘲るところだろうが、人間が人間である以上発してしまうメッセージを真摯に受け止め、自分に引き寄せて生き方を変えていける素直さは、虎杖くんの得難い人間味だ。

 そういう生真面目な優しさに呪われて、最悪の呪詛師に成り果てた挙げ句親友に殺され、死体を別の誰かに利用されてる男も、このお話にはいるわけだが。
 夏油傑が成り果ててしまった特大の呪いと、同等以上に罪と痛みを突きつけられて、虎杖くんは己を呪いに変えること無く、人間が人間としてどう生きれるのかを、考え体現しなければいけない。
 灰原無言のメッセージに後押しされて、ナナミンが託した末期を、彼が危惧するような呪いに変えられない、負けられない、間違えられないプレッシャーを背負って、虎杖くんは虎杖くん自身の戦いを始める。
 それは宿儺の器として、勝手に体を使われ殺戮の責を背負うのとは少し違う、自分で自分の手綱を握った戦いだ。
 それはだからこそ尊くて、痛くて、逃げ場がない。

 

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第42話より引用

 宿儺が撒き散らした殺戮が渋谷全土を股にかける、広大でスピーディーではた迷惑なバトルだったのに対し、虎杖くんが真人と戦う現場は狭苦しく、個人的で……だからこそ凶暴だ。
 何もかもを弄びあざ笑う真人に対し、虎杖くんは心底ブチギレぶっ殺そうと呪いを溜め込むが、その『正しい暴力』を振るう腕は既に、渋谷に集った沢山の人を焼き殺した腕でもある。
 正しい生き方と正しい死に方を求める虎杖くんが、極めて正しくない暴虐の中心となり、取り返しの付かない罪を重ね、それでも死に行く人に未来を託されて、個人的な怒りの只中に立つこと。
 矛盾だらけの現状を、虎杖くんはあんまりに色んなことが起きすぎた”渋谷事変”で整理できておらず、理非がどこに在るか定かではないまま、ド許せぬ呪霊を払うことだけ求めて噛み付いていく。
 人間やめさせられた犠牲者を、必要な対価と諦めて殴り飛ばすことがどうしても出来ない”人間らしさ”を、人間の形を自在に変貌させる呪いは笑い飛ばし、微かな真剣味を宿して否定する。

 指折り数えて殺さない、潰した命を気にもとめない、極めて非人間的で……だからこそ最も人間的な呪霊。
 『お前は俺だ』と、軽口のようでいて真実を確かにエグッている呪いを吐き出す真人は、こと虎杖悠仁の在り方を否定することに関してはその嘲弄を引っ込め、奇妙な真剣さを見せている。
 肉の壁が迫る息苦しいキリングフィールドの中で、グロテスクで暴力的な否定を必死こいて突きつけてくる真人を、虎杖くんはその拳でぶち破り、開放する。
 それは一時的な変化でしか無く、超高速で落下するエレベーターに再び狭苦しく閉じ込められながら、虎杖くんは真人が押し付けてくる否定を否定し、己が信じる”正しい人間”を、暴力でもって削り出そうとする。
 それは極めて個人的で、衝動的で、だからこそ制御可能な”正しい暴力”……であろうと、虎杖くんが必死で抑え込んでいる戦いだ。

 

 周辺被害を一切考慮しない宿儺の戦いに、傷つけられたからこそ超越的一個人として戦おうとしている虎杖くんに対し、真人は正々堂々クソ食らえ、より深く虎杖悠仁の本質を傷つけられるように、数多の犠牲を引き込む。
 ナナミンを虎杖くんの目の前で殺したのも、改造人間を銃弾や壁や罠として使い潰すのも、野薔薇に的を定めて無惨にぶっ殺そうとするのも、それが虎杖くんに良く刺さるからだ。
 始まってしまった戦いは、相手が戦士だろうが一般人だろうが構わず巻き込み、無差別な呪いと殺戮は既に、渋谷にあふれてしまっている。
 日常の影に呪術を押し込めて成立していた、この世界の日本がド派手に、不可逆に崩壊している戦いの実像をを捉えているのは真人の方で、壊れてはいけないものを勝手に定め勝手に守っている虎杖くんの方が、まだ夢の中にいる……ともいえる。
 しかし真人が押し付けるむき出しの現実はたいそう不快で、そこらへんの身体的拒否感がヤツの戦い方にガッツリ反映されているのが、とてもいいなと僕は思いながら見ているけども。

 否定したくても否定しきれない、しかしそれを認めてしまえば人が人でいられないような、真人という巨大な”非”が持ってる真実性を、否定するためにはまず認識しなければいけない。
 『お前はあっちゃいけない存在だ』と、全く正しい結論を拳に宿して死闘を繰り広げている虎杖くんが、自分の中にも真人に凝集される呪いや理不尽が、確かにあると認めること。
 それが戦いの趨勢を決めると、真人は正しく見据えていて……否定したいはずのライバルに、的確に伝えてもいる。
 あざ笑い踏みにじろうとする相手だからこそ、見つけてしまった真理を伝えた上で上間らなければならない、奇妙な真剣さがあの、ヘラヘラ笑いのクソ呪霊に(虎杖悠仁限定で)あるのは、なかなか面白い。
 虎杖悠仁に執着し、不倶戴天の敵と山盛りの嫌がらせを叩きつけ、心を折って屈服させたい衝動の奥に、どんな呪いが……もしかしたら祈りが在るのか。
 人間の最悪を煮込んだ真人は真摯に向き合うことを許されないし、宿命づけられたヘラヘラ大殺戮の中、奇妙に確かな手応えで向き合ってもいる。

 奴の殺意は虎杖悠仁に連なり、支えるものを軒並み剥奪して否定しなければ気がすまないのだから、縁が深くて適度に弱い野薔薇は、いい的であろう。
 クズ野郎に引っ張り込まれた窮地を、鬼神のごとく助けてくれた七海健人はあっけなく死に、その祈りが叶えられるかどうかは風前の灯、命と同じく儚く揺れている。
 世界には呪いしかないのだと、全霊をかけて命と魂をあざ笑う真人を前に、釘崎野薔薇は己の在り方を示し、虎杖悠仁に祈りと反抗を手渡せるのか。

 正念場は続く。
 土壇場は続く。
 次回も楽しみだ。