イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ダンジョン飯:第18話『シェイプシフター』感想

 出会って別れて進んで迷って、今日も今日とてダンジョン飯
 久々にライオスパーティーだけになったけど、人数少なくて寂しいからそっくりさんで増やしちゃおうかな! という、シェイプシフター心理テスト回である。

 悩めるシュローや食わせ物のカブルーを鏡にして、我らが主人公が相当にヤバいハズレモノであることが明らかになったが、しかしその眼力や判断力は思いの外なまくらじゃないぞと、冒険者格付けチェックから見えてくるエピソードである。
 人間を真似たり写したりする魔物はこのお話の後、結構な頻度で顔をだしてくるが、前回鏡合わせの若者たちが主役パーティーの異質性と譲れぬ願いを暴いたように、人に化け人を化かす怪物は、”人間”と似て非なる存在だからこそその在り方をあぶり出す。
 それは単独のヒトではなく、人と人が寄り添い苦労をともにして小さな社会を形成していく、”パーティー”という社会の在り方を問う照人鏡だ。
 その嚆矢たる『絵の中に閉じ込められた、かつて確かにあった歴史』との接触がここで新たな意味を思い出され、実は結構な因縁がすでに”狂気の魔術師”との間にあったのだと、彼を倒しに行く新たな旅の初めを飾るのは、なかなかに面白い。
 あの時は自分たちとは縁遠い、踏破するべき障害でしかなかったものが、こうして深く潜ってみたら新たな意味を宿して立ち戻っても来る。
 今回描かれる奇妙な鏡合わせも、話が進んで思い返してみると、出逢った当時には気づかなかった様々な意味を孕んだ、なかなか面白い万華鏡になっていくだろう。
 ここら辺の複雑な構成力を、サラッと楽しい口当たりにしっかり隠して埋め込んであるの、つくづく九井先生の”腕力”としか言いようがねぇ。

 

 まーライオス審査官、外見への注意は極めてヘロッヘロで、だからこそ解りやすく異物を排除も出来たわけだが。
 シュロー相手には、イラついた友達が出してるサインを全く受け止められず、殴り合うまで心が通じ合わなかった表層への鈍感さが、ここにおいてライオスを特別なポジションに置くのは面白い。
 シェイプシフターはパーティーの構成員がお互いをどう認識しているか、それぞれの感覚を反射して惑わせてくる。
 そこには本質も真実もなく、複数の『私にはこう思われる貴方』が乱反射して、正体を探るコミュニケーションはそれだけでは正解へとたどり着けない。
 生真面目にライオスチェック頑張りながらも、この不毛さに早めに見切りをつけ、魔物学の知見と慣れ親しんだ猟犬の教えを活かすことで、シェイプシフターの幻術をダイレクトに破っていくライオスは、なかなかに頼もしい。

 ゴルディアスの結び目を一刀両断したアレクサンダー大王……というと言い過ぎだが、他人の外見に無頓着すぎる青年は、ともすれば人間関係を崩壊させる厄介な状況を、出題者たるシェイプシフターの想定解ではなく、『狩るものと狩られるもの』という本質に立ち返ってシンプルに解決しに行く。
 そのための情報を集めるためにも、料理という工程はかなり優秀な情報収集装置であり、センシをリスペクトしつつその強みを”ダンジョン飯”な日々の中、ライオスなりに見て取っていることが解る回だった。
 ライオスとチルチャックが、料理も戦闘も生き方も頼れる同性に相当惚れ込んでいて、『かっこいい』存在としてセンシを見てるのが解るの、俺ホント嬉しいんだよなぁ……。
 どんだけ可愛いオジサンでも、生き死にを共にする彼らにとってセンシはマスコットではなく戦友で、彼らの眼にはアレくらいの切れ長、当たり前だと写っているのだ。

 

 他にもあんだけマルシルが気にかけてるヘアアレンジを、男衆がぜーんぜん気にかけていなかったり、逆に外見は細かく見てるのに戦友の専門領域がどんなもんか、蓋を開けてみたら結構解らなかったり、お互いの心の内が幻術に曝け出されていく回である。
 『見る/見られる』という関係の複雑さとややこしさは、シュローとライオスの奇妙な友情(殴り合いと罵倒含む)で既に描かれているけども、ここでもう一度、別角度から照らしてくるのはとても面白い。
 それは必ず食い違い、あるいは区別がつかない見た目の奥に、共に旅をしてきたからこその判別点を残している。

 尋常な手段では答えまで遠かったライオスが、”魔物”という自分の興味領域をテコに使うことで、パーティーで唯一答えに近づいていたのは興味深い描写だ。
 彼は初手で幻影を排除されるほどに、曖昧で掴みどころのない変人として仲間に見られている。
 誰もライオスがどんな人間なのか、その実態と判別のつかない幻影を出せないくらいに理解されておらず、彼自身も真に迫った幻を出せる≒他者理解が深いわけではない。
 しかし審判となった彼は自分がほぼ唯一興味を持てる”魔物”をレンズにすることで、他者への分解能を上げて”人間”を見るようになり、誰が本物なのか、それより大事な状況の突破方法を、正しく見抜くのだ。
 ここに人間社会に上手く適応しきれず、迷宮に流れ着いたライオス青年なりに”人間”やっていくヒントが、おそらくあるのだろう。
 ここら辺の描写、個人的で発展性がない”好き”をどうにかして、嫌でも嫌いでもヒトに混じって生きていくしかない人間の生に活かしていくあがきの記録って感じがする。
 ファンタジー題材なのに不思議に生っぽい手応え、異世界に確かに息づく人間的リアリティを、この作品が差し出す大事な足場なんだと思う。

 

 ライオスが審判役を果たす利点は、”魔物”というレンズでより精密に状況を見たり、あるいは問題全体を見る視点を切り替えたり出来ることだけではない。
 常人が判断の物差しにする人当たりの善さとか。外見の綺麗さとかを、自分にも他人にも求めないライオス。
 彼には欠点だらけの変人たちのあるがままこそが、その人たちの本当なのだと、手前勝手な望みを押し付けずに受け入れる素直さがある。
 口汚く悪知恵が働く盗賊と、親友の運命かかった戦いでもブーブー文句垂れる魔術師と、なんかぼんやりしたマスコット顔してる戦士。
 それが一緒に命をかけて迷宮に挑む、かけがえのない彼の仲間なのだという事実を、しっかり観察し許容できるのだ。

 これは彼が世間ハズレの変人だからこその強みだと思っていて、エルフとドワーフがドンパチやり合って世の中が乱れたり、現在進行系でオーク差別が紛争を生んでるこの世界において、種族という脱げない衣服を気にせず、素裸の人間を視るライオスの瞳は、特異かつ貴重だ。
 カブルーのように器用にヒトの間を泳ぐことは望むべくもないが、人間もエルフもオークも一種の”魔物”として、馴染めぬながら平らかに見つめる青年には、彼にしか持ち得ないスタンスがある。
 まーそれがガッタガッタで危ういもんだってのは、ここまで幾度も描写されてきたけども、その危うさもひっくるめてこのお話の主人公の人格ではある。
 (人間の醜さや差異をこれ以上ないほど見つめながら、カブルーがそこに拘泥する差別主義者になっていないのは、食えない彼が高潔な人徳者でもある証左として、結構大事な描写でもあるか)

 褒められたもんじゃない悪辣も偏屈も、全部ひっくるめて大事な仲間の一部だと飲み干せる度量……少なくともその兆しをライオスは持っていて、コレを良い方向に活かしていければ、いつかチルチャックが願ったようなリーダーの資質を、彼なりに獲得していけるのではないか。
 そんな不思議な期待感も高まる、ダンジョンの奥の狢退治であった。
 いかにも西洋的なダンジョンの中に、サラッと『化け狸』というザ・ジャパニーズ妖怪が出てきて楽しく翻弄されるの、”ダンジョン飯”の真骨頂を味あわせてもらった感じがあって凄く好きだ。
 マルシルの爆裂魔法でぶっ倒した後、抜け目なく尻尾もふもふしてるところとか、北方出身だから寒さには強くて猛吹雪でも平然としてるところとか、すっかりライオスが好きになった視聴者として、色んなもんが解る回だったなぁ。

 

 というわけで、新たに地下を目指すことになったパーティーがお互いをどう思っているのか、我らがリーダーの人間観察力と人間受容は一体どうなっているのか、変幻自在の幻に照らして見せる回でした。
 『見る/見られる』という関係性の複雑さと面白さを、シェイプシフターの幻術でもって暴いていくエピソードを、画面の向こう側で『見ている』僕が感じたことをこうして書いて、今貴方にそれを『見られて』いる。
 『解ってねーなークソボケがよー!』と思うかもしれないし(すいません)、『ふーん、結構面白いじゃん』と思うかもしれない(ありがとう)。
 そういう楽しい乱反射が、作品の内側でも外側でも成立しうるのは、実在し得ない空想だからこそ面白いものが形になりうる、ファンタジーの良いところかなぁと思ったりもした。
 次回も楽しみです!