イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「渋谷事変」:第44話『理非-参-』感想

 生まれてきたことそれ自体を呪うほどの、痛苦と後悔をさらに殴り飛ばす、黒色の暴力。
 窮地の少年呪術師の前に立ったのは、彼を”兄弟”と呼ぶ頭のおかしい筋肉ダルマだった。
 極限状態の虎杖くんに、颯爽登場救済上等ぶっこむ東堂葵が頼もしくも、『やっぱコイツなんか変だわ……』も満載の、呪術アニメ第44話である。

 虎杖くんを極限まで追い込む筆は釘崎の死で最高潮に達し、生っちょろい事ばっか抜かしてる生粋の善人に世界の実相を叩き込むべく、生来呪いと生まれついた悪霊のテンションも最高潮。
 島崎信長の役者としてのポテンシャルも黒閃の領域へと弾けている手応えを堪能しつつ、追い込める極限まで追い込んだからこそ最後の希望として、主人公と作品の背骨を立たせ直す最後の一線にも説得力が宿る。
 無残な死、理不尽を跳ね返せない無力になお、意味や価値を見出すとするなら、遺志を受け継ぎ戦い続けることだけが、呪術師の存在価値。
 延々続く溝浚いに、人間性の最悪を飲まされ続け折れてしまった夏油に、五条悟が手渡すことが出来なかった、死と終わりを超えていける可能性と希望を、東堂は明瞭に言語化する。
 目の前で繰り返される人間の生き死にに値段を付けず、判断放棄の思考停止もせず、脈々と受け継がれてきた人が人たる証を、拳に乗せて戦い続けること。
 命がけの激戦を共に戦う”兄弟”として、折れない心と強い力を共に束ねること。
 幾重にも積み重なる終わりの、その先へとまだ続く戦いに、傷ついた虎杖くんを引っ張り出す命綱として、なかなか強度のある論理だ。

 東堂がなぜここに至ったのか、全然過去が語られずむくつけきも頼もしい筋肉質の天使として、ギリギリ限界のピンチで空から降ってくるのが、なかなか面白いキャラだなぁ、と思う。
 フツーに考えればなんか東堂なり辛いことがあって、それを乗り越えてこの哲学を己に刻んだと思うのだが、そういう人間的な揺れを切り離して、東堂葵は非常に完成され揺るがない超越者として、渋谷事変に参入してくる。
 真人が狙っているように、虎杖くんの心がベッキベキにへし折られてしまっては作品も一緒に折れてしまう以上、結構話の都合に奉仕しているキャラなんだけども、人間的な過去(ナナミンや野薔薇が死に際、一瞬踊った回想に煌めいていたもの)をあえてベタつかせず、東堂葵は、東堂葵であるがゆえに東堂葵である』というトートロジーを強引に飲ませてくる、キャラとしての巨大な質量。
 それを活かして、虎杖くんと作品をもう一度立たせ、前を向かせ、世の中なんもかんも下らねぇと嘲笑う呪いに立ち向かわせていくのは、極めて効果的な剛腕だろう。

 東堂葵が異様に人間に惚れ込むテンション異常の狂人であり、冷静に能力を使いこなして戦況を操る強者であり、粗暴に見えて傷ついた人間に必要な優しさを手渡せる存在だから、降って湧いてなお説得力がある、呪いを超えていく呪い。
 祖父臨終の言葉に導かれ、色んな人の死に様に傷つき立ち上がってきた主人公が、人間が人間であり続けるための戦いを続けるのならそこに戻るしかない畢竟を、心も技も超絶強いトンチキゴリラが告げる展開は、唐突でありながら待ってましたの必然感があり、異様な速度でドライブしていく手応えを宿している。

 何もかもが儚く終わっていく世の真理を、叙情豊かに描いた平家物語冒頭を引用しつつ、東堂葵は自分たちの友情だけは永遠だと告げる。
 それは(現人神たる五条悟すら封印された現実を目の当たりにしてなお)自分が無敵で不滅だと言いたいわけではなく、出会いと衝突の中で育まれた縁、死によっても否定されない思い出の手応えが消えないことを、宣する言葉だと思う。
 七海健人や野薔薇と共に戦った日々を、彼らの命が潰えてなお活かすのは、呪術師である俺とお前がどう生きて、どう戦うか次第だ。
 自分が生き延びるためだけでも、背負ってしまった大罪を勝つことで晴らすためだけでもなく、死者が生きた証を新たに積み重ねるために負けられない戦いへ、鮮烈に命が燃えるからこそ生まれる永遠へ、共に進み出す。
 何かと脱ぎたがるマッチョ奇人が”兄弟”に差し出すものは、彼を倫理の高みや傷つかない安全圏に置かず、泣きじゃくる弱虫を冷たく遠ざけもしない。
 俺も遺志を継ぎ生き様で活かす呪術師として、ここで戦う。
 描かれる極限のバトルは、東堂葵がどう生きているのか……虎杖悠仁に投げかけた言葉をどう実践するか、証明の場でもある。
 そこがトリッキーで激しく、残酷でありながら美麗でもあると描かれていたのは、とても良かった。

 

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第44話より引用

 共に心の底から笑い合えた黄金の日々が、肉で出来た洞穴に飲み込まれて、血みどろの虚無に飲まれていく絶望。
 野薔薇の死に顔をキッチリ描写して、虎杖くんが追い込まれた土壇場を視聴者にもシンクロできる痛さでもって、ちゃんと伝えようとするのは偉い。
 親しい人……特に若者が死ぬってのはまぁそういう、自分を支える足元が全部ぶっ飛んでしまうしまうような不安と悲しみに満ちた現象で、何度味わっても慣れることはない。
 人間が人間であるための足場を、一番強烈なやり口でぶっ壊そうとする真人は、虎杖悠仁をぶっ壊す行為だけは嘲笑わずに、必死に本気で挑みかかる。
 それが愛を育み何かを守る、”人間らしい”営みに成らないことが呪いと生まれついた奴の凶悪さであり、哀れさであり、そうやってクズどもに憐れまられる事を、人類社会生粋の汚点であることに誇りを持っている彼は、けして受け入れないだろう。
 嘲笑う打撃者であること、”人間らしさ”の否定者であることを真なる己と任じる真人にとって、虎杖悠仁が燃やす正義の怒りも、他人が輸血した正しさを疑わない態度も、大量殺戮の道具になった上で”正しい殺し”を果たそうとする決意も、許せたもんではない。
 コイツを否定しなきゃ、カケラも前に進めない。
 そういう執着が荒れ狂う暴力に、残虐な愉悦に良く燃えていて、最悪だがいいキャラだなぁと思わされる。

 ここまですごく自然に、人間がそうあるべき正解にたどり着けていた虎杖くんが、心と体をボロボロにされて赤子の姿勢でうずくまるのは、ショックである。
 同時に真人との戦いが、彼が信じていた全てを剥ぎ取ってゼロ地点へと戻したのだと、強く納得する姿勢でもある。
 疑うことなく自然と、優しく強く正しく在れた生粋のヒーローが、信念だと思いこんでいた何もかもを否定され、それをすりつぶした血泥を顔面に浴びて、泣きじゃくりながら膝を抱える。
 このむき出しで弱い姿勢こそが、否定に否定を重ねられてなお信じられる、虎杖悠仁を襲った無常から摘み取るべき答えの土台なのであり、ここまで主人公をもっていかないと、彼が語るべき綺麗事には試しが足らなかった。
 そう思えるくらい、赤子のように泣きじゃくる虎杖くんの姿は痛ましく、嘘がない。

 そこでクライベイビー再誕の手助けをするのが、ちょんまげ頭のゴリラマッチョなのがマジで面白いけども。
 ギリギリのギリまで追い込んだからこそ東堂の登場は、見届ける側としても待ってましたであり、その言は目の前の虎杖くんだけでなく、既に間違えてしまってこの惨状を引き起こした夏油傑の絶望にも、強い説得力をもって届く。
 何もかもを嘲笑う生粋の呪いが、紡ぐことが出来ない縁と絆。
 たかだか当人が血みどろに、極めて無惨に死んだ程度では途切れない真理が、確かにそこに在るのだと証明できるのは生き延びてしまったもの、まだ戦うものだけであり、俺もその一人としてお前の横に立つと、東堂のデカい背中はしっかり告げている。
 ここでそのガタイを活かし、荒れ狂う呪いを前にキッチリ守りキッチリ戦う実践主義をまず見せているのも、異能ゴリラの唐突な救援を飲み込んでしまえる、大事な足場かもしれない。
 地獄に仏、渋谷に東堂。
 傷つき倒れ伏した時、正しい事上から叩きつけるだけではなく、絶望の泥に足汚して手を差し伸べ、立ち上がる時間を体張って稼いでくれる人は、やっぱり信頼できるワケよ。

 

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第44話より引用

 体と信念をケチョンケチョンに踏みつけられ、何もかも否定されて耐えきれず蹲って、赤い血に染まりながらもう一度立ち上がりなおす。
 東堂という産婆……あるいは精神的母の手助けを借りて、虎杖くんがヒーローとして再生=新生していくカタルシスを載せて、ここまで”渋谷事変”の舞台となった駅構内はド派手にぶっ壊れていく。
 黒い閃きに導かれて、人間の限界を超えていく蛹たちの共演は、ただ能力が開花するというだけではなく、お互いに譲れない全面戦争……真人いうところの『ペラッペラな正義のぶつけ合い』が、何を抉るかを最終局面で暴いていく。
 生粋の呪いとしてどうしても否定したい、人間性の輝きと強さ。
 兎にも角にもくだらなく、人生を賭けて生き抜く価値などないと、殴り潰して証明しなきゃいけない宿敵との戦いで、真人は自分の霊の輪郭を掴むほどに練磨され、黒閃へと至った。

 もう1発虎杖くんをぶん殴って、覚醒の悦楽を味わいたいと舌なめずりする真人を、彼をもう一度立ち上がらせた”兄弟”との共闘によってぶん殴り返し、逆に黒閃ぶっこみなおす意趣返しが、なかなか良い。
 俺は、お前に否定されるだけの弱者じゃない。
 拳でそう証明することは、藤堂が思い出させてくれた生き様を継承しているのだと告げる行為であり、渋谷を揺るがす拳の一撃一撃が、少年が世界に叩き込むメッセージだ。
 どれだけ理不尽な呪いが祈りを蝕んでも、無価値だと嘲笑っても、負けられないものがそこには在る。
 そう信じ直して、虎杖くんは二度目の産声のように圧倒的な暴力を、人類の宿敵に叩き込んでいく。

 絶望を超えて立ち上がり直す主人公の姿には、過酷過ぎる現実に試されたからこその熱と硬さがあり、それは液を破壊し高速で場所を入れ替えるバトルの中で、更に加熱していく。
 高まったドラマのテンションに耐えかねて、あるいは路線案内や広告という人間的営みがカオスに飲まれていく象徴のように、ド派手に渋谷はぶっ壊れていく。
 それは悲壮でありながら爽快な景色で、『場所を入れ替える』という東堂の異能と……それを高速でアニメートさせる演出の切れ味と合わさって、不思議に自由だ。
 お互いの生き様をぶつけ合い、高まった内圧が溢れ出す瞬間の、加熱されたスピードの爽快感。

 ソレに背中を押されて、東堂もまた黒閃へと至る。
 コレがシンプルにかっこよく終わらず、なんかこー……大変彼らしい捻じくれた爽やかさ、暑苦しい勢いに満ちた描かれたかされてたの、ゴリラ天使の全部を愛した演出で大変良かった。
 急に推しの回想は混ざるわ、天元突破しそうなオーラをビンビンに溢れさせるわ、顔面の濃さがクドいほど溢れるわ、やりたい放題東堂葵してて、しかしその奥には”兄弟”を置いていかない熱い決意が確かにあって、しかし間違いなく変人で。
 虎杖くんと物語をもう一度引っ張り上げた、東堂葵というのがどういう存在であるか、この黒閃覚醒の演出見るだけでよーく分かる、大変いいシーンだった。
 ホントワケわかんねぇな、この異能ゴリラ……だからスキなんだが。

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第44話より引用

 キャラクターの精髄を絞り出す演出の冴えは、憎き真人も例外にはしていなくて、心底許せないが確かに揺るがない信念を、燃え盛る狂熱を、この戦いにブチ込んでいるとよく分かる描き方だ。
 美形な外装がグッチャグッチャに歪み、どうあっても虎杖悠仁を否定したい情熱が溢れて溢れて止まらない残虐が、109前をぶち破って暴れたおす。
 数多の犠牲を生み出して、自分が自分でいられる背骨をへし折られかけて、だからこそ負けられない戦いは、渋谷の街と同時に虎杖くんの精神的殻……彼が主人公として背負う作品の限界点をも、消し飛ばしていく。
 ここら辺のドラマとしてのテンションと、バトルのスケールが噛み合って暴れているの、荒れ狂う激しさに上手く手綱を付けた描き方で、結構好きだ。

 虎杖悠仁の全てを否定するべく、彼の大事なものを踏みにじり嘲笑いながら、真人は幾度も問いかける。
 お前が許せない目の前の俺は、お前の歪んだ鏡でしかない。
 人間の醜さを最も純粋に捏ね上げて生まれた”真人”の種は、誰よりも人間らしくあろうとするお前の中にも在るし、お前を支え育む世界の中にも埋まっている。
 夏油傑が飲み込まされ、耐えきれず堕ちた人品のゲロ雑巾は、あってはならないと否定したところで確かに存在し、醜悪と美麗は背中合わせ、お互いを否定しながらも併存してしまう。

 そんな人生曼荼羅の中核へと、たどり着くだけのポテンシャルを燃やした三人の決戦は、最終局面へと至った。
 荒れ狂う激情に見にくく歪む真人の顔面が、僕にはとても”人間らしく”見える。
 東堂が虎杖くんを再起させた継承のロジックだって、最悪に腐敗しきった呪術界の中で血糖最優先主義へと堕ち果てて、数多の不幸を産んできた。
 人間が人間であり続けるために選び取った輝きは、その影になる醜さも強くしながら瞬き、否応なく何処かへ至る。
 それがどんな景色であるのか、書ききる気概はこのアニメの随所に溢れ、暴れ倒している。
 まだ続く渋谷事変、何が見れるか。
 次回も楽しみだ。