イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「渋谷事変」:第45話『変身』感想

 数多の血と涙で綴られた激闘の戦譜、その最終楽章が荒野に刻まれていく。
 長きに渡った真人との因縁に決着をつける、呪術アニメ第45話である。

 バトルバトル回想死人バトルでみっちりお送りしてきた渋谷事変も、そろそろ幕引き。
 さんざん色んなモノをあざ笑い、踏みつけ、奪ってきた真の呪霊も、遂に年貢の納め時である。
 人間性の最も最悪な部分を押し固めて生まれた真人は、誰かが必死に生きようとしたり、守ろうとする本気を嘲笑い続けた。
 否定し、嘲笑するために暴力は使われ、人間を構成する魂と肉体を自在に捻じ曲げる異能は、その在り方を反映してグロテスクだ。
 本気で呪霊が”人間”になれる世界を目指した漏瑚たちの本気も嘲笑い、気まぐれにやりたいように、何者にも縛られず人類の宿敵であり続ける。
 それが自分の在り方だと定義していた彼は、しかし自分の魂の輪郭がどんな形であるかには強い興味を持ち、ぼんやり見えかけている悪意に満ちた本質と、根本的に対立する”人間”……虎杖悠仁を嘲笑い叩き潰した末に殺すことに、極めて本気だった。
 激闘の末彼が選び取った真の形は、仮面で視線を塞いだ殺戮の刃であり、硬さと鋭さを兼ね備えた戦闘用フォルム……虎杖悠仁への殺意に固定されたことで、決定的に敗北していく。
 中心も本質もなく、本気で生きる人達を嘲笑い続ける形のない存在故に得ていた不死性は、『俺は虎杖悠仁を殺す存在だ』と自己定義したことで、本気になったことで、殴り飛ばせる中核を得る。

 虎杖くんがソレを抉れたのは、異能のゴリラ奇人が全霊と将来を賭して共に戦ってくれたからであり、真人が虎杖くんの心を折るために弄んで殺した人たちが、最後に人間のまま託し、戦士として刻んだ傷のおかげだ。
 取り返しの付かない罪を重ね、目の前で生死の現実を叩きつけられ、絶望し涙し立ち上がれないほどの苦しみを受けてなお、誰かに手を引かれてふたたび立ち上がる。
 人間誰しもが経験する思春期の試練……というには、流れた血が多すぎる”渋谷事件”ではあったが、虎杖くんは確かにこのハードコアな戦いの中で、自分が何者であるのか、ありたいのかを必死に探り、手繰り寄せてきた。
 そんな虎杖くんだからこそ、同じ場所で戦う人たちも心を寄せ、志半ばに倒れるときにもある者は未来への祈りを、ある者は爽やかな満足を、呪いではなく手向けて、道を示してくれた。

 自分の本当の形、本気の殺意を打ち砕かれた真人は哀れな動物のように、生まれたての子どものように虎杖くんの殺気に怯え、泣きじゃくる。
 真人自身がその意味も分からぬまま踏みつけ、嘲笑ってきた生きることと死ぬことの真実が、虎杖悠仁という人型の殺意(これが真人が求めた魂の輪郭そのものなのは、極めて皮肉なことだ)として襲いかかる時、生まれたての彼はもう戦えない。
 虎杖くんが強制的に飲み込まされ、意を決して向き合い、へし折れてなお立ち上がってきたものに、向き合う強さは真人にはない。
 それは全てを嘲笑い、同朋からすら浮遊して自由だったクソガキが受け止められるほど軽いものではないし、一人では受け止められない真実に、共に向き合ってくれる存在は真人にはない。
 あり得たかもしれないがこの戦いの中で死んだし、その喪失に対して真人はなにもしなかった。
 結果、地獄を経て研ぎ澄まされた虎杖くんの殺意と、手に入れたはずの真実を打ち砕かれて幼く狼狽える真人が、決着の地に対峙する。
 呪霊と呪術師、不倶戴天の宿敵は共に己の形を探す幼子であったが、結末は見事に別れた。
 そしてここから新たに進み出す余地は、少なくとも真人にはもうない。
 徹頭徹尾他者を嘲笑い傷つける、呪いで有り続けた彼を抱擁するものはない。
 ザマァ見ろ、と言いたい気持ちがないわけではないが、彼が残酷にえぐり出してくれたものがどれだけ、”呪術廻戦”とはいかなる物語なのか教えてくれたありがたみを思うと、こう言うべきだろう。

 ありがとう真人。
 お前は最悪で、だから最高の敵だった。

 

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第45話より引用

 人間から生まれた最悪の呪霊と、人間であるがゆえに苦悩する若き呪術師の決着がつく今回、瞳のクローズアップ……それがどんな意味を内包したコミュニケーションなのか、関係性(あるいはその不在)を描くカットが多い。
 絶望の死地に力強く降り立ち、折れかけた虎杖くんの心を救い道を示した東堂は、戦友であり間違いなく”兄弟”といえる仲間と瞳だけで意思を交わし、絶妙のコンビネーションを見せる。
 目と目で通じ合う阿吽の呼吸あってこそ、東堂の異能は無視しがたいノイズとして真人の心に突き刺さり、かき乱して勝機を作る。
 虎杖くん以外の存在を取るに足らない夾雑物と切り捨ててきた真人が、最終的に敗北する主因は東堂葵という存在の無視できないデカさであり、彼を決戦場に連れてきた虎杖くんとの縁である。
 彼が間に合うまで虎杖くんの命をモタせてくれたのは野薔薇の奮戦だし、激戦に耐えれる素地を作ったのは七海健人と五条悟だし、様々な縁が虎杖くんには繋がっていて、自分以外のものに導き支えられている。
 そんな自分を東堂に教え直してもらって、虎杖くんは戦う姿勢を取り戻し、視野を広げて隣に立つ相棒を見る。
 力尽きて倒れ伏す相棒が最後に送ってきた視線を、背中で確かに感じて『ありがとう』の視線を返して、東堂がいてくれたから立ち向かえる最後の戦場へと、力強く進んでいく。
 見ることで伝え、返ってきた答えを飲み込み、複雑に意思を伝達して戦いを編む。
 血みどろで残酷ながら、極めて”友情・努力・勝利”のジャンプイズムに溢れた戦い方といえる。

 対して真人の目は独善に塞がれ、宿儺との睨み合いも混ざり合うコミュニケーションというよりは、弾きあう威圧でしかない。
 俺はルールを侵してないんだから、お前は俺を殺せない。
 そんな冷たい関係性を確認して、踏み込ませず背を向けるための意思の共用。
 人間の最悪から生まれ、最も人間性から遠い(からこそ、最も人間的な真人は、視線を通じた相互意思疎通から極めて遠い位置にあり、常に他者と交われない。
 利用し、拒絶し、嘲笑し、玩弄する。
 そういう一方的なコミュニケーションだけを選ぶグロテスクは、他人の命と肉体を弄ぶ彼の異能に具現化し、孤独で身勝手なまま彼は自分の輪郭を手に入れる。
 それは仮面で塞がれて、何も見ないし見させない、ディスコミュニケーションの究極だ。

 天上天下唯我独尊を、最悪に勘違いした独覚に溺れて孤独であり続けられるのなら真人も負けなかったのだろうが、結局彼は仮面を明けて、その眼で世界を見てしまう。
 魂の輪郭は闘争というコミュニケーションの中でしか得られず、知りたいという願いを止めることは出来ず、否定し嘲笑うものとして自分を規定しても、周りを見てしまう瞳は消え去らない。
 そこを命がけのトリックの窓として、耐え難いノイズを流し込まれたことで真人には決定的な隙が生まれ、彼は手に入れたはずの真実を失い、誰かを嘲笑う足場になる力も喪い、本物の殺意に直面する。
 恐怖にへたり込んだ彼にとって、虎杖悠仁は赤い殺意の塊であり、その眼球はもはや人間のものではない。
 力なき抵抗を示す彼の前に現れた偽夏油に、哀れな視線をねめあげる真人の思いが、ほくそ笑む怪物に受け止められる道理は勿論ない。
 目の前にいるのは人命をなんとも思わない外道だし、そういう生き様上等と突き進んできたのは真人自身だし、今彼に襲いかかっている恐怖や惨めさは全て、彼が世界に撒き散らした毒の反射だ。
 彼が殺してきたように、救いもなく惨めに殺されるだろう。

 それで良いと思うし、そうなるしかないよなと虚しくもある。
 虎杖くんと東堂が、命を削り合う激闘の現場でなお交わしていたアイ・コンタクトを、真人が成し遂げられるような未来はもとからなかったし、ここから先にもない。
 呪い呪われ、最後の呪い合いを終えて虎杖くんは、自分をただの錆びついた対呪霊呪詛に落とすことを宣する。
 人間がなんで生きているのか、生きようとするのか分からない怪物相手には、それ以外の道はない。
 それが、”渋谷事変”段階での決着であり、結末となろう。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第45話より引用

 掟破りの0.2秒領域展開に侵され、呪術師の命たる片腕を切り落としなお戦うシリアスな展開を、横合いからふっとばす黒沢ともよの新曲。
 東堂が有するトリッキーでパワフルなキャラクター性がなければ許されない展開ながら、真人の哀れな犠牲者を前にしてペンダントに口づけてしていた描写が、トンチキな解決策を強引に飲ませてもしまう。
 何もかも嘲笑うから強い真人に対し、赤子のように泣く虎杖くんに揺るがぬ答えを手渡した東堂は、これから殺す相手がどんな理不尽に飲み込まれ、人間の尊厳を残した相手だということを忘れない。
 それでも負けてやることも、救ってやることも出来ないから口づけに許しを請い、全力で殴り倒して兄弟の激戦に間に合う。
 そういう生き方をしている東堂葵に助けられて、虎杖くんは宿敵に勝利していく。
 いや~マジで、『ここでそれが決定打になんのォ!?』と声でちゃうハチャメチャぶっこまれて戦況が動いてんだけども、『まぁ東堂だし』で飲み込めてしまうキャラを最後の最後に投入したの、つくづく面白ぇよなぁ……。
 あと真人がキモ虐殺兵器として新たに生まれ直す描写は、どん底に引っ張られて一回赤ちゃんに戻った上で、ゴリラの精神的母乳で自分を作り直した前回の虎杖くんと、鏡合わせの描写なんだろうな。

 ハチャメチャな救済の代表として、東堂は片手と異能を喪い呪術師としては死ぬ。
 しかし残骸になってなお、敵の危険極まる掌と残った右手を打ち合わせて、虎杖くんが決定打をブチ込む契機を作り、さんざん邪魔した自分の存在をトリックとして、真人の注意を最後に奪う。
 東堂葵がいなければこの最終決戦確実に勝てていないし、その活躍はただ殴ること、強いことに足場を置いていない。
 イカレドルオタゴリラのエグみで隠れがちだが、その拳が真人の魂に響かない東堂は主役のサポーターに徹しており、その献身にはある種のヒロイン力すら宿る。
 ボロボロに殴られた大ピンチでもまだ戦える理由はペンダントの中にあり、命がけの現場で持ち出すもんじゃないアイドルへの慕情こそが彼を突き動かし、戦士に……真人の呪いと嘲りに飲み込まれない、本当の人間でい続けさせる。
 眼球に飛び込んできたその異形なる人間性を、最後まで理解できない/しようとしない/する方向に自分を持っていけない真人を、横合いから殴りつけるのがアイドルという”余暇”なのは、なかなか皮肉である。
 魂の本質を見れる真人にとって、むき出しになった生きることと死ぬことだけが人間なわけだが、東堂はそんな下らないことに自分を預けることはせず、軽やかに踊って力強く殴り飛ばす。
 肉体を弾けさせ魂を貶める呪いを、一瞬の迷いもなく自分の手のひらごと切り落として否定し、真人の思惑の外に出て虎杖くんを勝たせる。
 そういう”誰か”がいつだって、自分の外側にあることを理解できなかったこと(無視もできなかったこと)が真人の敗因であり、そうやって手前勝手で残酷であったことが、彼の強さのはずだった。
 それは虎杖くんがブチ込んだ友情と殺意の黒閃で、決定的に否定される。
 真人がこれまで、順平や改造人間にされた沢山の人や、ナナミンや野薔薇にしてきたように……あるいは、そんなやり方では否定しきれなかったように。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第45話より引用

 真人が見つけた本当の自分……虎杖悠仁を殺す刃が、虎杖くんの頬を切り裂いて歯が見えているのが、良い演出だなと思う。
 それは宿儺に制御権を取られた姿に、とても良く似ている。
 何もかも嘲り殺し尽くす呪いの王の、器に選ばれて渋谷中殺し尽くして、その重さに耐えかねて潰れかけた虎杖くんは、多くのものを奪った憎き敵を前に、殺して殺して殺し尽くす冷たい決意を告げる。
 拒絶したかった敵の言葉は現実の一部をエグッていて、しかしそれを受け入れられる自分はどこにもいなくて、なら幾度も殺すしかない。
 そういう、拒絶よりもう1段階深くて暗いコミュニケーションを、虎杖悠仁は呪霊相手に選ぶことにする。
 その激闘が自分を錆びつかせていくことを理解しつつも、呪い呪われの輪廻に産み落とされた歯車の一つが、自分の役割なのだと飲み込もうとする。
 この危うい悟りは、どこか夏油傑の決着を思わせて……そこも好きだ。

 虎杖くんがたどり着いてしまった冷たい荒野の、先にも物語は続いていく。
 真人が殺されても戦いは終わらず、五条傑を封印され偽夏油を殺せていないこの状況は、呪術師たちの大敗北である。
 守りたかったもの、守るべきだったものを砕かれ嘲笑われながらも、呪術師の戦いは続いていく。
 そこを、研ぎ澄まされて冷たい殺意一つで、虎杖悠仁は越えていけるのか。
 その呪い呪われが、否応なく呪詛に満ちていく人間の世界の、たった一つの答えなのか。
 物語は続く。
 次回も楽しみだ。