生と死、過去と未来の狭間を越えて、稲穂に響け吾野のド猥歌。
終末トレインどこへいく? 第7話を見る。
ここまでイカレタウンに停車すると、滅びの世界に適応した敵対住人とのバトルになっていたわけだが、今回の寄り道はゾンビ爆発エロティックアクションの後対話で道を作っていた。
自滅キノコカルトから地獄のガリバー独裁、偽物のゾンビ女王と段階を経るほど、話し合ってどうにかする人間味が増しているのは、奇妙な旅が静留たちを鍛えた結果か、狂った世界なりに必死に生きてる連中を、見れるようになってきたからか。
どっちにしても死と猥褻と腐敗が充満してるのに、不思議と爽やかな…とてもこのアニメらしい回だった。
衝突と和解自体は前回済ませておいて、今回は笑い事じゃないはずなのに異様に捻れた笑いが乱れ飛ぶ、一風変わったゾンビコメディでみっちり満たす作りだったのが、なかなか気持ちの良い変化球でまず面白かった。
二週連続で青春まっしぐらな衝突描くのも、なんかこのアニメっぽくないし、電車を降りて自分を迎えに来てくれたこと自体が答えとなり、もう一度静留の領域≒運転席に仲間を迎い入れ距離を縮めて終わるラストまでスムーズに進んでいくのは、なんか彼女たちらしくてとても良かった。
先週別れた時の遠い間合いから、直接目を見て繋がれる距離まで、心は近づき直したのだ。
ゾンビだけど友達で、友達だけどゾンビで。
先週撫子たちが思い悩んでいた難問は、人間だけどゾンビのふりをして、生き残るための嘘だったはずなのに確かに何かで繋がってしまった、ゾンビの女王にも投射される光だ。
マタンゴ人間や暴君ガリバーが結構洒落にならないホラーテイストを濃く出していたのに対し、ゾンビたちは首飛ばしたり爆発したりしつつも、どっかヌケた可愛げと話し通じそうな気配を残していて、腐り果てながらも”人間味”を残している。
そんな人非人のヒューマニティには、狂ってしまってなお必死に生きている7G世界と、そこを駆け抜けていく終末トレインの旅とも、どっか通じ合うトンチキな味わいがある。
もはやセックスして増えることも叶わない、一般的な生物の在り方から外れてしまったゾンビたちは、死を分け与えることで生者を同化し、増殖していく。
人間にとっては生きる目的ともなりうる”性”は、ゾンビにとっては致死性の毒であり、知恵のないままカビたりウロウロしたり、それでもどっこい生きている。
猥歌やパンツや”チャタレイ夫人の恋人”(晶ちゃんが敬愛する澁澤龍彦とは、猥褻発行物裁判友達でもある)の朗読でポンポン弾ける珍妙な死物は、真っ当な世界では存在を許されない異物でありながら、独自の文化とコミュニケーション…ともすれば情を確かに残していて、そこにミトちゃんは狂った世界で生きる意味を見出す。
エロティシズムが生存の物理的武器となる、極めて奇妙な…つまりはこのアニメらしいファンサービス(?)を織り交ぜつつ、狂った世界で四人+一匹、唯一人間である静留たちとはちょっと違った”連なり(Train)”が描かれる回である。
群れがどう生き残るべきか判断する力を、ゾンビではないミトちゃんに預けている新種の生命体が、本当に”人間らしさ”を残している(あるいは狂った世界の中、新たに発明している)かは解らない。
しかしそれは狂っていない(とされる)7G以前の、僕らの世界でも実は判別不能なもので、ヒューマニティの境界線は思いの外曖昧なまま、だからこそ豊かに可塑性を残して運用されている。
前世紀には不適切だと権力に処断された書物達が、この狂った世界では生き延びるための知恵…あるいは武器になっていくように、変わっていく世界の中で確かなものは何一つないし、しかし不定形の輪郭で縁取られた”何か”が確かにあると思えるから、迷い道からレールに戻ってきて終末トレインは、旅の終わりへと改めて進み直すことも出来る。
武蔵藤沢のゾンビ・クランが、嘘つきの女王様がゾンビじゃないからこそ残した知恵に守られて続いていけるのも。
一回列車を降りた静留が運転席という居場所に戻り、そこに撫子を向かいいれるのも。
誰かを思いそれを伝える、人間らしさの根っこが生み出した行動だ。
ミトちゃんは静留の誘いに乗って、メイクを落とし”人間”に戻って五人目の仲間になることも出来た。
しかし彼女なり、世界が狂って終わった後もなお続いている個別の物語に導かれて、死人の顔色塗り直して、友達を見送り仲間と残る道を選んだ。
終末トレインの外側にも、それぞれ同じ質量の終わりの物語と過ごし方があって、狭苦しい”人間”のレールから外れたとしても、変形してなお残るヒューマニティの引力でもって、色んなモノが惹かれ合っている。
そういう、ポストアポカリプスの池袋沿線太陽系の手応えを、新たに感じることが出来るエピソードだったと思う。
散々カオスで悪趣味なコメディで笑わせた後、
そういう世界にも確かに残ってるシリアスな匂いを描き、それが何もかもを塗りつぶしてしまうわけじゃない、終わってなお笑える不思議な面白さを刻んで爽やかにまとまるの、凄く不思議で力強い味だ。
晶ちゃんは生/死、人間/ゾンビ、エロス/タナトスを対立概念として捉え、猥褻の対ゾンビ兵器化を進めていったわけだが、間近に人間=ゾンビであるミトちゃんの顔を見た静留はその/が絶対的な断絶ではないと理解して、殴り合う以外の解決法を探しに行った。
対話するにも鍛え上げた暴力(吾野流柔術)は役に立ち、同じく武道を収めた撫子が『当方、腕に覚えあり』と並び立つことで、一人の時にはたどり着けなかった決着を引き寄せる。
生きたり死んだり、対立したり融和したり。
歪な形になってしまったけど確かにそこにある過去に立ち止まったり、心残りを”ぺこぺこ”で書き直して別の未来を掴むために、レールの果てを目指したり。
対話不能な断絶に引き裂かれているように見えて、その実どっかに繋がる部分がある、狂っていてなお人間的な、終わった世界でなお始まる物語。
そんな世界で矛盾や闘いを止揚していく手段が、極めてカオスで猥雑で、選ぶってない賢さに貫かれて成り立っているのだということを、ミトちゃんとの”人間味ある”交流に改めて感じるお話でした。
エロと暴力を扱いつつ、終わってみるとこの喉越し…ほんと変なアニメ(最大級の褒め言葉)
EDに歌われている、『孤独だけど/孤独じゃない』の間にある”/”は、終末トレインの中で夕焼けに包まれながら…あるいは残るものと進むものに稲穂の中で別れながら、混じり合い消えていく。
ゾンビと人間が、生と死の岸に確かに別の動物として別れつつも、一つの連なり(Train)として逞しく生き延びていくように、過去と未来の間にある/を消し去り繋げるために、池袋にたどり着いて葉香ともう一度話し合うために、正気と狂気の境目に引かれたレールを、終末トレインは進んでいく。
今回ミトちゃんとの間に生まれた絆と別れが、多分池袋でも形と相手を変えて、爽やかな希望と狂った味わいに満ちて、この先描かれるのだろう。
それは思いの外、このお話にしか描けない素敵な面白さに満ちた一つの結末になるんじゃないかと、お話への期待と信頼をより強めることが出来る話数でした。
大変良かったです。
最新鋭のゾンビ文学としても、美少女アニメの中でエロを扱う手つきとしても、なかなかエッジの効いたものが食べれて、ヘンテコなアニメが好きな人間としてはとっても楽しかった。
非常にベーシックな友情と成長を旅の枕木に据えつつ、メチャクチャアバンギャルドでオリジナルなスパイスもたっぷり聞かせてくれて、やっぱ俺、このアニメ好きだわ。
次回も楽しみ。
・追記 やっぱゾンビの物語は、”Night of the Living Dead”以来死人を鏡にして人間/非人間の間の”/”を描くためにあるわなぁ……。
静留の誘いに”人間らしい”笑顔を取り戻し、人道のレールに戻りかけて過去の引力に引かれてその輝きを消したミトちゃんの決断は、サブタイトルを思い出すと結構重たいな、と思う。
この終わりきった笑わないゾンビの女王を演じ続けることが正しいのか正しくないのか、それを判断する絶対的な基準はもはや7G世界から失われてしまっている中で、ミトちゃんは『ゾンビを演じる人間』であることを選んだ。
笑わないまま、強い存在であること……ゾンビどもをカビから守れる、群れ唯一の知性であることを己に刻んだのだ。
それは嘘っぱちだが誇り高い決断で、魂に嘘をついていないから眩しく見える。
サブタイトルをひっくり返した『笑わない人間は人間じゃない』という虚飾を、背負って残る事を選んだミトちゃんの決断が、黄色い列車に乗って未来に進んでいく友達に何を与えたのかは、こっから先の物語でちゃんと見れるだろう。
そう信じるくらいには、俺はこのアニメを好きになっている。