イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

響け! ユーフォニアム3:第10話『つたえるアルペジオ』感想

 未来は思い出の中に。
 あるべき私の形は、乱反射する視線の奥に。
 出口のないどん詰まりまで追い込まれた組子と彼女の北宇治が、原点に回帰することで突破口を見つけていく、ユーフォ三期第10話である。

 物語が始まった三年前から、北宇治の子ども達は”全国金という目標”を己の決断として選び取り、滝昇はそれを成し遂げうる組織として腐り果てた甘ちゃん共を微笑みながらしばき倒して、高みへと引っ張っていった。
 それは生徒の自発的な行動であり、滝昇の支援と献身なしには成し遂げられなかった奇跡であり、しかしその本質が北宇治を構成する全ての子ども達に理解されていることは、当然あり得ない。
 未熟な子ども達は自分たちの始原を容易に忘れ、あるいはそもそも共有しておらず、誰が何のためにこの厳しく辛い……しかし”勝てる”吹奏楽を選んだのか、その責任と崇高を置き去りにしていく。
 そんな未熟な存在が、世界と自分がどうなっているかを見つけ、だからこそ高らかにより善く鳴り響く音楽を見つけていくブラスバンドジュブナイルの王道をこの話は、黄前久美子を主役として進めてきて、だからこそここで大いに迷っている。

 

 アンコン特別編からずっと、黄前部長は立派にその責務を果たしてきた。
 言葉を選び声色を作り適正な距離感とタイミングを図って、自分が望む北宇治が守られるように必要な態度を作り上げて、他人に自分の言葉を突き刺してきた。
 その大人びた操作は組織運営上必要なものであり、客観で部の状況と自分の気持ち、それが生み出す人間関係を見つめながら立ち回る能力の高さは、たしかに久美子の”成長”……だったはずだ。

 作中にそう描かれ、僕らもそう受け取った黄前久美子の成熟は、しかし鎧塚みぞれのオーボエをもってしても突破できなかった関西大会の壁を前に、部内の支配力を失っていく。
 『絶対の信頼を寄せる』と自分に言い聞かせていた滝昇の選考基準(つまり、彼の中にある”勝てる”音楽、生徒が生徒らしさを最大限発揮できる音楽)を疑い、あるいはそれに裏切られ(と感じてしまった)久美子は、己の中で膨れ上がる不安と不信を隠しくれず、”立派な黄前部長”の顔を作れなくなっていく。
 久美子が部長として的確に、部内に影響力を及ぼしていたからこその動揺は波紋を呼び、実力を持ちつつ勝利を至上の価値にしない、反・北宇治的であり反・黄前久美子的ですらある真由がソリに選ばれた……久美子が”負けた”事実も向かい風となって、北宇治のタガは緩む。
 それを、どう締め直して北宇治が関西大会に”(滝先生に”勝たせてもらう”のではなく、黄前久美子を部長とする生徒たちが己の意思と選択で)”勝つ”か。
 今回は、そこまでの歩みを描く回である。

 

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 今回のエピソードは久美子の一人称視点にカメラを据え付け、内心を吐露するモノローグを多用する表現が、迷いの中に散見される。
 これは”後輩”の位置に戻ることであすかの導きを手渡され、たどり着くべき場所へと走り出すタイミングで綺麗になくなる迷いだが、表現がキャラクターの内実を追いかけ、えぐり出す優れた演出だと思う。
 例えば第3話でサリーちゃんの迷いに向き合った時、あるいは第4話で求くんの過去と心に踏み入った時、久美子は己がなにを考えなにを感じ、どんな戦略でもって後輩に向き合っているかを吐露しない。
 その視線に何が写っているかは視聴者に伏せられ、”黄前部長”が部の危機を未然に防ぎ、迷える後輩に適切な導きを(例えば、かつて田中あすかが己に手渡してくれたように)手渡す姿が、三人称のカメラで極めて美しく、眩しく切り取られていた。

 今回久美子の主観的視座は、檻混ざる客観での描写より全体的に暗く、重い。
 もともと青春のど真ん中に深く分け入っていくこのアニメの描線は、客観的な現実よりもそこに身を置くキャラクターの信条を複雑に反映し、ドラマの明暗を反射して心理主義的な筆致で描かれてきた。
 久美子が意識して作り出し保ってきた”頼れる黄前部長”というアイデンティティが、社会的にも主観的にも崩壊しかかる今回、カメラは彼女が見ている狭苦しい陰りをより鮮明に描き、マイクは隠すもののない震える内心を聞き取り、僕らに伝える。

 そこには三年目の黄前久美子を、彼女の北宇治を覆っていた順風満帆の気配はもはやなく、何も取り繕えず動揺する部内の荒れた空気と、それによってさらに揺らいでいく少女の迷いが、絡み合いながら反射している。
 そういうモノを暴き立てなければ、どうにもならない所まで久美子を主役とするこのアニメはたどり着いたのであり、おそらくそれは犯人(≒アニメ制作者)の狙い通りだ。
 硬く思えるものの脆さをより真摯に伝え、殻の奥にある柔らかさを鮮明に描くためには、まずかっちりと頼もしく全てが上手くいっている様子を、その端々に破綻の予感を適切に滲ませつつ、見せる必要がある。
 ユーフォ三期序盤の、何もかも上手く行きそうな気配を醸造した画面づくりは、完璧でも完全でもなかった久美子と北宇治の今を、そこから再生を果たす可能性の眩しさを、より的確に描ききるための映像凶器だった……という、答え合わせの回でもあろう。

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 不確かに頼るものもなく、どこにも行けない主観のどん詰まりに揺れていた久美子に道を開くのは、田中あすかという彼女にとっての絶対的他者……永遠の”先輩”である。
 部の最高幹部として、本音をなかなか預けられない苦しさは”立派な黄前部長”を切り取る描線の奥に、極めて緻密に編み込まれてきた描写だが、生徒の自主性を最大限重んじる滝昇の教育方針のもと、部の方針もそれに伴うトラブルも、久美子は一人で抱え込んできた。
 その重荷を分け合うはず/べきだった幹部会メンバーは、それぞれの性格と理想の差異から衝突し、他の誰にも預けられない苦しさを分かち合う本質から、外れたところに突っ走りかける。
 最高の音楽を厳しく追求するドラムメジャー、部員の人間的軋みに理解を示し受け止める副部長、その中間地点で全体のバランスを取る部長。
 そんな役割分担で進んできたトロイカは、逆にその職分に縛られる形で方向性を見失い、空中分解寸前まで追い込まれていく。

 そういう状況で自分がどこに居て、どこに行きたいかを教えてくれる存在は部の外側……共に演奏し勝利を目指す今ではなく、既に久美子によって己の物語を一つの決着へと導き解き放った過去にこそある。
 出口のない心の内側に潜り込んでいく主観のベクトルを、自分がどんな存在なのか外側から見る能力が作中随一高い田中あすかの突き放した客観によって切り替え、それによって近すぎて見えなかった自分らしさを、再度獲得する。
 それを久美子が成し遂げた象徴的行為として、『ユーフォと言えばこれ!』という”上手くなりたいダッシュ”を再演し、過去へと帰還することで現在を突破し未来へたどり着いていく、時の流れの面白さを形にしているのは大変興味深い。

 

 久美子は救い主と縋ったあすかの帰還を、紅茶の反射の中で知る。
 それは数多の特別を積み重ね、完全に思いを癒着させていたはずの麗奈がその実、己と違う未来を見据え、違う音楽を聞いていたショックに戸惑っていた彼女が、あるべき己の形を取り戻す端緒だ。
 優子たちから託された”勝てる”北宇治、”頼れる”部長像をどう捏造するか、躍起になって頑張って遂に果たせなくなって、思うまま駆け感じたことをすぐ言葉にしてしまう、かつての久美子に戻ること……変わったけど変わってないあすか”先輩”と対峙することで、久美子は自分が信じつどんな存在であったか、取り戻していく。
 この客観的視座は自分を取り巻く環境の悲惨も、それに翻弄される己自身の気持ちも、それを形にする障害となり道具となる外界との向き合い方も、全て客観してたどり着くべき場所へたどり着いた、田中あすかという怪物の特別さだけが、久美子に手渡せるものだ。

 おどけた態度の奥に極めて怜悧な現状分析を含め、あすかは白黒パッキリ分かれたオレオを反射板にして、誰も指摘しなかった久美子の現状と内心を暴く。
 勝ちと負け、正しさと過ちが鮮明に分かれて、自分に迷わなくて良い理想のぶちまけ先としての北宇治を、久美子は求め形作って……当然そうならず挫折の手前、苦しみながら迷っている。
 『部員みんなのため、北宇治吹奏楽部のため』という包み紙で、エゴを包んでいる自分自身を見ないふりをするため、”頼れる黄前部長”というペルソナを頑なにし、それで自縄自縛に陥った感じもある。
 ここら辺のエゴと公益性の相克は、自分の願いのために『みんなで決めた』オーディションの結果を跳ね除け、北宇治の完全実力主義に反する楽しみ優先の生き方を、何度ぶっ叩いても差し出してくる真由と鏡写しだな、と思う。

 

 部長かく在るべしというピカピカな建前だけには収まらない、ドロドロのエゴもまた綺麗な夢にたしかに繋がっていて、それが完全な間違いじゃないからこそ皆が久美子を慕い、完全な正解じゃないからこそ今、ここで迷っている。
 久美子の現在地は黒と白の鏡の間、オレオに挟み込まれて客観視され、あすかによって言語化され、その複雑な迷妄を越えていくヒントもまた、黄前久美子が大好きな田中あすかは的確に差し出す。
 かつて自分にそうしたように、何も考えず素直な音を、己の中から出す。
 意図を込めて言葉を突き刺すのではなく、野放図に響かせて届くのを祈る。

 そういう”黄前久美子らしさ”を自分の外側から手渡されたことで、三期10話長らく封じられてきた青春探偵の熱血演説が飾りのない震える声でリハーサル室に響き、届く。
 そうして極めて主観的に、己を吠えることでようやく、久美子は自分の瞳に何が写っているのか……何を愛し何を求めているかを、世界でたった一つの答えとして受け取ることが出来る。
 それは既に用意された音ではなく、兎にも角にも己を奏で始めてしまう野放図の中にこそあった答えであり、エゴの泥にアタマからツッコむことでようやく、手に入れられた客観だ。
 そこには北宇治の皆が写っていて、確かに積み上げた修練の日々があって、迷いながらも何も間違いではなく、間違えた上で更に新たな正解を、世界に響く音と自分の内側に見つけ出すことが出来る、最高の青春がある。
 それをこそ久美子は求めて”立派な黄前部長”頑張ってきたわけで、だからこそ吐き出された久美子のエゴと祈りは”みんな”にちゃんと響いて、崩壊寸前だった部活を一つにしていく。
 そんな人生の一勝負を終えた久美子の肖像を反射するのは、やはり彼女自身であり作品それ自体でもある”ユーフォニアム”の黄金だ。

 こうありたいと己の内側で願い、だからこそ形作り誰かに投げかける、客観と主観の間で揺れている自己像。
 三年生の黄前久美子が部長という社会的立場、全国金への切望、相変わらず複雑怪奇な人間模様の中で、上手く行きそうだったりヤバそうだったり、誰かの手を取って窮屈な不自由から開放したり、見えない蜘蛛の巣に囚われたりしながら、ここまで10話走ってきた物語。
 それがこのような描き方になっているのは、やはり”在るべき己の発見”という極めてスタンダードなジュブナイルの主題こそが、この三期の……あるいは”響け! ユーフォニアム”という物語の、揺るがし難い本題だったからだと思う。
 それは常に迷い苦しみに満ち、見えない正解を必死に探し求めながら間違え、衝突と痛みに満ちてだからこそ、真実高らかに鳴り響くべき音だ。
 真由という鏡、三年目の北宇治というステージを用意した上で、偏執狂的なほどに細やかに久美子たちの心の震え、投げかけられる視線の乱反射とコミュニケーション(の不全)を描いてきた物語が、結局何を描きたいのか。
 『それは”黄前久美子の青春”である』という、既に解っていた答えに堂々帰還させてもらうようなエピソードで、個人的にはきわめて納得が強い。
 結局そこ一つ、描ききるための全13話なのだろう。

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 あすかという部室の外にある脱出口にたどり着くまで、久美子は手近な救済手段に片っ端からすがりつき、その全てに失敗していく。
 滝先生も部長の立場も、永遠に思えた麗奈との絆も決定的な答えを久美子には与えず、ずっと視線を伏せたまま、暗くて狭い場所に己を閉じ込め続ける。
 このどん詰まりを描いておかないと、魔法の手紙を使って田中あすかという”特別”にたどり着き、全てが解決していく道のりに説得力がないわけで、まー必要なギスギスではあるのだが……それにしたって空気が重いなマジッ!

 前回重たく引いた滝昇との対話は、久美子に納得できる答えを手渡すものではなかった。
 滝昇は年長者から唯一絶対の答えを押し付けられ、それに窮屈に縛られる”教育”に(おそらくは亡父との関係の中で)否定的で、生徒自身が求めた音楽へと自発的にたどり着く事を、理想として”先生”やってるんだと思う。
 そういう理念すら重荷になるとあんま伝えず、結果かなり致命的なコミュニケーション不全が部内に膨れてきてるんだから人生ままならないが、とまれ物語の最初から、彼は生徒の意向をまず聞き取り、後に生徒自身が『おもてたんと違う!』とブーたれようが、たどり着くために必要と思ったことを徹底してやり抜いてきた。
 己の決断を背負って滝昇が私達を選び、私達が滝昇を選んだという一種の共犯関係が生み出した、爆発的成長の奇跡。
 それに魅入られた最後の世代が現3年であり、既に強豪になった所から部に入った後輩たちは、滝昇を神様には出来ないのだろう。

 もちろん滝昇は神様なんぞではなく、未熟極まる己を誰よりも解ったうえで高い理想に手を届けるために、必死こいて”先生”やってる一人間である。
 そうあるために生徒には見せられない顔があり、そんな大人の難しさは部長という立場を背負い、幹部ノート以外に本音を書けなくなってる久美子と、響き合えるもののはずだ。
 しかしそれを見て取る客観は今の久美子にはなく、滝先生の誠実を裏切っている己の浅ましさ、理想を形にできないだろう現状の重たさが、ずっしり響くことになる。

 

 客観性の欠如は部長だけの傷ではなく、部員が見ているところでドラムメジャーと副部長は衝突する。
 生ぬるい情と、冷たい怜悧。
 どちらも本当でどちらも大事にしなければ全国レベルの部活動なんてまわるはずがないものを、お互いの性格と職分に分け合ってきたはずのトロイカは、違うからこそバランスが取れている理想から大きく外れ、違うからこそ分り合えない最悪へと首を突っ込んでいる。
 この衝突が一番キツく置き去りにする、真由に目もくれずツカツカ駆け抜けていく麗奈の視線もまた、客観的な横幅を失っているのだろう。
 誰もが震える心を必死に隠して、笑顔を取り繕ってどうにか形を整え、100人で一つの演奏集団を保ってきた時間が、内破しかかっている危うさ。
 それは銀色のユーフォで表情を隠すときの真由より、奏にすんでのところで爆弾投げこむのを止められ、張り付いたほほ笑みで押し返す瞬間にこそ際立っているように思う。

 抱えていた思いを吐き出す。
 そうして生まれた音を皆に響かせる。
 吹き込んだ息が音を生む、金管楽器を己のパートにしながら,真由が全力でブレスした時はここまで、おそらく一回もない。
 その本気になれなさが己らしさだと、真由自身思い悩み苦しんでいる様子もまた描写されているが。
 あすかという外部に切開されて、ようやく自分の原点に立ち返れた久美子が”久美子らしい”音を奏でた救済は、果たして真由にも伸びていくのか。
 残り三話をどう使って何を描くか、全く読めない局面にもなってきたが、しかしじっくりと黄前久美子の青春迷い道と、その迷宮であり怪物であり救われるべきヒロインでもあろう黒江真由の距離感を描き続けてきたこのお話が、真由もまた真実の音を響かせず終わるのは、なんとも片手落ちに思える。
 ということは多分、このお話は真由が彼女だけのユーフォを響かせることで終わるのだろうなと、期待を込めて僕は思う。
 そうしてくれたほうが、いいアニメになると思っている。

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 前回橋上の離別を描き、”くみれい”は永遠でも完璧でもないと改めて告げてきた物語は、解決の糸口をオレンジ色の宇治川に用意しない。
 お互いの視線を同一ポジションに収めない、未解決の息苦しい切断面。
 空中に自由に遊ぶ闊達さではなく、逃れ得ぬ引力でもって地面に縛り付けられて、分りあえず別れていく虚しさを宿す足先の描写。
 それは、ここで二人の心は通じ合わないのだと、的確にこちらに告げてくる。

 幾度目かの衝突の中で麗奈は、頑なな滝昇への思いを鎧に変えて剥き出しの思いを、震える弱さを久美子に見せず、久美子の弱さと震えを受け止めもしない。
 複数オーディションの動揺が北宇治を揺らし、滝昇への信頼に罅が入る中で、麗奈の視界は敵で埋まっている。
 自分自身が抱える滝昇への絶対的信奉を、年相応の弱さを表に出さないための支えともしてきた彼女にとって、滝昇への疑念は己の生き様への否定へと変換され、叩き潰すべきノイズと響くのだと思う。
 燃え盛るエゴの強さ、揺らがぬ自信と自負でもって北宇治のエースに成ってきた彼女に、横幅広い客観を求めるほうが無謀……てのも分かりつつ、しかしドラムメジャーとして先輩として、自分が何をすべきで何をしたら良いのか、ちゃんと見えてる麗奈だって、この三期では元気だった。
 そういう”善さ”も永遠不変ではなく、常に震えながら試されている人生の不思議を描くのが、多分三期の大きな主眼なのだろう。

 そういう麗奈の頑なさを解し、滝信者でも厳しすぎるガチ勢でもない、年相応の可愛い表情を引き出したり、受け止めたり出来たのが、久美子の特別さだった。
 しかし久美子が溢れさせた感情を受けても姿勢を変えない麗奈が、改めてその特別さに身を預けれるような状況を取り戻すには、なかなか難儀であるってのもここでの衝突で良く分かる。
 麗奈自身が己を規定する峻厳さを、上手く解して部という社会になじませる媒介にも、親友たる久美子はなってきたわけだが、部長とドラムメジャーという立場、そこから見える北宇治吹奏楽部のすれ違いが、社会的・精神的潤滑効果を殺してもいる。
 久美子がアダプターになってあげないと、ガチすぎる麗奈が”部”に上手くハマれないってのはそれこそ、一年のオーディションから描かれてきたわけで、久美子が本来の自分を取り戻す旅はつまり、麗奈が暴走する自分らしさを引っ込めて小社会に居場所を取り戻す歩みにも、重なっていくのだろう。
 そしてそれは、この川辺では行われない施療なのだ。

 

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 全てを救ってくれる魔法がかかった、向日葵の絵葉書を一度は見つめそれでも自力でなんとかしてみようと、麗奈に縋ってダメだった帰り道、久美子は約束の場所へと赴き、想定していなかったもう一人と出会う。
 自分を間違えてもいい”後輩”に戻してくれる、田中あすかの懐に飛び込もうとしたら当たり前の顔で中世古いるんだから、そらまービビるわな……。
 非常に穏やかに久美子を受け入れ、やり取りを見守る香織であるが、全てを見届けた後に『響いたんだ』はいいとして、枕詞として『羨ましいな』が入るところに、田中あすかに響くあり方をどんだけ求めても、膝枕に乗っけ毎日同じ場所で暮らしても、届かない己への諦観も滲む。
 自分含め誰も己の中に響かせることなく、他人にのみ自分を響かせてきた女の、最大の理解者であり犠牲者でもある彼女が久美子を見つめる目は、愛しい例外への涼やかな羨望が滲んでエロティックだ。
 そこには久美子が部長として身にまとった、大人びた成熟を取り繕い縛られていった不自由とはまた違った、透明度の高い束縛がまとわりついているように思う。

 そんな愛の網を当然感知しつつ、なにもないかのように振る舞える田中あすかの怪物性こそが、かつて……そして今、黄前久美子を引き付け救っていく。
 部長になって以来、久美子も身振りに思いを乗せて刺すボディ・ランゲージを活用して頑張ってきたが、今回あすかが久美子を前に演じるそれ……特に手の使い方は桁違いの引力を持っていて、『自分が他人にどう見られ、どう振る舞えば何が届くか』を客観し切る、田中あすかの能力を可視化していた。
 変わったようでいて変わっていないあすかの在り方に安心する、久美子の心に寄り添うように赤いセルフレームをかけ直し、久美子がもう一度会いたいだろう”あすか先輩”に自己像を寄せてから放たれる、肘から手首にかけての動き。
 靭やかな仕草が持つ引力に久美子の目が引き寄せられ、己を分析し解体し批評する……部長になって以来なかなか適切に届かなかった他者からの言葉を、胸に届かせる補助線を引いていく。
 この引力を持ちつつ、部全体を背負う(から今、久美子が死ぬほど苦労している)部長という立場は晴香に押し付けて、遊兵的立場から部をコントロールしてきた過去を、鮮明に思い出させる描かれ方だった。

 

 あすかは久美子と彼女の北宇治の現状を、多くはない材料から完璧に推理しきり、部外者の安楽に身を横たえて、誰も言えなかったいちばん簡単な答えを差し出す。
 そしてそれが、自分を揺り動かしこの現在につれてきた黄前久美子の、望む答えではないと解った上で、極めてワガママで感情的な久美子の”素”を、抉り出してさらけ出す。
 それは久美子自身、”立派な黄前部長”をやる中で見えなくなっていた原点であり、あすかは冷徹な客観によって自分自身と久美子を相対化つつ、極めて主観的にそんな久美子を愛している。
 その剥き出しの熱が、傍から見れば何も正しくないはずなのに、確かに私を動かしたから。
 その主観的共鳴を差し出さなければ、状況を上から掌握し切る立場を維持できるのに、ここであすかは己の高鳴る心臓を素直に差し出し、久美子に負けている自分をおどけながら可視化する。

 そうして腹を見せることが、どれだけ他人に響くのか。
 久美子のどん詰まりを極めて冷静に客観視し、解体して咀嚼させながら、あすかは黄前久美子的な無防備をそこに混ぜることで、久美子に昔のやり方を思い出させる。
 それは確かに、人の心を震わせ響くのだと、確かな実感をもって手渡されたやり方を答えに選ぶことで、久美子の世界は迷える一人称的視線を投げ捨て、やるべきこととやりたいことが確かに一致する、世界と自分のBPMが重なる高鳴りへと進み出していく。
 それを差し出せる田中あすかになったのは、やはりあの川辺で久美子に追いつかれ冷えた心臓を貫かれた、北宇治の青春があったればこそなのだろう。
 思い出を抱きしめるかのように、真由から隠しながら引いていた”響け! ユーフォニアム”が、無音の音として二人のユーフォニアム奏者の過去から残響し、未来へと共鳴するようなやり取りだった。

 

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 あすかからのシニカルなエールを胸に受け取って、久美子はかつて涙を流すほど『上手くなりたい!』と願った時と同じ熱量で、速度で、宇治川を駆けていく。
 それは今の自分を形作った原点へと立ち戻り、いつの間にか押し込められ忘れ去られかけていた黄前久美子らしさ(かつてのあすかの言葉を借りて変奏するなら”ユーフォらしさ”)を、彼女と彼女を主役とする作品が取り戻していく歩みだ。
 過去に立ち戻ることでしか未来への道が拓けず、かつては己を上手さを求めた少女が今、部長に相応しい小器用さを投げ捨てて素裸の自分らしさに立ち戻っていくように、矛盾し遠く離れているように思えるものにこそ、行き詰まりを突破する力が宿っている。

 相反するものを衝突させ解決法を導き出す、この青春の弁証法を久美子自身に敷衍するのならば、やはりそこで鏡になるのは彼女と真逆の真由であり、懊悩を経て原点に立ち返ってたどり着いた”久美子らしい”アプローチが彼女に響かないのならば、これまでの物語(例えば田中あすかのシニカルな客観)から導き出せる以上の何かを、最終楽章の最終音符として、このアニメは突き出さねばならぬように思う。
 ここら辺はまぁ、アニメになってメチャクチャ真由に肩入れしている、僕の個人的思い入れが濃くはある。

 

 過去と未来の真ん中を走る久美子の疾走は、映像の時間軸も細かく切り結び、この猛る思いをまず伝えたい、伝えるべき戦友を舞台に引っ張り上げても行く。
 衝突をなかったことに、気まずい重たさが詰まった幹部ノートに、率直で真っ直ぐな思いを書き連ね、それが読まれ書かれ手渡されていく様子が、久美子の疾走にカットアップする形で描かれる。
 それはあすかが走らせた久美子の過去と現在と未来が、秀一や麗奈とともに進んでいく未来へと確かに繋がり、彼らをリーダーとして進む北宇治に必要な連帯と率直さが、手と手を繋ぎ再生されていく結末を、同時進行で切り取っていく。
 決意が決着に追いつく時間的混乱は、久美子が見つけたもの/あすかが見させてくれたものがこのどん詰まりを開ける重要な鍵であり、何も間違いではないことを、時系列順に描くよりも鮮烈に教える。
 それは当たり前の速度を超えて、因果をさかしまにグチャグチャかき混ぜ加速させ、気づけば見えなくなっていた答えへと子ども達を導いていく。

 余人に覗かれない暗い影の中、そこでなら幸せに笑ってもいい校舎の裏で、久美子は二人の優しさの籠もったアンサーを抱きしめる。
 ずっとそうしたかったのに、そう出来なかった自分自身を、久美子はこの影の中で抱きしめているのだと思う。
 あるいは麗奈も秀一も、自分自身を客観視出来ない余裕の無さから抜け出して、本当は自分がどんな気持ちだったのか、ノートに綴ってお互いに届けれる視力を、久美子の歩み寄りによって(リハーサル室の演説で目を開く部員たちに先んじて)手渡された……とも言えるか。
 どちらにしても、長く長く伸びた不協和音をぶち破り、北宇治が一つの音楽へとなっていく今回のコミュニケーションにおいては、原点に戻ること、近すぎて見えない自己像を客観視できるだけの他人と出会い直すことが、極めて重要なのだと思う。

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 本番寸前でも相変わらず噛み合わない、重たい空気を引き裂くように久美子が真っ直ぐ、まるで入学したての学童のように手を伸ばすのが僕は好きだ。
 この後のブツブツした独り言とか、それを突っ込まれて赤らむ仕草とか、久美子は物語前半を頼もしく支えた成熟を、既に投げ捨てている。
 それはあすかという部の外部にあって、変わったようでいて変わらず”先輩”であり続けてくれる存在に己を反射した結果、誰かに正され変わっていける、弱さを見せてもそれが明日への突破口になっていくような、”後輩”へと立ち戻った証明なのだと思う。
 部がかつての惨状を繰り返さないよう、言葉を選び声色を作って適切に”後輩”に向き合ってきた久美子にとって、ここから絞り出す言葉はずっと封じてきた、幼い自分への帰還を意味する。
 しかしその未熟と野放図こそが黄前久美子なのだと、黄前久美子的な無防備を(おそらく意図して)交えて指摘してくれた存在の助けを借りて、久美子は部全体の在り方をひっくり返せる特別な位置……”部長”として立ちながら、誰よりも上手くなりたいと涙しかけた時代へと己を帰還させていく。
 そして過去へ立ち返ることで未来へ飛躍していく教え子の一歩を、滝昇がちゃんと見届けている所が、僕は一番好きだ。

 久美子の演説……というほど形が整っていない、言葉の形をした心のほとばしりは、回想シーンを適宜含みながらリアルタイムに、北宇治部員の反応を拾いつつ展開していく。
 この構成自体が、様々に凸凹な過去があって、噛み合わぬまま関西予選へと挑もうとしている北宇治の現在と、そこを超えて未だ見ぬ地平へ経とうとする未来が、ここに交錯しているからこその熱を支えている。
 涙ながら胸の内を曝け出し、自分たちで決めたのに部員にその意味を適切に伝えられなかった未熟にも、既に幹部ノートを通じて連帯を回復させた二人と一緒に頭を下げて、震えながら伝える愛と決意と信頼。
 それは完全実力主義に晴れ舞台からはじき出された、部員たちの瞳を塞いでいた不安を弾き飛ばし、自分たちが何をやってきたのか、その時部長がどこに居てくれたかを思い出させていく。

 

 それが物語の中で大きな役割をになった生徒も、そうではない100人のうちの一人も含めて、しっかりと響いていく様子が、極めてユーフォらしい細やかさで切り取られる場面でもある。
 だからこそ、響かぬ例外としての真由の異質性も際立ってくるわけだが、それは今回久美子が立ち戻りたどり着いたこの場所では、踏み込めない場所にある何かが塞いだ真実なのだと思う。

 ここまで久美子が愛し己の在り方と選び取った”北宇治らしさ”への愛情と熱意を響かせる形で、土壇場の奇跡を間に合わせる部活っぽさを北宇治は手に入れ直す。
 それさえあれば勝てる程に、三年目の北宇治は強豪に相応しい鍛錬(鬼のドラムメジャーを戦闘に)を積んできて、しかしそれが当たり前の在り方だと無意識に了解されるほどには、常勝の伝統を積み上げてはいない。
 思えば中盤以降の不協和音は、今まさに伝説へとなりかけている北宇治だからこその苦しみというか、久美子たちの悪戦苦闘そのものが伝統の礎となる過程、そのものだったのだと思う。
 ここで土壇場、部長が涙ながら熱い演説を響かせたことで空中分解の危機を乗り越え、関西大会を突破し全国へコマを進めるドラマティックな体験が、滝神話を体験していない一二年生にとっては揺るがぬ神話となって、今後の北宇治を支えていくのだろう。
 そういう伝統校に付き物の伝説を、こういうタイミングで差し出すことが出来なければ、未来の強豪は蛹のまま埋もれ死んでいく。

 そういう瀬戸際で響く言葉をギリギリ手に入れられたのは、魔法の絵葉書を切るタイミングの良さとか、ズレた歯車が一つ噛み合えば爆発的な演奏を届けられる北宇治の地力とか、まぁ色々なものが下地にあるのだろうけど、やっぱり何より、黄前久美子が”頼れる黄前部長”だったからだと思う。
 それは彼女をらしさの鎖で縛り、身動きの取れない透明な網に捕まえもしたけど、しかしここで皆の頑張りを見てきたと、嘘なく響く熱量で溢れさせることが出来るのは何故か。
 こんなところで負けて終わりでは、私たちの北宇治はあってはならないのだと、揺るがず叫べるのは何故か。
 それはやはり黄前久美子が、たくさんの出会いの中でユーフォを愛し、公平な実力主義に厳しく試され常に変わっていける北宇治が生み出す音楽を、心から愛していたからだと思う。
 それを構成する全てのものを、誰よりも愛しく思わなければいけない立場で、本当にそうしてきたからだと思う。
 だからがむしゃらな原点に戻りつつここの久美子は、優子たちの思いを引き継いで以来必死に”立派な黄前部長”であろうとした夢の先に立っている、三年生の黄前久美子だ。(他の連中がその熱量に瞳を見開く中、すでに知っていたとばかりに、ようやく戻ってきたのかとばかりに、慈しむ瞳で久美子の涙を見つめている久石奏が、僕はとても好きだ)
 そういう意味でも、過去に立ち戻る歩みは未来へと進みだす、新たな活力を手に入れるときにこそ最大の力を得ていくのだ。

 

 

 

画像は”響け! ユーフォニアム3”第10話より引用

 思いの全てを出し尽くし、言葉が追いつかなくなった久美子の幼い無様を、真っ先に葉月と緑輝が拍手と共鳴で出迎えるのも、やっぱ好きだ。
 二人は話始まった時から、久美子の”マブ”だからよ……。
 こうして広がっていく熱量でヒビ割れを塞いで、北宇治は拳を突き上げ一丸となって必勝の関西予選へと挑むわけだが、歓喜に見開かれた久美子の視線はやはり、その熱にまじりきれない真由の孤独を取りこぼしている。
 久美子がやり遂げた満足を反射させていた金色のユーフォと、対照的に真由が抱える銀のユーフォには彼女の在り方を結像させておらず、それは多分彼女自身、全てを燃やし尽くして納得できる自分の形を、捕まえられていないからだと思う。

 今回久美子が迷い支えられ捕まえたような、客観的な主観、あるいは主観的な客観は眼の前の音楽に全てを叩きつけ、最高の結束と結果を以て未来へ飛び出していくための必須アイテムだが、真由はソリを吹こうが演説聞こうがコンクールに勝とうが、写真に映りうる自分自身を捕まえられない。
 主観と客観の終わらないダンスが、ドラマとキャラクターの歩みを切り取る重要な足場となるのならば、真由を象徴する行為の一つとして『写真を撮る/被写体にならない』があるのは、今更ながら納得する。
 あすかが久美子のあるべき形を、過去を蘇らせる形で未来へと投げかけてくれたように、それを見つければどこまでも走っていけるような己の形は、己の目で時に見れない。

 ならば。
 ならば、今回あすかが果たしたような特別な他者として、久美子は未だユーフォに己の影を刻めない真由と向き合い、何かを探し出して伝える必要があるのではないか。
  『誰が私を愛するの?』という、何気ないようでいてかなり切実な痛みを込めた問いに『みんな』と答えてしまった成熟の鎖は、今回疾走の中に既に解かれた。
 ならばあの時とは別の答えを、部員『みんな』ではなく真由一人だけに響く特別を、久美子は長い青春の旅の果て、最後の答えとして手渡せる場所まで来たのではないか。
 微笑みの鎧で自分を守りつつ、いつも苦しそうな姿を描かれてきた真由にすっかり気持ちを寄せている自分としては、そういう願いを残りの話数にかけたくなる。

 

 長く残響する重苦しい不自由を振り払って、物語はどこかへとたどり着いた。
 しかし、まだ音楽は続く。
 残り三話、何が描かれるのか。
 次回も楽しみです。