八咫烏シリーズの二作目であり、前作”烏に単は似合わない”と合わせて、八咫烏シリーズへの序章となる作品。
前作で華やかに積み上げられ、冷たい名探偵の乱入によってぶち壊しにされた桜花宮限定の世界を離れ、政治の世界で若宮が何をやっているのか、とある青年の視点から照らし直す物語である。
僕はアニメから作品に入ったので、ある種の先入観というか刷り込みのようなものが既に出来上がっているわけだが、アニメにおいて静かに強調されていた雪哉の独善性、凶暴性が、原作においてはやや薄いと感じた。
あるいはこの後巻数が進んで、より苛烈な現実が雪屋のもとに襲いかかる中で、そういう性質が発露するからこそアニメはそういう要素を、彼の描写の中に盛り込んだのかもしれないが、若宮と出会ったばかりの雪哉は冴えた知略を持ちつつ、未だ地元と身内に視点を限定された子どもであり、自分たちを守ってくれない父に見切りをつけ、歪な形で大人びなければいけなかった存在と写った。
アニメにおいてはかなり早い段階から示される、北家のプリンスとしての雪哉の外形が、終盤で明かされるべき大きなミステリとして機能していて、ここら辺の手触りが違うのも印象的だ。
前作において強烈な暴露と変化を生み出した、ミステリとしてのダイナミズムは、ややスケールと勢いを落ち着かせながらもこちらでも元気であり、キャラ小説としての瑞々しい魅力を保ちつつ、何かが暴かれ繋がっていく快楽は濃い。
同時に前作を華々しく飾っていた王朝文学的な装飾文体は鳴りを潜め、やはり最後展開するジャンルチェンジのどんでん返しを効率的に読者に刺すべく、研ぎ澄まされた煙幕であったんだな……という納得があった。
この変化は物語が見据えるもの、全体の雰囲気の変化が大きく影響もしていて、複雑怪奇な政治システムと、その中で蠢く個人としての情を扱う”男の子編”においては、桜花宮の姫君たちが無意識的に限定させられていた視界でもって、花の色だの錦の美しさだの、世界で一番大事だと思っていた(思わされていた)モノは、なかなか視界に入らない。
とはいえ時折描かれる情緒に満ちた風景描写は、人間どものよしなし事を置き去りに移ろう時間の流れ、世界の在り方を静かに示して、人間の浅ましさと醜さ、無力と業を照らしていくお話をギリギリ飲み干せる味に保つ、大事な仕事もしているだろう。
アニメで示されているように、山内結界の外側に現代日本を配置し、物語の舞台それ自体が呪的タイムカプセルとして設定されているこのお話において、時は均質に流れるものではなく、様々に捻れながらうねる。
神代の神秘によって生み出され、その危機もまた神官王の霊力によってのみ克服されるのに、複雑な官僚システムを備えた貴族たちは人間的な足の引っ張り合いこそが世界の全てだと思い込み、現人神である真の金烏を尊重することを知らない。
ここら辺の山内の真実……古代と近代が極めて奇妙で歪な形で衝突している危うさを、今回若宮の懐には入らなかった雪哉(と僕ら)は次回、地元を襲う古き教委を通じて学んでいくことになる。
金烏の座から降り、人間一人として幸せに生きる道を雪哉に最後提示され、若宮は結構嬉しかったと思う。
前回読者が引き込まれた桜花宮の嫁選びシステムを、人間を不幸にしかしない残酷な檻だと喝破し、個人的な情を育まないことだけが唯一可能な救いだったと暴く、今回の”答え合わせ”。
それを見ると、若宮が外遊先の現代日本で平等な価値観を学び取り、かなり影響を受けている様子が見て取れる。
チート転生モノだったら倫理的アドバンテージになるかもしれない現代的感覚は、骨の髄まで差別的で搾取的な山内の”今”において、若宮を孤立させる足かせにしかなっていない。
最下層民を”馬”に変え、宮烏は自分が禽獣であることすら忘れている歪な社会体制の中で、家やしきたりに縛られない”現代人”であること、一個人の幸せを鉄面皮の奥ちゃんと望める好ましさは、危険な孤立を呼ぶ異質性にしかならない。
そんな中、我欲を理想で糊塗する敦房の”正気”と、さっぱり生き死にをやり取りできる路近のプラグティズムに振れることで、今までぼんやりと正体が見えていなかった人間の業……その一端を見据えた雪哉は、それでも大事にすべきものとして、地位や家を投げ捨てて一人間としての幸せを掴む未来を、素朴な手つきで若宮に差し出した。
しかし金烏の超越的な力と使命は、そこから逃げれば山内全てが滅びる定めを若宮に背負わせていて、おそらくは一人間として極めて柔らかく豊かな感性を保ちつつ、若宮は統治の機械という立場から降りることを己に許せない。
お后候補たちに投げつけた情のない言葉は、あまりに前時代的で残酷な山内の現状と、その犠牲になる存在を俯瞰で見つめての事実の提示でしかなく、一番最初にその犠牲となるのは、他でもない若宮自身であることを、この孤独な皇帝は良く理解している。
その寂しさと危うさをこの段階で理解できているのなら、雪哉も自分の方へ若宮を引き寄せるのではなく、自分が若宮の膝下へと近づいていく道(アニメラストで選んだ道)を、己の運命と見定めただろう。
しかし今、それは選ばれない。
山内がどのような宿命に囚われ、どれほど危うく、真の金烏がどれだけ換えが効かない最後の神官王であるかは、未だ描かれざるミステリだからだ。
これを見届けることで、悪辣な乱入者であり桜花宮の破壊者だった若宮は、過酷な使命を背負って改革に挑む高潔の士となり、とても分かりにくい感情表現の奥、個人としての感情をたしかに持った”人間”に見えてくる。
古臭いしきたりと生臭い我欲に満ちた山内で、現代的な価値観を秘めた若宮が読者に近い位置に置かれていることは、彼が挑む改革と救世に、読むものの心を近づけても行く。
「なんでここまでするの?」と、理解不能なエイリアンのようにも描かれ……しかし緻密な心理描写、多角的なカルマの積層によって、確かな滋味を宿す、タイムカプセルの中の異種たち。
それを一方的に断罪するでなし、現代倫理によるアドバンテージを与えるでもなし、むしろ孤立と苦境を手渡した上で、数少ない理解者を得ていく旅が、ここから始まっていく。
そこにおいてキャラクターが何を思い、何を切り崩されるかが、その内面へとダイレクトに筆を伸ばせる小説媒体はアニメより分厚く描いていて、描写から推察していたものの奥にあった真意を、改めて味わうような読書でもあった。
アニメで感じたよりも、全体的に雪哉が幼く純粋なキャラクターに思えたのは、今後その白いカンバスを過酷な現実で汚し、人生の重さで歪んでいく様子を活写するための下ごしらえか……と、人間の業を鋭く、容赦なくえぐる話運びを見ていると邪推もしたくなる。
「敦房は正気だった」と断言できてしまう、小説であるからこその強さ。
そこに焼き付く”忠義”なるものの危うさ、己のエゴを直視できない人間の脆さが、極めてさっぱりしたプラグマティズムでもって、自分の命も他人の運命も差配出来てしまう豪傑・路近の生き様と面白い対称をなしていた。
四家を向こうに回しての大謀略を抱えるには、若宮は他人を解らず解ってもらおうとせず、長束は高御座から理屈で見下ろす潔癖が過ぎる。
この青臭い若さが今後、どういう試練で変わっていくのか……はたまた、変わることが出来ぬまま現実に飲み込まれていくかも、今後長大なサーガを見届ける中で楽しみである。
どーもキレイなまんま、傷のないまんま、現代人の目から見て正しく思える連中を、それが異常になるしかない歪なタイムカプセルで守ってやるつもりが、作者にはない感じがあるんだよな……。
この公平で残酷な平等主義は、毎回「ここだけが世界の全てだ」と思い込んだ壁を描写と展開でぶっ壊し、新たなミステリを提示してくるファンタジーから甘さを抜く上で、極めて大事な柱だと思う。
そのさっぱりしたエグミに惹かれて原作に手を出した自分にとって、キャラ一個人の去来、あるいは山内全体の趨勢自体はそこまで重要ではなく、どこまで詰めた描写が出来るのか、限界を魅せて欲しい気持ちが強い。
同時に捏造された悪辣と悲劇にキャラを投げ捨て、悲惨を嘲笑うような冷たさもなく、山中異界で必死に生きている人間もどきを心から愛し、自分が紡ぐ物語の中で必死にその物語を走り抜けさせてやろうという、責任ある創作姿勢も感じ取れた。
あせびにしても敦房にしても、自分の幸せのために他人の幸せを踏みにじり、大きな世界を壊して顧みないエゴイスティックな怪物として描かれてはいるものの、同時に微かに理解の橋が残っていて、分からないが分かるかもしれない、極めておぞましくも美しい人間の肖像として描かれている。
それは若宮が硬い表情と苛烈な態度の奥に、微かに燃やす情の炎と似た匂いがする、ストイックでありながらロマンティックな、僕好みの薫香だ。
それを保ったまま、とびきりの人間曼荼羅をこの序章から、元気よく飛ばしていって欲しいと思える読書だった。