イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アクティヴレイド -機動強襲室第八係- 2nd:第11話『偶像の夢』感想

成すべきことと成せることの間で悩む現実主義的空想科学警察アニメ、都知事と決着つける最終話一個前。
司法制度と行政手続という、一期でダイハチが悩まされてきた法の砦がメインメンバーに立ちふさがる中、民間協力者達がすごい勢いで横紙を破り大逆転の布石を整えていくお話でした。
稲城さんが最終話までラスボスとしての威厳を保ってダブルクライマックスと読んでいたんだけども、こっちは今回で決着させてバード相手に最終決戦となりましたね。

今回はダイハチメンバーが後手に回る中、次郎や小湊さんといった外部メンバーが頑張る話になりました。
二期で結構自由になった感じもしたけれども、よくよく考えれば稲城自身の後押しがあっての自由だったわけで、あくまで警察官なダイハチが相手取るには、やっぱ相性が悪い相手よね。
普通の犯罪者相手には武器になる法や行政のやり口も、改革路線ののぼりを立てて一気に都知事まで登った秀英が相手だと、抜け道を探して回避されると。

そんな中、一期ではダイハチに敵対的だったメンバーが意識せずスクラムを組み、都知事の足場を崩していく展開は、ちょっと変則的で面白かったです。
引退してからの方が凄みが増した前都知事、フリーになってから社会派路線に転向した小湊さん、そしてやっぱりべヌゥという切り札を隠し持っていたミュトス。
彼らが一期第7話で起きた長沼議員の不可解な死を掘り返し、稲城が求めた虚栄の決済日に破滅をお届けするのは、なかなかカタルシスがある構成だった。

ウィルウェアによる直接犯罪ではなく、犯罪の証拠となる情報を追い求めて状況が二転三転するのも、陰謀を戦ってるい感じが強く出ていて良かったな。
つーか《完全偽装》を《電脳神》で打ち消して、《暴露》相当の《天罰》で稲城に社会戦ダメージ与えた光景が俺には見えた。(N◎VAモノ特有の幻覚)
シナリオルールで『稲城には《制裁》効きません』って言われちゃ、確かにダイハチメンバーは打つ手ないから、次郎が頑張るしかないよね。

二期第2話で登場した記憶転写装置は、バードの生存ではなく証拠隠匿のために使われました。
今回べヌゥが見せたインチキ能力を考えると、DNAの公的記録を書き換えて死亡を装うのは簡単だったんだろうけども、せっかくハッタリの効いたギミックだったので、もうちょい派手な使い方してくれると俺好みだった。
しかしやっぱり、これまで各エピソードの中に埋められていた伏線がより集まり、一つの形を作っていくのはシリーズアニメの醍醐味ではあるね。


ダイハチメンバーはやれることを最大限やっているのだけど、それがなかなか結果につながらない、もどかしい展開。
バードの切り札がコロニー落としだったので、ウィルウェア本来の仕事である『災害復旧』で来週活躍するタメって感じかなぁ。
ミュトスが張り切っているのは稲城を落としてバードを引っ張り出すためであり、あくまで稲城に直接モチベーションがある黒騎&ボスがチェックメイトに繋がる手を打って欲しかった気持ちもあるが……まぁ二期の次郎は黒騎さんの身内なので、そこまで縁遠いわけではないか。

公僕として背筋を伸ばした捜査描写の合間に、人間としての弱さを見せるボスの描き方は、前回健気な痛ましさが目立っただけに非常に良かった。
追い込まれてからの黒騎と稲城のアクションシーンも、前回あれだけ顔面のガードを崩さない硬い組手だった稲城のフォームがバラッバラになってて、内心の動揺が巧く表現されていたと思う。
前回は稲城が『手合わせってことにしておいてやる』と法を弄ぶ立場だったのに対し、今回は公務執行妨害及び障害未遂で引っ張られる口実になるのも、状況の変化を反映していて面白い。
このアニメ状況自体は停滞すること無くスムーズに進んでいくんだけども、細かい感情表現も忘れずやって、キャラの人間味を出してくれるのが良いよね。

人間味という意味では、過剰に熱くなってからクレバーさを取り戻す黒騎くんが、まるで熱血刑事ドラマの主人公みたいで良かった。
黒幕が致命的な暴露ぶっ込まれて素直に崩れてくれる所も含めて、稲城編はオーソドックスな刑事ドラマの構成をしっかり踏襲していた気がする……身内に犯人と恋仲だった人がいる所とか。
SF考証やパワード・スーツアクションは最新鋭のナウさを整えつつ、根っこの部分ではオールド・スクールで堅牢な作りを維持するバランスが、ここでも維持されてた感じかな。

まぁ瀬名くんは本筋と並走して、個人的で難易度高いミッションに挑み続けてるけどね……。
凡河内さんとのサブプロット、お遊びではあるんだけども妙な緊張感があって笑えて、いい具合にお話豊かにしてくれてるね。
こっちの決着も気になるところだ。


そんなわけで、理想主義者故の稲城の暴走に応報を加え、法と正義を見せつける中ボス戦となりました。
空からかっこ良く駆けつけたあさみちゃん含めて、ダイハチの外にいるメンバーが活躍する形になったけども、細かい情の表現が良かったので、黒騎とボスの物語は綺麗に収まった印象です。
プロの表情が目立って心の奥底が見えない感じもあった二人を掘り下げる意味で、稲城はいい仕事したなぁ……。

一方心底ムカつくクソ劇場型犯罪社、バードくんの落ち物パズル(ターゲットは東京)は始まったばかり。
迫りくる大破壊を前に、ただの警察官たちには何が出来るのか。
2クールの総決算となる最終回、バッチリキメて気持ち良く見終わりたいですね。

 

クロムクロ:第24話『決戦の黒部ダム』感想

長い戦いもついに最終局面、異文化コミュニケーションサムライロボット学生飯アニメの第24話です。
剣ちゃんが由希奈にド直球の求婚カマしたりしつつ、本命は決戦決戦また決戦のバトル回でした。
人間の強さである団結力と可塑性、油断の無さを最大限に発揮し、みんなで協力して勝ちをもぎ取る展開は、このアニメが大事にしてきたモノを戦いの中でも発揮していて、見応え充分でした。

というわけで最終決戦なんですが、前回あれだけ護るべき日常の価値を確認してなお、更に積んでくるのがこのアニメでして。
不思議な出会い方をした主人公とヒロインが、決定的な言葉を交わすシーンが『戦いの後』ではなく『戦いの前』に来て、ソフィーが茶化すことで死亡フラグになるのも回避してしまうのは、非常に独特だなと感じました。
剣ちゃんと由希奈はふたりとも気持ちの良い青年ですし、彼らの気持ちを軸にアニメが進んできたので、逃げずに真っ直ぐ答えを出してくれるのが嬉しかったね。
いやー良かった、おめでとう。

どこか真っ直ぐすぎる不器用さがあるプロポーズは非常に剣之介らしくて、戦いから逃げ出した理由が『言い方』だった由希奈とは、結局こうなるのかという納得を感じました。
あのときは恐怖や不安を受け入れるために必要だった『言い方』が、今回は生き残った後の希望を彩る人間味に変わっているのは、なかなか面白い変化だ。
まぁムーディーでスマートに気持ちを伝えられない武辺者だからこそ、由希奈も俺も剣之介を好きになった部分もあるわけで、お話が収まろうというこのタイミングでもしっかり『らしい』描写で一貫性をもたせるのはとても良いです。

あそこの会話シーンは結婚以外にも由希奈と剣之介がこれまで何を積んできたのか、しっかり確認する場面です。
時間に流された剣之介が『平和な現代』で生きる意味、戦いに馴染めなかった由希奈が『戦場』に身を置く理由。
そして二人がパイロットとオペレーターとして、一緒に戦い続けた結果生まれたもの。
過去色んな場所で交わした言葉を踏まえつつ、決戦に挑む意味を確認し続けることで、このアニメにおける戦いとはどういうものなのか、もう一度確認できました。
アクションの前にしっかりそういう足場を確認する作りは、非常にこのアニメらしいですね。


こうして始まった最終決戦ですが、人間の強みをひっくり返された第21話の奇襲防衛戦を、さらにひっくり返したような作りになっていました。
敵を侮らず、味方と手を取ることで生き延びてきた人類の強みを、第21話の戦いでは発揮できずに押し込まれたわけですが、今回は逆に戦術と連携を巧みに繋ぎ合わせ、各々が各々の仕事をやりきることで強大な敵に打ち勝つ戦いになりました。
ロボット搭乗組だけではなく、名も無き歩兵部隊やスナイパー、そして最後の一手を詰めたゼルまで、まさに総力戦という様相で、やりきった満足感を強く受けました。

時局の変化に応じて役割を切り替え、協力して敵を倒す人類と、功名心を人格の中心に据え付けられ、あくまで強力な個体として立ち回るエフィドルグは、非常に対比的に描かれています。
敵を侮らず事前に戦術を練り上げ、必要なら敵の力すら取り込んで戦う姿と、強者のアイデンティティにあぐらをかいて、油断と頑なさをつかれて負ける流れも対照的。
ここら辺の描き方は、協調と変化こそが人間の特性だというメッセージを強くはらんでいて、実は戦闘シーンよりもむしろ日常シーンと響き合う描き方だったと思います。

見慣れぬ文化を最初は拒絶しつつも、カレーを食って学校に通って、無くした生きる意味にたどり着くことも出来る。
恵まれた日常の中で目標をなくしていても、戦いに巻き込まれて恐怖と戸惑いに震えても、立ち向かう勇気を見つけることも出来る。
このお話はずっと変化に対応できる人間の姿を暖かく見守ってきて、いつまでたっても変わらない、変わることが出来ない侵略兵器に挑む今回、そういう柔軟さが日常を飛び出して武器に変わる展開が、凄く多かったわけです。

フィドルグを捨てて真実を求めたムエッタもそうだし、『人間』をやめることで人間の証明を打ち立てようとしたボーデンさんも、みな変化を受け入れることで自分の中の大切なものを護る力を手に入れている。
逆にエフィドルグ側は、脳髄に焼き付けられた功名心を疑わないミラーサにしても、はるかな過去から内部構造を変化させないレフィルにしても、戦うだけの機械の頑なさを突かれて敗北していきます。
一見遠く離れた『戦場』と『平和な現代』を地続きに設定し、相互に影響し合う様子を描いてきたアニメらしい、メッセージの色濃い戦闘だったと思います。

変化を描くためには変わらないものを描くことが大事で、最後の最後の戦闘で人を殺した実感、『戦場』の闇の側面に震える由希奈を切り取ってきたのも、一貫性を感じる描写でした。
失われる命に恐怖と哀れみを感じるのも、このアニメで描かれてきた『人間らしさ』の一つであり、戦士であると同時にただの高校生でもある由希奈がまだそれを持っていて、剣之介がそれを受け止める優しさを失っていないことは、変化できる人類の変化しない強さを、ちゃんと語っていました。
『人殺しの機械になるな。そのために俺は戦っている』と、折に触れて言ってた職業軍人ボーデンさんが、ロングアームを操縦するためにナノマシンを体内に入れ、『人間』じゃなくなるのも同じ意味合いなんだろうなぁ。


今回の戦闘はクソみたいな殺人マシーンに良いようにされたうっぷんを晴らす意味もあるので、過去踏みつけにされたものがたっぷりと活躍する展開でした。
パイロットに復帰したソフィーの大活躍だったり、まさかの復活なったロングアームだったり、GAUS3の柳葉刀を活用する最終戦闘だったり、蔑されたモノたちの怨念がいい具合に輝く、ナイスリベンジでした。
奇襲戦ではほとんど仕事ができなかった通常兵力も適切に活用され(というか、活用しないと勝てない)、このアニメの『主役ではない人たちの描き方』が好きな自分としては大満足でした。

そんなリベンジャーの中でも、やはり一番目立っていたのはセバスチャンこと茂住さん。
『生き取ってたんかワレ!!』『髪は染めてたんですね』『二週間かそこいらでそのヒゲはなんだ』などなど、色々ツッコみたくなる再登場でしたが、まぁなんだ生きていて良かった……ほんと良かった。
護るべき主君のピンチに颯爽と顕れ、ぶっ壊された愛機と共にリベンジ果たす様子は、エフィドルグ母船が降りてきて以来の重苦しい空気を綺麗にひっくり返す気持ちよさで、スカッと見れましたね。

ゼルおじさんはクロウを自動操縦にしてどうしたんだろうと思ってましたが、最後の最後で超重要な仕事をしてくれました。
レフィルの腹をぶっ刺し、洗脳蟲を脳にぶち込むあまりの手際の良さに『まさかこれは……』と一瞬思ったけども、やっぱゼルおじさんは愛と正義の戦士であった……。
認識迷彩が由希奈に効いていなかったのは、やっぱ伏線だったんだなぁ。
侵入経路を洗い出して対策しておけば、作戦目的は達成できただろうに……まぁそういうコピー人間には可塑性がないから、功名心を焼き付けて作業効率を上げないといけないんだろうけどさ。

色々情報聞き出してくれたおかげで疑問もけっこう氷解しましたが、レフィルも端末でしかないとなると、いよいよエフィドルグ本星が存在しているか怪しくなってきた。
『積極的防衛策』という名前の無差別侵略プログラムだけが稼働していて、もはや中枢の存在しない破壊だけが空転しているというのは、侵略モノSFのオチとしては結構あるしね。
差し迫った危機は回避できたし、次の決戦は200年以上先だし、その謎を掘り下げるかどうかは分からんけども、個人的には気になるところだ。


と言うわけで、きっちりコピー人間どもの中枢無き支配に牙を突き立て、人類の我が家を奪還する決戦でした。
主役のプロポーズという一大イベントを戦闘の前に持ってきて、話の結末まで二話残して戦闘を終えてしまう作りは、凄くクロムクロらしいと思います。
『戦場』の外側にあるものをしっかり描くことで、『戦場』にあるものを際立たせてきたこのアニメらしい、黒部大決戦でした。

そんなわけで異星人の侵略機械との戦いは一応の決着を見ましたが、若人たちの人生という物語はまだまだ続く。
『戦場』と『平和な現代』が隣り合わせだった時間が過ぎた後、彼らが何を見つけ、どう歩いていくのか。
じっくり描く時間があるってのは、本当に良いことです。

プリパラ:第114話『急げ!神アイドルグランプリ!』感想

新世代も台頭してきて新たなる風の気配を感じるデジタルアイドル伝説、しかし今週は宴の始末。
第108話、第111話(さらに言えば一期・二期も)と蓄積されてきたトリコロールの物語的燃料を完全燃焼させ、メンバーのみならずマネージャーまで動員して、弱さや醜さまで引っくるめてキャラを描き切るエピソードとなりました。
トラウマから素直になれないひびきだけを『治療』し『克服』させる展開ではなく、傷も含めて今のひびきを認めた上で、チーム全員で前に進んでいく意思を共有する展開が、本当に素晴らしかった。
ふわりが持っているある種の頑なさや、女神の欠片として自分を押し殺しすぎるファルルの優しさもしっかり問い直され、三人の少女の再出発として最高の仕上がりでした。

『みんなトモダチ』という文言は一種の呪いでもあって、身近な人に裏切られ、その裏切りを何事もなかったかのように勝手に関係を直されてしまったひびきには、とても受け入れられない言葉です。
しかしその言葉を言えなければ、トリコロールは結成されず、神コーデは手に入らず、ふわりの『アイドルの頂点に立ちたい』という願いや、ファルルの『ボーカルドールとして生まれた本懐を達成したい』という望みは叶わない。
傷ついてしまった今の自分と、色々ツンツンしつつも愛おしい仲間たち、そして『王者になりたい』というひびき自身の願いを、どう両立させるのか。
このジレンマを追いかけて、三期におけるトリコロールのお話はあったし、二期が語るべき到達点もそこにあったのでしょう。

これはひびき個人の性格的問題なだけではなく、チームを構成する三人の譲れない個性の問題であり、それを失ってしまえばもはや己ではないような、非常に頑なな資質の問題でもあります。
ふわりが途中まで推し進めるような、ひびき一人が『変わって』『元気になって』『頑張れば』解決する話ではない以上、今回の話はひびき一人の心ではなく、マネージャーのトリコまで含んだ『トリコーロール』に分け入る話にならざるをえない。
そして実際、三人と一匹の個性と立場に踏み込んだ結果、ひびきは『みんなトモダチ』は信じられなくても、自分を思って身を削ってくれる個別の友人たちは信じられるという、自分なりの境涯に辿り着きます。
それを『プリパラ』というより大きなシステムが是認し、『ジュルル=ジュリー』という神が祝福したことも引っくるめて、非常に良いまとめ方をしたなと思いました。


プリパラにおいては性格の悪さは個性の一つ(ドロシー見れば一発で分る)なので、ひびきの素直になれなさやふわりの過剰な正しさ・強さは、自分ひとりではけして改善されません。
しかしそこを譲って己の至らなさを認め、現状を変えていかない限り、チームは結成されないし神コーデは手に入れられないし、『負け犬』の烙印を押されたひびきは本来のノーブルな個性を発揮も出来ない。
譲れないものをどう譲り、変えられないものをどう変えていくかという関係性の闘争こそが、今回のエピソードの中心にあるわけです。

歪んだ個性は他人に無理を強いるし、無条件に認めるべきものでもないという社会的公平性からの視点は、今回ユニコンが巧く担当していました。
大谷育江の声優力を活かしたコミカルな出番でしたが、『ファルルの親』であるユニコンが『お前いいかげんにしろよ』と指弾し、コメディチックな膜で覆われた『ツノる』という暴力を叩きつけることで、視聴者がひびきに感じる苛立ちは代弁され、彼女が対峙するべき問題も明確になる。
ついでに言えば、ユニコンが叩きつける過剰な『正しさ』はふわりが対峙するべき個性であり、事前に『正義の間違った使用法』をユニコンが見せておくことで、後の解決がスムーズになる仕事もしてます。

ニコンが叩きつけてる『正しさ』はたしかに過激ですが、同時にひびきの『弱さ』が生み出す害悪を的確に指摘していて、アイドルに言わせる訳にはいかない正論をギャグキャラに言わせることで、当たりの強さを減らす巧さを感じます。
これを言っておかないと、『なぜひびきは変わらなければいけないのか』『なぜ『正しくある』必要があるのか』という前提がボヤけて、変化の物語の必然性が薄れるしね。
正義の代弁者としての仕事が終わった途端、ガァルマゲドンのステージを挟んで、『ガァルルの親』でもあるユニコンをスムーズに退場させる手腕も含めて、今回はサブキャラクターの使い方が非常に上手かったです。
……出てくると確実に時間を食われ、終わる話も終わらないんでソッコー監禁されたあじみ含めてな!!

今回のお話が当事者以外を締め出した密室で行われるのは、トリコロールが抱え込んだ矛盾と愛情が非常に繊細で、ともすれば『難しすぎる』要素であることを、如実に表しています。
ラスボスとして物語全体を背負い、物語に関係する全てのキャラクターと正面から対峙するしかなかった二期のひびきには、この密室性が必要だったのかなぁと、今になっては思います。
そうやってディープで複雑な関係を共有するには、主人公らぁらは幼さ過ぎるし、彼女が幼さを失う時はプリパラが終わるときなので、どうやっても難しくはあったんでしょうけども。
ラスボスという立場から解き放たれて、二人の女と密室で向かい合うプライバシーが許された三期のひびきだからこそ、こういう決着にたどり着けた感じはありますね。


一人では変えられない己を変えるための方策として、今回は『他人の中の己』を見出し代弁する行為が、多数用いられていました。
他人の中に自分を見つけるためには、『他人を見つめたい』と思える気持ち(それを愛って呼んでも良いと思いますが)が必要だし、そうして見つけた『自分の延長線上にいる他者』を足場にすることで、他人の問題を自分のモノとして受け止めることも出来る。
しかしそれは自分ひとりではなかなか見つけられないものだし、公開するには勇気ときっかけが居るものだし、距離を離した他人のほうが見えることでもある。
なので今回は、自分の真実を他人に言ってもらうシーンが、幾重にも積み重なることになります。

ふわりが彼女の個性である『正しさ』にこだわりながら、ひびきのために己の使命と望みを押し殺し、『無理しなくていいよ』という状況に怒るのも、ふわりがファルルの為を思っての行為です。
そこには確かに、他人の弱さや矛盾には踏み込めず、過剰な『正しさ』を暴力的に振り回してしまう緑風ふわりのエゴイズムがあるんだけども、同時に否定しようのない優しさと共感、歪んだ状況を友達のためにどうにかしなければいけないという『優しさ』がある。
ファルルがひびきを庇う行動も、トラウマに苛まれ行動できない今のひびきを守りたいという『優しさ』から生まれているのだけれども、そのためにファルルの望みが二の次にされてしまうのは、けして『正しい』とは言えないし、三人にとってベストの選択肢でもない。
もちろん、己の『強さ』に過剰にこだわり、そこから出る方法を模索しつつも見つけられないひびきも、『正しい』状況にあるとはいえません。
ひびきなりの不器用な『優しさ』で、自分が憧れ自分を救ってくれた友に報いようというあがいているとしても、です。

それぞれが特性として抱え込んだ『正しさ』『優しさ』『強さ』のトリコロールは、そのままではけして混じり合うこと無く、状況が変わることはありません。
関係性の中に潜むこのような矛盾をえぐり出すためには、ふわりの過剰な『正しさ』が必要なのであり、同時にその過剰さと暴力性に彼女が気づかないのも、また『正しく』はない状況です。
『正しさ』の体現者であるふわりはひびきの弱さと努力には歩み寄れないので、第五の代弁者であるトリコがここで全面に出て、ひびきの弱さを本人の代わりにふわりに伝える。
自分の『弱さ』を仲間に見せるほど『強い』存在ではないひびきの『優しさ』『正しくあろうとする意思』を、生まれたときから『弱い』トリコが代弁することで、ひびきの中にある『正しさ(ふわりの属性)』や『優しさ(ファルルの属性)』が共有され、矛盾が止揚され状況が変化していくわけです。

揺るがない『強さ』を己自身と定めているひびきにとって、トラウマを克服しようと努力し失敗する『弱さ』や『優しさ』は、口にしてしまえば己が崩れるような認めたくない個性なのですが、それこそがふわりやファルルがひびきの中に『他人の中の己』を認め、己を崩して歩み寄るための足場になります。
トリコロールの当事者三人ではけして手に入らなかっただろう解決へ、『弱さ』の体現者であるトリコが触媒となることで導いていく今回の展開は、マネージャーという仕事の価値を高める意味も含めて、非常に良かったです。
ガァルマゲドンにおけるネコ姉さんもそうなんだが、三期はマネジに良い仕事させるなぁ……安藤も一応マネジ枠か、そういや。

トリコがひびきの『弱さ』を代弁してくれたおかげで、ふわりは過剰な『正しさ』でひびきを追い詰めていた己の歪みに気付くし、『他人の痛みをなくしたい』という己の中の『優しさ』(そういえば、プリパラナースの一人でしたねふわり)に立ち返ることも出来ます。
ファルルもふわりの『優しさ』に気づいていればこそ、「私のために言ってくれたんだよね」という言葉をかけて、ふわりの『正しさ』が暴力的なだけではなく、必要なものでもあると認める。
そんな二人とマネージャーの姿を見つめることで、ひびきは『強さ』だけではなく『弱さ』もひっくるめた今の自分を素直に認め、自分なりの形で『トモダチ』の言葉を口にすることが出来るわけです。
そうしてチームが結成された結果、『頂点に立ちたい』という『強さ』は適切に出口を見つけ、"Mon chouchou"のステージ、神コーデの入手、神GPへの参戦というキャリアメイクにつながっていく。
今回のお話は、トリコロールが混じり合えない原因たるそれぞれの個性を、メンバーそれぞれが実は己の中にしっかり育てていて、そういう共通点があればこそ三人は出会い、『トモダチ』になれたのだと確認するための、デコボコした道だったと思います。


今回のお話がすごいのは、密室で個人的な問題を解決しただけで終わりにせず、チーム結成の儀式やステージという公共性にアクセスするところまで、一つのエピソードに収めたところです。
『他人の中の己』を見つけることでより『己』らしくなれた子供たちは、それを適切な場所、適切な形で発露することでより望ましい状況にたどり着けると考えていればこそ、プリパラは『みんなトモダチ、みんなアイドル』というコピーに『みんな』の文字を入れているのでしょう。
だからチーム結成の場にはらぁらやジュルル、メガ兄やユニコンが立ち会うし、トリコロールのステージを待ちわびていた大衆によって、その新生はあっという間に拡散される。
あそこに大神田校長がいたのは、母親代わりにふわりを世話してた過去が報われる一瞬で、ありがたい演出でした。

ひびきがたどり着いた『みんながトモダチだとは思えないけど、目の前で自分のために『優しく』『正しく』なってくれたふわりとファルルのことは、トモダチだと思える』という宣言を、システムが受け入れたこと。
これはひびきが勝者としてのアイデンティティを取り戻し、健全に自己実現する上で絶対に必要な行為ですが、同時にプリパラ全体、そしてそれを体現するらぁらとジュルルにとっても、豊かで良いことだったと思います。
トリコロールの物語を追いかける内に、『みんな』という言葉の持つ過剰な『正しさ』と暴力性も照射されていった感じがあるわけですが、『みんな』から弾き出されてしまったひびきが自分なりの『トモダチ』を見つけることで、いい具合に過剰さを削ることが出来たかなと。

ひびきの限定的に過ぎる『トモダチ』は、しかし彼女自身が『まだ』と言っていたように、いつか『みんな』になる可能性を秘めた定義です。
『みんな』には色んな存在があって、らぁらのように陰り無く『みんな』を受け入れられる存在もいれば、ひびきのように己を傷つける『みんな』は受け入れられない人もいる。
そういうひびきでも、己を思ってくれる人たちの気持ちを肌で感じて、自分なりの『トモダチ』をスタートさせることが出来るということ、そんな不器用なゼロから一への変化をシステムが認めたことで、プリパラ自体からも過剰さが取り払われた印象を受けました。

第111話で楽しくお世話してくれたひびきを、あえてあのタイミングでは祝福せず、トリコロール三人の問題が解決した今回神コーデを与えたのは、ジュルルの成長描写としても面白かったです。
神コーデを与えなかったジュルルの判断が、赤ん坊らしい気まぐれなのか、はたまたプリパラの神に必要な『正しさ』が発露しているからには、赤ん坊語しか喋んないジュルルを見ていても、なかなか判別つかないところです。
しかし両手を叩いて喜ぶジュルルのアップを見て、祝福を受けたひびきが例外的に呟いた『お疲れ様』の言葉を聞くと、『まほちゃんは楽しく自分をお世話してくれたけど、ここで神コーデを与えても幸せになれない。それを追いかけることで、周りの人ももっと幸せになれる』という判断をしてコーデを与えなかったのかもと、思ってしまいます。
ここら辺の描写は、トリコロール復帰戦になる次回、もうちょっとヒントが出るかもしれませんね。

ひびきが己の弱さを認め、チームがはらんだ矛盾を止揚し、持ち前の不敵さと才能を取り戻したことは、勝負事としてのプリパラにもいい影響を与えていると思います。
プリパラが『みんなトモダチ』の物語である以上、勝負に必要なある種の敵意というのは必然的に薄れていって、馴れ合いとも言える友情がキャラの間には漂い始めます。
この気だるい霧を、勝ちを求める『強さ』とそれを支える『才能』を併せ持ったトリコロールが加わることで、いい具合にふっ飛ばしてくれているかなと、闘志をたぎらせるのんチリや次回予告を見ていて思いました。

なにしろまほちゃんはそうそう簡単に『トモダチ』にはなれない、面倒くさい女の子なわけで、彼女が挑発的な言動を繰り返し、それを支えるだけの実力を見せてくれることで、『友達を作る場』であり『楽しむ場』であると同時に、『競い合う場』でもあるプリパラは、より自分らしい姿を取り戻せるのではないか。
スーパーアイドル・真中らぁらを強く追い求める若獅子二人を、三期の主役級に配置したのも、闘争の場に相応しい空気を取り戻すための仕掛けなのではないか。
"Mon chouchou"に挑むトライアングルの気迫と、それが生み出した熱狂を見ていると、製作者側のそういう気概を勝手に感じ取り、こちらも楽しくなってきます。
あれだけ闘志剥き出しの『強い』曲なのに、タイトルは『アタシのベイビーちゃん』くらいの甘すぎる意味なの、面白いなぁ……。


というわけで、長い迷い路を歩いてたどり着いた、最高のトリコロール結成式でした。
一番厄介なひびきだけではなく、ふわりやファルル、トリコやユニコンといった当事者全員の個性や問題点を洗い出し、そこからどうすれば前に進めるのかしっかり考えながら感情をやり取りしていくエピソードで、非常に素晴らしかった。
各キャラクターが自分らしさにこだわる頑なさの、良い面と悪い面両方きっちり掘ったの、すげー良かったなぁ。

『強さ』『正しさ』『優しさ』が長所としてだけではなく、問題をせき止める短所としても機能していること。
それを認めた上で、お互いの個性が実は己の中にも存在していて、そういう共通点があればこそ『トモダチ』になりえたのだと再確認すること。
自分たちなりのやり方で己を作り直し、より広い場所に繋がっていくこと。
明晰さとキャラクターへの思い入れを存分に発揮して、幅広いものを描ききるという、プリパラらしさが最大限発揮されたエピソードでした。

これを受けての神GPですが、さてはてどうなるのでしょうか。
話の勢いとしてはトリコロールが取る展開なんだけども、まほちゃん復活効果でいい具合にギラギラしてきて、ブック破りもありそうと思える。
こういう油断の出来なさが戻ってきてくれたことも含めて、プリパラ三年目、今まさに熱いアニメです。

甘々と稲妻:第12話『あいじょーたっぷりお好み焼き』感想

毎回テーマと構成が明瞭なので、EDテーマに入るたびに『ああ、いい最終回だった』と思いながら見終わっていたこのアニメも。ついに本当の最終回。
特にハードコアなイベントが起きるわけではなく、かと言ってなにも起きないわけではなく、いつもの通り犬塚親子が頑張って親子して、みんなで飯食って、その『みんな』に小鳥ママが加わって終わる話でした。
気負うこと無くいつもの"甘々と稲妻"をやりきり、これまで語ってきた食事と生活と親子に別の角度から切り込む、とても良い話でした。
最初から最後まで、己が何を作っているのか自覚的であり続けたのは、このアニメ最大の強みだったと思います。

妻の一周忌から始まる今回の話は、望むと望むまいと時間は流れてしまい、人間性は何もしなければ傷んでいくこのアニメに、相応しい最終回だったと思います。
悲しいことや上手く行かないことも沢山あって、それをお互いにケアしていく一つの手段、お互いが繋がる媒介として食事を描いてきたこのアニメにとって、人生は思いの外起伏があるものです。
つむぎがお好み焼き屋でワンワン泣くのも、その後ギクシャクした空気が流れるのも、お料理したからといってすぐさまギクシャクが直るわけではないのも、非常にこのアニメらしい。

人生の波風として描かれているお好み屋さんでの出来事ですが、そのきっかけが『お好み焼きを自分で作りたい』というつむぎの欲望だったのは、僕にはとても面白かったです。
第1話で孤独にコンビニ弁当を食べていたとき、つむぎは『調理』という行動が自分の力の及ぶ範囲にあり、それに関わることで笑顔や暖かさを与え、受け取ることが出来る行為だとは認識していなかったはずです。
12話に渡る物語を蓄積したことで、つむぎは自分が『料理ができる』存在であり、(たとえそれが、大人たちが優しく調整してくれた出来合いの見せ場だったとしても)自我が芽生え始めた己を世界に対して問う、自己証明の一つだと認識している。

だから『お好み焼きを自分で作る』ことに拘りすぎてへそを曲げて、ああいう顛末になってしまったわけですが、それは必ずしも悲しいことばかりではないわけです。
無論無条件に良いことでもないのでおとさんは『叱り』ますが、つむぎがママに抱きかかえられる赤ん坊であることをやめて(もしくはやめざるを得なくなって)、自分の力を世界に誇りながら一人で立とうとする力強さの価値は、例えば第9話ラストシーンなどでこれまでも描写されていたところです。
そういう尊いものも、少し方向を間違えれば衝突を起こすし、衝突を起こしたあとも小さな真心を積み上げて取り返すことが出来る。
作品内で幾度も繰り返されたという意味でも、世界中あらゆる親子が今まさに繰り返しているという意味でも、今回の衝突と和解、その背景にある自尊と愛情のドラマというのは、凄く普遍的なことなのでしょう。


同時にそれは個別の表情を持っていて、今回で言えば『叱る』ことと『怒る』ことの違いと、つむぎがおとさんの真意を学ぶまでの道のりが、これまではあまり掘り下げられなかったポイントです。
血を分けた親と子であり、これまでたっぷり見てきたように、『母/妻』を喪った同士としてお互い支え合っている関係であっても、分かり合えていないことは沢山ある。
つむぎはしっかり向かい合って言葉にされるまで、『叱る/怒る』の際や、大人が案外『怒る』行為が好きじゃないこと、それでも『叱ら』ないといけない瞬間があることを、理解できていなかったと思います。

そういう白紙の状態を、例えばお好み焼きを一緒に作ったり、自家用車の中でぎこちなく会話をしてみたり、マゼマゼの電波歌をがなってもらったり、真っ直ぐ気持ちを言葉で伝えたり、色んな手段で変化させ成長していくこと。
母の死であったり、特に理由もなくギクシャクする人間関係であったり、己が行為主体として世界に有益な影響を及ぼしうる事実だったり、これまで描かれた様々な発見と同じように、今回つむぎは『叱る/怒る』の違いと、その行為に込められた大人たちの思いを理解した。
一個ずつの料理、一個ずつの成長はそれぞれ個別でありながら、人間が生き、食事を取るという普遍的な場所に繋がっていて、それを共有する『場』としてあの調理場が機能していることを、今回のお話もしっかり教えてくれました。
この個別性と普遍性のバランスの良さは、お話一個一個が独立して存在していることと、キャラクターと舞台を共有するシリーズであること、物語の形式と響き合って、このお話を豊かにしていたのだなぁと、お話が幕を閉じるこのタイミングで思い知ったりしました。

この作品が豊かなのは、成長をつむぎの特権にはせず、小鳥ちゃんやしのぶという『子供でもないが、大人でもない世代』、おとさんやヤギちゃんという『もうおとなになった世代』にも可能な、普遍的な行為として描いていることだと思います。
おとさんは(まぁ毎回そうだし、そのことが僕に彼を尊敬させるんですが)娘であり被保護対象であるつむぎのプライドを基本的に尊重し、対等の存在として同じ目線で話をする。
己の未熟を思い知ればそれを謝罪し、二度目の失敗はないよう心がけ、成長期の子供のように変化を積み上げていく。
犬塚親子との『お料理会』でじっくりと己のトラウマを癒やし、自己の存在意義を確かめていた小鳥にとっても成長は開かれたものであるし、小鳥がおとさんに与えた発見だって、今回もこれまでのお話にもたっぷりと埋め込まれています。


弱く未成熟な存在を見守りつつ、その行為それ自体に教えられ、成熟し強いはずのモノたちも変化していく。
そういう双方向に開かれた平らな場所として『食卓』を描いてきたこのお話が、小鳥ママという新しい可能性を受け入れて一旦幕を閉じるのは、なかなか象徴的で豊かなことだなと思いました。
無理した制服姿を恥じること無く見せつけてしまうママだからこそ、『料理には栄養や味だけではなくて、愛情も詰まっているのよ』というこっ恥ずかしい、しかし大切な真実を真っ直ぐ言葉にして、ことり(と周囲に居る人々)に伝えることも出来る。
ママンが『みんなと一緒のお料理会』で何を受け取るかは今回あまり描かれなかったけども、彼女もまた一方的な関係ではなく、与え与えられ、作り食べる場所を豊かに受け取っていくのだろうなと確信できる終わり方だったのは、凄く良かったです。

『つまんね……怒られるのつまんね!』状態だったつむぎが、自家用車の中で『小鳥ママも来るよ!』という言葉で興味を取り戻すのは、幼児っぽい好奇心旺盛さと、彼女の中で『母の喪失』がどれだけ大きいかを再確認するシーンでもありました。
『女の子の話』が出来ないおとさんとの暮らしは凄く楽しく麗しいものなんだけども、どうしても取りこぼしてしまうものがあって、つむぎは小鳥ママにその補填を強く望んでいたから、不機嫌をちょっと引っ込めて食いついたのかなぁ、とか思った。
その喪失を埋めることは絶対に出来ないわけだけど、小鳥ちゃんと出会ってから積み上げてきた食事の物語がそうであったように、それぞれがそれぞれの自分らしさを発揮し、共有していくことで、別の形で再構築することは出来る。
そういうことをこれまでのお話で学んだからこそ、つむぎは小鳥ママと新しく出会うことに期待をかけて、でも実際出会うと気恥ずかしくて、よそ行きの声を作ってご挨拶したのかなぁと、微笑ましく見ていました。
つむぎがおとさんに隠れつつなんとか差し出した真心をしっかり受けて、優しく返してくれる小鳥ママのありがたみ、マジ新井里美最高だなって感じだったね。

無論ヤギちゃんやしのぶといった『いつもの面々』も元気で優しくて、ありがたい存在でした。
おとさんのやや生硬で誠実な対応に比べ、ヤギちゃんのつむぎへの当たり方はちょっとぶっきらぼうなんだけども、その遠慮の無さが逆に心地よかったというか、なんというか。
色んな接し方があって、色んな『叱り』方があって良いんだなと実感できる仕事をヤギちゃんがやってくれたのは、多様性を大事にしてきたこのお話を〆るに当たって、大事なとこかなと思いました。


キャラとは離れた部分の話をすると、学校での犬塚先生と小鳥ちゃんの距離の描写が、最後までブレなかったのは面白かったです。
もともとレイアウトによる心理的関係の描写が判りやすいアニメではあるんですが、壁と窓を挟んで明確な一線を引いている『生徒と教師』は、食事を通じて親しくなりつつも、ある特定の線を超えないまま最終回まで来ました。
それを恋と呼ぶのか友情と呼ぶのかはさておき、あくまで『他人』から始まった二人の関係は『他人』『生徒と教師』という線を維持したまま進み、だからと言ってけして無価値ではありえない、『自分に踏み込んでくる他人』だからこそ生まれる慈しみを共有してきました。

学校を舞台にした時二人の間に割り込んでくる硝子とコンクリートは一見冷たいようでいて、それを乗り越えて声をかけることが可能な、完全な拒絶ではありません。
あえて恋愛関係の描写を切り落とし、犬塚親子の関係と変化に重点して作られたアニメ版において、背中越しに語り合うあのレイアウトは、巧く二人の間合いを象徴し、この作品が何を切り取っているのか、言外に伝えていたと思います。
最終話だからといって大きく関係が変化するわけではない終わり方を受けて、二人は最後まで背中合わせに、距離を保って話していました。
でもそこでかわされた言葉があったからこそ、おとさんはお好み焼きをもう一回焼くことにして、つむぎもおとさんも大事なものを再確認し、みんなで美味しいご飯を食べることも出来る。
そういう冷静で温かい目線を『生徒と教師』に向け、映像として表現し、演出として描き続けたのは、凄く良いなと思うわけです。

学校では背中合わせの二人は、『お料理会』では厨房に隣り合い、お互い支え合う関係でもあります。
コミュニケーションの適切な角度というものは、人と人だけではなく、公的空間と私的空間、お好み焼き屋と『お料理会』、学校と私宅という『場所』にも変わること、それによって創出され共有される様々な言葉や思いには、それぞれ個別の昨日と尊さがあるということ。
それを、学校での壁越しの距離感と、厨房での隣り合った間合い、そこでかわされる会話の変化は、巧く切り取っていました。
テーマ性をしっかり見据えているだけではなく、それを視聴者に伝えるためにはどういう演出の武器を使えば良いのか、製作者サイドが把握してんのが強いよね、このアニメ。


というわけで、"甘々と稲妻"のアニメはひどく穏やかに、いつもどおりに終わりました。
色んな波風があって、それを受け止め対応する方法も沢山あって、失敗したり成功したりしながら、いつものみんなと笑いあったり、新しい誰かと出会ったりしながら進んでいく人生。
それぞれの生き方が共有される場として、人々の気持ちを繋げ楽しく共有する触媒としての食事。
これまで大切に描いてきた作品の核からブレること無く、しかし個別の顔を持ったエピソードとしてしっかり仕上げた、いい最終回でした。

魅力的で応援したくなるキャラクターたち。
シンプルで強い主題と、それを掘り下げる様々なエピソードの多様性。
明瞭さと味わい深さが同居した、色使いとレイアウトによる的確な演出。
相当作画カロリーかかっているのに妥協しないことで、作品を視聴者に近づけることに多大な貢献をした食事シーン。
良い所が山盛りある、ハンサムで素敵なアニメでした。

いろんな魅力の中でも、つむぎを『良い子』の枠に押し込めず、適度にエゴを暴走させる『悪い子』としても描いてくれたこと、小さな彼女のプライドを確かに尊重しながら描いてくれたことは、凄く嬉しかったです。
子供にだって、守られ育まれる側にだって、弱い生き物にだって、それぞれ個別の願いや思い、痛みや誇りがあるし、それを無いものとして物語の役割を押し付けるのではなく、個別の複雑さの中に分け入って描くこと。
相当に難しい行為だと思いますが、根本的に他人を思いやれる優しさを見失わず、物語がレールを外れて大暴走することもなく、巧くつむぎを『子供』として描いていました。
凄いことだし、ありがたいことでした。

暖かで前向きな空気を基調としつつ、生病老死の宿命から目を背けず、しかしそれと共存できる人間の可能性を強く信じながらお話を進めてくれたのも、とても良かった。
キツイ現実を忘れる麻痺剤としてフィクションを使うなら、影の部分を描く必要はないかもしれないけど、このお話はそっちの方向には行かず、影も苦味も含めて飲み込み血肉に変えていける、人間の可塑性を信じて進んでいました。
その陰りが差く品独特の陰影を生み出していたし、影を見つめつつも飲み込まれない、強靭な楽観主義が作品を支配した結果、強く前向きなメッセージがしっかり届くお話にもなっていたと思います。

甘々と稲妻、本当にいいアニメでした。
見ていて気持ちのよい気分になれる、影を含みつつ人間を信じる、強いアニメでした。
初めて見たときから好きになれて、見るたびにどんどん好きになっていけるアニメでした。
とっても楽しかったです、ありがとうございました。

orange:第12話感想

俺達が戦うのは運命とか時空の矯正力とかそういうんじゃなくて青春の自意識、色々タネ明かしなラスト一個前。
翔のクローゼットを開放して死にたくなる事情を公開し、菜穂との間に広がる冷戦状態を描写し、なんで『手紙』が届いたかというロジックを付けて、最終決戦に挑む状況を整える話でした。
あらゆる場所に出口がない、混乱して閉塞した状況を描きつつも、菜穂が自力で痛みやためらいを乗り越え一歩進もうとした所で終わったのは、一筋の希望っぽくてよかった。
バミューダ・トライアングルに関しては、まぁなんだ、そういうこともあるだろう。
実際時空転移のロジックにこだわる話ではないので、あれくらいふわっと奇跡が起きるのは俺的には全然アリです。

つーわけで、まずは翔の死にたい力が高まって実際に死ぬまでのルートを、翔の一人称でじっくり追いかけるところから始まりました。
これまでも辛そうさ満開だった翔ですが、翔にしか知り得ない内面や秘密をたっぷり詰め込んで進行する今回は、より緻密でディープに事情がわかってくる話でした。
翔の目を借りないと、自死を望む最大の要因『母親』の詳細がわかんないところに、『家族』にまつわる障壁の高さが感じられた。

こうして一人称で語られてみると、翔の混乱した心情がよく見えます。
助けて欲しいけど罰して欲しくて、優しくしたいけど怒ってしまって、繋がりたいけど拒絶したくて、生きたいけど死にたい。
人間が生きるということはロジックで解決できない矛盾と向き合うことなんでしょうが、翔は『母の死』という最大級の理不尽をいきなり叩きつけられてしまって、矛盾を解決する足場を完全に失ってしまっています。
結果自分の感情を制御できず、望んでいるけど望んでいない行動を実行して、罪悪感と無力感に苛まれて鬱が悪化し、更にコントロールを失っていくという……。

母に勝手に行動され勝手に死なれて相当傷ついたのに、痛みに振り回されるあまり自分が見えなくなって、母と同じ行動を取ってしまう。
この矛盾に一切気付け無いあたり、翔の余裕の無さは相当なものです。
言葉をうまく扱えず、自分の中に溜め込む性質は親譲りだな……DV気質まで受け継いでたらどうしよう……。

翔はなまじっか『良い子』なので、人に嫌われることに耐えられないから自分を預けられず、混乱し傷ついている自分をさらけ出すことも出来ない。
自分で解決しきれない問題を、自分で抱え込み続けてしまうことが彼の問題が悪化する原因の一つなんですが、まぁナイーブな高校生男子にそういう勇気を持て! というのも、なかなか難しかろう。
みんながみんな須和くんみたいな強さと優しさと行動力を持っているなら、この世は理性が支配するユートピアなわけだけど、そういうわけじゃないからね。
そういう翔の限界と現状をしっかり飲み込ませて、理想はどうあれ今の翔には打てる手筋が無いのだと視聴者に理解させるのが、今回のAパートだったのかなぁと思います。

今回死に至るまでの流れを翔目線でやったことで、翔が陥っている袋小路は凄く明確になったと思います。
矛盾に苛まれつつ、矛盾自体を一切自覚できておらず、矛盾から抜け出るなり開き直るなりの解決法が、自分から一切出てこない状況。
自力で解決できないなら他人に頼るしかないんですが、お祖母さんから提示された療養も断ってるし、菜穂を拒絶するために笑顔の仮面を思いっきり被るし、ホント難易度高いな翔生存ルート……。

矛盾に振り回されまくっている翔の、自分ではどうしようもない内面で顔面をボゴボゴにされた菜穂は、ナイーブな高校生女子らしく色々悩みます。
好きな娘に連れなくされれば当然辛いし、距離を開けたくもなるし、無力な自分にも涙を流す。
今回は最終回を前に、主人公とヒロインが現在どういう状況にいて、どういう心境で日々を過ごしているのか、時間線を飛び越えながら確認していく回だったんでしょうね。
こういう部分のどっしりとした語り口、繊細な表現力がお話を支えている作品なんで、モノローグを多用して丁寧にやるのは、大事だし必要だと思う。

翔の混乱と同じように丁寧に描かれたのは、これまで通り『等身大の女子高生』な菜穂の無力さであり、それを受け入れて先に進もうとする決意でした。
翔と同じように混乱し、狭い世界に視界を塞がれつつも、生産的で開放的な方向に舵を切れているのは、『死』という決定的な傷を菜穂が背負っていないからだとは思います。
あんな死に方されたら、そらー翔も袋小路に入るしか無い。

しかし恵まれた場所にいることは特権であっても越権ではなく、『死』を身近に知らない者の身勝手こそが、『死』に喉まで使ってしまったものを引っ張り上げる足場になることだってある。
というか、他人を救うために手を伸ばす行為それ自体が身勝手なものであり、翔を取り巻く袋小路をぶち破るためには、何度でも無神経に踏み込むしか無いわけです。
それが『ヴァレンタインデーにチョコを上げる約束をする』という、青春真っ盛りイベントの形で表明されるのは、充実した青春という表層と、その奥でうごめく『死』の間に広がる乖離(そして交流)を描いてきたこのアニメらしくて、ちょっとホッとした。

分かり合えない痛み、情けない自分への苦さを飲み込んで、足を止めずに前に進もうとする菜穂は、『死』と『家族』から一歩踏み出した、生きることにした翔の予言図でもあります。
少しの勇気を出して自分の混乱を見つめ、矛盾を確認し、痛みを制御して他人と向き合うことができれば、翔の袋小路には出口が生まれる。
言葉で言うのは簡単ですが、それが簡単には出来ないからこそ、ここまで話数を使っているわけですが。

しかし他人に支えられなければ前に進めない心は、同時に自分だけが自由に扱える厄介な荷物でもあります。
菜穂が決意を込めて一歩踏み込んだような、静かな強さを翔が取り戻す以外に、『死』に囚われた袋小路を抜け出す方法はない。
そのための手助けは親友たちがやってくれるから、自分を許してあげて欲しいと端から見てると思うけども、まぁなかなか難しいよな……。


そんな面倒くさい状況を確認しつつ、小さな希望に決意を込めて先に進む回でした。
いやー、こうして丁寧に確認してみると、翔本当にドン詰まりだな!
矛盾にがんじがらめにされてどこにもいけない少年を、青春ど真ん中の高校生たちは救い上げることは出来るのか。

そのために話数を積み青春を共有してきたこの物語ですが、次回の一時間スペシャルでその結末がでます。
須和くん筆頭にみんな精一杯やってきたので、それが報われる最終回になって欲しいものだと、切に思います。
泣いても笑っても次で最後、青春の成れの果てがどこに行き着くのか、少し怖くてとても楽しみです。