イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

サブカルチャー文学論

オタク喧嘩大将大塚英志の、江藤敦をメインに据えた文学評論。分厚い大著であり貫禄も十分。噛み応え十分に食った食ったという感じ。しかしまぁあれだ。書き始めた当初は江藤も生きていたが、虚構化された「私の私」に堪えかねて首を吊るわで腰を折られる中エーちゃんもよく書いたというのが感想の一つ。まぁエーちゃんは好きなので色々補正がかかるが、まじめによくやっているというのが感想の二つ。しかしこの本はどこに向けて書かれどこに置かれるべきなのかというのが感想の三つ。文学? 死人は墓に生めて古典を読もうというのが感想の四つ。
問題なのは、大塚英志がこれだけの枚数を傾けて書いた文学評論が今やどこで消費されるか、という話であり、文学(最初は小説と書いて訂正して気付いたが、やっぱり僕は「文学」が嫌いらしい)が文学として特権的に「隔離」出来る世界なんぞどこにももうないわけで、いみじくも此処の本の中で語られる「幻冬社的いやらしさ」以外の「文学」がどこにあるのか、という問いの答えはそら最近の直木賞受賞作を見れば一目瞭然である。んなもんはない。「文学」を抱きしめて溺死する(そしてこの本を嘲笑するだろう)人しかこの本を読まないかもしれない、という思考は僕を哀しくするけど、もしかしたらそうなのかもしれない。この本を読むべきなのは「文学」にジグジグした憎悪を抱いてリンボで呻く亡者や、「文学」をせせら笑いながら遠く離れた「文学」からの援用の援用でしかない現在のサブカルチャー物語消費物(一つ例を挙げるなら「KANON」の真琴のエピソードは「アルジャーノンに花束を」のパクリであり、それすらもまた数々の「白痴の恋人」にまつわる古典文学の援用でしかない)を無邪気にかっ喰らう「僕たち」なのだろう。読もう。分厚いけどね。