イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイカツ!:第172話『春のドリアカーニバル!』感想

来るべき運命の日に向けて集約を続けるアイカツ!ワールド、今週は二年目に咲いた徒花、おそらくは最後の開花。
ノスタルジー溢れるドリアカ思い出話……はわりかし控えめで、SLQCに備えてルミナスをワッショイしたり、途中から出番を見失ってしまったらいち&ノエルの物語にケリをつけたりと、未来の方向を向いた話だったと思います。
勿論旧来のファンへのクスグリも多めで、スポットライトに入らなくても頑張り続けてきた彼女たちが、これからも前に進み続けるのだと思えるエピソードでした。

何しろドリアカ四人衆に加えてらいち&ノエルに一つの決着を与えないといけないので、色んなモノが盛り込める、賑やかな舞台を用意しなければいけません。
そういう時は実際に祭りにしちゃうのがアイカツ!イズムであり、学園祭という舞台を用意して、ワイワイと忙しい状況を楽しみつつ、どんどん色んなキャラが出てくるセッティングにしたのは、スムーズで良かったです。
今回の話、とにかくやること多くて個別の尺がないので、手際良く回さんとね。

ドリアカが画面を専有していた時代も(女児基準では)はるか昔であり、もはやドリアカを知らない視聴者もいるわけで、色んな説明も挟まないといけない。
色々と制約がある中で、不器用にライバルを演じてきた少女たちをちゃんと写し、色々あった末の『現在』を切り取ってくれたのは、なかなか良かったです。
アイカツ世界は希望に満ちている(時々満ちすぎている)ので、『現在』さえ充実していれば多分、『未来』も輝いていると思えるのは良いことだ。

ドリアかという場所が持っている魅力や、そこで頑張る女の子たちはやっぱり魅力的で、彼女たちを『ライバル』として輝かせていたらどれだけ面白かったんだろうかというのは、無益と知りつつ夢想してしまう事象です。
アイカツ世界の悪意や敵意が存在できない健全さは、巧く『ライバル』という存在を描かせてくれない枷になって、ドリアカが秘めていた物語を抑えこんでしまったのだと、僕は今でも思っています。
その(あえて言いますが)『失敗』を踏まえた上で、あかりジェネレーションは『ライバル』ではなく『凡人』の物語、最初から欠けているからこそ補填しようとする成長の物語、そのためにどうしても他者との出会いが必要になる(その中心にあかりちゃんがいる)物語を敷いたのだとも。

今回のエピソードで、ドリアカの物語は発展したわけでも後退したわけでもなく、二期で描写された彼女たちの輝きをコンパクトに切り取りつつ、今もまだ輝き続けている『現在』にフォーカスしていました。
そらちゃんは変わらず髪の毛触る系プレデターレズで、マリアは天然で包容力があって、きいPはやっぱ可愛くて、セイラは前向きにロックだった。
『自分たちにとってドリアカがどういう場所なのか』という、キャラの足場になる物語が出てくるのが二年目開始から約10ヶ月立った第95話であることを見ても、ドリアカのアイドルたちは色々あって巧く物語を泳ぐことが出来なかったと、言っても良いと思います。
キャラクター個人の魅力は引き出せても、その『先』にある成長にまで走りきれなかった彼女たちの物語は、三年目以降ほぼ語られなかった。
そんな中で、限られた尺の中で精一杯輝く彼女たちの『現在』を描いたのは、想定しうるベストではあったと思います。
そう描かざるを得なかったという諦念と、それでも滲んでくる魅力が相まって、苦いような甘いような、ビタースイートな味わいを身勝手に感じたりしました。


そんな中、あえてドリアカに割く尺を奪ってでも描写されたのは、未だ語られざる物語でした。
らいちとノエルは主人公コンビの弟妹として、色々触っていくモーションを見せつつも掘り下げられなかった『置いて行かれた』キャラクターであり、このタイミングでかつての『現在』の先にある『未来』を描かないと、もはや描くチャンスのこないキャラクターだと思います。
少し瀬名さんとあかりちゃんを思わせる、アイドルブロガーとアイドルの卵の二人三脚を今回見せたのは、例えば第88話『マイ ディア アイドル!』などで見えそうだったらいちの未来を送らばせながら回収する、アイカツらしい卒のなさではないでしょうか。

結局ほぼ語られることのなかった、二年目以降のドリアカの未来。
それを象徴するのが未だステージを知らない、可能性の塊としてのノエルであり、彼女がらいちを支えにしてアイドルとして前進する物語を予感させることで、彼女の物語は一旦落ち着きます。
それは多分、色々あったドリアカの物語において、可能なかぎりの『未来』の姿なのでしょう。

悪意を排除した優しい世界律の影で、物語ることが可能な物語が残酷に選別され、ステージの隅に追いやられるアイドルは、確実に生まれています。
第146話で提示された『スポットライト理論』はやはりお為ごかしの綺麗事で、でもそれを作中で明言してくれたからこそ、お商売の都合以上の可能性、アイドルたちが自分の物語を、僕達の見ていないところで完走するかもしれないという希望を信じることも出来る、極めて面倒で複雑な呪いだと思います。
しかし何よりも、僕達は信じたいわけです。
僕達に青春のキラキラをしっかり見せて、とても朗らかで温かい気持ちにしてくれた女の子たちが、これからも幸せなアイドル活動を続けていくと。
そういう意味でやっぱり、『この世界の中で行きているすべてのアイドルは、キミたちが見ていなくとも、精一杯自分の物語を走りきっている』と言い切った『スポットライト理論』は、アイカツを取り巻く残酷な部分をあるいは麻痺させ、あるいは救済する、大事な言葉だったのでしょう。
そして、今回見せられたドリアカという場所の輝き、アイドルたちの精一杯の『現在』と、ノエルが代表する『未来』は、一抹の寂しさを孕みつつも、彼女たちの物語が幸せに続き終わり、また始まると予感させるのに十分だったと、僕は思うのです。


三年目以降の主役として、無慈悲にドリアカをステージから蹴り落として物語を積み上げてきたルミナスの三人は、『SLQCに向けて説得力を積み上げる』という四年目の演出プランに忠実に、今回もその成長を描写されます。
あかりちゃんにはセイラときいが、スミレちゃんにはそらが(『あーあ、出会っちまったな……』って感じの邂逅でしたね)、ひなきにはマリアがそれぞれ付いて、彼女たちそれぞれの強さを言語化し、強化する。
長蛇の列を解消する案を積極的に出すひなきの姿は特に、第105話『はじけるヒラメキ☆』で提示された根本的な問題を回収しており、感慨深いシーンでした。

自分たちの物語を折りたたむと同時に、終わりに向けて助走を続けるルミナスの背中を押すドリアカの姿は、アイカツらしい手際の良さを確認させ、同時に自分たちの物語に耽溺することを許されない彼女たちの立場を示しているようでもあって、正直複雑でした。
このカッチリした物語運びがあってこそ、四年目までアイカツは走ることが出来たのであり、それが物語の終盤(だと明言していいでしょう、流石に)でも崩れないのは、とても良いことだと思います。
400時間出番のなかった『置いて行かれた』キャラクターにこのように個別回を用意し、しっかり終わらせる情の深さを、ありがたくも思う。
しかし僕は、如何に思い悩んだところで前向きな方向に行き着かない迷いだとしても、最後まで物語の進行に従順に自分たちの物語を進行させ、どこか不器用な気配を残しつつも魅力的なドリアカの姿に、寂しさを感じてしまう。
それを感じることが出来るのも、今回こういうエピソードがしっかり立ち上がり、懐かしさと愛おしさがこみ上げてくる仕上がりになっているからだという事実は、どうにも悩ましいところですが。

結論の出ない寂しさと戯れていても、製作者たちも、多分彼女たちも喜びはしないでしょう。
"シンデレラだから パーティーの終わり(残念です) 今日の自分にもさよなら 明日はまた先へ"という歌詞をEDに用意したこのアニメに、ウジウジした堂々巡りは似合わない。
ドリアカは今回回想されたように『過去』を走り、今回描写された『現在』にたどり着き、今回のエピソードから想起される『未来』に向かって走り直すのです。
それはやっぱり可愛くて、キラキラしていて、寿がれるべき人生の物語です。
今回のお話を見て、こうして文章にしてみて、つくづく思いました。
俺、ドリアカの女の子たちと、ドリアカって場所が、結構好きでした。