文豪とアルケミスト ~審判ノ歯車~ 第8話・第9話を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
志賀の死が殯の寂しさを伸ばす図書館で、道化は踊り賢者は睨む。
芥川の中で燃える青い炎は、言葉となって太宰を焼く。
文学を焼くものは、文学をしたため得るのか?
この世界でその問いは筆の先ではなく、刃境に乗るのだろう。
そんな感じの終盤始動、”人間失格”読解である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
太宰再びの自作批評と芥川の青黒い迷妄、文学探偵・島崎藤村の名推理に檀一雄満を持しての降臨と、まー色々あった。
第9話はまさかの川越一生コンテ・演出となり、異能バトルモノとしても最高級の作画が暴れた。イヤー、マジ凄い。
潜書者と侵蝕者。不自然なこの世界を成り立たせる二大ファクターに対しても、島崎を探偵として深く切り込むことになった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
顔のないあやふやな存在だから、終わりの見えない物語(アプリゲーム)を続けられる。そういう前提に、アニメなりの答えを出す気概を感じ、頼もしい。
そしてこの2つのファクターをてこに、文学なるものの意味、真実なるものの形を探る、非常に抽象的で本質的な文芸批評もまた、本格的に唸りだした感じがある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
ここにメスをいれるべく、島崎はずっと『本の外側から読むもの』として描かれ続けたのだろう。”通し”の演出が結実する場面が、今回多かった。
さて物語は、顔を書かれない実篤から始まる。幼気な王子様として描かれ付かれた彼は、志賀の遺品を握って非常に重たく、暗い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
まるで、沢山の友人を見送り、艱難辛苦を舐めた卒寿の老人のようである。
『二度、弔事は読みたくない』
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そう語る文豪は、与えられた仮面の奥に長い前世の実感と、分厚い文脈を抱え込んでいる。そこに宿ってしまう、積年の感情も。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
いかにも王子然とした”キャラクター”を、どう生きているのか。
『歩くときこの杖をつかうと志賀が一緒にいる気がする』と残した老年を、どう思うか。
少し聞きたくもなる。
しかしこのアニメは芥川と太宰を中心軸にした構成になっていて、主役と脇役のメリハリはしっかりしている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
この筋立ての強さはとても良いものだし、脇に追いやった大文豪から濃いめの存在感、背負った物語(と史実)の重さを匂わせるのも忘れてはいない。いいバランスだ。
芥川は、何に揺れるか。
そこに切り込んで真実の導火線に火を付ける役目は、島崎が担うことになる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
今回果たす決定的な仕事のために、島崎はずっと”戦うもの”ではなく”読むもの”と、性格極悪の、不都合な真実ですらズカズカ踏み込む奇人として書かれてきたような気もする。
島崎は、太宰が見落とすものを睨みつける。
人に触れたいと願い、しかし遠く叶わず、だから道化と踊って、その寂しさを腹に収めることは出来ない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
最終的に玉川上水に浮かぶことになる、太宰治の抱え込んだ矛盾。それは可愛らしい喜劇として、僕らにファンサービスを続けてきた。
太宰はそういう子だから。子犬系の健気な後輩だから。
そういうフレームにキャラクターを押し込んで、”いつもどおり”の空回りを楽しませる運びが、”人間失格”の血塗られた仮面劇に踏み込んだ時、観客席を乗り越えて読者を刺す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
そういう構造でもあろう。罪悪感と適切な裏切りは、創作に限らず誰かを前のめりにさせる、大事な毒だ。的確に仕込むのは大事。
まぁ喜ばしい喜劇の中に、(史実の”太宰治”がそうであったような)腐敗とどうしようもなさがちゃんとあることも、しっかり刻んできた作品なのだが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
太宰らしい、オタクコンテンツらしい『洒落で収まる』可愛い空回りが、その実しっかり、魂の血を青くにじませている事実が、今回突きつけられる。
それは後々炸裂する爆弾なので、並走して冷たいシリアスを置く必要がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
太宰が芥川先生を励ます会を相談する時、仲間との距離は近い。バチバチぶつかり合う芥川と島崎の、隔離され越境される距離感とは対照的だ。
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第9話の”動”が鮮烈なので見落としてしまいそうだが、第8話の”静”の作画は相当に良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
ギズモでしかない芥川の孤独と不審を、縦に大きく切り裂く境界線で見せつつ、そこには揺らぎと越境がある。
気に食わなかろうと、興味がなかろうと、島崎は線を超えて芥川に踏み込む。
志賀のときもそうだったが、芥川にはマゾヒスティックな資質があって、自分すら定かではない不確かな謎を切開し、血みどろの真実を暴き立ててもらいたい欲求があるように思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
先生は凄い、先生は素晴らしい。
そう盲目的に褒め称える、太宰では果たされない欲動を、批評者は満たす。
他人に興味がない超然を装いつつ、不確かな自分が寂しくてしようがない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
自分という書物を激しくめくり、鋭く読み解く存在は嫌いだとうそぶきつつ、何よりも求めている。
第9話ラストでその多重性が暴かれる”芥川龍之介”は、激しく矛盾した存在だ。島崎の捻じくれた性根とは、多分相性がいい。
芥川は”人間失格”を読む前に、彼と親しかった文豪に彼らの『読解・太宰治』を聞きに行く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
同じテーブルを囲んでいるようで、そこには分厚い柱があって、半球が緩やかな緊張を演出している。
ここのモダンで鮮烈なレイアウト、凄く良い。
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無頼派の揺籃とも言える破滅型作家は、しかしそのテーブルには完全に馴染まず、孤独を抱えた距離感で話を聞く。(ここら辺、重ねられる中也の片恋とも響く感じがする)
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
”ルパン”に集った仲間たちの、欠けた一つのピース。
自分の見知った”太宰治”を、一つの作品として捧げすらした一人の男。
誰よりも太宰を求め、しかし現実に繋ぎ止めることに失敗した男。今ここにはいない、一番熱心な読者。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
あいつが、一番太宰を好きだった。そう言われる男。
檀一雄。
後に描かれる”人間失格”のどん詰まりを打破するデウス・エクス・マキナは、顔のないまま存在を示唆される。
檀一雄には慣れない織田と安吾は、道化としての太宰治を読み、語り、聞かせる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
人間になろうとして、人間になりきれず、その矛盾に摩耗した…誰よりも人間的な男。
その離人と滑稽は、コメディに宿る『洒落にならなさ』を暴いていく。
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『依存性のあるもの禁止ー!』と猫が吠えるのに、僕は爆笑してしまった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
タバコより麻薬より危険で気持ちよく、深く刺されば二度と止められないもの…文学の生産工場だろ、ここは…。
死を潜って前世の因業を乗り越え、清廉潔白な浄土に舞い降りた”文豪”のヤドリギ。
猫がそういうモノとして図書館を作りたくても、文豪は青黒い思いに燃やされ、体に悪いものを求め、そこかしこで喧嘩をする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
解脱など果たせない、人間性の泥に首まで使ったあがき。その”跳ね”が原稿用紙に飛び散って、文学が生まれる…と書くと、浪漫がすぎるか。
どっちにしても、時代を飛び越え因果をさかしまに、様々な文学者を一堂に集めた夢舞台を作るのなら、キレイなものだけが集められるわけがない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
英国の大文豪、沙翁曰く『きれいはきたない、きたないはきれい』
好意と善意が空回りする太宰の薄暗さは、その偉業と常に裏腹だ。
良い文学の肥やしになったから、辛い体験に意味があるわけでも。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
人生のどうにもならなさは必ず、文学にならなければないわけでもないが。
そういう、人間存在に否応なくつきまとう泥を否定したきれいな楽園に、多分図書館はないのだろう。
『志賀が燃え死んだあとに、太宰にコメディで”火”背負わせるの、最悪で最高だな…』などと思いつつ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
歯車見下ろす図書館で、芥川は太宰を読み、島崎は芥川を読む。
文学探偵・島崎藤村一人舞台。ドッペルゲンガーとしての芥川解題である
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ここでの島崎の読解は、史実の芥川論、作中の”芥川”への推理、潜書者と侵蝕者の関係性、個人としての芥川との関係性…などなど、非常に多層的な読みと語りが重なり合っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
芥川龍之介は、なぜ自作を否定したのか。
そこに島崎(とこの作品)は、侵蝕者の影響を見て取る。
これは考えてみると非常に奇妙だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
文豪としての名声を確立したからこそ、戦士としての二度目の生は存在する。執筆が先で、転生が後という因果は明瞭だ。
しかし芥川が侵食された結果後期作品が生まれたとするなら、それは逆転する。怪物がいたから、芥川は狂ったのだ。
作者の人格と周囲の世界、個人史と広い世界と感情とカルマが入り混じった乳海。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
そこから作品を引っ張り出す行いは、作品が名声を獲得した後にしか生まれ得ないはずのこの図書館、この戦場の影響を受けている。
現実の芥川が、虚構の芥川に決定権を握られている。
島崎の言を飲み込むと、そういう事になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
芥川と島崎の間に延々引かれ続ける一線は、彼ら個人の断絶(と越境)を示すだけでなく、この見事な大嘘がぶち立ててきた因果逆転の一撃と、僕等の距離感をも演出しているような気がする。
『そんなバカな…』と切り捨てつつ、『しかしもしや』と思わされる。
”侵された”芥川が焼こうとする奇想の面白さを、島崎説がしっかり宿しているのはなんとも面白いところだが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
そことは別に、島崎の読解に引っかかるポイントはある。
『真実の芥川龍之介』てのは、明朗な筋立てと話運びで島崎(と僕等)を楽しませてくれた、分かりやすくて面白い芥川と=なのだろうか?
僕は基本不可知論者なので、人間という書物も世界という文学も読みきれないと、いつも思っているのだけども。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
文豪として通底した読解力を持つ島崎は、おそらく自分の”読み”に自信がある。
前期芥川と後期芥川の間にある断絶は、ドッペルゲンガーによる入れ替わり殺人を想起したほうが、するりと飲める
そういう『読み』はしかし、唯一絶対の”本物”を想起するから立論できる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
では、”歯車”を書きベロナールとジェノアルを飲み干した芥川は”偽物”だったのか。そこに刻まれたぼんやりとした不安は、歴史に刻まれ読まれる価値もない駄作なのか。
暗い想念から生まれたものは、文学たり得ないのか。
そもだに瘋癲の職業、不良の悪業と痛罵されてきたのが文学者という生業である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
唯一絶対の正しいことが定められないからこそ、文豪はたくさんいるし、文学も沢山ある。
ならば…島崎が読んだ『正しい芥川龍之介』は、己たちの足場を危うくする危険な読みなのではないか。
よろしい。今ここに”芥川龍之介”としてある、自作を否定し文学にまつわる負の想念に侵蝕された存在が、正しくないとしよう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
しかし彼は文豪戦士として剣を握り、”メロス”に潜って太宰を助けてしまった。この珍妙な浄土で、仲間と笑い飯を食ってきた。
それも”嘘”か。
史実をベースに作られた、イケメンたちのパラダイス。アクションとコメディとファンサービスで作り上げられた、ギラついた砂糖のお城。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
”文豪とアルケミスト”というコンテンツ自体が(必然的に)背負う”嘘”は、しかし製作者の誠実により、作品として独自の息吹をもう持ってしまっている。
自分の中の文学原理主義者を最大限励起させると、『媚びやがって…』と吠える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
『全集も読破せず、なーにが”太宰治”だ”芥川龍之介”だ! ちくま文庫100回ッ!』と言いたくなるクソ面倒な輩が、たしかに僕の中にはいる。
同時に、『…確かに、”いる”なぁ』と思っている僕もいる。
戯けた空回りであろうと、偽りの舞台での蜃気楼であろうと、太宰も芥川もこのステージで必死に生きて、自分を探している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
それが僕だけの物語と妙に重なっているから、僕は文学を読んで勝手に感動し、色々考える。文庫本無しでで進めるほど、人生の迷路は真っ直ぐではない。
美青年に擬され、キラキラした衣装をまとい、武器を奮って悪と戦う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
文学を解体し繋ぎ合わせた、ポップなフランケンシュタインのような”文アル”自体が、ギズモでありドッペルゲンガーでしかない、文学を食い殺す侵蝕者的性質を、否応なく宿してしまう。
しかし、”偽・芥川”が執筆した作品を”文学”だと、島崎自身も認めているように。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
フェイクだろうがツギハギの怪物だろうが、物語は独自の命を宿し、その中で生きるキャラクターとドラマには、自動的な真実性が宿ってしまう。本気で作った話ならなおさらだ。
ならば。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
たどり着けるか知らない”本当の真実”なる蜃気楼よりも、目の前で命を持って揺らめく”嘘”の内実に、僕は踏み込んでほしいと願う。
物語る動物として、(あえてデカい主語を使うが)僕らは虚構を組み立てることでしか現実を認識できないのだ。
その相互的なゆらめきを、島崎も見落としているわけではない。つーかアンタも、相当にどす黒く捻じくれた感性と人生の持ち主だからな…。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
胸に湧き上がる暗い想念が、傑作のゆりかごとなることもある。
そう知っているから、島崎は”芥川”をじっくり、楽しんで読む。サディストめ…。
自分を深く切開する島崎の視線から、芥川は逃げつつ向き合う。絡み合う視線は、見た目の遠さを乗り越え、静かな火花を散らす。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
虚構のオーロラに照らされ、読み解く”人間失格”。
そこに芥川は、どんな”太宰治”を読むのか。
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それは終盤の大惨事として、島崎は徳田秋声とテーブルを同じくする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
ひねくれ者のサディストが、思わず応援してしまった本気の友達。
飯食うときにする話じゃない、”夜明け前”に結実したカルマも共有できる、特別な関係。
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そこで錯綜する視線と言葉、真心と残酷さには、太宰と芥川の距離感が重なっているようにも思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
嫌われ者の批評家が、唯一柔らかな自分を預けられる相手。
抱えた闇の深さにおののきつつも、自分が島崎から受け取ったものをちゃんと言葉にし、差し出すありがたさ。
島崎自身が読解(し、私小説家として執筆も)する”島崎藤村”とは、また別角度からの読解を、この地味キャラはしっかり行っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
自分に見えていると思える範囲は、存外小さいかもしれない。
この対話は島崎にそう教え…だからこそ、牢屋での対話がある気はする。
誰かが誰かを応援してしまう。苦悩から生まれた書物に、思わず救われてしまう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
そういう理不尽な不均衡が世界にはあって、文学には特に色濃い。
そしてそれは冷たいロジックを超えた、救済とすら言える不条理なのだと思う。泥中蓮華の不可思議は、この作品の大事なモチーフだ。
さてカメラは別の場所へと写り、生前はなし得なかった『芥川による”人間失格”』読解へと進んでいく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
カス、読む価値なしッ!! 燃える太宰
それはキツいぜ、芥川先生。アンタだって、褒められるような話ばっか書いてたわけじゃねぇだろ?
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というのは、”芥川”自身も思っていることで。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
見たくもない汚い部分を書いてるから、文学なんて存在する意味はないのか。
口当たりの良い綿菓子みてぇな麻酔薬だけが、人間に必要なストーリーなのか。
そこら辺の自問自答が、殻を破って黒く青く、芥川龍之介を苦しめていく。
”人間失格”に刻まれた堕落と破滅は、芥川自身が吸い込まれた暗がりでもあろう。大上段から『正しくない』と切って捨てる権利がないのに、そうしてしまった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
そういう苦しみが芥川を倒すのだけども、島崎はその人間的苦しみを前に立ちすくむだけで、近寄るのはあくまで秋声である。
そこには無頼派の根城を訪れた時、芥川と太宰の間にある断絶と似たもの…燃え盛る志賀を前に”見る”しかなかった文豪たちの立ちすくみが、ギラリと反射しているように思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
超常バトルの主役のようで、何も出来ぬとすくんで動けぬ、一冊の書物でしかない文豪たち。
それがこの作品、結構色んな所で切り取られているようで面白い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
『書かれた後は徹底して受動的な存在である文学が、己を燃やす炎に抗うためには、今を生きるプレイヤー=読者の介入が必要である』と見立てると、反検閲論でもあるかなぁ…。結構、現実と地続きなお話か。
まぁ侵蝕者の一番大きな力は憎悪でも過剰な正義でもなく、忘却と無関心ではあると思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
だってこうやってイケメナイズされなきゃ、文学読まん人が山盛りでしょ、現状。
とっくの昔に死んだ、終わったメディアと見なされている文学の敵は、いつだって燃やされることより読まれないことであろう。
だがそれが全然生きていて、非常に切実で現代的な息吹を宿していると再話するために(も)、このアニメ(もしかしたらこのコンテンツ)はある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
この世に居場所がないと感じている、すべての人に力を。
ずっと昔から続き、今もまだ死んでいない力が、どんな顔をしているのか。
それを語り直すために、潜書という道具立てはあろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
次なる地獄は”人間失格”、恥の多い人生を送ってきた青年の回想録である。
そこだけに、”太宰治”が刻まれているとは、俺は思わない。だから第1話でメロスをやったのだろうし。
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しかし作家(あるいは人間)太宰治という連続体の中で、”人間失格”が非常に大事なピースであるのは間違いない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
無頼派二人は書に潜り、中也はやっぱり置いていかれる。片恋の切なさは様々な場所に宿りつつ、思いの火花は闇に届く…のか?
その答えは、血みどろの戦いの先に待っている。
芥川が”地獄変”を『殺さない物語』にして耽溺した後に、太宰が”人間失格”を『殺す物語』にして閉塞していく話運びは、なかなか面白い対比だな、と思いつつ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月15日
正しさの在り処を探しながら後編へと、物語は続いていく。
長すぎるんで、やっぱ8話と9話は感想分割します…(見通し甘々マン、颯爽登場)。
追記 記事内にある一部表現について
ご感想とご指摘ありがとうございます。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年8月16日
確かに文アルから文学に入ってくる方を下に見たようなニュアンスを帯びてしまった感じもあって、見返すとあまり良くない表現だったかもしれません。申し訳ない。#マシュマロを投げ合おうhttps://t.co/GClC9JXlxc pic.twitter.com/pjOS8d3MQA
自分の中の偏見と歪みを具体化しておかないと、無意識に顔だして飲まれそうだったので書いた、って部分があるのですが、そういう思いを伝えるには全然足らない文章で、そらそうも取られるわな、と見返して感じました。
文アルを入り口にガツガツ文学食う人らが増えるのは、良いと思います。
見ている方に関係があるかどうかは分かりませんが、自分はハイカルチャーとポップカルチャーの線引、古典の生存戦略に強い興味がある人間で、文アニもそういう視点で見ている部分があります。
前衛は気づけば陳腐化した定番になって、生まれたときのうねりを失っていく。
それを再動させるためには、”今”通じるメディアで書き直す必要があるのだけど、そうすること自体がある種の摩耗と侮蔑を避け得ない。 でも原典を神棚に入れて祀っていた所で、静かに腐って死んでいくだけで、それが生まれた活力も使命も蘇りはしない。
そういう矛盾を、ポップに再編された古典がどう語り直すかというのは、僕にとって大きく気になるポイントです。
目も当てられない失敗、あまりに不当な窃盗含め、高速消費されるオタクカルチャーに取り込まれていく古典がどう再動され、どう独自の息吹を作っていくのか。
そこを気にかけるあまり、前のめりになって語気が強くなりすぎました。申し訳ない。
僕はアニメでしか知らない立場ですが、文アルの原典受容と再話は、古典を消費に取り込む理想形に、結構近いのかもしれないと感じています。
自作内部でしっかり温度を上げつつ、外に抜けていく風通しもある。
僕の拙い文言からは感じられなかったかもしれませんが、そういう気持ちでアニメを見ているのだということは、可能であれば判っていただきたいと感じています。
重ねて、侮蔑と取られかねない言葉を使ってしまったこと、申し訳なく思っています。
今後も自制しつつ、感想を書きたいと思います。
正直、こういう前のめりが発生するので文アル放送開始時に感想をやらなかった部分があります。本気になりすぎちゃう、というか。
アニメの中の文豪も、己の中に燃える青い炎と向き合い戦っているわけで、そういう厄介なものを自分も上手く制御し、伝わるよう言葉を使わないといけないと痛感しました。
自分の趣味と気持ちよさで書いているものですが、『それはWebの海に放り出され、様々な人に見られるのだ』という当たり前の、しかし大事な事実を見落とした書き方にもなってしまっていたようで、なんとも恥ずかしく、申し訳ない気持ちです。
僕には太宰くんのような必死さと可愛げも、芥川先生のような静謐な寂しさもないので、身を縮めても隠れるところのない思いでありますが。
もしよろしければ、拙い言葉立てに呆れず、お話の最後まで見続け、その中で感じたことを受け入れていただければ幸いです。
重ねて申し訳ない。