イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版 Free!-the Final Stroke-』感想

劇場版 Free!-the Final Stroke-の後編を、今見てきました。
結局感想書けずじまいだった前編と合わせて、最終作にたどり着いた”Free!”という作品に何を感じ、何を見つけたかを書いていこうと思います。
ネタバレしない範囲で感想を書いておくと、とても良いアニメだったし、最終作でした。
映像は極めて美麗であったし、キャラクターのドラマをやりきる気概と作品が何を積み上げてきたかを振り返る視線があり、七瀬遙というキャラクター、水泳というモチーフに対ししっかりと自分たちなりのアンサーを返す、見事な決着だったと思います。
自分の中の”Free!”をちゃんと終わらせたいと願う人ほど、劇場で見に行ったほうが良いかなと感じました。
オススメです。

 

 

 

というわけで、感想なのだけども。
結局前編を見終わった後、何もまとまらないまま何も書けず、何かを見いだせればとすがるように後編を劇場に見に行って、ようやく何かを書ける気持ちで今キーボードを叩いている。
2018年のTVシリーズから本当にいろいろなことがあって、おそらく上映予定だったオリンピックイヤーを更に過ぎて、前後編に分割してもなお語りきれない部分が出てくる大作として、一つの終りを迎えた”Free!
それは自分の中で、予想していたよりも自分を冷静さから引っ剥がす部分に強く癒着した作品になっていたようで、俯瞰で作品全体を見据えたり、理性で腑分けして部分部分を見据えたりすることが、あまりに難しくなってしまっていた。
この得体のしれなさにちゃんと対応できなくて、前編の感想を結局書けなかったわけだが、そこらへん取り繕うのを諦めて、ダラダラと感想を書き残していこうと思う。
議論の立て方は不鮮明で、主観と客観を取り違え、思い入れが溢れすぎた支離滅裂な文章がこの後に続くと思うが、もう僕はそういう形でしか”Free!”を語れないし、そういう形でも”Free!”を語らせてくれる決着を、この後編は形にしてくれた。

 

一番最初に、前編で引っかかってたポイントを書いていく。
初見時、正直かなりの肩透かし感と、それを追いかけるように戦慄と苦しさが湧き上がったことを覚えている。
前編は”Free!”というコンテンツの莫大なアーカイブを再利用し、未来に向かうというよりは過去を振り返る総集編的な色合いが、結構濃い映画と僕には受け取られた。
何しろ『京都アニメーションの劇場版』なのだから、圧倒的な映像に飲み込まれ翻弄されたい願望が僕の中にはあって、それがスカされたガッカリ感のあとに、『もしかしたら、そうせざるを得ない苦しさが、こうして形になった映画の裏側には分厚く横たわっているのではないか』という考えが湧き上がって、僕を縛った。
これまた色々在りすぎた結果、OLDCODEXのOPやEDがぶった切られ、明らかに不完全な形で歌のないEDで前編をまとめるしか無かったのと同じ……あるいはより切実で残酷な”事情”ってやつが、この総集編的フィルムワークの裏にあるのかもと想像すると、このアニメが上映されるまでの歩みと奇跡を思って、金縛りのように動けなくなった。

それは想像……というか下衆の妄想でしかなく、そんなところに目を向けさせないためにクリエーターたちは血の汗を流してアニメを動かすのだと思うが、同時に約束の2020が全世界とアホみたいに巨大な経済を巻き込んで2021にズレなければいけなかったように、アニメの外側の現実なるものは、フィクションを包囲し追い込む。
それを突破し、アニメを作り上げる重たさを喉元に突きつけられたように感じて、あの歌無きEDを見た時僕は、誰に向けたら良いのかわからない奇妙な憤激と、重苦しい切なさをずっしり抱え、どう言葉にしたものかわからなかった。
その残響は結局消えないまま今日まで続いて、今ようやく喋る機会を得ている。

無論、過去のアーカイブを総ざらいし、水に魅入られた子供たち最後の物語を描くことには、演出的な意図が多々あるのだろうな、とも感じていた。
後編で再度……例えばED後の旭が見つめる映像が示すように、アニメ放送(原作発売)から9年の長きにわたり、ファンの声援と少しの怨嗟(は、僕だけが長々垂れ流しにしていたのかもしれないけど)、スタッフの汗と願いをたっぷり詰め込んで、沢山のTVシリーズと映画に結晶化した”Free!”という物語を、見守り見つめる視線。
子供らが出会いぶつかり、迷って泳いでどこかに飛び出し、また閉ざされて迷う繰り返しには沢山の思いと物語が宿っていて、その全てに僕なりの感慨がこびりついている。
過去の映像がフラッシュバックする度、脳内に構築されていた”Free!”データベースが起動して、あの時感じたものと自分なりの作品理解を再生し、それが幾重にも折り重なって独自のタピストリを編み上げるのは、かなり衝撃的な体験だった。

『俺、こんなに”Free!”のこと覚えているし、好きだし、嫌いだし、色んなことを考えたんだな。』

セピア色のフィルムが脳髄の奥で渦を巻き、混沌とした色合いで勝手に動き出す感覚には大きな戸惑いがあり、それは前編では解消されない……というか加速していく。
それは前編が正に”前編”であり、メチャクチャ全体的なトーンをどん底まで下げて終わること、そしてすごい勢いで物語の原点へと後戻りすることと、たしかに重なっていた。
凄く、デジャブが強いのだ。
この足踏みする感じと重たさ、拒絶と独りよがり、幼さと独善には覚えがある。
お前ら、そこは超えたんじゃねーのかよ。
正直、そう思ってしまって動けなくなった。

前半は結構欲張りなフィルムでもあって、男の子たちの萌え萌えシチュエーションを乱打してファンサービスをてんこ盛りにしたかと思えば、宗介が『こっから先は重くて地獄だぜ!』と堂々宣言して、その通りアルベルトの引力が話を水の底まで引っ張り込む……のに、主に郁弥と宗介はTVシリーズでのネットリ重たい感情の足踏みから解き放たれて、いい具合に大人に近づいて爽やかでもある。
宗介のリハビリを丁寧に追いかけ、郁弥が解き放たれた場所でどんだけ逞しく自由になったかを見せてくれたのは、前半のとても好きなところだ。
ツンツン面倒くせー楓がシドニーでの泳ぎで心をかち割られて、いい具合に体重預けてくる一歩も、関係性の変化と救済の予感を感じさせて良かった。

これに反比例するように、凛と遙は往年の面倒くささを取り戻していき、超ネトネト息苦しい感情のぶつけ合いでもって、話を足踏みさせ同じ場所へと帰還していく。
最後に踏切の心象が出てきて、暴走する自分を止められない遙が出てきた時、自分は『えっ!?』と思った。
お前、そこまで戻るんかい。
それはあの小学校のプールで、色んなものに後ろ足で砂かけてでも泳ぎたかったリレーで、高校最後の泳ぎで、あるいは新しい環境で生まれた因縁と夢を振りちぎるような泳ぎの中で、脱ぎ捨てたはずの子供時代じゃねーんかい、と。

同時にあの面倒くさい原点まで戻んないと、”Free!”を語りきれないと、シリーズ構成を兼任する河浪監督は判断したんだろうな、とも思った。
20過ぎればただの人、おれはフリーしか泳がない。
飯を食うにも難儀する、水に魅入られた社会不適合の水泳の天才、自分勝手でナイーブで弱虫なクソガキにまで遙を戻さないと語れないものを、後半語って更に最後に踏みきるべく、ここで戻して下げて終わるんだろうな、とは感じた。

でも同時にその閉じた下げ調子が、僕が”Free!”を大好きで大嫌いな理由である一期クライマックスの匂いをツンと、鼻の奥に強く蘇らせてきて、それに縛られてやはり動けなくなってしまった。
肉体美に溢れた半裸の青年たちを、夜のプールという羊水の中で弄れさせ、純粋で無責任な子供に戻してあげる、ネットリと重たく暗い不在なる母性。(この作品において、水着を着てプールに入り、水泳競技に勤しむ”女性”がどれだけ排除され、男の子の聖域として、不在なる女性性をその身に纏う禊の場として、あの暗い水辺が機能していたか。三度目を越えたあたりから『実質セックスじゃん!』とか興奮するより、『セックスするなら自ら出てちゃんとやれ! 疑似で終わらすなッ! おふくろの腹から出ろ!!』と、毎回キレてた。)
TVシリーズでも映画でも、幾度も繰り返されてきたあのモチーフはもちろん、この完結編でも顔を出す。
サブタイトルに臆面もなく”永遠の夏”だの”時を超えた思い出”だの、閉鎖した永遠を練り込んでくる成長なき腐臭、新キャラだけ大量投入してまーた同じ感情と状況をループする足踏み感が、また襲い来るのかという幻影と戦っている内、身動きが取れなくなった。

 

そう、幻影である。
作品をよく見ればその足踏み感が、特に内海監督が退いてから大きく退潮し、広く風通しの良い場所へと漕ぎ出しつつ、それでも魂を過去に惹かれ幾度も繰り返すしか無いままならなさに向き合って、拳で岩を砕くかのように打破されてきたことは明らかだ。
実際前編の閉塞感と暗さは、後編の前半一時間に重苦しく引き継がれながらも、それが長く重いが故に、遙達がどうやっても進み得なかった未来へと飛び出していく熱量を宿して、後半一時間でカタルシスが炸裂する燃料になっている。
それを確認し得たからこそ、今ここで感想……というのもおこがましい”僕とFree!”を書いている。

後半で特に好きな場面が、僕は二つあって。
眠る遥かに宗介が『いい加減気づけよ、主人公』というところと、メドレーリレーに遙をねじ込むべく、監督と交渉する場面だ。

前者はあんまりに天才であんまりに子供で在り続けた遙の行ったり来たりを、遂に彼を主人公とする作品自身が自覚的にツッコんだ場面であり、それを二期の当て馬として色んな泥をひっかぶり、報われない片思いと故障の過酷さに拗ねても良い立場でありながら、歯を食いしばって戦列最前線に戻ってきた宗介が言うのが、ある種の復讐戦の味わいがあって良かった。
宗介が一番それを言う資格と能力があったろうし、あのセリフがあったことで、『ああ、俺一人が気にかけてたわけじゃないんだな』と思った。

後編は英雄としての、天才としての、主人公としての遙を総括するセリフが多い。
特別な存在として、”競泳”という競技のルール、自分たちと同じく思いと努力を傾けてプールに入ってる連中の顔面に砂ぶっかけてでも、自分個人のエモーションを回復する物語を走りきっても良かった存在が、その幼い身勝手を許されるのは、ひとえに彼の泳ぎが体現し、視線と思いを引き寄せる引力の強さによる。
”積極的な価値感情を広い範囲の人々に永続的に、しかも稀に見るほど強く呼び起こすことの出来る人物”というクレッチマーの定義を引き合いに出せば、見るものを否応なく惹きつけ、心揺さぶる遙の泳ぎはまさに天才的で、しかしそうして引き寄せられる他者の存在は、遥にとってノイズで在り続けた。
この夾雑物を遠ざけ、純粋に自由に泳ぐことを求めていた少年は、中学高校大学と歳を重ねて、物わかり良く他人との距離を測れる自分をいい塩梅に作ったとしても消えず、七瀬遙の中に残り続ける。
自身が天才であり、天才で在り続ける事実を受け止めきれないから、遙は『20超えればただの人』という言葉に呪われ、最後の最後であのプールの脇、顔を出して凛ちゃんと面倒くさいことになったのだろう。

他者を引き付け、何かを魅せてしまう自分の可能性は、遙が泳ぎ続ける限り自動的に彼を取り巻く。
彼は天才だからだ。
だが理由もなく水に愛され、あるいは水に呪われ(る様子が、映画館の中の思い出上映の場面、大変優れたアニメーショによって鮮烈に描かれていた)た彼は人間というより魚類で、他者が投げ込んでくる感情としっかり向き合えない。
それは子供のころからずっとそうで、”遙くん”とちょっと距離のある呼び名で彼に触れ合っていた幼年期の真琴と渚が思わず、家を訪れお守りを手渡したくなるような情動の揺すぶり、一緒にリレーをやりたくなる気持ちは、彼が友情に絆される前から躍動していた。
そんな宿命に、自分の願いとは遠い場所で勝手に入り込んでくる、水とは違う重たく滑らかではないものに、ちゃんと向き合えよ。
重荷でもウザったくても、『ありがとう』は言えよ。
そう、宗介が言ってくれたのが僕には嬉しかった。

遙の天才性は、自身を焼くほどにそれを炸裂させたメドレーリレーを通じて全日本を揺るがし、彼は公共空間にその存在を高く掲げられる存在として、物語は終わっていく。
あの広告を眩しく見上げ、その天才性に惹きつけられる知らねー女は、つまり”私たち”なのだろう。
Free!”という物語に引き寄せられ、九年の長きに渡り見守り、焦がれ、時に文句持たれつつこの完結を見守っているファンを、スクリーンの中に呼び込むべく、大団円の一番最初に『てーめー……誰だッ!』って存在が大写しになるのだと、僕は受け取った。
それが冴えねークソオタクのオッサンとは似ても似つかない、おしゃれな衣装に身を包んだ女性であることに、こうして感想を書くのに足踏みした一つの理由である、『俺、”Free!”の客じゃーねーのかもな……』という感触を、また幻覚したりもするわけだが、それはまた別の話だ。

次元の壁すら超えて、否応なく見るものを惹き付ける遙の泳ぎと生き方。
それはかつて、公式の許可を取らずメンバーを弄り、大会の権威と敬意をぶち壊す形でねじ込まれた青春の大暴走を彼に許可したわけだが、アレから数年。
思いを遂げるべく同じリレーに挑むにしても、今回青年たちは筋を通しオフィシャルなチャンネルに正式に、『遙がフリーでアンカー』という決着を飲ませていく。
あのリレーが彼らが小学生だったときとも、高校が終わる時とも違うメンバーでリフレインされることに、莫大なアーカイブをつなぎ合わせて長く重たい”回想編”を編んだ先に、お話がたどり着いた実感を得たりもしたが。
七瀬遙はようやく、『俺のやりたいことのために、スジ曲げてください、お願いします』と、他人に頭を下げれる存在になったのだ。
遅いといえば遅いし、ようやくといえばようやくである。

Free!”という一つのサーガを終えきるためにも、ソロであることを超えてチームになる喜びとともに未来へ飛び込んでいく主人公の決着を書くためにも、ラストはメドレーリレーの中にあるフリーを書かなければいけない。
同時にそれは、河浪監督が自分なりの”Free!”を、内海紘子というあまりに巨大な才能の引力を振りちぎり、同じ土俵に乗っかった上で自分なり上回った最高のクライマックスとして描かねばならない、作家性の必然とも僕は読んだ。
それは僕自身が、『内海紘子の”Free!”』に呪われ、憎悪し忌避しそれでも惹かれる、ある意味遙に作中の人物たちが感じるような引力を勝手に受け取っているから、見える構図かもしれない。
それが実像であるか妄想であるかは定かではないが、とにかく僕にはそう見えてしまったのであり、河浪監督は成し遂げたな、と思うクライマックスであった。

遙最後の泳ぎは、今まで”Free!”で特徴的だった水の中一人きり、何かを突破する内省的な描写が少なく描かれている。
そこには今までこの物語に関わったすべての人達が、彼の泳ぎに夢中になり、天才に引き寄せられ、巨大な感動のうねりが彼の身体から、競技と向き合う姿勢から溢れ出ていることを強調していく。
彼にバトンを繋ぐべく、あるいは自身のワクワクに素直に、自分自身競技者として全力で泳ぎ切る仲間たちもまた、その泳ぎに魅入られ想いを叫ぶ。
それはとても広く開かれた空間で、だからこそアルベルトの固く閉ざされた幼さも切り開かれ、孤独に泳ぐしか無かった王者をその檻から引っ張り上げてることも出来るのだろう。
幾度目かの停滞と後戻り、孤独でいたい魚類の原点に立ち戻った上で、己を抱きしめながら未来へ飛び込んでいく決意が開く、どこまでも続いていく未来。
多くの人の思いを乗せ、天才が天才でいても良い時間を引き寄せながら、遙はアルベルトに並び、勝ち、泳ぎを通じて己を伝え相手を導くところまで、自分を引っ張り上げた。
その代償として、あの燃え尽きた眠りと、そこからの再生もあるのだろう。
一度終わったはずの競技人生から、再び時が動き出し立ち直れることを宗介の歩みが示しているのは、エンドマークの後にどんな希望があるかを示す、良い補助線だな、と思う。

 

龍司さんに守られ、ふらふら彷徨うことを許されたモラトリアムの果て、もう一度凛と泳ぐ/競うフリー。
ちょうど前半一時間が折り返すあのタイミングで、二人を縛っていた迷いと重荷は解けて、作品全体が前向きになっていく。
重く固く閉ざされた孤独は再び、みんなで頑張る楽しい時間となり、その前景としてモラトリアムなる夜のプール幾度目かの登場と、まーた事後めいた荒い息の語り合いが挟まっていく。
そういうエロティックな儀礼を、全てを燃やし尽くし出し尽くした後の虚脱を共有することも、また繰り返しながら原点を超えて先に進むのが、多分この最終作なんだろうな、と思いながら見ていた。

凛の勝手な激情を受け止めた龍司さんが、大人らしく、あるいは自分らしく大声で吠えて自立と奮戦を促す所が、俺は本当に好きで。
龍司さん世代(と楓)に何があったかは、ぶっちゃけ最終作でさらに謎が増え興味深くなったポイントだと思うんだけども、彼も燃えきらない後悔に足を取られ、足踏みを続けている不器用な子供であった。
ミハイルとともに、競技者であった時折れ曲がった思いを抱え、吐き出せずにいた龍司さんは遙をコーチし、凛の胸倉つかんで叫ぶことで、ようやく過去に戻って先に進めたんだと思う。
そういう変化を促す所が、才能ある若人の特権であり、天才の持つ前向きな引力……でもあろうか。

あそこでガツンと、何度もクソ弱虫で面倒くせーフニャフニャ人間に戻ってしまう凛を殴りつけたことが、父を奪われ、父に憧れて水泳にのめり込んでいった彼が、決定的に父性を再獲得した瞬間だったのかもしれない。
同時にそうして凛の”親父”になってやることで、龍司さんの終わらない幼年期が終わり、愛弟子必死の泳ぎに涙を流せる人間へと、彼自身進むことが出来たのだろう。
お話の巨大なエンジンである凛と遙の物語を、ネットリタップリ描きつつ、TVシリーズでは決着つかなかった大人の面倒くささにしっかりケリ付けて終わってくれたのは、僕はとても嬉しかった。

これは最後の面倒くせー新キャラだった金城くんも同じで、クッソめんどくさそうな因縁(尺がどうしても足らずに触りだけになったが、まぁ十分かなとも思う)に囚われ孤独を望みつつ、しかし泳ぎを通じて魂が震える様子には結構素直で、色んな人に謝ったり距離を測ったり、『なんだ、結構いい子じゃん』と思える描写が最終作多かったのは、大変良かった。
アルベルトの冷たい泳ぎ(遙が他人の感情を前向きに揺らす天才性とは、真逆に育ってしまった天才性)を肌で感じつつ、その先にある可能性を必死に泳いで掴んで、銅メダルという伸びしろある結果を掴んだのも良かったけど、その泳ぎを通じて孤独とわだかまりを自力でぶち壊し、他人が知らず伸ばしてくれてる手の存在をちゃんと認識できるトコまで登れたのが、更に良かった。
色んな連中が水の中で競い合って、ぶつかったり迷ったりしながら気づけば無茶苦茶大所帯になってた話の締めとして、文句たれつつ隣り合って同じ景色を見て、笑っていられる姿を最後に描けたのは、良いまとめだった。

そういう意味では、大学入りたての鳥取組を予選段階できっちり負けさせて、その悔しさをちゃんと描いたり、国際レベルの天才たちに及ばない旭の悔しさと不屈をしっかり刻んだり、後半は今まで作品に生きてきたキャラ全員に、自分たちなりのメダルを手渡そうとする誠実が見て取れた。
お前らそれぞれお前らなり、色々苦しんで立派に育った。
おめでとう。
そういうのは、本当に大事だと思う。

エピローグで紺くんが取った映像が、今まで彼らをずっと見守ってきたいろんな人達の視線であり、つまりはここまで見届けたファンの瞳なのだと告げたように、このお話は狭く緊密な男たちの感情を描きつつ、否応なく色んな人の心を揺さぶり、迷わせ、動かしてきた。
だから僕は、一抹の不安を感じつつ劇場に足を運び、何も言えなくなって足踏みし、もう一度決着を見届けて、今ここでなげー文章書いているのだ。
そういう風に、作中の現実を通じてファンに……もっと狭くシリアスでリアルな言い方をすれば”俺”に、視線を向けてから”Free!”を終わらせてくれたのは、やっぱり凄く偉いし、嬉しいことだった。

思い出のシドニーを超え、青年たちはハンガリーで再開する。
前半ラストは踏切に閉ざされて終わって、後半ラストは踏切が空いて終わる対照の構造がとても綺麗だが、あの再会を超えて夢の景色へと、遙達の水泳は続いていく。
かつて自閉した静けさの象徴だったFreeという概念は、自分の中で逃げて迷っていた子供を抱きしめた遙にとって、勇気と決意、結束を表す言葉に変わっている。
真実自由であるためには、一人泳いでいるはずの水から否応なく伝わってしまう波紋の発生源として、他人を震わせる天才として、そしてもしその力が失われても生きていくただの人として、力強く両の足で、大地に己の足を突き立てることでもある。
その不自由と自由を、ままならない人間の宿命を、己を焼き尽くしてなお立ち上がり、また水に帰ってくる遙を通じて描けたのは、良いラストだったな、と思う。

唐突に出てきた感もある遙のバーンナウトだが、稚すぎる魂(を誤魔化し誤魔化し、成長したフリを頑張って周りを助けてきた大学時代の遙が、俺はとても好きだったりするけど)に巨大な才能を乗せていた描写として、自分的には凄く納得がいった。
この力を燃やしきった時、遙が魂にずっと抱えてきた成長痛が終わって、目覚めたあとで更に大きく、強く、大人になっていくのだろうな、と思った。
そこに至るまで幾つも幾度も、時に同じようにみえる感情の檻に自分を封じ、ぶっ壊されてはまた巻き戻り、あるいは少し変わって誰かの手を引き……とにかくネトネトと重たく、眩しく爽やかな歩みであった。
その面倒くさい分厚さがあってこそ、最後の一歩がただただ前へ進んでいくのだと……少年たちの青春が終わって、新しく始まるのだと思えた。
そういうラストシーンが作れる物語は、やっぱり良いもんだ。

 

映画のサブタイトルであるthe Final Strokeは、マジでシリーズを終わらせる決意を表す良い言葉だな、と思っている。
Strokeは”水泳の一かき”を意味するけど、同時に”一撃を食らわす”とか”一筆を刻み込む”とか”心を強く揺さぶる”といった、多彩な意味もある言葉だ。
確かに、自分にとっての”the Final Stroke”になってくれたなと、後編を見終え、遅すぎた感想を書き終えて今、つくづく思っている。
かくして、”Free!”は終わった。
終わることが出来た。
ありがとう、おめでとう、お疲れ様。
とても良かったです。

 

追記
自分の懸念点が綺麗に回収されて終わりきった喜びばっか見て、風通しの良い部分ばっか褒めたけども、前半見た時点で『オイオイ大丈夫かよ……』と正直不安になるくらいねっとりずっぷり、迷いと弱さの中に踏み込み男たちの感情をガンガンに揺らしに行ったのは、原点回帰を経て完結する物語の構造としても、最後のチャンスに”Free!”らしさに潜る意味でも、最後の祭りに俺たちが一番味わいたいもんをゲップ出るほどお出しする意味でも、かなり大事だったと思う。
なんだかんだ、クッソ面倒くさい男たちの感情の絡み合いを見に九年付き合った部分はデカいし、最終的にたどり着く広くて強い場所を描き切るためには、狭くて暗い場所にしっかり潜らなきゃいけなかったのだろう。
そういう意味では前後編より、四時間一本の映画っていう作りなんだが、色んな意味で分割して上映せざるをえない事情も、何となく分かる。
凹の凹みが一番深い部分で時間があいたので、『オイオイ大丈夫かよ……』に雁字搦めになって動けないタイミングもあったが、終わってみると必要な逆行であり足踏みであり、”Free!”の本家本元をその根源たる三人が全力で踏破していく構成だなぁ、と思う。
その外側にある有象無象も邪険にせず、ここまでの物語を通じてどう代わったか、あるいは何が変わらず残っているかをちゃんと書いたことも、そんなキャラが好きな人達へのサービスとしても、作中に存在してる人格への敬意としても、『まぁコイツラは前に進んで後ろに下がらねぇから、なんとかなるかな……』と思わせる意味でも大事であった。
『コレがワイに出せる最高出力の人格ネトネト感情重力やー! 見とるか紘子ーーッ!!!』という河浪監督の声を幻聴したが、もちろん幻なので気にしなくて良い。
つくづく、俺は”Free!”一期を監督していた内海紘子が、好きすぎて嫌いすぎだと思う。