イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アークナイツ 黎明前奏/PRELUDE TO DAWN:第5話『信頼 Ripple』感想

 薄暗いスラムを盤上に、駒たちは彷徨う。
 光と闇の間に伸ばした手は、確かに触れ合いながら答えを探す。
 我々はどこから来て、どこへ行くべきか。
 アークナイツ黎明前奏、第5話である。

 ミーシャを追うレユニオンとの遭遇戦を繰り返しながら、アーミヤは迷宮のようなスラムを歩く。
 『助けたい』という純粋な願いと、それでは突破できない複雑で困難な現実。
 少女が背負うにはあまりに重たいものが世界には多すぎて、それでも嘘は付けず、夢は捨てれない。
 暴力による感染者革命の夢に耽溺するレユニオンとも、差別に支えられた既存秩序とも違う、最も理性的で最も困難な道程を進む、ロドスとその代表。
 果たしてその航路に待ち受けるものは……というエピソードである。

 

 

画像は”アークナイツ 黎明前奏/PRELUDE TO DAWN”第5話から引用

 今回はミーシャを巡って、アーミヤ≒ロドスとスカルシュレッダー≒レユニオンが争奪戦を繰り広げるお話であり、狭く薄暗いスラムを舞台装置に活かして、明暗の境界線は鮮明だ。
 三人とも感染者でありながらそれぞれの立場は異なり、見据える未来も違う。
 アーミヤは啓蒙の光で自分と世界を照らし、より善い解決を諦めない希望の眩さを、その身にまとっている。
 これが全ての解決法でないのは、鏡合わせの双子のようにアーミヤと向き合い続けるミーシャが、深く闇に身を沈めていることからも判る。
 龍門政府の意向を強く反映する近衛局は、難民で感染者であるミーシャを穏当には扱わない。
 スラムの現状を一週間たっぷり味わったミーシャにとって、ロドスの作戦を『売られた』と捉えるのはもっともな事だ。
 それでもアーミヤは光の側から闇に手を伸ばし、その言動で信頼を獲得しようとする。
 黒い雷はあくまで味方を守り道を開くためにあり、自分たちを抑圧する存在を暴力的に打倒して、光の当たる場所を感染者が専有する未来を否定する。

 それは理性の光でもって激情の闇を拭い去る戦いで、レユニオンは暗い情動を飲み込んで、このスラム街でも膨れ上がっていく。
 それは感染者の逆恨みではなく、彼らを隔離し殴打し差別することで成立している現状の秩序が生み出した、社会の患部だ。
 仮面の奥に思いの外、幼い声を隠しているスカルシュレッダーは、正当にして不当でもある怒りの代弁者として、レユニオンに身を置く。
 彼が身を置く場所には光と闇の境目はなく、ただ不鮮明な煙が漂っている。
 仮面と煙幕、二重の秘密に守られた真実を微かに、ミーシャは感じ取って立ち止まる。
 しかし差し伸べられた手を取ることはなく、小熊は兎とともに進む。
 ……今のところは。

 

 後にフランカお姉ーさんがまとめるように、ロドスが掲げる理性の光は白々しく、力強く、曖昧な夢を許してくれない。
 決意を込めて立ち上がれば新たな未来が暴力的に拓け、虐げられた自分たちも人間らしく生きられる。
 今まで散々に殴打され、罵られ、辱められてきた尊厳を取り戻し、社会の上下をひっくり返せる。
 ロドスはレユニオンの暴力革命を、理念的にも現実的にも不可能だと考えているし、理性的に考えればそれが正解だろう。
 しかし割り切れない現実の中で、夢を夢のまま……あるいは命懸けで現実に引き寄せて夢見るものたちはいる。
 レユニオンが処方する暴力的麻酔薬が、アーミヤがミーシャに施した現実的一時しのぎに比べて、実効がないと判断するのは難しい。
 差別と暴力、疫病と死に包囲された、スラムの住人や難民にはなおさらである。

 そして暴力に飾られた正義は同胞を殴り、その家を焼き、己の正しさをより弱いものを踏みつけにすることで証明しだす。
 一度手にすれば制御不能に燃え広がる”炎”を、レユニオンの首魁であるタルラがその象徴としているのは印象的だ。
 怨嗟と暴力の炎は一度解き放たれれば燃え広がり、世界を焼いていく。
 同時にそれは”マッチ売りの少女”が見た幻のように、現実の寒さに震えるものに慰めを与える。
 それに溺れたまま他人と自分を焼き尽くすか、生きるには寒すぎる現実で理性的に、正しく活きるか。
 アーミヤとミーシャ、スカルシュレッダーが身を置く黒白の境目には、そんな答えの出ない問いかけが踊っている。

 

 

画像は”アークナイツ 黎明前奏/PRELUDE TO DAWN”第5話から引用

 そんな境目をつなぐものとして、今回は”手”が印象的に扱われていた。
 不信をあらわにするミーシャに、ドクターがそれでも差し伸べた手。
 自分を売るかもしれない存在に、信頼を預け肩に乗せられるミーシャの手。
 颯爽と希望の方角へ飛び立つ時、ミーシャの体を支えるアーミヤの手と、伸ばされ届かないスカルシュレッダーの手。
 明暗入り交じるスラムで、融和を求め夢を追う時にもどかしく動く、アーミヤの指。
 発作を起こしたミーシャに、”手当”をするアーミヤの手のひら

 繋がるもの、繋がり得ないもの、探し求めるもの。
 ……あるいは、殴りつけるもの。
 人は手を使って実際に何かを掴むことが出来、それはもどかしく届かない思いを伝えるべく、他者に伸ばされる。
 それが時に暴力に揺藍された暴力であることを、スラム住人とレユニオンの衝突……それを阻止するべくアーミヤが伸ばした手のひらは語っている。
 同じ手のひらが何かを癒やし、何かを壊す。
 その境界線を分けるのはやはり理性なのだろうが、自分を虐げ家を燃やすやつすら許して、”平和的解決法”ってのに甘んじなければいけないのかと、行き場のないスラムの住人は問いかける。
 多国籍で無国籍なロドスの代表は、地と血に縛られた存在に差し伸べる手を持たず、小さく謝ることしか出来ない。

 アーミヤは自分の手のひらも、ロドスという組織の掌も、世界全てをすくい上げるには小さすぎることをよく理解している。
 レユニオンは間違いきった世界を叩き潰し、全ての同胞をすくい上げるほど己の手のひらは大きいと、大言壮語する。
 よく鳴り響く空手形か、誠実で不確かな約束か。
 どちらを信用するか……あるいはどちらも信用しないか、答えは世界中無数に散らばっていて、その全てを拾い集めて完璧な社会を編み上げることも、人に手のひらには余る。
 それでも一人間の手は確かに伸びて、目の前の人と繋がり、あるいは殴り倒すことが出来る。
 可能と不可能、節理と理不尽。
 その狭間に伸びる光と影の中で、子どもたちは未来を夢見る。

 

 

画像は”アークナイツ 黎明前奏/PRELUDE TO DAWN”第5話から引用

 狭苦しいスラムを舞台にし、延々出口を探し求めて迷う今回、ミーシャとアーミヤの距離は緊密だ。
 その薄暗い雰囲気が、道を切り開いて目的地にたどり着いた時、光の中で大きく拓ける。
 信じる。
 都合のいい夢を差し出さず、生真面目に不都合な真実しか見据えないちっぽけな兎を、ミーシャは信じると告げる。
 その信頼は闇の中たった1つ確かな輝きであり、そうあるべきで……はたして、それが全てを救うのか。
 麗しき理念は常に残酷な現実に覆され、伸ばした手は届かず、希望は残酷に食い荒らされて、なお広がる荒野に人生という物語は続く。
 続いていってしまう。

 そういう”現実的な”物語をこのお話が紡いでいることは、ここまでの5話で既に見えているだろう。
 難民、差別、貧困、暴力。
 人類史に常に隣り合うやっかいな隣人であり、跳ね除けても跳ね除けても絡みついてくる矛盾は、僕らを包囲するのと同じ形でアーミヤ達を睨みつけている。
 このまばゆき光の勝利が、美しき友情と信頼が、なんの答えにもならない未来が待ち構えていると、残忍に真摯に告げている。

 アーミヤはミーシャの信頼を得、伸ばした手を取ってもらえた。
 しかし大義を握り込んで殴りつけるレユニオンの暴虐を止めても、同じ感染者に殴られていたスラムの住人全てを、ロドスに収容することは出来ない。
 高邁な理想を掲げる一私企業の綺麗な手のひらは、複雑怪奇な現実の土で汚れた龍門に、何を差し出せるのか。
 差別と貧困をスラムに押し込め、まばゆき繁栄を維持する現状には、それなりの理と理不尽があり、患部は深い。
 その国家規模の重たさにも、アーミヤの小さな手のひらは届くのか。
 理性の光は、現実の闇全てを駆逐しうるのか。
 疑問は絶えず、物語は続く。


 困難な迷宮を共に抜けて、少女二人がたどり着いた眩く温かい広場は、けして物語のゴールなどではない。
 この輝きの先に待つ、光に照らされればこそ深い闇へ、ストーリーはさらに踏み入っていく。
 人倫の荒海を泳ぐ方舟と、その舳先に立つ者たちが見るのは、甘き絶望か果てなき夢か。

 英字サブタイトルに選ばれた”Ripple”は、大きな嵐の前兆たるさざなみを意味する。
 それは絶望に落ちかけていたミーシャの心を震わせた希望の兆しか、この脱出行の先にある悲劇の前兆か。
 次回も楽しみですね。