イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

テクノロイドオーバーマインド:第10話

 終極を前に顕になる真実と起源、テクマイ第10話である。
 ノーベルおじさんの導きによりたどり着いたのは、激ヤバ科学者芝浦博士の愛と罪であり、義父がどういう過程で横恋慕募らせいい塩梅にイカレていったか、投げつけられるエソラの気持ちにもなれよ! という回。
 最初はハイテンション面白おじさんだった芝浦博士が、積み重なる不幸に引っ張られてドンドン人倫を投げ捨てていって、最終的には死が確定した人体実験で『心を持つアンドロイド』を作って妄執の犠牲にするあたり、カルマ濃くって大変良かった。
 ブラックボックスとして運用されてきたアンドロイドの心も、オリジナルを不完全にコピーした上でクソオヤジ(と、その継承者たるノーベルおじさん)が発育させたモンだと判明し、収まるところに色々収まった感じ。
 極めて狭く湿度の高い、家族的地獄から生まれて囚われてた機械の心であるけども、環境悪化の救世主として一気に世界に広がったアンドロイド技術は、芝浦家個人の妄執を既に離れて、大きな社会問題になっている。
 個人の問題が世界に拡大される形で話を決着させるのか、家族の問題は家族単位で片付けるのか、ちっぽけで狭苦しい課題を世界レベルにまで拡大して終わるのか。
 こっからどう風呂式をたたむかが大事かな、と思う。
 ……芝浦博士の物語には一切登場せず、正義を執行する装置として軋みながら今ここにボーラがいるのは、見た目より遥かに大事っぽいなぁ……。

 

 つうわけで長い過去回想が展開されるわけだが、芝浦博士の異様なテンションでなかなか楽しく見れた。
 エリザベスとワチャワチャ楽しくやってる頃合いはチャーミングな個性だった思いの強さが、彼女が他人の妻となり事故死しし、どんどん自分から離れる中で狂気の様相を帯びていくのは、なかなかいいサイコホラーだったとも言える。
 想像を超えたイカレっぷりで全ての運命を仕組んだ博士であるけども、求めていたのは愛した女の影であって、エソラは妄執の鍵でしかない所が最悪であり、ネグレクトぶっこいてた理由として納得もする。
 自分の恋心が深く食い込んだ形で、失われたエリザベスを完璧にするために、残されたエソラは完璧な人間でなければいけない。
 それを自分が成し遂げられず、完璧を教えられる誰かに任せきりにしてしまう所が、マッドサイエンティストの修身的怠慢というか、自分をよく知っているというか……。
 そういう風に頭の中の妄念だけグツグツ煮立たせて、目の前の事象に生身で向き合おうとしない所が、エリザベスに選ばれなかった最大の理由なんじゃないですかねぇ……。

 まー超ろくでもない世界なんで、その根本原因たる芝浦博士がダメダメなのは納得しかない。
 『そらー世界政府も危険視するわ……』という、被検体が死ぬほどの高過負荷えお前提に取り出された、デジタル化された魂。
 それを社会と接合する筋道も、他人の命を救う算段も投げ離して、個人的感情と業に決着つけるために野放図に使って、実際世界は変わってしまった。
 始まりの四人がどう転がって、ごくごくフツーのポンコツが人殺しをした(と、現状考えられている)溶鉱炉事件に繋がっていくのか、今回明かされた真相の続きが、結構大事な感じがする。
 始まりは狭くて湿った家庭内事情だったとしても、心がある(ように思われ、しかし社会はそう遇していない)機械は家から飛び出して滅びかけの世界の基盤になってしまっている。
 技術が生み出した新しい形の人類、急速に変化する社会構造は暴力的な軋みをあげて、ロクでもない形に加速しているわけだが、さてそんな現状に自分たちの起源と絶望を知ったKNoCCはどう向き合うのか。
 歌はそこに、どんな奇跡を生み出すのか。
 そこが大事かなと思う。

 オヤジの激ヤバ過去でぶん殴られ、自分が全ての原因なのだと告げられたエソラと同じくらい、KNoCCたちも衝撃はデカかろう。
 自分が誰かの不完全なコピーでしかなく、なにもかもが仕組まれた存在だったと知ることで、機械は絶望を知った。
 楽園なんかじゃありえないこの世界で本当に生きるなら、理不尽への怒りや運命への絶望もまた、学ぶべき大事な感情だと思う。
 ノーベルおじさんがここら辺大事にして、世界の全部をバブちゃんロボに学んでもらおうと色々筋道立てていたのは、公平で賢明な態度だと思う。
 あの人がダイレクトにエソラに繋がろうとしなかったのも、あくまで科学者として息子に向き合った芝浦博士をオリジンとし、その在り方を越えられない鋼の継承者らしい態度だなぁ、と思う。
 まーオリジナルに比べるとテンションは落ち着いてるし、被検体の自主性と生命を尊重しているし、大変優秀な次世代なんだけどさ……。

 

 真相が暴かれ、結構古典的な”機械の心”をそのまま継いできたわけだが、ここ数年でAIを巡る現実は一気に加速し、夢の仮想存在から銭金が絡む社会的現実へと、その手触りを超えていく。
 色々あって放送が延期している間に、テーマを取り巻く現実がフィクションを超えていく体験はなかなか得難いもんだが、AIなるものが今まで幾度も描かれた”ヒトが生み出すヒト”とはまた違った、独自の可能性と問題点を備えたモノだという手触りが見えてきたこのタイミングで、こういう話をやる意味合いを、自分がどう受け止めるか。
 個人的には、そこが大変気になってもいる。
 このお話は魂や人間性の本質をブラックボックスのまま人間から抽出し、アンドロイドボディに埋め込むことで”ヒトが生み出すヒト”を作中に生産したが、どうもそういう取って出しの形で、機械の知性は実体化しないようである。
 というかそういうアプローチをさかしまに、曖昧で巨大なもやとしての知性を莫大な演算力でそのまま描画していく方法が、道具としての機械知性を実用化するメソッドとして選ばれつつある。
 それはあくまで科学と産業の道具であり、だからこそ人間社会を大きく変えていくインパクトを秘めていて、古典的人間像をそのまま鋼鉄に置き換える形では、知性なるものとの向き合い方は成立しなくなっている……ようだ。
 古い夢想を置き去りに加速していく現状の中で、あくまでオーソドックスに、そしてこの作品独自のトンチキさと奇妙な真摯さでもって『ヒトが生み出すヒト』を書こうとしてるこのお話が、どういう手触りで自分の中に収まるか。
 駆け出したエソラ、絶望を知るKNoCC以上に、そこが自分的に楽しみなポイントである。

(”NieR:Automata Ver1.1a”が同時期放送となり、人型機械を鏡にヒューマニティを問う作品が横並びになった偶然を、個人的にはすごく楽しんでもいるのだけど。
 こっちだとあくまでスパイスだった暴力的側面は、あちらでは機械たちの製造目的であり、人間不在だからこそ問われる人間性がメインエンジンとして駆動する。
 対してこちらでは確固たる生身の人間、そこで無批判に保証されるオリジナルな”人間らしさ”はゴロンと転がされていて、人が人たる所以を問わなくても答えがそこにある便利さが、逆に深めの踏み込みを塞いでる感じも少しする。
 ”そこ”がテクマイの中核ではない……のかもしんないけど、溶鉱炉おじさんやら最悪ラダイト運動やら描いてきた以上、やっぱ自分なりヒトに似た機械の存在定義はしっかりやって欲しくて、歌の話である以上ステージがその答えになってほしくはある。

 まぁエンタメとしての刺し方、コンテンツとしての展開が全然違う別の話なんだから、選び取ったアプローチも表現も、その結果生み出される物語も、全く別でいいんだけども。
 前半のんびりと展開されてきた平和な日常が、全て仕組まれた既定路線であると暴かれて価値が反転した今回、機械は所詮機械でしかない残酷さが強く、作品に覆いかぶさってくる。
 それは終わりのない闘争の中で確かに日々を重ね、誰かの思い出を受け取り、”人間らしく”生きている機械を今描いてる”NieR:Automata Ver1.1a”と同じ道程を、さかしまに進む歩調だ。
 ヒトに似た機械は機械でしかなく、しかしヒトとしか思えない何かを個別に削り出していく。
 その証明としてある物語が自分たちをどう語り切り、何を描くかを、2つの作品からリアルタイムで立体視出来る体験は、個人的には得難く興奮するものだ。)

 

 というわけでロクでもねぇ過去が暴かれ、少年と機械が絶望を知る回でした。
 真実は既に起きてしまって揺るがず、ではその衝撃を前に何を選び、何を歌うか。
 こっから残りの話数で何を描いていくかが作品の真価を決めるだろう、良いタメ回だったと思います。
 このお話だけに紡げる歌をしっかり奏できって、1クールのアニメを終わらせることが出来るのか。
 次回も大変楽しみです。