イマワノキワ

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NieR:Automata Ver1.1a:第7話『[Q]uestionable actions』感想

 夕べに残骸を晒すとも朝日に笑い合う鋼鉄のカルペ・ディエム、コミカルな閑話にこそ本質への問が宿るニーアアニメ第7話である。
 前回リリィの記憶に寄り添いレジスタンスの人間性に切り込んだ足取りは、今回パスカルとの妹探しを通じて機械生命体とヨルハ部隊の差異を問うていく。
 代理も変容も自在な鋼鉄の体、プログラム化されて残る記憶と歴史。
 代返可能な構成要素をどれだけ入れ替えた時、本当の私が消えていくのか。
 平和で微笑ましい日常に投げかけられた問には、おそらくこの後惨劇が答えていくのだろう。
 第1話で示されたように、(月面の空疎なる権力と繋がり続ける限り)ヨルハ部隊にとって死は終わりではなく、記憶と約束は保存され、あるいは不完全に断絶しツギハギに接続される。
 個体の生物学的死を絶対的終結とし、だからこそその外側に神の営為を求めた人間とは、何かが違っていて何かが同じな、歪なミメーシス達。
 感情を禁じられ、闘争のために生まれ、その定めから逸れて己を吠える壊れた機械の物語には、確かに生きた息吹と優しい微笑みがあった。
 そう刻みつけるような、中盤戦のヌキ回でした。

 

 

 

画像は”NieR:Automata Ver1.1a”第8話より引用

 笑ったり愛したり、人間の善き側面も人型機械は模倣していて、冒頭穏やかな日差しの中鹿を眺めるヨルハ部隊も、喜劇役者のような動きで助けを求めてくるパスカルも、チャーミングな人間性の眩しさが色濃い。
 俺ァすっかり2Bと9Sが好きになっちまったので、初心な二人が戦いも何もねぇ場所で、その中学生レベルの魂の赴くままTシャツ買ったり動物の話したりする夢を見てしまうが、このお話の舞台を思い返すと多分、叶わぬ夢なのだろう。
 何かを不穏に隠しているはずのオペレーターも、本物の花を夢見てキャピキャピした応対をしてくれる個性があり、『人間不在のまま、永遠の戦争を繰り返す機械』という文言からは想像しない個性といのちが、彼らには宿っているように思える。

 外形というのは奇妙に強烈なもので、前回人間型のアンドロイド達が”家族”になっていくのはスルリと飲み込んだのに、錆びたポンコツがリボンだけ付けて姉妹ごっこしている姿には、猿芝居の滑稽を勝手に感じ取る。
 しかし彼らの思いを偽物と切り捨てるのならば、アンドロイドたちの記憶も約束も価値をなくすはずで、9Sがすがりたがってパスカルに連れなくあたる”我々”の特異性は、よくよく考えればひどくあやふやなものだ。
 それを実感しているからこそ、9Sは機械生命体のヒューマニティを拒絶して自我境界線を保っているのかもしれない。
 後に群れから逸れたヨルハの戦士に、迷わず剣を向ける2Bがパスカル相手にはその応答可能性を認めて、頼みを引き受け対等に接している描写が、なかなかに面白い。

 自身を便利な形に変容させて躊躇いがないパスカルと、人間様から授かった身体髪膚を作り変えることをためらうアンドロイドたちは、構成素材が”人間”というカテゴリーを維持できる臨界点について、奇妙な空中散歩を楽しみながら語らう。
 アダムがイヴに告げたように『実存は本質に先立つ』のだとすれば、いかな素材、いかな生まれ、いかな歴史が刻まれていようとも今、ここで自分だけの記憶を蓄え約束を積み重ねる”私”さえあれば、本物だと確信できる何かが確かにそこには宿る……はずだ。
 しかし戦争のために製造された機械には乗り越えがたいプログラムがあり、巨大な群れからの指令があり、躯体の破壊が全ての終わりとはならない業に縛られてもいる。

 保存された記憶を植え付けられ、過去の”私”と同型の身体(それはヨルハ部隊にとって、共通規格の量産品でもある)でもう一度やり直す私は、果たして引き続き”私”なのか。
 これを問うことは、おそらくヨルハ部隊にとって感情を持つこと以上の禁忌なのだろう。
 人とは大きく異なった生と死を背負い、しかし人間と同じ愚かしさと理解らなさに縛られた機械たちは、まるで人のように己の在り方と運命に悩む、
 その軋みこそが、本質に先立つ実存の証明なのだ……と、サルトルならば言うのかもしれない。

 

 

画像は”NieR:Automata Ver1.1a”第7話より引用

 奇妙な文明が育まれる森の中、本来殺し合いをプログラムされたはずのアンドロイドと機械生命体は、共に屍の只中を進んでいく。
 データに刻まれた歴史……その構成要素が確かに持っていた思いを宿した記録の別名を、9Sは兵器特性であるハッキングによって読み解き、否定するべき機械生命体が個別に育んだ約束と、王の死を超えて共同体の意識を繋げようとする営為に触れていく。
 それは排他的で奇妙だが、バグと切り捨てるには愉快で豊かで、今まさに残酷な刃でもって終わりつつある、一つの実在だ。
 パスカルの手が、たとえここで終わったらどこかで新たに再生され、あるいは製造される機械だとしても確かに、今ここにしかない”私”を繋ぎ止めてくれた手触りと、どこか似通った鋼鉄の温もり。
 そういうモノを受け止める特性は、物質戦に特化した2Bではなく、電子の魂に触れうる9Sにこそ強い。

 コミカルで血なまぐさい探索行の果てに、一行は”妹”を見つける。
 森の中育まれたもう一つの文化圏、唯一の生き残りと恋を育み、ローズの部隊とは別の形で家族になろうとしている、ブリキのポンコツ
 それがおぞましい人の模倣であり、栄光の残照のみを残す不在の神への不敬だとしても、目の前で確かに起こっている変化は、眼帯に封じられた瞳を開かせる。
 新たな関係を定義し、心の奥底から湧き上がる願いに突き動かされて、自身の前提条件すら書き換えうる自由。
 それは、『機械生命体とはこうあるべき』『この永遠闘争の世界はこうあるべき』という本質を追い抜いて、血の通ったたった1つの物語として、今確かにここに存る。
 あってしまう。

 

 

 

画像は”NieR:Automata Ver1.1a”第7話より引用

 そのかけがえなさを残酷に断ち切れるのが”死”の強さで、謎めいた一匹狼はその冷たい感触を振り回しながら、同じアンドロイドに刃を向ける。
 話の分かる機械生命体と道を同じくしていることは、本質を見誤った堕落なのか。
 機械として人として、果たすべき定めを月の住人が裏切っているからこそ、メンテナンスも受けられないボロボロの有様で、なお群れを離れて彷徨うのか。
 濃いめの疑問を遺し、殺戮者は去っていった。
 前回肝心な部分を不鮮明なまま回想された決死の闘いを、生き延びてなお機械生命体を狩り、しかしヨルハ部隊の本質(と、誰かが勝手に定めるもの)に帰還はしない。
 その決断が秘めているものは何か、答えはまだ出ない。

 対話も理解も不必要なはずの”敵”も、取るに足りない囮として使い潰すべき”味方”も、それぞれの個体が代返不能な個性と思いを抱え、その集積として文化や歴史がある事実に、2Bたちは触れ合っていく。
 真実を見据えた衝撃に覆いを引っ剥がされたからこそ、ヨルハの証である眼帯を外して、Lone wolfでありMaverickでもあるあの戦士は、自分だけの戦いを続けているのか。
 謎は深まり、真実は不鮮明なまま、しかし機械しかいないこの物語が確かに、人間が人間である条件を追いかけ続けている確かな手応えが、豊かに広がっていく。
 やっぱ人に似て人ではないものを描く物語には、そういう手応えがみっしりと欲しくなる。

 

 

 

画像は”NieR:Automata Ver1.1a”第8話より引用

 冒頭、実存主義の根幹を引用し、アダムは自分のなすべき物語へとイヴを置いて……約束だけを遺して進んでいく。
 再び、大好きな人と巡り合う。
 当たり前の愛に満ちたその約束は、どうにも果たされない予感がプンプンする。
 形式を追いかけ知性を磨き、服を着て人を模す事で”何か”に近づこうとしているアダムが求めるものを、無垢なるイヴは知らないだろう。
 それでも通じ合うものがあり、彼らだけの物語もまた定めから外れて勝手に動き出し、あるいは宿敵たるヨルハの物語とぶつかって、どちらかが砕けるのか。

 道は定かではなく、その不確かな面白さこそが、物語が物語であることを支えている。
 ヨルハの戦士とパスカルの道、殺戮を繰り返すはぐれ狼の道、アダムとイブの進む道。
 それが出会い絡まり絶たれた後で、このお話はどんな総体を紡いでくれるのか。
 それはあるべき本質に先立つ、確かに血の通った実存として僕らの目の前に立ち聳えるのか。
 行く末を追いかけたくなる魅力に満ちた物語が、まだまだ続いていく。
 次回も楽しみだ。