イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴィンランド・サガ SEASON2:第17話『家路』感想

 ”蛇”の刃は奴隷を穿ち、死力を振り絞り目指す先は。
 我らに戻るべき場所なし、三界火宅のヴィンランド・サガ第17話である。

 ガルザルが殺されて死ぬ。
 まぁ、そういう話である。
 別に話数を使い切ったクライマックスというわけでなく、まだまだ厄介ごとの本番はこれからで、唐突にやってきて場を荒らし人を殺した狂人が、末期に儚い夢を見て終わると、それだけの話しである。

 優しき父が哀れな奴隷となり、幼子は育つ前に殺され、正気だったからこその狂気が満ちる物語なので、この悲劇はひどくありふれた、幾度も繰り返すその途中に過ぎない。
 バラバラに砕かれた世界を構築する、汚れた細胞のような死を、一つの生、一つの物語の結末として描く筆致は、どっしりとして重たい。
 悲嘆も憤怒も安らぎも、人間が生きて死ぬまでに見せる表情を全部混ぜ込んで分厚い。
 世界の砕かれたかけらにすぎないが、だからこそその全てを、余すところなく。
 そういう、それだけの話しである。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第17話より引用

 ヒリつく緊張感で描かれる”蛇”とトルフィンの決戦は、剣閃の奥にお互いを認め合うようなバトル漫画的展開を拒絶して、のっぴきならない対峙が生まれた原因を制圧する、戦術的闘争へと収斂していく。
 どれだけの怪物の中で腕を上げたの、異邦の剣筋がどれだけ冴えるの、戦士の好きそうなネタは副次的な要素に過ぎず、この対峙で重要なのがなにか”蛇”は常に見据え、トルフィンは剣に居着いてその裏をかかれる。
 ここら辺、嗅覚鋭く暴力屋の頭目やっていた男と、自分自身を復讐の道具に貶めて考えを放棄した男の、差異があるように感じる。

 獲得した戦術優位に切実な吠え声を乗せて、”蛇”は奴隷たちを制し、復讐の刃を振り下ろす。
 悲惨な過去も、メインキャラクターとの因縁もねぇゴロツキ五人の命、木っ端と捨て去って良いものかよ。
 命に釣り合う重さは命しか宿さず、ならば命を奪った罪を購うのは命でしかなく、”蛇”の曲刀は正義を執行する……と、言って良いものか。
 ”蛇”が部下の命を剣で贖ったように、ガルザルを殺す罪は新たな剣を生み出し、正義は繰り返す殺し合いとして、終わりなく連なっていく。

 そういう末路を避けるために体を張ったはずなのに、結局は出口のない修羅道に飲み込まれると解ってなお、トルフィンは”蛇”の吠え声に動けなかった。
 それは生きるべきものと死ぬべきものを、特定の視座から可視化されたドラマ性によって切り分ける歪さを、”蛇”が的確に射抜いたからだと思う。
 これはこのアニメがフィクションでありドラマであることを逆手に取った、かなり巧妙な一撃だ。
 トルフィンが復讐の途中、顔も名前もない途中経過として殺した犠牲を重たく背負うのならば、原理としてガルザルがぶっ殺したチンピラ共の命もまた、同じく重たいはずだ。
 そういう人間の根っこにかかわる問いかけを投げつけられて、トルフィンは動けぬままガルザルを刺され、刺殺したはずの奴隷に”蛇”は絞め上げられる。
 暴力は命に対する唯一の答えで、暴力である以上終わらず輪廻していく。
 白目をむいたその強力が、”ヴァイキング”が理想とする狂戦士(バーサーカー)そのものであることに、かなり強めの皮肉を感じる。

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第17話より引用

 トルフィンがどれだけ力で引き剥がそうとしても叶わなかった、死に際の金剛力を緩ませたのは、アルネイズの儚い嘘だ。
 既に終わりきって、なお燃え盛る熾火の始末。
 ガルザルを捉えた狂気の水底に、これから向かう死の淵に、腹の子どもごと沈んでいく心積もりを、かつて母であり妻であり、今は奴隷でしかない女は固めて踏み込む。
 もはやどこにもない家路へ進む荷車は、思い出と狂気を乗せて静かに揺れて、死にゆく男はひどく落ち着いた表情をしている。

 まるで聖人の末期の如き、静謐で流麗な場面が続いていくが、”蛇”が吠えた生き死にの重さがこの美麗で消し飛ぶわけでは、勿論ない。
 赤子の思い出は過ぎ去った妄想でしかなく、奴隷の背には狂気に至る深い傷が刻まれ、思い出したようにその手が赤く濡れていく。
 その生臭く重たい現実感と、すべての罪から解き放たれ悲劇が消え去ったような家路の静けさは、相反しつつ同居している。
 嵐のように荒れ狂った狂気と残酷も、確かに守りたかった愛しさと安らぎも、軒並みこのクソみたいな世界に確かに在ってしまってて、在るからこそこんなにも、生きることは辛い。
 幼子の小さな指を握り、その頬を血で濡らした質感を青い狂気の中でなお覚えているからこそ、ガルザルは家路を阻む悪漢を断ち切り、その報いを受けて胸を刺され、今死にかけているのだ。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第17話より引用

 善き夫であり父であり、そうあり続けることが出来なかった男の行き着いた最後の夢を、抱きしめ守った女の涙。
 画面は情感たっぷりにガルザルとアルネイズ、ヒャルティとの家路を描いた後、荷車を包囲する奴隷所有者たちを切り取る。
 それが、とても良かった。
 死に様さえ綺麗ならば何もかも許されるような、悲惨極まる過去さえ背負っていればすべての罪が贖われ平穏に死ねるような、ロマンティックな夢への耽溺を、作品自体が拒絶した手触りがあった。
 その硬質な、ろくでもない感触は”蛇”が吠えた命の平等を……つまりは主人公が奴隷生活の果てに目覚めた信念の裏側を、精妙になぞっている。

 どれだけの思いと過去を、消えない熾火を内側に抱え込もうとも、奴隷は奴隷、生きるも死ぬも自分では決められない経済的動物だ。
 意志を持ってはならない存在が、自分たちのドラマを貫くべく反旗を翻した時、押さえつけない所有者はいない。
 それは『あってはならないこと』だからだ。
 ガルザル達が末期に夢見た、あり得たかもしれない未来と、それが実際は儚く燃え落ちた事実への……相当な時間を使って描かれるドラマを味わえば、そのシビアな現実こそが『あってはならない』としても。
 命が命で贖われ、あるいは命扱いすらされないこの時代の当たり前は、確かにそこに在ってしまう。

 そういう無情を思えば、身内五人の命をガルザルひとりと釣り合わせようとした”蛇”の刃は、とても公平な”人間扱い”だったのかもしれない。
 同じ屋根の下、奴隷も暴力屋も地主もなく食を共にし、一緒に笑った。
 そんな時間が確かに在ったことが、正義と憤怒と面子に突き動かされ剣を手放せぬ”蛇”の脳裏、微かに燃えたのかもしれない。
 そしてそんな感傷は、血の色に染まった畑の只中、包囲された奴隷達のリアリズムに押し流されていく。

 

 かつての誓いも夢も、それを打ち砕く鞭の悲惨さも。
 死にゆくものの赤い血潮も、それを抱く女の愛も、何もかもを飲み込む冷厳な摂理も。
 何もかもが全て、そこに在ってしまう残酷な世界の実相。
 これに雪原で直面し、クヌートは己を楽土へ続く覇道へ置いた。
 眼の前で急転する運命を前に、トルフィンは何も出来ず立ちすくんだ。

 ガルザルは死に、アルネイズは囚われる。
 帰還したケティル達が、彼らを追い立てる国王の軍勢が、むき出しの暴力を刃に乗せて、神なき世界の”当たり前”を更に分厚く、物語に乗せてくるだろう。
 さて、遥か彼方を夢見る主役たちは、彼らが『あってはならない』と考える凄惨を前に、何が出来るのか。
 何をするのか。
 人が死んでも、物語(サガ)は続く。
 次回も楽しみだ。