イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルマスターシンデレラガールズ U-149:第6話『暑くなればなるほどかけるもの、なに?』感想

 夢に向かって猛ダッシュな眩い少女たちと、薄暗い世間のコントラストが激しい児童アイドルアニメ、勝負の第6話である。
 伊礼えりをコンテ演出共同作監に迎え、パキパキに決まった画作りとライブシーンの満足度でもって結城晴のアイドル事始めを切り取っていくエピソードとなった。
 前回強さも弱さも濃く描かれた的場梨沙を相棒として活かし、ゴミカス世間からの防波堤として、気づき導く大人担当として、プロデューサーの書き方も良かった。
 トータルとても良い話……なんだけども、多分作品が狙っていない部分が自分に引っかかり、何とも難しい手応えである。
 そこら辺含め、グダグダ書き綴っていこうと思う。
 なおこの後、性と児童に係わる話をしていくので凄くナイーブな問題に触るし、語り口もあえてドギツい棘が出るかもしれないので、ここで断っていく。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第6話より引用

 僕がこのアニメの良いところだと考えている、象徴性の高い絵で見ている側に色々考えさせる、受け取らせる作りは今回特に元気だ。
 晴は第3芸能課お姉さん組が足を踏み入れている、スカートを履いて(その中身が覗かれないように気をつけながら)踊る四角形から外れて、その外側を歩いている。
 男子に混じってサッカーをする方が、親に押し付けられたアイドルよりも楽しいと感じ、スカートを履くこと……の先にある成熟や、性の鋳型に自分を押し込める未来を拒む。
 その世界はピカピカストレートとはいかず、どこかバロックに歪んで時に暗い。
 ここら辺の極端な明暗はこのエピソード特有というわけではなく、U-149アニメ全体の基本パレットに常備されている色合いなんだけども、スカートを仕事の条件として当然視する世界、それを飲み込む……どころか、積極的に愛するパパの”Lady”になる未来へ自分を近づける梨沙との衝突で、影はより濃くなっていく。

 サッカーボールを棚に収める時、ひらりとめくられる布は晴が拒絶するスカート……その中にある性をひっそりと暗示し、エピソード全体の方向性を静かに、強烈に定める。
 よく制御され作画されたその手付き、身体的な仕草の匂いに、スカートを履かない晴が拒絶しているモノの手応えが良く宿っていて、それが『女である、女になる』ことにポジティブな……というか、ある意味グロテスクでアンバランスにがっついている梨沙とコンビを組むことで強調される。
 梨沙がパパに愛される己であり続けるためにアイドルをしていること、それに汗を流し苦しさに耐える覚悟があることは、前回結構上手く示された。
 スカートを履くことにためらいがないどころか、へそ出し肩出しのファッションでもってセクシーな自分を作り上げ、パパに愛してもらえる(と、世間的には思われているらしい)かたちへと自分を近づけていく。
 それは”女”という性を外装から埋め立てて、内実として接種していく歩き方だ。

 

 後に大人たちのどす黒い拒絶で示されるように、今回の仕事(ひいては、U-149世界全体、あるいはモバマスアイマス全般がそうなのかは、僕の視野では判別しきれないけども)において”アイドル”は半ば自動的に”女”であることを求められる。
 そこには本来的にすごく複雑で難しい問題が内包されているはずで、特定の社会的ふるまいや外形を求められ、己だと定義しその通りに振る舞うひとまとまりのアイデンティティをどう獲得していくかとか、とても切実で大切なはずなそれを無邪気に消費することで回転している産業と社会の危うさとか、性の当事者であり対象でもある自分が鋳型に嵌められスカートの中を無遠慮に覗き込まれる可能性への怒りとかが、多分ある。
 晴が拒絶し留まりたいと思っているのは、待ち受ける”それ”を無遠慮に当然視し消費する社会への当惑が結構強めに(そして無自覚に、言語化出来ぬまま)混ざっていると思うのだけど、エピソードに漂う隠微な雰囲気はそこらへんを、慎重に練り込んでいるよう感じられた。
 アイドルであることと、スカートを履く女であることは≒で結ばれ、それを拒絶することはアイドルという職業(的場梨沙が本気で向き合いたいとしがみついているもの)への無気力を示すという構図に話はまとまっていくけども、もう少し不定形で柔らかな檻の中に、晴の拒絶はあるように思う。
 それは否応なく身体的な性を持ってしまい、そこから己を引き剥がし性を選ぶ権利もまた存在している現代的人間像にとって……なにより己の在り方を様々に探っていく時代の児童として、とても大事なことだ。

 晴がめくられる布地の奥に見据えているものを彫り込んでいくことは、つまり性の当事者にして対象でもある”女”として子どもを描くことに繋がっていくので、エピソードは慎重にその寸前で足を止める。
 女であることを誰かに選ばされるヤダ味が行き着く先には、かなり露骨な暴力と存在否定が待っているし、その一端を踏みながら入り口でしかなく、しかし確かにそういう最悪な場所に続いている『女の子なら当たり前でしょ?』への拒絶が、いったいどんな難しさに繋がっているのか。
 お話はその深淵を睨みつけつつ、精妙に踏み込むのを止めて、結城晴個人の旅路として彼女の”アイドル”に出会わせ、女に出会わせ、程よい安住地を探っていく。
 その慎重な足取りは、これ以上重たく生臭いものを作品に取り込まないためには正解だったとも思う。

 

 同時に個人的な好みとしては、行き着く所までガッツリ向き合って、結城晴が拒絶するもの、選びたいものの輪郭を削り出してくれても良かったかな、とは感じる。
 『そういう話じゃない』と言い切るには、言語化されずしかし確かにカットに切り取られているモノが今回あまりに多い。
 お話全体は晴と第3芸能課のアイドル事始めにパッケージしつつ、例えば年上のロールモデルとなるLiPPSが”セクシー”なユニットであるとか、プロデューサーが男女の性差を越境する行為(その足取りにもまた、作中作外両面の危うさがあるけど)だとか、『なぜ結城晴はスカートを履く自分を選べたのか』を明言せず暗示する筆は、結構複雑な暗号にまみれている。
 わざわざそういうわかりにくさを選んだのは、結城晴が……彼女が代表してしまう形になった、他者による性の強制を拒む少女(あるいは、かつてそうであった女たち)の難しさを、結構見ている証左な感じを受けるのだ。

 同時にガッツリ真正面からその問題には踏み込まないし、表面上『アイドルへの本気度』という形でスポ根の匂いを宿しながら、話は落着していく。
 性別、性差、性行為など、様々な意味合いを(複雑に、難しく、願わくば豊かに)宿すセックスという言葉は、別にU-149の主題ではないし、主題にしてしまった途端になんもかんもそのドギツイ色彩で塗りつぶされる厄介なネタだとも思う。
 お姉さん的立ち位置を用意されてるLiPPSもまた大概10代であることを考えると、”セクシー”であることを売りにする偶像商売のヤバさと、そこに無邪気で無批判である姿勢を積極的に打ち出すことで顧客に現状追認の気楽さを手渡してるさらなるヤバさが削り出されていくと思うけど、まぁそこに踏み込むと話超捻れるからな……。
 それでもなお、結城晴の第一歩を削り出すためには性に触る必要があると判断して、その隠微な難しさにクッションをかけた触り方をするべく、色んな暗号が仕組まれた……という形だろうか。

 

 エピソードに満ちる、性と成熟にまつわる無音の表象の描き方は、話数の主役として一人称視点を担当する結城晴自身が自分の違和感を、嫌悪を、拒絶を言語化出来ていない状況と、シンクロした結果でもあろう。
 セックスにまつわる難しさから、学童めいた第3芸能課の雰囲気を一つの聖域として遠ざけられ、しかし四角形の結界から自分を外して、そのあわいに立つ晴。
 彼女が視界に確かに捉えていて、しかしじっくりとは見たくないセックスへの恐れは、バックダンサーの仕事に向き合う中言語化されないまま、導きを得ていく。
 恐れ知らぬままに遠ざけたものを見据え、知っているものへと変えていく。
 そういう発見と成長がエピソードもう一つの背骨になっていて、なおかつ言葉にしてはいけない性の危うさは最初から最後まで、名言はされない。
 『作中の晴自身が明瞭な言葉にできていないのだから、その描き方もまた不鮮明でなおかつ、確かな存在感を持つべきだ』というのは、作劇のトーンと実際の表現を重ねた良いシンクロだったと思う。
 あるいは、踏み込まないための適切なアリバイか。

 色々言ってるけども、セックスにまつわるこの不鮮明で強烈な筆致それ自体が、セックスを扱う難しさを体現もしていて、結構好きだ。
 それは布奥に秘され、『アレ』という代名詞で常にぼやかされ、しかし人間が生きることの相当大きな部分を締めている、姿が見えない獣の影だ。
 明示しないことそれ自体がその巨大さを示す、極めて複雑に捻じれた仕草が性の領分には常につきまとって、そのスキャンダラスな姿勢は性を扱う時の面倒くさい手応え、スルリと逃げて決定打が撃てないもどかしさ、不定形だからこその面白さへとつながってもいる。
 同い年の相棒である梨沙が結構おバカなアンテナで受信し、『これこそが私だ』と挑発的に選び取ったショッキングな衣装が、生身の獣が暴れ倒す現場でどのように引っ剥がされるかを、当然晴は知らない(し、梨沙も分かっちゃいない)。
 まだ知るべきではないだろうし、知るとしたらそれは暴力的な激しさの中ではなく、穏やかにその難しさを撫でれる特別な場所で行われるべきだ。
 そこら辺の厄介さを静かに撫でつつ、スポ根アイドルのアイドルスポ根は汗臭く、歪な暗さを随所に孕みながら転がっていく。

 

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第6話より引用

 フラフラと、子ども達の繊細さにどっしり向き合う完成度を相変わらず有さないまま、しかしプロデューサーは彼のアイドルを見つめ、先導し、守るための立ち位置へ進みだしていく。
 彼は(ステージと違い、子どもがスカートを履かない子どもでいることを許されう)公園で立ちすくむアイドルたちの先に立ち、その仕事がどんなものかを間近に見させ、晴の瞳に具体的なあこがれを宿させる。
 上手く言葉にならない晴のイメージの中で、プロデューサーが差し出したアイドルの現場が汗臭い理想と結びついて、一つの像を為していく。
 その創造的な火花を消さないように、彼は緑色に冷えた会議室の端っこで、その冷たさが漏れ出さないように自分が蓋になる。
 それは当然であるし、とても大事なことだ。

 長であり大人でもある自分が入ってくるのに、ノックをしなければいけない公私混同が多分第3芸能課の良いところであり、大人っぽく割り切って自分を削り取るような嫌なことも飲み込む”仕事”は、そこから遠ざけられている。
 そこでは子ども達はニコニコ楽しそうに遊び、なりたい自分を引き寄せてくれる素敵なお仕事に旅立っていき、あるいは学校の宿題や友達とのふれあいを行っている。
 そういう生ぬるいお家感覚を追い出して、結果を出せとオッサン達は迫る。
 その厳しい無神経こそが仕事であり、大人の証明なのだと、ひどく戯画化した形で腕組みをして、スカートを履くことを強要してくる。
 彼らの頭に『スカートを履かないアイドルが、女がいても良い』という発想はないし、そうやってドラスティックに世間の当たり前をひっくり返す挑戦は、感動のないルーチーンと課した仕事にはタブーなのだろう。
 感動はアイドルの(あるいはアイドルの間近にある存在)の特権なのだ。
 ……このシンプルな二分法は、『大人/子ども』の分割と合わせてかなり色濃くU-149アニメに影を伸ばしているけども、あんまりにシンプルすぎるモノトーンじゃねぇかなという感覚は凄く強い。
 今後話数を重ねて、ここらへんが相転移するかは判らんけども、なんとなく継続しそうな匂いはする。

 

 ワクワクと瞳を輝かせ、あるいは隣り合う友人に引っ張られて無関心に感動を宿していく様子が、P先生が用意したLiPPSステージ鑑賞会には強く宿っていく。
 その衝撃が晴の瞳に具体的なあこがれを宿し、上手く言葉には出来ないけどとにかく嫌で、言葉には出来ないから嫌だった『スカートを履く自分』への忌避感を乗り越えさせていく。
 そういう変化は、会議室の中腕組みをした男たちにはなくて、この令和にぶん回すにはあまりに危うい性への固定観念、仕事への柔軟性のなさが、猛獣のように元気だ。
 それが子どもを噛まないように、ビビりつつも体を張ったのはプロデューサー頑張ったと思うし、『それをしないなら、お前がここに立ってる理由はねぇわな』という話でもある。

 感動できること、何かに気付き瞳の色を変えれることが子供の特権であるのならば、低身長な彼は感動できない大人たちの一員として、実り豊かな子どもの国に踏み入るパスポートを、作中唯一持った大人だ。
 子ども達よりは背丈が高いので、彼女たちが気づかない変化や未来を見ることも出来て、そうして変化を先導することでより良く、より傷が少ない形で彼のアイドルたちを変えていける可能性が、彼を主人公足らしめている。
 それがPちゃん(と、一ノ瀬志希に代表される一部の先輩アイドル)の特権であり続けていることは、アイマスという文脈が”プロデューサー”に宿している強烈な唯一性の反射なのかなと、門外漢ながら思ったりもする。
 同時にその唯一性は作品をあまりにシンプルな二分性に落とし込んで、結城晴が向き合うとても柔らかなものがひどく限定された回路から、必死に保護されてなんとか巣立っていくしかない道のりを舗装もする。
 晴が向き合っているものは(ここまでグダグダ長ったらしく述べたように)かなり複雑怪奇で大事なものだと思うし、なればこそより大きなスケールで庇護され対峙されて欲しいけども、Pちゃん以外の大人はそこに理解を示さない。
 スカートを履く以外の選択肢……それが『たかがスカート』に収まらない可能性を考える思慮は、第3芸能課を包囲している場所には無いのだ。
 それは、結構息苦しく寂しい世界構築な気がする。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第6話より引用

 千枝ちゃんのスカートをヒントに、プロデューサーは『スカートを履く男』として自分を提示し、晴がステージに上るための最後の壁を超えさせていく。
 それはとてもクィアで的確な助力で、あんま茶化すギャグでもねぇなと感じたんだが、作中(あるいはその外側での需要)は気楽でコミカルな感じで、やっぱ色々ズレてんなと改めて思う。
 笑える調子に肩の力を抜いたのも含め、晴を縛っていた『スカートを履く女である、それになる自分』という鎖をぶっ壊すべく、『スカートを履く女』をパロディしてみせたプロデューサーの発見と奮戦は、俺は結構血の通った優しさを感じて好きだ。
 最終的にそれしか選べない、『スカートを履かない女、スカートを履かないアイドル』を現場に乗せれない無力さも含めて、このお話がどこに立っているかを上手く示した場面だと思った。

 プロデューサーはこの後も常時スカートを履き続けて、当たり前のものとして第3芸能課の外でブン回る性差意識に、体を張ったプロテストを続けるわけではない。
 それはあくまで一笑い、彼のアイドルの背中を押すための仮装でしかないけども、しかしその謝罪とメッセージは、気楽ではあっても軽くはないと思う。
 その熱を後々反芻して、『あ、この大人の男は結構真摯に、オレの形にならない違和感と拒絶を考えてくれてたんだな』と受け取ったから、晴は『笑っちゃって悪いな』と告げたのだと思う。
 そういう感受性と行動力を彼女が持っていると教えてくれたのは、結城晴とこのアニメがが好きになるには自分的に大事な所で、だから嬉しくもあった。

 『スカートを履くアイドル』という虚像は切り崩せなかったけども、そこにスパッツを履かせる妥協案をなんとかプロデューサーは手繰り寄せて、晴は気楽にスカートの裾を跳ね上げる。
 その奥に秘されているものを、他人に勝手に規定され暴かれる(正当な)怯えと拒絶を超えて、『スカートを履く自分』をステージに載せれるようになっていく。
 ここに自分を持っていかないと”アイドル”としてサバイブ出来ないのが、このアニメが捉えようとしている世間の在り方であろうし、そこに様々発見と導きと歩み寄りを個人レベルで重ねて、なんとか戦っていくのがお話の軸なのだろう。
 極めてシリアスで相当やっかいな包囲戦を第3芸能課は戦っているし、その重たさは子どもらの可愛らしい輝きで塗り殺せない程度には、重たく暗く滲んでもいる。
 その陰りが、援軍少なくクズ大人と戦っているアイドルたちの健気な強さを、際立たせる助けになっているのか。
 ここは最後まで見届けないと、なんとも言えない不定形だ。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第6話より引用

 同時にようやくたどり着いた勝負のステージの裏、本番を待つ少女たちの緊張と決意を描く筆は、伊礼えりの真骨頂ともいうべき繊細な表現力で満たされ、力強い。
 ここまでアイドルをやる意味を既に捕まえ、グダグダ足踏みしている晴を引っ張る立場にいた梨沙を捉えた震えを、晴は見落とさない。
 その視力の良さは、自分ですら言葉にできていない不定形の悩みを見据えて、手を引いてくれたプロデューサーの強みを、正しく継承できた証だ。
 そうやって大人が手渡してくれたものを、子どもが自分らしさとして宿しうるポジティブな関係性も、細いながら確かにある。

 この足取りを強く補強しているのが、掴み所がないながらめっちゃガキども良く見てる一ノ瀬志希の描き方だ。
 初舞台を前に震える子ども達(それはかつての、いつかの一ノ瀬志希でもあろう)はお互い繋いだ手、その先に待つ未来に夢中であるけども、それを先駆ける大人はそんな二人をまとめて俯瞰で見届けていて、だからこそ気合も入る。
 その背中で背後にいる小さい存在を守り、道を示す。
 第2話で仁奈ちゃんに向き合ったときといい、一ノ瀬志希チャランポランな変人仕草の奥になにか、第3芸能課で育まれている柔らかなものをより良い場所に送り届けようとする、強い意志を感じる。
 晴と梨沙が健気に炸裂させる絆の手応えを見つめる視線に、LiPPSの仲間たちと積み上げてきた過去が反射しているのかな……と想像できるのも、とてもいいと思った。

 それは優しい献身であると同時に、アイドルでありアイドルでしかない自分の今を、精一杯輝かせるエゴイスティックな歩みで、だからこそ『してあげる』という押し付けがましい嘘っぽさが少ない。
 バックダンサーが頑張ってくれないと、晴れの舞台は失敗に終わるのだ。
 そういうエゴと優しさの程よいバランスを、大人びた少女は上手く手に入れている感じがある。
 それは第3芸能課の子ども達が……あるいは、大人とも子どもとも余裕なく向き合い続けているプロデューサーが、獲得するべき余裕なのかもしれない。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第6話より引用

 夜の陰りを鮮烈に活かした”Nightwear”を踊りこなす中で、晴と梨沙は第3芸能課を背負って『目立って』しまう。
 会社に一切期待されていないへなちょこ部署が、実績を積み上げデカくなっていく成り上がりの気持ちよさは結構緩めの傾斜で転がって、サクセスの無双感はやや薄め(なんだけど、かなり丁寧に積んでもいる)話であるけど、それは確かに子ども達と世間の瞳を鮮烈に焼く。
 LiPPSがセクシーであることをユニットの存在義と打ち出している、大人びたユニットであることはその衣装とパフォーマンス、『夜着』を意味する楽曲からも伝わるが、晴が悩んでいた『スカートを履く/履かされる私』がどれだけ力強く在れるかの証明として、ステージには良い説得力があった。
 まぁ『折り返しの六話でようやく、アイドルって仕事の何処がすげーか作中人物と視聴者に示す構成はどーなの?』と、思わなくもないけど。
 サクセス積み上げていくお仕事モノとしても、夢追物語としても、手触りも構造もかなり独特だよなーこのお話……。

 晴と第3芸能課(つまりはこのお話)はこのステージの鮮烈さと、楽屋で一ノ瀬志希が見せた謎を追いかけて、今後進んでいくのだろう。
 晴が流した本物の汗を涙のように優しく拭って、志希は廊下の向こう側に消えていく。
 彼女が何をいいたかったのか、晴は分からないままその姿を見失ってしまうが、彼女にアイドルの、女の、大人であることの実態を教えた先輩が進んだ方向が”未来”であることは明確だ。
 それは物語が始まった時、明瞭に理由を提示できないまま(できないからこそ)『視カートを履かされる私』を拒絶した結城晴には見えなかった場所で、このエピソードを経てなお、明瞭に言語化はされない。
 しかし迷い道を進み色んな人に触れ合い導いてもらうことで、未来が見えていない自分と、クリアに拓けているそこへの道に進んでいきたい熱量を、晴は知ることが出来た。
 言葉に出来ず、形にもならないからこそ強く湧き上がるものに惹かれる結城晴の気質を、明確にすることで殺すことなくそのまま、より広い場所へ導いていくお話の総まとめを、一ノ瀬志希というミステリが果たしている感じがある。

 見据えてなお遠い憧れの、正体を探るよりも早くその反対側……”幼さ”であり”現在(志希にとってはおそらく過去)”の方角から、かわいいかわいい妹たちが晴に追いついてくる。
 第3芸能課の出世頭であり、ステージに立つ憧れをひと足早く体現した身近な星として、晴は押し寄せてくる熱量をしっかり抱きとめて、共に笑う。
 それはあのバックステージ、知られぬまま震える後輩の決意を見守っていた、一ノ瀬志希の”大人”な視線を、晴が体得した証明なのではないか。
 時の流れの中で気づけば自然と行き過ぎて、しかしそこを進んでいくためには人間個別の苦しさと難しさ、それを先に進めるための助力と優しさを必要とする、普遍的な歩み。
 そこで触れ合い手渡せるもの、成長の証として確かに残るものがあることを、過去と未来、大人と子どもが交錯する楽屋は鮮烈に描いている。

 

 この豊かな交錯がアイドルとプロデューサーの領分でせき止められていて、顔も名前もない大人と世間が大概ロクでもない感じなのは、なかなかに厳しいところでもあるが。
 第2話で仁奈ちゃんが街の人達と、凄くポジティブで自然な関係を結べていた描写が好きだった自分としては、狭いからこそ濃いこの距離感をもうちょい拡げて、色んなところで書いてくれると嬉しいなと思ったりもする。
 ここら辺作品全体で統一されたイメージというより、話数単位でガチャガチャ切り替わってる感じもあって、それが『人生いろいろあるよね……』という多彩さよりも、フィクションを貫通する哲学の不在に感じられてしまうのは、このお話の厳しい所だと思う。

 

 Pちゃんが防波堤として、発見者として、導き手としてだんだん頼もしくなってきてるのと、今回志希が果たした仕事が鮮烈だったのを合わせて、大人/子どもに分割されたモノトーンの世界がちょっと多彩な色合いを手に入れてきた……とは思う。
 同時に晴が向き合ったものの複雑怪奇な難しさを考えると、それを『我儘言ってねぇで仕事しろ』で片付ける存在として、第3芸能課の外を描くバッサリ感はまだまだ健在で、この二項対立をどう彫り込んでいくのか、イマイチ『これだ!』という感触がない。
 最後まで見届けて、それを得れる予感もあんましねぇんだよなぁ……。
 ここら辺、長々自分の興味関心を反射してベシャり倒した”性”への視線がおそらくは制作陣に全く共鳴してないだろう感覚も含めて、ズレてんなぁって印象。
 そしてそのズレが、思いの外悪いもんでもないかな……という感触もある。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第6話より引用

 そこら辺のモヤモヤは横において、汗を流すに値する彼女の現場として、それに隣り合う信頼できる仲間として、結城晴は”アイドル”と握手する。
 プロデューサーと合わせた拳は、そんな道程に大人が隣り合ってもいい信頼を、眩しく輝かせてもいる。
 結城晴が怯えていたスカートの中の無明にエピソードは答えを出さないが、スカートを履かない彼女がずっと持っていた”らしさ”が、拒絶しかけたアイドルの中にもあると教えることで、お話が光の方へ転がっていく推進力を捕まえた形だ。
 まぁ『やらない理由』を闇の中掘り下げていくより、『やる理由』を前向きに追いかけていったほうが風通しいいし、晴のキャラクター性としてそっちのほうが”らしい”のも間違えなかろう。

 同時にその背景にある隠微なものに、無言ながら結構真剣な眼差しが向いていた(と、僕は映像を受け取って感じた)のは嬉しかった。
 それは前回大人っぽさと女らしさ、なにより自分らしさにがむしゃら向き合っていた的場梨沙の補論として、今彼女たちでしか描けない話でもあるからだ。
 第4話で桃華がたどり着いた境涯が、第5話で梨沙を焦られせていた(からこそ、お話に加速がついた)構造といい、やっぱ話数をまたいでネタがつながってく手応えがあると、僕は楽しくなるようだ。

 今回晴とプロデューサーが合わせた手が、何を切り開いて次に繋げるのか。
 僕は結構楽しみだ。