イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

鬼滅の刃 刀鍛冶の里編:第10話『恋柱・甘露寺蜜璃』感想

 上弦二人を相手取った激闘も、遂にクライマックス!
 恋柱の可憐な奮戦を追う、鬼滅アニメ刀鍛冶の里編、第10話である。
 デバフとイライラミニゲームで散々手こずらせてきた半天狗戦も、最強形態・憎珀天を一人で相手取る人類の規格外が大暴れ蜜璃して、ようやく大詰めである。
 いやー……大迫力のufo作画でアニメになってみると、とにかく生き汚い耐久戦も思いの外食えるもんだが、半天狗の恨み言もボリュームマシマシになってて、炭治郎のキレっぷりに思わず、強めにシンクロしちゃった。
 こんだけ人ぶっ殺してなお自分を『無実の弱者』と思えるメンタルが、死んでも死なないしぶとさとか、様々な異能よりなお人と鬼を隔てる異質性なのだろう。
 同時に自分が他者を踏みにじる邪悪な強者だと認識できれば、それを改めるスタートラインにも立てるわけで、己のあり方を疑わない、疑えない不変の業は、過ちを正すことを許さない枷にもなる。
 自分で止まれないまま他人を食い物にするカスを、強制的に止めて終わらせてやるのも慈悲……って言えるのかは結構解釈別れると思うが、『鬼は死ななきゃ治らない』てのが、このお話の基本的なルールなのは間違いない。
 だからまぁ、とっとと死んでくれ半天狗……いい感じに盛った回想が、今なら70分特番で付いてきてくれるから……。

 

 そんな感じの耐久戦、止めを主役に任せつつ一番キッツいポジションを背負うのは、空気読めない萌え衣装に身を包んだ我らが恋柱である。
 甘露寺蜜璃という人は相当にグロテスクなキャラクターで、これをキャッチーな糖衣で包んでどうにかお出ししている事実が、今回アニメ特有の演出補強でより際立った感じもある。
 一家惨殺の果てに記憶や人間性をなげうち、憎き鬼になんとか刃を突き立ててきた玄弥や無一郎に比べて、蜜璃の過去は血の匂いがしない。
 だからこそのグロテスクというものが確かにあって、それは大正という時代女のスタンダードだった、家を守り子を生む生き方に順応できなかった時代性と繋がっている。
 蜜璃自身が天性の明るさを失わないので、過去も今も過酷な境遇に関わらずどこか前向きで、陽性の滑稽を失わないまま進んでいるけども、異様な体質によって他者から詰られ、社会に居場所を持てず、よりにもよって鬼殺隊という化け物ぶっ殺し組織で命がけの自己実現を果たしているのは、相当に悲惨である。

 悲惨なんだが、その悲惨さに溺れず健気に溌溂と、殺しの現場でフツーの小娘のように生きれてしまっている事がまた、彼女の異質性でもあろう。
 異常な状況に身を置けば心が削れ生き方が捻れるもので、そこで真っ直ぐで居続けられる純粋さは、人として正しいんだろうけども、どこか不気味な匂いを帯びる。
 これは主役である炭治郎にも通じるもので、どうしようもなく歪んでしまう引力を振りちぎって”普通”でいられる怖さみたいなものが、普通人には叶わない祈りと噛み合って、独特な存在感にも繋がっている。
 鬼殺隊以外の生き方を選べない修羅たちが、それでも心のどこかで願ってしまう普通で当たり前の幸せを、血と暴力と悲惨にまみれつつも汚れず、ずっと見つめ続けてくれる存在。
 それが話の中にいてくれることで生まれる救いもあるし、それが救いになってしまうがゆえに暴かれない異常性も、またそこにあるんだろう。

 

 自分と釣り合う番を求めて鬼殺しをやっている恋柱だが、真実恋の意味を知るにはその心は幼く、『世の中の女は、お嫁さんになる以外に道などないのだから』という、社会のスタンダード意識ゆえに、恋に焦がれている感じもある。
 同時に髪の毛を黒く染め、手弱女を演じて規範に従う行為は、どうあがいても蜜璃には受け入れ難かった。
 結果剛力こそが正義であり、鬼すらも慄く規格外の肉体をフル活用して自分でいられる、鬼殺隊なんぞに流れ着くことにもなる。
 ここを疑問視すると作品の軸がブレるのでセルフツッコミは控えられているが、鬼殺隊はどう考えても普通じゃないし、当たり前の幸せからは遠い異様な場所だ。
 そういう場所でこそ、鬼に人生狂わされたりそれで精神ネジ曲がったりしたイカレ人間も生きられるわけだが、裕福な家族の理解に見守られて、何もなせない自分であることを甘露寺蜜璃は受け入れられなかった。
 結果、普通に明るく可愛い怪物が人間社会の悲苦を寄せ集めた場所に、身を寄せることになる。

 ミオスタチン関連筋肥大と思しき大食い気質は、例えば無一郎の生家だったらその飢えを満たせきれず、成長し切る前に死んでいたような気がする。
 食うに困った女が流れ着く場所がどこか、遊郭編でぬらりと時代の毒を描いた後だけに、甘露寺家を包む恵まれた環境、そこを居場所に出来なかった蜜璃の渇望は、見た目の軽さと裏腹な歪さ、奇っ怪な熱量を孕んでいるように思う。
 他の隊士が生き方を歪める悲惨と無縁……というわけではなく、どんな地獄に身を置いてもなお可憐で軽やかで、見ていてなんだか愉快な気分になるような明るさを失わない……失えない気質。
 これが周囲の人に何を与えてきたかは、出番が大幅増量されていた蛇柱・ザ・大正ニーソプレゼンターが、色濃く示すところだけど。(本編で語れるの、何年後になんだろうねぇ……)
 空気に滲む血臭を嗅げない、頭のどっかがぶっ壊れたように思える彼女が他の連中と同じように惨劇に心を痛め、理不尽に怒る心を持っている様子も、戦いの中で強めに滲んでいた。
 周囲からは苦しみと無縁で、人生の当たり前に暗い部分を知らぬから軽やかなのだと思われがちな彼女が、その実凄くスタンダードな人間的感覚をしっかり持った上で、自然と明るく振る舞えてしまえる所が、僕は好きだ。
 人間をどす黒く逃げ場がない場所に追い込むのも、そういう泥にまみれてなお輝く光の強さも、両方見据えているのがこのお話だと思うと、汚れることがどうしても出来ない恋柱のあり方は、凄く鬼滅的だなぁ、と思ったりする。

 

 そんな彼女を活かすべく、炭治郎が仲間を引き連れ盾になって”合理的”な決断をする所も、一見熱くてよくよく考えるとグロテスクだ。
 記憶を取り戻す前の無一郎が、己の拠り所にしていた命の優先順位。
 あんだけその冷たさに反発していた炭治郎が、誰か一人が生き残って鬼の首を取るか、平等な生存を重視した結果使命を果たせず斃れるかの土壇場になると、一番勝ちに近い道を選ぼうとする。
 鬼殺隊は、まぁそういう場所なのだろう。

 それは人の心の傷につけ込む、疑似家族カルト的側面を持った鬼殺隊特有のグロテスクであり、人の道を外れた悪鬼を狩る使命と、それでもなお人間であり続けることを求められる矛盾が生み出した軋みだとも思う。
 真実修羅に、鬼を殺す鬼になれたのなら、鬼殺隊はもっと楽でもっと悲惨な集団だったとは思う。
 そこに多分、甘露寺蜜璃の居場所はないのだろう。
 人間の命を鴻毛よりも軽く扱って、超越者ッ面してるゴミどもをぶっ倒すためには、”使える”剣士を優先的に生かして、そのために自分の命を差し出す地獄めいた献身が、行動の基盤に置かれる。
 こんかい微かに発露したこの歪は、最終決戦で繚乱と咲き誇ることになるが、おばみつ本番の血みどろ開花と合わせて、これがアニメで見られるのも当分先だなぁ……。

 

 そういう軋みもありつつ、手前勝手に責任から逃げ罪から逃れるゴミカスの、首を切らなきゃ収まらない地獄が目の前にあるのも、また事実だ。
 己の至らなさを鬼喰の禁忌で埋め、一瞬の奇跡で大木を放り投げる玄弥の奮戦が、ただただナチュラルに強すぎる恋柱の剛力と摩擦して、切なく火花を散らす。
 そこまでしなきゃ鬼に滅茶苦茶にされた過去と、自分の言葉が滅茶苦茶にしてしまった家族に追いつけない業に急き立てられて、少年たちは剣を握った。

 その重たさが、鬼が持ち得ない連帯の強さが、果たして長かった戦いに終止符を打つのか。
 こうして終りが近づいてみると、一見チーム戦のように見えて孤独なエゴが分離しただけの半天狗、結構面白い敵だったな……鬼は自分以外に友を持てず、つまりは自分自身も友にはならないのだ。
 だから罪に目を塞ぎ逃げ惑う愚者に、鬼滅の刃が突き刺さる。
 次回、刀鍛冶の里編最終回。
 大変楽しみです。