イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

NieR:Automata Ver1.1a:第9話『hun[G]ry for Knowledge』感想

 ヒトの形を模したものは、その罪すらも写し取るのか。
 9Sを囚われの姫ポジションに据え、覚醒を果たした機械の魔王アダムと2Bが対峙する、ニーアアニメ第9話である。
 何しろ久々の放送であったけども、ビシバシキマった画作りと罪の上に罪が重なる重たい展開に、一気にどういうお話か思い出せられるエピソードとなった。
 浪川大輔渾身のキモさで迫りくるアダムの迫力が、2Bが眼帯つけて見ないようにしてきたもの、覆い隠そうとしてきたものを軒並み暴いて、一気に世界の革新へ迫っていく力強さを生んでいた。
 生も死も、宿命も理不尽もキモい高みから玩弄するかのような態度のアダムが、待ち望んでいた死によってイヴを奪われたこの後、どんな咆哮を上げて世界を噛みちぎっていくのか。
 終盤戦の火蓋を切るのに相応しい、敬虔でありながら冒涜的で、人工的でありながら人間的なエピソードでした。

 

 

 

 

 

画像は”NieR:Automata Ver1.1a”第9話より引用

 9Sくんを電子牢獄に閉じ込め心の闇を暴くスタートから、世界崩壊に獣のごとく叫ぶラストまで、全くもってアダム・オン・ステージといった風情の第9話である。
 彼はネットワークに繋がれ常にバックアップが保存される機械生命の宿命≒限界を脱し、複雑怪奇な人間なるものに興味を惹かれ、その文化を模倣する。
 宗教建築めいたその領域には石に刻まれた人間の荷姿と、自分たちがとうの昔に殺していた造物主が埋め込まれ、9Sの形もまた模倣され量産される。
 人もエイリアンも消え果てた、主なき戦場で延々繰り返される、人形たちの永久闘争。
 無意味な剣闘奴隷である事実をうっすら(あるいは明確に?)理解しつつ、2Bはヨルハである自分を脱して、眼帯を外しあるがままの世界を見ようとはしない。
 生きることも死ぬことも自由にはならない、何かに繋がれた機械の奴隷である定めから、はみ出さないことで彼女の存在意義と正義は保証されている。

 アダムは神殺しなど大した罪ではないとうそぶき、そんなことよりもとうに消え去った人間の残滓を探し求める。
 9Sの内面を深く掘り下げ、そこに宿った欲望を人間の証として観察し、模倣しようとしたのも、人間の似姿たるアンドロイドを通じて、人間を知ろうとする営みの一つだ。
 『真の人間』なるものがもう何処にも残っていない以上、アダムが探し求めようとしているものは答えのない蜃気楼でしかないのかもしれないが、それでも知への渇望は止まることを知らない。
 ただただ本当の人間がどういうものなのか知りたいから、2Bの大事なものを自分に引き寄せ、ハッキングで支配し、その憎悪と闘争の手応えを理解しようともがく。
 彼が作り出す偽物の街が、純白に染まった祈りの場を模しているのも、なかなか納得の生き方である。

 

 僕は2Bがその立場や外見イメージに反して、メチャクチャ血が熱いところが凄く好きなのだけども。
 仲間を思い使命に殉じる、間違いなく『人間らしい感情』と判別されるだろうものを眠らせて、彼女はヨルハであり続ける。
 孤立無援の苦境を月面本部は助けようとせず、ただポッドとの命がけの共同作戦に全てを投じて、定められた役割を果たそうとする。
 その意味も目的もない繰り返しは、人間としてみれば虚しく、機械としてみれば誠実だ。
 製造目的を的確に果たし、疑問を持たずに全てを投じることが人形の定めであり、それは造物主たる人間が消えてもなお、世界を支える美徳として機能している。

 しかし彼女は命がけの戦いの中で絆を育み、確かに同胞を愛する心を持っている。
 それは誰かが勝手に決めた定めをぶち破り、それこそA2やアダムのようにネットワークの鎖から自分を引きちぎって、眼帯の奥で燃えてる瞳が指し示す方へと、自分の身体と運命を押し出す始原だ。
 紙すら殺しうるほどの自由を、自己進化をプログラムされた機械たちは持ち得て、アダムはそれを当然と生まれて、2Bはそこに価値を見出さない。
 少なくとも、現状は見出さないように振る舞っている。

 9Sやポッド、レジスタンスの仲間たちと進んだこの旅の中で、2Bは戦うために作られたアンドロイドがそれでも、人のように生きる意味を求めてしまう事実を、既に知っている。
 それが敵対存在たる、機械生命にも同じであることも。
 その人間性をアダムは高みから弄び、試し、自分が到達出来ない生きることと死ぬことの真実を、2Bがもたらしてくれる事を強く願って戦う。
 闘争が本質となりうるのは、彼らを作ったエイリアンや人間にとっての答えなのか、そう作られたアンドロイドや機械生命体の初期設定なのか。
 それを確かめるべく、本気で怒った2Bと戦えるセッティングが必要で……だから9Sを攫い、調べ、模倣したのだろう。

 

 そんな超越的な態度は敗北と刃が迫っても揺らぐことはなく、しかし自分をかばってイヴが斃れた時、全てが瓦解する。
 アダム自身には最後まで遠いものだった死や憎悪は、だからこそ燃え盛る感情を宿す2Bによって証明されなければいけない謎だったのだが、彼を愛したイヴの犠牲によって、それは観念の領域から一気に身を引き裂く実感へと変質する。
 機械生命にとっては、所詮繰り返すネットワークの明滅でしかない生死の現象ではなく、愛し愛された半身が望んでいたはずの闘争と死によって永遠に奪われることで、アダムは彼言うところの”本質”を理解する。
 理解してしまうし、させられてしまう。

 神様気取りのイカれたキモさで、客観的に観察していたものが、どれだけの絶望をその身に撒き散らすのか。
 特別な個体として出生し、世界を学び人間を求め突き進んできた旅路で、ずっと欲しかったものが彼自身を貫く時、到来するのはまばゆき歓喜ではなく、耐え難い苦悩だ。
 戦うこと、生きて死ぬことがそういうモノだと知っているから、2Bは迷いながらも必死に戦い抜き、生きる意味を探してきた。
 死んでなお終わらない戦いの中で、己が己であることの証明を無為な戦いの中にこそ、あるいはそこで心を繋いだ戦友との絆に見出していた。
 それを知らぬまま虚しい光を求め、刃を福音のように祝いだまま、綺麗にアダムは負われない。
 無垢なるイヴがその傲慢を贖うように、愛ゆえに死ぬことで、アダムは解っていたつもりだった死の意味を、憎悪の重さを痛感することになる。

 それこそが人間の本質だとうそぶいていたのだから、彼はようやく怒り絶望し怨嗟の声を上げることで、ようやく”人間”になる。
 業にまみれ、愚かさを抜け出せないまま延々と地上をさまよう、救われぬ囚人こそが己の求めていた在り方で、元々自分はそういう存在だったのだと、イヴの亡骸を抱きながら思い知ることになる。
 愛こそが機械を人に変え、死こそが人を獣に落とすのであれば、愛するものを殺されたアダムはいかなる存在に変化……あるいは帰還していくのか。
 浮ついた観念に遊んでいた彼を”人間”にしたのと同じモノを、2Bと9Sが抱きかかえていて、だからこそ皆が殺し合う根源なのだと、愛するものを胸に抱く姿は語っている。
 不倶戴天の宿敵こそが、自分たちの本質を照らす照魔鏡だとはなかなか皮肉な展開に思えるが、共に戦争の道具として作られ、もはやその軛を引きちぎりつつも戦いを止められないヒトガタにとっては、むしろ必然の結末かもしれない。

 

 2Bはアダムの愛する人を殺し、己の愛する人を守った。
 戦いの天秤はアダムがキモい態度で玩弄したように、生身の実感がない乾いた観念では動かず、赤い血を(それが只の偽物であったとしても)確かに流す。
 待ち望んでいた答えを得て、さて最初の人間の名を背負う機械はその悲憤と憎悪を、何処に向けて吐き出すのか。
 次回が楽しみである。