イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

蒼穹のファフナー THE BEYOND:第5話『教え子』感想

 戦争と悲劇の間にある日常の中で、少年は己と世界の輪郭を見つけていく。
 島民総出のソウシ育成計画始動! な、ファフナーBEYOND第5話である。
 年相応の反発や無知も全部ひっくるめで、ソウシが色んなモノを学んでいく歩みに寄り添うかつての子ども達が、凛々しく頼もしく、少し切ない回だった。
 僕からはまだまだ様々なものに迷うことを許されて良い年に思える彼らが、己を厳しく律し戦いの毒に魂を汚されないよう、正しく生き続けている姿は、フェストゥムとの絶滅戦争、それによって変貌した人間の心身が、人間の幼年期を許してはくれない厳しさを良く語る。
 それでもソウシを小さく狭い場所から出して、彼自身が色んな物を見つけられるように道を整え教え諭し、何かを手渡そうとする優しさと強さが、強く感じられる回だった。

 里奈ちゃんの精神を通じてバックドアを明け、島の場所がダダ漏れになってる状況では平和は仮初めでしかなく、境内で開かれたフリーマーケットのような時間も、砲弾に崩れていくのだろう。
 そうして奪われてなお、武器を正しく使い敵を憎まず退けろと、実際にそうして生きてきた戦士たちはソウシに告げる。
 それは圧倒的に正しく、また厳しい生き方であって、武器が持つ魔性に囚われ憎しみの権化となった者たちが、どれだけ悲惨な過ちを世界にバラまけるかもこのお話は描いてきた。
 ニヒトに乗って暴れたソウシもまた、そんな憎悪の権化となりうる可能性と、剣の正しい使い道を見つけれる可能性両方を秘めた、未来に投げかけられた種子だ。
 それが良き芽吹きを迎え、このどん詰まりの世界を突破していく大きな梯子となるためにも、アルヴィスの人たちは人が育ち学ぶ当たり前の難しさに、しっかり向き合わなければいけない。
 そこにはこれまでの生き方からそれぞれに学んだやり方があり、人間関係の中で果たすべき役割があり、強がりと嘘と涙がある。
 思い出のスニーカーを投げ捨てられて、それでも怒りのままソウシを傷つけず、静かに泣きじゃくりながら共鳴を伝えた美羽ちゃんの、大人びてしまった姿が麗しくも哀しい。
 妹が見せた涙を欠片も浮かべず、強く厳しい大人の仮面をしっかり引き締めたままソウシに信頼を返す真矢が、とても立派だった。
 島に宿った人間本来の柔らかさ、暖かさは、ベノンが連れてくる戦火に容易に打ち砕かれる、脆く弱いものだ。
 その悠長な足取りが、どれだけ大事なものを守り育むのかを、良く伝える回だったと思う。

 

 というわけで戦闘ないけどいろんなことが起きている今回、重要なのは境界線の引き方だ。
 自分と他人、敵と味方、殺していい存在と守るべき命。
 そこに境目をひくことで人間存在はなんとか生き延びてきて、同化を救済/攻撃とするフェストゥムはその根底を揺らがした。
 私が私でいたいというエゴなくしては人は人のまま生きられず、そこに拘泥していては真の自分は見つけられない。
 ルヴィ様がおっしゃるとおり、自分と同じように尊いはずの他者との繋がり合い、それが生み出す社会に縁取られることで、人間はようやく自分の形を知ることが出来るのだ。
 孤独なエゴイズムを振り回しているだけでは、自分が本当に何を求めているのかは見えないし、本質的な孤独を生み出す自分と他人の境目がなくなれば、自分が自分であることも消えてしまう。

 フェストゥムとはそういう境目がそもそもない、根本的に非人間的な存在だったはずで、対話や講和の兆しすらない絶滅戦争の裏には、存在としての根源的な差異がある。
 しかし長い”ファフナー”のなかで人間とフェストゥムはお互いの骨肉を喰み、ケイ素とタンパク質を混じり合わせながら、相互理解(とその不可能)の種を育んでも来た。
 フェストゥムと対話可能なエスペラント、存在として中間に立つエレメント、そして人を知ったフェストゥムたち。
 セレノアやレガートは不倶戴天の仇敵であるが、自分たちが盗み取った人の形が生前、何を願って生きて死んだかに敬意を払い、影響を受けているように思う。
 島に乗り込んで即座に破壊工作をするのではなく、避け得ぬ闘争を前に同化と融和の可能性をエレメントたちに告げるのは、異質な敵でありながら同質な仲間となりうる……なりたいと願う心が、彼らに生まれているからだろう。
 一部のフェストゥムは変化に対して開かれつつあり、それは無機質な同化本能から憎悪に満ちた破壊へと、最悪の道を開く鍵になるかもしれない。
 あるいは対話を通じ、皆殺し続けてるより豊かで実りの多い未来へと繋がる、希望になるかもしれない。
 ニヒトに乗るソウシがそうであるように、流れる時の中変化の主体であり、また他者の変化の客体でもある人間存在には、紙にも悪魔にもなれる可能性が開けてしまっている。
 不変に思えたフェストゥムも、その天秤に己の魂を乗せるフェイズへと進み出しているのだ。

 同じ人間種でありながらフェストゥムに味方するマリスは、ジョナミツッ面のラスボス候補が決戦に焦るのを押し留めて、友達と話せるチャンスを求めた。
 彼がソウシに告げた友情は、けして嘘ではないと思う。
 しかし人間が人間であろうとするあがきに嫌悪や憎悪を持つからこそ、彼は人類の裏切り者としてベノンに身を寄せて、うすぎたねぇ魂魄盗聴で情報盗んで戦いを有利に進めている。
 道生さん達の姿を盗み取ってその死を冒涜したり、生き死にの境目が人間と大きく異なる存在だからこそ、フェストゥムは人間が人間でいるための聖域に土足で踏み込んで、対話不可能性を強化してくる。
 『そこを踏んだら戦争だろ!』という重要な境目が、本来的に生物と違った生き方してるフェストゥムには理解しづらく……しかしソウシとの家族ごっこを経て、次第にその境目を認識しつつあるようにも思える。

 人は死んだら蘇らず、時は逆さに戻らない。
 様々な異能を発現させ、転生や存在のコピーすら日常茶飯事になってしまったフェストゥム以降の世界で、人間が不可侵と思っていた領域は既に揺らいで、魂や生命のもつ神聖なる無謬も、疑わしくなっている。
 しかしそれでも、人が人である(そしてフェストゥムの一部は人に近づいている)以上、その存在を支える境目は確かにあるはずで、アルヴィスはそれを守るために、生存のための戦争機械へと色んなモノを切り捨てて変化していく社会から、独立し彷徨ってきた。
 自分が何者であるかを探る子どもを、子どものまま育み導いていけるような場所が世界にないのならば、人間の尊厳を守り抜くことは出来ないと強く信じて、島は荒海を必死に進んできたのだ。
 闘争に満ち、人間存在の暗い側面を浮き彫りにしてくる世界はまた、その理念と存在を厳しく試すだろう。
 それでもなお、変質しつつ人の人たる根拠を必死に守ってきた物語に何がなしうるかを、最新の島の子であるソウシの成長が語り、証明していく。
 今回はそのための大事な準備……であり、それ自体がかけがえなく脆くて愛おしい、ガラス細工のような日常のスケッチであった。

 

 

 つーわけで、沢山ご本読んで自分の目と頭で世界の実装を知ろうとしてるソウシは、健気で可愛かった。
 彼のあんま物分り良くないガキ臭さが僕は好きで、それは闘争拠点であるアルヴィスが否応なく押しつぶしてしまう、人間当然のみじろぎそのものだと思える。
 大人びた美羽ちゃん(そんな短いデニム履くの止めなさい! ぽんぽん痛くなるよ!!)が必死に押し殺しているものを、ソウシは当然の権利としてワイワイ騒ぎ立てていて、その波紋が彼女や島にも良い変化をもたらしてくれると良いな、と思っている。
 んなこと言ってられない世界なのは承知の上で、知りたいモノを知りたいと願い、真実自分でいたいと暴れるガキのワガママを、受け止めてあげられる社会であって欲しいのよ……。
 そこまで押しつぶしてしまったら、育つのは闘争だけに特化したフェストゥム的人間でしょう! つう話。

 島の外を知りたいとラジオに語りかけたのは、一騎の接触を受ける前のソウシだ。
 彼の中で弾んでいる渇望を眠らせて、既に知ったものをなかったコトにして、友愛の甘い夢にずっと微睡んでいる未来を、マリスは押し付けようとした。
 それはソウシが戦士として人間として、自分の足で立ち手で武器を握り目で見る力を育もうと、よけいな世話焼きにいった島の連中と真逆の支配だ。
 狭く閉ざされ、だからこそ安定していた楽園から否応なく子どもらは旅立っていき、何かを知りたいと強く願う前の自分には、もう戻れない。
 マリスはソウシを赤ん坊に戻そうとして、ソウシはそれを拒みつつもまだ友情を信じて、来るべき激戦の前になんとか、自分の輪郭を見つけようとする。

 ワガママ満載に見えるソウシがフリーマーケットで、”時計”を買ったのは僕は凄く大事なことだと思う。
 マリスが引き戻そうとする永遠の停滞を、その計器は否定する。
 島の外側にはあまりにも激しく、他者を否定し自分の存在を確立する世界のルール、逆向きには流れない時が満ちていて、その事実を認識するための触媒を身近に置くことを、ソウシは選んだのだ。
 本でいっぱいのベッドを見て解るように、彼は一騎に残酷にその揺りかごをぶっ壊されつつも、引きずり出された世界がどんなモノなのか、自分なりに学び定義しつつある。
 時を図る機械は、融和にも暴力にも進み出せる可能性の中に自分がいて、他人もまたそんな流れの中で隣り合っている事実をいつでも確認するために、ソウシが選んだ道標なのだろう。

 

 そんなガキに世界を教えるべく、かつて子どもだった人たちは親身によりそう。
 暴力装置をどう正しく握るか、武術家としての背骨が真っ直ぐ天地を貫く零央の立ち姿が、あまりにも眩しかった。
 剣司は愛する人を守りつつ、迫る敵を退ける難しさを語っていたけども、武術という文化は人間を獣に引きずり落とす暴力に身を浸しつつ、どう己を保つか人間があがいてきた記憶だ。
 自分が握った切っ先が命を奪いうるのだと、今更ながら認識してソウシは剣を取置し、尻餅をつく。
 その体たらくでは何かを守り、何処かへ道を開くことなど到底敵わないのだと、彼を見守るパイロットたちは知っている。
 たくさん大事な人が死に、守りたかったものが踏みにじられ、自身理不尽にもみくちゃにされてなお、人の人たる輪郭を保っていられる偉人たちだ。

 殺していい存在と守るべき存在を、峻厳に切り分け共感を封じることで、人間……というか生物は厳しい環境の中生き延びてきた。
 私の輪郭を延長し、家族や友人や同胞を『私と同じように生存して然るべきもの』と定義することで、そこからはみ出した”奴ら”への攻撃は激しくなる。
 フェストゥム混じりの人間たちを、生き残るべき”人間”と認めない新国連のスタイルは、その境界線をけして忽せにしないことで、『生き残るべき私たち』の存在を頑なにする。
 しかし彼我と生死の境目を強固にすれば、本来共に生きうると対話してみれば解る相手を、死ぬべき”奴ら”だと断じて皆殺しにしてしまう愚が、世界の当たり前になっていく。
 それが極めて残酷で、人間が人間であることを根本的に腐らせてしまう愚行だということは、長く辛いEXODUSにおいて分厚く描かれてきた。

 だからパイロットたちは自分の経験に鑑み、世界を柔らかな瞳で見つめて決めつけないこと、決めつけなくても生きられるほどに靭やかな自分であること、それが繋がった社会が強靭な柔軟性を保ち続けることを、何よりも重視する。
 ガキなんだから当然ソウシが見えない場所へと手を引いて連れていき、共に寄り添って色んなモノを見る。
 そうやって凝り固まった世界観を突き崩され、思いもしなかった可能性が世界と自分にまだまだ有るのだと驚くことで、人間(と、そのネットワークたる社会)は靭やかさを手に入れていく。
 ソウシはそれを学んだから、自分を銃で脅した真矢の真意に感謝を告げ、もう一度ニヒトに乗って新たな真実を受け取る決意に、たどり着けたのだろう。

 ソウシはスニーカーを投げれば、自分と同じ憎悪に美羽が染まって、彼女と自分の境目が怒りで入り交じるのだと、多分甘えていた。
 周りの大人がダメだと告げる、自分の奥底から湧き上がってくる熱が自分だけのものではなく、動物のように目の前の女の子も突き動かす瞬間を見て、ひとりじゃないと安心したかったのだろう。
 でも美羽ちゃんはソウシの狭い想像を裏切って、『そんな事しなくても解るよ』と、泣きながら告げた。
 立派すぎて哀しい場面だった。
 美羽ちゃんにも理不尽への怒り、喪失の悲しみは当然あって、それじゃなきゃ泣きなんてしない。
 でも強制的に育った身の丈と、宿命の子どもとして背負った大義と、目の前を通り過ぎていった沢山の死が、湧き上がる思いに身を任せて自由に振る舞うことより、人として正しくソウシに寄り添うことを選ばせる。
 その全部を受け入れれるほど育ってないから、美羽ちゃんは泣く。
 ソウシと同じくただのガキで、ただのガキではいられない経験をたくさん積み重ねた結果、今の彼女はソウシ一番の理解者でいられる。
 お姉ちゃんの辛さも解ってやらんと、良くない態度で傷つけてショック受けるの、ソウシほんま良くないよ!!!

 しっかしまぁ、菩薩の心を般若の仮面で押し殺し、一番厳しい監視者であろうと自分を諌めている遠見真矢のおかげで、ソウシはごめんなさいを言うことが出来ました!
 どうにもならない心に任せたまま、関係修復のチャンスを逃して自己正当化に流れると、この厳しい世界で待っているのは永訣と後悔だけなんで、ちゃんと告げれてよかった……。
 クソガキぼてくりこかして、自分と世界の輪郭分からせる仕事を冠水するためにはゴルゴ顔崩すわけには行かなくて、でも憎悪ではなく愛100%で接しているから、ソウシが投げ捨てた他人の思いをちゃんと拾って、手渡しもできる。
 真矢ちゃんがたどり着いた生き方は優しくて強くて、だから悲しくて寂しい。
 その全部をキャラクターに歩かせたからこそ生まれる味わいがBEYONDにはあるなぁ、と思う。
 人間のまんま子どもを守る側になった剣司の貫禄とか、天真爛漫なまんま笑顔でソウシを導く美三香とか、落ち着き払って大局眼を教える彗とか、彼ら自身青春の衝動と取っ組み合いしてきた子たちが、何処にたどり着いて何処に行くのか。
 それを確認できるのは、なかなか嬉しい。
 全員生き残って、最高未来にレディーゴーしてねホント……。

 

 生存のための戦いは、否応なく犠牲を生み憎悪と悲しみをふくらませる。
 魂の境目を乗り越えて何もかも飲み込もうとするその荒波に、どう線を引いて己を保つか。
  そうして強さと優しさを守ったからこそ、見えてくるものはなにか。
 そういう事を、ソウシと僕らに問いかける回でした。
 上から既に固まった正しさを叩きつけるのではなく、戦場の泥にまみれて自分の手で掴み取った答えを伝えてくれるからこそ、その難しさと尊さが良く伝わってくる。
 反発強いクソガキっぷりを見せつつ、しかし目の前に差し出された貴重な人生の結晶の意味を、取りこぼさないソウシの人格も良かった。
 スニーカーと一緒に投げ捨てかけたが、お姉ちゃん達が立派だったからなんとかなったね……マジ危ういからなああいうの……。

 他者や社会との触れ合いを通じ、一歩一歩自分の輪郭を確かめ、世界の実相を知る。
 人間が生きる中で幾度も積み重なってきた、当たり前で貴重な時間は赤い月の光で、無惨に砕け散るのか。
 闘争に満ちた世界でなお、人間を人間として育む難しさを感じつつ、しかしこの一話を戦闘無しで描けたことに、大きな意味があったなと感じました。
 再びニヒトに乗り込み、かつての家族に対峙する時、ソウシがここで受け取ったものがどう発芽していくのか。
 その芽生えが、残酷な世界をどう変えていくのか。
 次回も大変楽しみです。

 

・追記 『どうせみんないなくなる』って、諦めてしまいたくなる苦悩を越えてなお、屍は幾度も島に降り積もっていく。

 あー、あのフリーマーケットにいた人もたくさん死ぬんだろうなぁ……俺は凄くそれが嫌で、でも顔と名前のある主役にフォーカスしつつ、彼らがかっちぇえメカに乗って戦う場所で何が奪われ消えていくのか、ちゃんと描いてくれることがありがたくもある。
 死ぬべき”奴ら”って思い定めて武器を握る行為は、必ずそういう付随被害をもたらす。
 爆発とともに砕かれるのは、大事な誰かの人生なのだ。
 そういう痛みは大事で、でも大きな戦いの物語を描くカタルシスの中では見落とされがちで、だからこそ”ファフナー”は幾度も、これから砕かれる風景に確かにあった静かな幸せを描く。
 それが砕かれた後も、写真の中に彼らが生きた証は宿っていて、その思い出が暴力的な虚無へと雪崩落ちそうになる魂を、なんとか繋いでくれている。
 皆そんな風に、自分と自分たちの弱さを思い知った上で、なんとか強く正しくあろうとしているのだ。
 そんな体温がSF戦争活劇にちゃんとあるのは、本当に凄いし偉いと思う。