イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ひろがるスカイ!プリキュア:第32話『大変身!キュアマジェスティ!!』感想

 颯爽と力強く、成りたい私へ夢の翼を広げて。
 キュアマジェスティ本格参戦の、ひろプリ第32話である。
 赤ん坊としてのエルちゃんをしっかりたっぷり描いてくれてきたからこそ、あの子の背丈が伸び戦士として暴力の真ん中に生身を晒していく展開をどう飲み込んだものか、脳みそバグりっぱなしで困ったもんだが、戸惑っていても放送予定は止まってくれない。
 『エルちゃんはキュアマジェスティになって闘う』という確定した未来と、あの子が私達の大事な赤ん坊である今に橋を架けるべく、あげはさんを中心にエルちゃんの気持ちに寄り添い、心の翼が形になるまでを丁寧に追いかけてくれる回だった。
 大事な人に守られるだけではなく、守れる強い自分になりたいエルちゃんのもどかしさや焦りは、早く大人になりたいと願いながらプリキュア見ている子ども達、全員に通じる気持ちなのかもしれない。
 だとすればエルちゃんが強く美しく、巨大な怪物になってしまったミノトンのように力に溺れるのではなく、優雅に力を使いこなして為すべきを為せる存在になっていくのは、フィクションが夢を形にしてくれることで現実に力を与える、エンパワメントの一つなのだろう。
 なりたい自分、なるべき自分を求めてもがく道のりは、モニターの向こう側の小さな戦士たちには長く遠い。
 迷いつつあまりの厳しさに倒れ伏さない杖として、自分と何処か似たところがある女の子が素敵に”変身”して、大事な人を守れる強さを得ていた思い出が、いつか誰かを支えるのであれば、それは凄く意味のあることだ。
 その結末だけでなく、変わりたい、強くなりたいと願う源にしっかり踏み込んで、拙い言葉でそれを表すエルちゃんと、その身じろぎに寄り添い抱きしめ導くあげはさんの姿が描かれたのは、とても良かった。
 保護者であり教師でもある”保育士”という仕事が何をするべきなのか、メチャクチャ理想的な描かれ方をしていたと思う。

 今回あげはさんは、プリキュアになろうと頑張るエルちゃんを一切止めることなく、好きなようにさせている。
 奇跡はそう簡単に手にはいらず、癇癪起こして泣きじゃくりもするが、あげはさんはその度エルちゃんを抱きしめて、どんな気持ちでそれをしたのか、何を求めていたかを言葉にして手渡す。
 それはまだエルちゃんが、自分の気持ちを客観的に見つめるには幼すぎる年頃で、外側から自分の気持ちを切り分け制御するツールを与えてもらわないと、強すぎる感情に向き合えないからだ。
 あげはさんに『これがしたかったんだね』『頑張ろうとしたね』と、抱きしめられている安らぎ、身近な体温に包まれながら言ってもらえることで、エルちゃんは自分を突き動かす不定形の熱が、どこから生まれてどこへ向かっていくかを理解できる。

 それはあげはさんがあるべき正しさを押し付けているわけではなく、エルちゃん自身に見えていない……でも確かに彼女の中に力強く渦を巻いていて、奇跡と可能性へ子どもを押し出すエネルギーに、名前を貸し与えているだけだ。
 自分でも解っていなかった気持ちに名前がつくことで、エルちゃんはそれに翻弄されて泣きじゃくり立ちすくむだけでなく、落ち着いてどこへ自分を進めれば良いのか、どこへ生きたいのかを見つめ直せる。
 そうするだけの活力も、あげはさんの語りかけと抱擁はしっかり、エルちゃんに手渡していた。
 投げかけた言葉一つが、人間一人の世界認識、生まれ出自己像と未来を決めてしまいかねないので、ここで手渡す言葉の選択はありえんほど重いけども、それを重々承知で明るく軽やかにやり遂げているのは、あげはさんの誠実である。
 こういう事ができる存在を、多分”人間”というのだろう。
 迫りくる脅威を自覚し、重く沈んだ朝食を目の当たりにして、自分まで沈み込んだら終わりと積極的に笑顔作ってる描写とかもあったしなぁ……マジ偉いよ。

 誰かが自分の形や行く先を教えてくれるから、迷って見えなくなっても立ち止まらなくてすむ。
 支え……あるいは鏡としての他者の尊さは、例えば第22話・第23話でソラちゃんとましろさんが描いたものだ。
 ヒーローとしての自己像が描けなくなった時、ソラちゃんを彼女がいるべき場所/痛いと思った場所に引き戻したのは、ましろさんの手紙だった。
 キュアプリズムがキュアスカイ抜きの戦場で立ち続けられたのは、異世界から来た素敵な女のことであって、その眩しさに『私もこうなりたい』と憧れて、ちょっとずつ自分を変えたからだった。
 そういう相互反響の中で人間は、強く正しく美しい存在になることが出来て、かけがえのない誰かがいなければ、明日もっと素敵になる私はいないのだろう。
 ”お友達”の大切さを真っ向ど真ん中から、世知に長けたニヒリズムを跳ね除けて伝えなければいけない使命を帯びた”プリキュア”において、こういう形で他者の存在意義が繰り返し、深く強く描かれているのはとてもいい事だと思う。
 あげはさんは”お友達”というより”先生”あるいは”お母さん”としての尊さが強いが、そこにどういう名前が付くにしても、誰かがいてくれることの意義を繰り返される日常の中、それを壊しかねない非日常の戦いの中で削り出せているのは、とても大きな意味があると僕は思う。

 

 ここら辺の他者尊重、相互共鳴を土足で蹴り飛ばし、孤独な暴力に身を投げていくのがアンダーグ帝国……って構図なんだと思う。
 ミノトンさんの自我を奪い、手っ取り早い方法で脅威を消し去ろうとする余裕のないマジっぷりには、対等な関係性も与え合う豊かさもなく、シンプルで寒々しい。
 それは”人間”むき出しの形……少なくともその一つなんだろうけど、それが世界の真実だとする姿勢はあまりに非生産的で寂しく、恐ろしい。
 プリキュアが本気で背負う綺麗事を、現実の生っぽい本音(に聞こえるもの)で試す存在としては、そういう間違え方は大事だ。
 否定したいけど否定し得ない事実を突きつけてくる存在は、必死に戦わなければいけないほど強い必要があって、スキアヘッドに強キャラオーラが在るのは良いことなんだろうなぁ。

 前回雇用主の意向を汲まない我の強さが仇となり、暗黒ボッシュートくらったミノトンさんであったが、知性なき獣と化していように使われる道具に堕ちていた。
 まぁあいつが”武人”ってセルフイメージに酔っ払って、土足で蹴りつけていたものを思い出すと、”変わった”というよりは”飾りを剥ぎ取った”って感じではあるのだが、曲がりたりとも戦いの中他人を認めいるコミュニケーション可能性が、道具的存在に落とされることでかき消えてしまってもいる。
 プリキュア四人が渾身の一撃を受け止めた時、一瞬語りかけそうになってグロローって自我消えていたの、効率主義のスキアヘッドが何を重んじていないのか、良く分かる描写だった。
 散々ボコりあった敵なのに、ソラちゃんが自我消失に怒ってる描写があるのは、そこらへんの価値観が敵と味方で間逆なことを示してるのだろう。

 凶暴化したミノトンは電線にぶつかって骨が見えるほど痺れ、キュアマジェスティはそれを足場に華麗に舞う。
 暴力を制する意志があることで、同じオブジェクトが自分を害するか、利するかは正反対だ。
 エルちゃんは見ているだけしか出来ない赤ん坊だからこそ、力を得て強くなって何がしたいか、ヒーロー願望の根源をつくづく良く知っている。
 だから手に入れた力に振り回されず、お姫様めいた優雅さでふわりと着地をして、鮮烈なカウンターを叩き込める。
 ミノトンの圧倒的な力押しを、新戦士キュアマジェスティが柔らかく受け流し護るべきを護る殺陣の組み立てが、力との向き合い方を描く形になっていたのはとても良かったです。
 ゴツいイヤーカフに代表される蛮性と、高貴な紫色の優雅さが同居している戦いぶりが、メチャクチャシンプルに良かった……てのもある。

 

 まーその華やかさは可愛い可愛いエルちゃんが、暴力の現場に身を置く切なさと背中合わせなんだがな!
 ここら辺、ましろさんが気にかけている様子で次回に引いたのは良かった。
 マジェスティ参戦は飲み込むしかねぇ確定事項なんだが、何しろこのアニメは守られ愛され育つ存在としてのエルちゃんを丁寧に書いてきたから、あの子が現場で殴る蹴るする(つまりは殴る蹴るされる)状況が、血液脳関門を通過してくんない。
 なんも出来ねぇ所から一個ずつ言葉を覚え、自分の足で立ち、形のあるメシを噛み砕いて飲み込んでく。
 ちっぽけでかけがえない確かな”人間”だった存在が、一般的発育過程をすっ飛ばして”大人”になっちまう時間間隔と、オレの折り合いがなかなか付かねぇんだ!(ファンタジー分解酵素が枯渇した、薄汚い大人の鳴き声)
 エルちゃん自身がプリキュアになりたくてしょうがねぇ気持ちを今回、丁寧に描いてくれたのと、それを全部肯定しサポートするあげはさんが立派だったことで、飲み込みやすくはなっているけど、ね。
 『運命の子だし、急に育って暴力の真ん中に身も投げるよね!』みたいなノリだけで、押し切られるわけにはいかねぇのよ!

 『ここら辺もう一回、ましろさんが『でも……』って作中で言ってくれるとありがたいなー』と思ってたら、次回言いそうなので大変いい感じです。
 まー言うなら貴方だよね、虹ヶ丘ましろ……。
 超絶新必殺技のお披露目と同じくらい、新たな力、新たな可能性に戸惑いつつ受け入れる複雑な心境に力入れて書いてくれると、凄くいいと思います。
 次回も楽しみですね!