イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

蒼穹のファフナー THE BEYOND:第11話『英雄、二人』感想

 かくして運命は定められた未来を越えて、可能性の彼方へと。
 新主人公二人が”ファフナー”を終わらせる、シリーズ全部の決着を付けるBEYOND第11話である。

 微かな強引さは確かにあるものの、エピソード全体にみなぎった『終わらせる……全てをッ!』という気合がすんごい事になっていて、グイッと物語に引き込まれる仕上がりだった。
 自分たちがどんな物語を作り上げ、そこで誰がどう生きた結果どこにも行けなくなり、その停滞を嵐のようにブチ抜いて結末へたどり着くにはどうしたら良いのか。
 ソウシを主役に据えたBEYONDが追い求めてきたものに、真正面から全力で挑むエピソードで、力強く重たい……しかし爽やかな決着だったと思う。
 アルヴィスに育てられ人類最後の希望となった美羽ちゃんが、ソウシなしであれば選んでいただろう未来を疎んで、マリスは人類の敵になった。
 愛ゆえに始まった裏切りと闘いが、その故郷から強制的に引き剥がされて世界と自分を見つめたソウシによって殴りつけられ、受け止められ、未知の結末へと繋がっていく。
 『何を諦め受け入れているんだ……最高のハッピーエンドくらい、全力で目指してみろ!』と無責任に吠えるのはガキの特権であり、苛烈すぎる戦いをくぐり抜け大人になった真壁一騎には、どうしても掴めなかった結末なのだろう。
 ソウシに否定され乗り越えられていくとしても、一騎が背負った”ファフナー”が積み上げてきたモノ、失ってきた痛みは嘘ではなく、嘘にしてはいけないからこそ、今回ソウシと一騎は戦った感じがした。
 人類を超越し、救世主の名前を冠した過大な力を手に入れて、大人になってしまったかつての子どもが、もう言えなくなっている甘えた理想。
 死ぬことにも死なれることにも慣れたのだと、死地に飛び込んでいく甲洋を前にその辛さも寂しさも飲み込んで見送ってしまう男には、もう掴み取れない結末。
 そこに向かって希望の少年と可能性の少女が飛び込んでいくとしても、そこに一騎がどうしても行けないとしても、そこに至る道筋は彼が……それこそ人間ではいられないほどに過酷な闘いを生きてきたから、開けたのだ。
 そういう仕事を果たしてくれた一人の人間に、血が滲むようにこの嘘っぱちに本気で向き合い、安易な結末を自分たちに許せなかった造り手達が、何を描いて報いとするのか。
 それを見届けられたのは、とても良かった。

 

 一騎は自身の鏡となったレガートとの対決を、非常にフェストゥム的な同化で決着させる。
 『お前は俺だ』とは独立した個人を理解し、そこに必然的に生まれる分断をことほぎ並び立つための言葉ではなく、相手を否定し無に期するための武器……闘争に慣れてしまったもの達の、呪われた祝福に思えた。
 それは『貴方はそこにいますか』という、最も”ファフナー”的な問いかけ(だからこそ、今回も決定的な場面でリフレインする)への答えになりえる言葉なのに、レガートとの決着は対話でも理解でもなく、否定と消失にたどり着いてしまう。
 ソウシが感情むき出しに己の思いを、マリスや一騎に叩きつけて定められた未来を否定し、美羽ちゃんが美羽ちゃんのまま、何かに同化され消失しないまま生きられる結末を希ったようには。
 そんなソウシに心を動かされ、母や友人がそうしたような美しい自己犠牲のその先へと自分と世界を運び、ある意味ワガママに戦争の道具ではない対話を選び取った、美羽ちゃんのようには。
 真壁一騎は戦えず、生きれず、だからニヒトに負けていく。

 しかしその敗北は彼自身が切り開いた未知の先に、ある種の必然として用意されていた決着だ。
 一騎が偽竜宮島に黒い喪服で乗り込み、嘘っぱちの平和と家族をぶち壊し、憎しみと怒り(マレスペロがそれだけが己の構成要素だと、押し付けられ選んでしまったもの)を学ばせたからこそ。
 それだけでは終わらない強さを、零央が親身に教えた武器を持つ怖さと責任を、真矢にも見守られてソウシが学び取ったからこそ、一騎は彼に負けていく。
 湧き上がる憎悪と変性意識に飲み込まれ、島で好き勝手に暴れた時のソウシは、こんなに強くなかった。
 あの敗北で自分の至らなさを、それを埋めてくれる他者の存在を痛感したからこそ、彼は自分とは違う誰かに学び、己を焼く感情の奥に何があるのか、憎いはずの誰かが何を思っているかを、しっかり見ようと思った。
 今回ソウシが強く正しく、極めて身勝手に未来へ駆け抜けていけるのは一騎が扉を開けてからであり、その拳で殴りつけられて、主役として守り塞いできた”ファフナー”完結への一手を若き可能性に譲る事を、一騎自身望んできたのだと思う。

 愛と苦しみに満ちた青春を走り抜け、優しく我が子を抱きとめられる大人になった剣司すら、それしかない必然と受け入れてしまっていた犠牲の理を、ソウシは未塾で純粋だからこそ否定していく。
 彼は喪失や憎悪を知らないわけではなく、故郷が壊れる音を聞き母と思える人を親友に消された上で、それを為した者たちを剣で切り裂くのではなくゲンコ一発熱く殴りつけて終わらせる道へ、自分を進ませていく。
 そんな生ぬるい、全然”ファフナー”っぽくない力の使い方こそが、積み重なった因果と重いが硬い鎖になって、望ましい結末へと飛び込むことを己に許さなかった物語を、死人の少ない決着へと導いていく。
 人間が人間らしく生きることを許されない、あまりに厳しい世界でなお、それでも人は人として、誰かに死んでほしくないと願いながら生きている。
 『早くそう言え!』と、至極もっともなツッコミをぶち込みつつマリスも同じ思いだと触れたことが、ソウシが美羽が犠牲となる未来に、それを肯定してしまう一騎に立ち向かって”否(nicht)”を唱え、見慣れた自己犠牲でお話が収まっていく結末の彼方(THE BEYOND)へと、物語全体を牽引し得た理由だと僕は思う。

 

 誰にも相談せず勝手に進み出し、数多の犠牲を出して絶望の未来を変えたかったマリスの大間違いは、彼が龍宮島の子どもになりえなかった事……主役に選ばれなかった事と繋がっている。
 美羽に全ての障壁を暴かれ、理解されてしまう恐怖の中で、マレスペロは『僕には対話することすら許されなかった!』と叫んだ。
 それは沢山の理解者を隣に備え、人間が人間であることを何よりの価値と認め、お互い別の存在だからこそ対話を諦めない立派な人達に囲まれる幸運が、彼に訪れなかった偶然を呪っている。
 もしマレスペロが、彼そのものである赤い月に刻まれた憎悪と悲憤ではなく、美羽ちゃんや龍宮島のコアが与えられたような優しい祝福を保持出来ていたのなら、人間の最悪だけを学んだ歪な鏡という役割は、けして果たせなかっただろう。
 たとえ最悪の間違いだったとしてもそこに行き着くしかなく、しかし赤く染まった運命から旅立ちうる可能性があるのならば、それに縋りたかった。
 マリスもマレスペロも、我々が主役……あるいは愛すべき味方として心を寄せていた人たちの歪な鏡であり、運命のさじ加減が一つ狂えばそうなり得た、可能性の結晶だったのだ。

 アルタイルをモノのように所有するのではなく、共に在るべき希望とすることを選んだ美羽が理解ってしまったのは、そういう鏡合わせの関係性なのだと思う。
 誰もが誰もになり得て、しかし自分以外の何物でもない不可思議なこの世界がたどり着いてしまった、愛ゆえに相争う悲しすぎる定め。
 憎しみと絶望の底に何があり、怒りと哀しみの果てに皆が何を求めているのか理解してしまえば、救世主足りうる資格を開花させた彼女は、全てを解り全てを赦す道を選ぶしかない。
 それは彼女がずっとしたかったことであり、そのためには己を犠牲にするしかないと思い込み思い込まされてきた道から、ソウシはガキむき出しで吠えることで、美羽ちゃんを下ろした。
 そんな悲しい繰り返しをしなくても、物語は誰もが望んでたどり着けなかった結末へとたどり着けるのだと、2つの可能性が心底納得するまでのお話。
 同じことを望んでいて、でも私と貴方は違うもので、だからこそ混ざり合う思いが未来を拓いていく事を、救世主たち(Salvatore)は信じ、願い、それを形にするために駆け抜けていった。
 思えばSalvatoreが”人命救助者”を意味する以上、相手を自分と同じと認める優しさは敵を殺す凶器ではなく、相手の中にある自分と同じ祈りを掬い上げて、可能性へと解き放つ奇跡として発露しなければいけない。
 真壁一騎皆城総士が成し遂げ得なかった、そんなSalvatoreの新解釈をやり遂げ、”ファフナー”を新たな結末へたどり着かせるためには、やはり無垢なる二人が必要だったのだろう。

 サブタイトルの『英雄、二人』は美羽とソウシを示すと同時に、一騎と総士を意味すると思う。
 眼の前にその面影を纏う転生体がいてなお、その子と消滅を完全には受け入れられず、長い殯を歩いていた一騎がようやく、総士の死を受け入れ、死を超えてなお生きている願いを引き受け成し遂げるのが、多分今回なのだ。
 ソウシが一騎の導きと試しにより、繰り返す物語を強引に捻じ曲げ、より善い未来へとたどり着いたことこそが、自分と同じであり全く違う、もうひとりの皆城総士に託した総士の祈りを、叶えることだったのだろう。
 そうして夢を引き継ぎ活かし続けることこそが、死の喪失をどす黒い虚無で終わらせず明日に繋いでいくための唯一の方法で、それは非常に”ファフナー”的な答えだろう。
 辿り着く場所はいつでも目の前にあるのに、主役としてあまりに”ファフナー”的な人生と人格を貫いてしまった結果、解き放たれることが出来ない。
 そんな一騎がもう一度、超克と敗北のなかで愛する男に出会い、その息吹を感じ、今まで自分たちが必死に駆け抜けてきた物語の全てが意味を持っていると、納得して立ち止まること。
 そんなシンプルな決着に真壁一騎をたどり着かせるために、それに嘘をつかないために注ぎ込まれた情熱と苦労は、深い尊敬に値すると僕は思う。
 そういうモノを絵の具に込めて描かれた”英雄、二人”一瞬の再会と永訣は、美しくて寂しく、凄く”ファフナー”だった。

 

 フェストゥム襲撃以来何もかも……人間の定義から社会の在り方、善悪の基準や生き死にの境界まで書き換えられてしまった世界は、美羽の決断(それを導いたソウシの身勝手)によって、決定的に様相を変えるだろう。
 そういうデカいものを描くには、BEYONDはとてもドメスティックで狭い話だったな、と思う。
 地理的にも価値観的にもあまりに大きく広がり、一つの物語が背負い掘り下げるにはあまりに難しい課題を背負い込んだEXODUSに耐えられなかった身からすると、それは”ファフナー”が終わるために必要な決断であり、原点回帰だったと思う。
 過酷極まる世界がどれだけ変質しても、閉ざされた島という”家”のなかで昔ながらの人間性を大切に守り、それこそが世界のあるべき理なのだと信じて闘い、犠牲を捧げる。
 そういうドメスティックな物語だったファフナーが終わるためには、マリスとヒトを知ったフェストゥムが生み出すもう一つの”家”に敵対し、時に対話しながら、そこから島=家に転がり込んだソウシが家族と認められ、あるいは自分を家族と認めるまでの物語に帰還し、変奏し、再演する必要があったのだと思う。
 この内向きで深いファフナー批評へ潜っていく時、触ってしまえばあまりに過酷に、答えの出ない問いへ延々潜らなければいけない”外”との対峙は最低限に絞り込む必要があり、そういう役割を背負ったのがベノンなんじゃないかと感じる。
 そこは異質な敵でありながら、何処か島と共通した温もりを歪に宿し、鏡合わせの奇妙な隣人として、物語にあり続けた。
 (EXODUSと違って)”外”へと向かう視線をそこに限定し得たからこそ、ギリギリの強度と緊張感で『”ファフナー”とは何なのか。どこから来てどこで立ち止まり、どこへ行くべきなのか』と、ソウシをその身勝手な幼年期に暴れさせながら問いかける構成が可能になり、この結末を引き寄せ得たのではないか。
 そう思うのだ。

 そして己を犠牲に消え去ることなくアルタイルと対話し、世界と人類の形を新たに書き換える奇跡を、繰り返す殺し合いの輪廻から抜け出す決着を手に入れるには、物語は”外”に出て戻ってくる必要があったのだと思う。
 まだ対話に耐えうるほど美羽ちゃんが強くない現状も、島の外側に積み重なる飛散と理不尽も、自らの足と手で引き寄せつかみ取り、傷だらけに駆け抜けてみなければ、血の通ったストーリーには組み込まれない。
 そんな嵐を戦った結果、希望の種子たる子どもたちが可能性を失い、自分たちの手では望むべき結末をたどり着けない程に、何かを失ってしまったのだとしても。
 (あるいは弱い視聴者である僕が、作り手達が取っ組み合ってる重さに耐えきれず自壊してしまったとしても)
 その先にあるものを諦めず掴み取るべく、新たな可能性は物語の中に生まれてくるし、彼らが持っている希望を大樹へと育てるために必要なドラマを描ききる闘いを、諦めなかったからこの話数がある。
 そう感じられる、決着のエピソードでした。
 ……今なら、EXODUSを最後まで見通せるかもしれない。


 という感じの、新たなる運命の子どもたちが未来への道を掴み取るエピソードでした。
 決着で全部の話を使い切らず、一話残してるのがまぁ”ファフナー”だよなと思う。
 人類全ての命運をかけた究極のロボバトル以外にも、大事なものは沢山あって、それを描くためにこそバリバリ戦争を書いてきたわけでもあってね。
 闘うこと、生きること、死ぬこと、死してなお生きることを描き続けてきたお話が、その終端に何を描いて物語を閉じるのか。
 ””ファフナー”最終回、大変に楽しみです。