イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-:第10話『いってらっしゃいヨハネちゃん!』感想

 旅立ちを前に湧き上がった迷いを、友情が眩く払っていく。
 巣立ちの宴に湧き上がる暗雲、最終章の開始を告げる、幻日のヨハネ第10話である。

 前回ライラプスという特別な一人との関係を深く掘り下げたわけだが、今回ヌマヅに帰ってきてヨハネが得た……あるいは思い出した絆を描いて、堂々巣立っていくまでのお話である。
 物語開始時の虚栄やうぬぼれ、臆病がすっかり抜けて、率直な自分をさらけ出せるようになったヨハネが見れて良かったけども、それを試すように異変が追いかけてくる。
 状況の圧力が上がったほうが、キャラに残っている物語の素が全部絞り出されるわけで、ある意味待ってましたの暗黒雷光到来……と言えるか。
 異世界ヌマヅを舞台にした青春逍遥は、そのほぼ全てをヨハネに振り分けられていたわけで、むしろこの災厄を奇貨として自分を語るべきなのは、意味深な視線でむっつり黙り込んでいるライラプスなのだろう。
 ヨハネが戸惑いつつも、二度目の巣立ちに前向きに顔を上げているのに対して、ライラプスは言えない秘密を一人で抱え込み、幼年期に縛られ動けないように見える。
 夢を追って都会へ進み出す前に、ヨハネが決着させなきゃいけない最後の戦いは異変というより、かけがえない魂の分身として自分を見守り、導き、鍛えてくれた狼霊を相手取ることになろう。
 俺はライラプス(がいることで展開される、凄くスタンダードなファンタジージュブナイル)が好きなので、最後まであの子に重きを置いて話が回っていきそうなのは、凄く良い。

 

 

 

画像は”幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-”第10話より引用

 というわけでライラプスとの対話を終えて、ヨハネは遂にヌマヅを旅立つ決意を固めていく。
 オーディションの報せなども受け取り、ヨハネが光の方、締め切った自室の外側へと目を向ける一方で、ライラプスは暗く閉じた場所へと瞳を向けて、ヨハネが進み出す場所から逃げていく。
 それは物語開始時から続いてきた関係性がクライマックスを前に、逆転している現状を上手く語っている。
 現実見れない弱さだったり甘すぎる見通しだったり、うわッ付いた夢だけ抱えて都会に飛び込み何も得られないまま故郷に帰ってきたヨハネは、ライラプスに尻を叩かれ抱きとめられることで、部屋の外へと出ていく勇気をもらえた。
 進んでみれば世界は楽しいことに満ちていて、生身の自分に出来るちっぽけだが大事なことはたくさんあり、あるがままの己を受け入れる材料を、見つけて渡される事ができた。
 思春期に肥大した自我が現実に擦れて生まれた擦過傷に、自信と愛情という傷薬をつける旅にヨハネが進み出せたのは、ライラプスが居てくれたからだ。

 このデケー犬は常にヨハネが為すべき正しい道を見据え、そこから妹が目を背ければ嫌味を言ったり発破をかけたり、また優しく抱きしめたりして、進むべき未来へ導いてくれた。
 ライラプスは常に間違わず、迷わず、傷つかない。
 幼年期の子どもが”親”に対して抱く信頼……あるいは幻想をそのまま受け取って、ここまでライラプスは無謬の存在として君臨してきたわけだが、ヨハネの子ども時代が終わろうとしているこのタイミングで、そんなライラプスヨハネのいた闇へと、後ろ向きに戻ろうとしている。
 それはライラプスが無謬でいるために隠していなければいけなかった秘密に、ヨハネと物語が切り込む足取りと歩を同じくしている。

 絶対に間違えることなく、自分を見守り導いてくれるはずの存在が自分と同じただの”人間”で、その弱さや過ちすらも大事に抱きしめられる度量が備わって初めて、子どもは大人になるのだろう。
 だからライラプスが迷いと過ちの暗がりに後退りし、ヨハネがかつてライラプスがいた愛と導きの光明に進み出していく交代劇は、思春期の物語として必要な一歩だ。
 ライラプスもまた、ヨハネと共に自分なりの青春を過ごし、迷い間違いながら自分を作り上げてきた一人の子どもなのだと、”親”の重責を引っ剥がしてヨハネと対等に並べるための、最後の儀式。
 それが始まる話数である。

 

 つうわけで暖かくも騒がしいヌマヅの人々の間を噂が走り、ウダウダ迷ってばかりもいられない状況へとヨハネは連れて行かれる。
 門出を前に迷う心を、前向きに整えるのに部屋に閉じこもってデケー犬と話すのではなく、家の外に出てダチと語らう道を選ぶのは、ヨハネがこのヌマヅで何を手に入れたか、良く語ってくれていて好きだ。
 自分一人に閉ざされた心のなかにいても、自分がどこにいるかも、何をしたいかも見えてこない。
 自分を愛してくれる誰かを鏡にして、それに照らされる気持ちに向き合った時初めて、進むべき道が見え特別な魔法が使える。
 古今のファンタジーが話の真ん中に据えてきた真理を、どっしりメインテーマとして選び取っている所が、このアニメの好きなところだ。
 いっぱい出来た友達との、ワイワイ賑やかな触れ合いのなかでヨハネは、無様に出戻った自分がどんな宝物をこの街で得て、旅立つ助けと抱きしめられるかを識っていく。

 その真中にハナマルちゃんがいるのが、俺は好き。
 やっぱ第1話目一杯使ったスーパーヒロインであるし、ヨハネ自身忘れていた誰かに勇気を与える強さを自分の人生で証明して、手渡しなおした最初の友達だからな……。
 最後の試練が降りかかる今回、『やっぱ……ヨハマルです!』とかなり強めに作品が吠えていたのは、その主張を激しく支持する自分としてはありがたかった。
 その強い繋がりで関係性を閉ざすのではなく、むしろハナマルちゃんから始まってどんどんと縁が広がっていった結果、幼馴染が旅立ちを前に微笑んで特別なパンを作ってくれることの意味を、ヨハネが真実受け止められているのが好きだ。
 相当どっしりしたペースで話を転がしていったこの作品だけども、だからこそ臆病で強がりなヨハネがより善い自分を見つけるために、何が必要だったのかは丁寧に描けていたと思う。
 閉ざされた部屋の中で特別に自分を受け止めてくれる誰かと、それに癒やされて進み出す勇気を育む己。
 そして部屋の外で待つ眩しさへ、手を引いてくれる友情。
 みんなそこにあったからこそ、ヨハネは巣立ちを寿ぐ横断幕を前に優しく微笑み、ライラプスは複雑な表情で思いを噛み殺す。
 10話ずーっと描かれてきた『伝えるべき何かを、言わない/言えないライラプス』を、最終章開幕前にもう一回確認するシーケンスが多いわな、今回。

 

 

 

 

画像は”幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-”第10話より引用

 ライラプスが同行を渋るはなむけのパーティーに、ヨハネは導きの獣無しで一人、堂々進んでいくことになる。
 ヌマヅに帰ってきて以来部屋に閉じこもりがちだった彼女が、誰に先導されて街に出ていったかを思うと、やはりお互いの立ち位置が入れ替わる≒お互いがお互いの鏡だったと思い知り平等な関係を作り直す一歩目として、この最終章第一節があることが良く分かる。
 廃材を利用したステージの裏で、等身大の自分と日々を過ごしてくれた子ども達と対話するシーンも、ヨハネがここまで進んできた道、それで得たものを思い起こさせ感慨深い。
 からかいを交えて楽しく遊んでいた子どもらが、無責任に膨らんだ噂を真に受けてとはいえ、『わたし達のヨハネ』ではなくなっていくお姉ちゃんの巣立ちに涙を浮かべているの、真に迫った場があって良かった。
 この涙に後ろ髪を引かれるのではなく、自分を送り出してくれる大きな祝福なのだと素直に受け止め、自分の至らなさや誰かの助けのありがたさを、率直に告げるヨハネは、同じ都会へ旅立つにしても一度目とは全く違う女の子である。
 同じ道を辿っているようでいて、進んだ道のりが全く違う自分を、未来を生み出していく。
 『生きて帰りし物語』のど真ん中を、着実に進んでいる手応えが好きだ。

 この晴れやかな巣立ちを誰より寿ぐべきライラプスは、誰よりも祝福して欲しい少女とちゃんと向き合えていない。
 一番大事なことから逃げて自分を守るライラプスの態度は、かつてヨハネが私室に閉じこもりグネグネデケー犬に甘えながら垂れ流していたそれとソックリで、鏡合わせの二人が入れ替わったんだな、って感じがある。
 これはずーっと誰かに手を引かれて影から出ていくばかりだったヨハネが、第5話でマリちゃんの手を引っ張る側になったのと同じ相転移で、あのときと同じくお話の軸が大きく動く手応えを感じている。
 導かれる側から導く側へ、あるいは導く側から導かれる側へと入れ替わることで描けるなにかは絶対あるはずで、これまで無謬の”親”としてヨハネを守ってきたライラプスが真実に向き合わず、最愛から距離を取って自分を守ろうとしている姿は、人間としてのライラプスを削り出してくれるはずだ。

 その行為が穏やかな日常の中で果たせるのであれば、ライラプスは一人さまよう旅を活かして自分を見つめ直し、たどり着くべき場所へと進める事ができるはずだ。
 実際9話分の成長を経たヨハネは前回それが出来たわけであり、彼女が物語の主役として用意されてきた長く太い旅を支える立場だったからこそ、ライラプスは合わせ鏡の中に成熟した自分をまだ見つけられていない。
 だからパーティーから遠く離れた場所に自分を置いて、それ以外の物事は凄く客観的に正しく見れているのに、一番大事なきょうだいが自分の巣立ちを見届けてくれないと心を乱すヨハネの今を、ちゃんと見れない。
 そのねじれてズレた距離感を補正するには、大きな嵐を乗り越える体験が必要になるのだ。

 

 つーわけで黒雷とともに異変再来である。
 ハナマルが思いを込めたヨハネパンを踏みにじりながら、異常パワーに満ちた鹿が登場する絵面はスマートなヘイトアーツとイカれた画作りが同居してて、だいぶ面白かった。
 このどっかチューニングが外れている感は、本家サンシャインとも通じるこのアニメの美点だと思っとるのだが、そこら辺の採点は人によるか……。
 この作品の”異変”は日本全体を覆っている重苦しい空気であるとか、現実の沼津を襲ったいくつかの災厄だとか、色んなものの複合象徴だと思う。
 同時に”幻日のヨハネ”という物語において展開する、起きて欲しくない厄介事であり、だからこそ乗り越えた時何かが成し遂げられる、大事な試練でもある。

 ヨハネの人間的成長とすれ違う形で、ライラプスの迷いが表に出てきたこのタイミング、吹き荒れる嵐をどう乗り越え、活かしてクライマックスを走らせていくのか。
 幻日のヨハネ最終章、どんな展開を見せるか楽しみです。
 文脈が複層的で入り組んでいるのもあって、なかなかどこにフォーカスするべきか難しいお話だとは思うんだけど、やっぱあらゆる関連を切り離してなお残るこのお話それ自体、その真ん中に立ってる一人と一匹に焦点を合わせるのが、一番いい気がする。
 なのでヨハネライラプスに、今まで通り注目しつつ作品を見届けたいと思います。
 次回も楽しみですね。