イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

オーバーテイク!:第6話『鈴鹿、雨 ―I don't want you to race.―』感想

 人生を打ち砕くような霹靂は、満ち足りた蒼天からこそ落ちる。
 折返しを迎える”オーバーテイク!”、順風満帆に思えた少年とオジさんの人生やり直しストーリーが、雨の鈴鹿にクラッシュする第6話である。

 モータースポーツを題材としているなら扱うべき要素だし、ラウダの事故の前フリもあり、『起こるなら今回だろうな……』と思っていたことが、思っていたのとは違う形で起きた。
 サーキットの外側から危険な賭けを止めようとする孝哉と、賭けに挑まなければ自分で在れない悠くんとのせめぎ合いが、物語の争点であるかのようにエピソードは進行していく。
 結局焼け焦げたお守りが鳴って、悠くんは”降りる”ことを選択するわけだが、油断した所で常勝不敗のチャンピオンがクラッシュし、バイザー越しの恐怖と絶望が孝哉を射抜くことになる。
 視ること、応援することの暴力性を第1話から横目に睨んできた作品が、フォトグラファーを主役にしている意味を幾度目か、刳りなおす展開とも言えよう。
 『頑張って』は時に無責任で凶暴なメッセージになりうるからこそ、悠くんは応援されなくても一人で走るとあの時決めていて、しかし孝哉と触れ合う中で誰がどんな思いで走る自分を応援しているのか、そういう人と向き合うことで自分が何を受け取るのか、再度向き合い直した。
 孝哉がシャッターを切る姿に悠くんなり、『頑張り方』を教えてもらう鏡像関係がそこにはあるわけだが、見つけたと思った自分の似姿はするりと、挫折や過ちに傷つけられ苦い教訓を得たオジさんの顔に変わる。
 自分と似た誰かに手を伸ばして近づき、しかし決定的には重なり合えないと思い知らされ、あるいはどこに立っていても襲いかかる人生の不確実性に射抜かれて、立ち止まって後ずさる。

 そんな複雑なレースは、少年レーサーと年経た写真家の人生が心地よく交わって、なんか人生いい感じに転がっていきそうに思えた程度では、終わっていなかった。
 そう思わされる回だった。
 この唐突に思えるクラッシュは……俺は好きだな。
 終わって欲しいと願いながら走って、終りが見えたように錯覚して、何も終わっていないのだと思い知らされて、それでも遠い終わりを求めざるを得ない。
 そんな焦燥に急き立てられて、皆が走っているお話はまだまだ続くのだ。
 ここが終わりじゃない。
 第二周回の始まりだ。

 

 

 

 

 

画像は”オーバーテイク!”第6話より引用

 今回のエピソードは、客観と主観を複雑に行ったり来たりしながら進む。
 一つのマシンに乗れるのは一人だけ、リスクも結果も最終的にはパイロットが受け取る。
 それがF4のルールだが、『人は一人で生きているわけではない』とも、このアニメはずっと書いてきた。
 誰かに見守られ、支えられ、応援されればこそ走れる自分を、孝哉との出会い以来悠くんはもう一度見つめ直すことで、不安定な自分をより善いポジションに押し上げてきた。
 その上で人は結局一人であり、不安や危機や不運を誰かに肩代わりして貰って、自分の立ち位置を変わってもらうことは根本的には出来ないのだと、今回の物語は描く。

 悠くんと小牧モータースの根っこにぶっ刺さっている父の死を、孝哉は震えながら映像で見る。
 ノイズまみれのビデオはあくまで他人事であり、他人事としてウェブの海に保存されているものだからこそ、当事者でなくても共有できる形になる。
 フォトジャーナリストである孝哉はカメラを通じて共有可能な客観を切り取り、より広い場所に投げかけ共感で繋ぐことが、仕事の一つだ。
 悠くんとF4に関わることで人間を撮ることが出来るようになった孝哉は、震災以来見つけ得なかった『頑張り方』を自分なり掴み直して、もう一度他人を頑張らせられるような写真家へ、自分を進めていく。
 進めている、はずだった。

 

 唐突な雨はレースにつきもので、安全性を選んでレインタイヤを履くか、晴天に賭けてスリックで挑むかは、『よくある賭け』だと作中でも告げられている。
 生きるか死ぬかの選択すらもルールと飲み込むからこそモータースポーツは滾る……のかもしれないが、外野からサスペンスを消費するだけのファンではない、もうちょっと走るレーサーの生身に近い立場にいる孝哉にとって、サーキットの常識は人生の非常識に思える。
 リタイヤもクラッシュも、挫折も敗北もレースの一側面と飲み込んでなお続く競技の中で、それでも勝ちを望めばこそレーサーは狭いシートにその体を押し込み、迫りくる危険と一瞬一瞬、見通しの悪い視界で対峙している。
 その濡れた一人称視点はレーサーだけのもので、家族であり運命共同体であるピットクルーすら、共有できない尊いものだ。

 孝哉はメディア席から望遠レンズで、レースの趨勢を追う。
 走る若人を応援していたはずが、傷まみれの自分の話にいつかなっていて、それぐらい前のめりに浅雛悠という青年にのめり込んでいた。
 一回クラッシュした人生レースに写真家として挑み直し、また生きて死ぬ人間をフレームに収めれるようになった彼にとって、悠くんの走りは他人事であって他人事ではない。

 孤高な尊厳と危険に、余計なお世話とちょっとズレた自分語りをねじ込みたくなる越境を、絆と呼ぶのかディスコミュニケーションと呼ぶかは、とても難しいだろう。
 悠くんがスリックで走って勝負を挑みたい気持ちを留められないように、孝哉も彼に惹かれる自分を……そうすることで夢を蘇らせていく喜びを、止めることは出来ない。
 相手と自分の距離感を分かった、傷ついてなお走る少年に必要なおせっかいを差し出せるいい大人のボディバランスは、今回ちょっと崩れる。
 観客席に、安全圏に、他人事に身を置いていては撮れない絵を見つけたくて体を伸ばし、少年がまだ体験していない夢の終わりを、身勝手に語る。
 レーサーの聖断に待ったをかけ、門外漢の安全重視を押し付ける。
 この前のめりは、孝哉が悠くんを好きだからこそ起こる。
 一度砕け散ったものを繋ぎ止め、撮れる自分、頑張れる自分を取り戻させてもらったありがたさを、どうにか返したいからこそ、お行儀よくバランスを保ってなどいられない。
 孝哉もまた、荒天の中でスリックタイヤを選ぼうとしてる感じがあった。

 

 勝つか負けるか、生きるか死ぬか。
 雨粒が地面に落ちるよりも早く疾走する、レーサーの思考の中で結局、悠くんはリタイヤすることを選ぶ。
 それもまた一つの決断なのだと、肩を抱く小牧のおじさんの腕は震えていて、悠くんはそれを押し殺しながら自分を決断の現場へ送り出してくれたオヤジの温もりを、冷たい雨の中で受け取る。
 それは家族の距離感であり、悠くんにリタイヤを選ばせたお守りの鈴の音が、ロマンティックに奏でた前奏から続いている。
 負ける勇気。
 そういう言葉でまとめてしまうととてもありふれているし、この決断が悠くんにとってどんな意味を持ってくるかは、春永くんのクラッシュを受け止めて色んなことが塗り替わるだろう、今後の物語次第だ。
 それは悠くん自身がたった一人、色んな人の眼差しや温もりを間近に感じ取りながら走る、彼だけのレースだ。

 孝哉にとってそういう場所は、常にカメラとともにある。
 そういう生き方を選んだことを、浅雛悠の走りを見つめて思い出したことで、今彼はプレスパスを身に着けてサーキットに立っている。
 撮る存在、届ける存在。
 そんな自分がかつて何を切り取り、ばらまき、傷つけたかを忘れたわけではなく……忘れていないからこそもう一度、向き合おうと思った。
 この六話までの足取りをまとめるなら多分そういうことで、しかしそんな風にまとめられるほど、孝哉のレースは終わっていないのだと物語は告げる。

 『弱小プライベーター決意の賭けはリタイヤに終わったが、ピットで雨ざらしのままなされた抱擁は、確かに暖かかった』
 そんないい写真、いい場面、いい人生だけが、サーキットにあるわけではない。

 

 

 

 

 

画像は”オーバーテイク!”第6話より引用

 唐突に、理不尽に、当たり前に人生を砕く何か。
 かつて孝哉の被写体/ボランティアとして助ける対象になった人々を襲った(そして孝哉自身も襲われた)一撃を、食らうのが春永君だった理由は……まぁ色々だろう。
 彼自身言ってたように運なのかもしれないし、常勝不敗のリア充チャンプがメタメタにされる暗いカタルシスが微かに滲んでいる感じもあるし、そこから再起していくドラマをあまりに明るすぎる彼に与えるための物語操作かもしれない。
 どちらにしても起こるべくして事は起こり、それはリタイヤを選ばず勝負に賭けた場合の、悠くんの未来だったのかもしれない。
 そんな風にあり得ない/あり得たかもしれない繋がりを想起しても、現実として悠くんは負けを選ぶことで無事にサーキットを降り、春永くんは戦い続けることを選んで一人称の視界をクラッシュさせた。
 それは一人ひとりの決断であり、運命であり、同時に彼らに繋がった様々な人達を揺るがして、無傷ではいさせない。

 客観と主観が入り交じる、人間という複雑な網目。
 これを越境しうるのがカメラという媒介であり、孝哉はシャッターを切ることで自分の視界の外側にあるものを奪い去り、手渡せる立場にある。
 それは極めて客観的な行為でありながら、撮影し報道する孝哉自身にとっては極めて主観的な……撮れてしまった運(あるいは不運)と伝えざるを得ない業に引っ張られて、世間から袋叩きにされて立ち上がれなくなるほどの痛みを伴いうる行為だ。
 何も出来ない無力な場所、だからこそ安全な場所に立っているようで、孝哉はファインダーを通じて自分の外側にあるものに触れ合い、傷つけ傷つけられ、あるいは応援し勇気づけていく。
 このお話においてカメラは、孤独な尊厳を生まれつき背負わされた人間が、確かに繋がりうる希望のメディアであり、残酷な客観性で自分も他人も斬りつける凶器でもある。

 孝哉はバイザーの下に、幾度か言葉をかわした好青年の、愛するドライバーが追うべき無敵のチャンピオンの、絶望を見る。
 共有できないはずの彼の一人称を、確かに自分の視界に入れる。
 そうして解ってしまったことで、孝哉はシャッターを切れぬまま雨の中に立ち尽す。
 降りしきる雨が事故が起こりうるコンディションを用意するだけではなく、人を飲み込む大きな水がトラウマになっている、孝哉の灰色の精神への橋渡しになっているのはなかなか面白い。
 あの時迫りくる水の前、押してしまったことで大事な何かをぶっ壊したボタンを、今度は押さない。
 それが怯懦なのか成長なのか、雨は応えてくれない。

 不運も不幸も理不尽も、まだまだ世界には満ちて牙を研いでいること。
 それに襲われた人間は、ああいう目をすること。
 それを客観のレンズで見届けることは、反転して自分自身を傷つけること。
 問題なくいい方向に転がっていたように思えていた物語は、クラッシュの轟音と激しくなっていく雨音を通じて、孝哉と僕らに教える。
 人生の重たく暗い当たり前を、もう一度思い出させる。
 それはあくまで一人称主観で襲いかかり、代わってやることは出来ない惨事だ。
 自分が背負ったものを他人に背負ってもらうことも出来ない、苦くて暗い重荷だ。
 眩すぎる少年と出会って、それを降ろしてシャッターを切れるようになったはずなのに、ハッピーエンドはまだ遠い。
 まだまだ、レースはこれからだ。

 

 そんな苦しさだけが人生の全てなのだと思いたくなるには十分なほど、今回孝哉が目撃し撮影できなかったものはシリアスだ。
 しかしそればっかりじゃないからこそ、悠くんは孝哉と一緒に色んな場所に手を伸ばして、触れ合ったものの意味を探って、亡き父と自分の距離を慎重に考え抜いて、今回雨の中で戦って死ぬ以外の選択をしたのだろう。
 そんな場所に彼を導けたのは、眞賀孝哉が眞賀孝哉だからだって、シンプルで幸せな事実にもう一度、自分が凶器を持って理不尽な場所に立っていると思いだしてしまった男は戻ってこれるのか。
 それが、このアニメの後半を導く課題になりそうだ。

 このお話がなぜ、レーサーとフォトジャーナリストを主役に据えているのかを、再確認できるエピソードでした。
 走ること、視ること。
 一人きり離れていること、何かが繋がったような気がすること。
 人間の普遍に手を伸ばしつつ、あくまで作中一度きりのレースを走っているキャラクター個別の物語として、厳しい浮き沈みの中で生き方を問いかける形になってきたのは、僕は良いことだと思う。
 このクラッシュが春永くんの心と体に、どんな影響を与えるかも次回以降を見てみなければ分からないけども、公平で明るく正しく強いチャンピオンを、ドブに落ちた負け犬にして終わってほしくないなとも感じている。
 理不尽に満ちた世界から立ち上がり直し、もう一度走って手を伸ばすのは、主役の特権ではなく万人に開かれた、希望であるべきだと僕は思うので。
 次回も楽しみです。