ゆっくりと下る泥濘を、修羅の形相で駆け抜けていく覚悟。
キタサンブラックが己の衰えと向き合う、泥まみれのウマ娘アニメ三期第11話である。
サイレンススズカ死の運命を覆し、幾度の故障を乗り越えたトウカイテイオーの不屈をドラマに切り取る。
二期のアニメが描いてきた、擬人化された絵空事だからこその永遠の夢を、三期は手ずから裏切るかのように、ウマ娘が終わる時にしっとり重たく、炸裂する派手さなく、だからこそ地面に足の付いた質感で筆を入れてきた。
社会現象になるほどに、今まで自分たちが作り上げてきた物語は優れたインパクトを残していて、だからこそ同じことを繰り返す道を避けたかったし、それはキタサンブラックの道ではなかったのだろう。
全体的にやや抑えめなトーン、明瞭な焦点をあえて作らないようなクリアな……クリアすぎる質感。
三期アニメが選び取ったものが、何を描き切るためのものなのか、自分的に納得していく第11話だった。
理由なき凡走に終わった宝塚記念は、理由が見つからないこそキタちゃんの中で長く残響し、けして抜けることのない棘のように、イラガっぽい質感を残す。
花の凱旋門賞にも挑めない、挑んだライバルも15位に惨敗。
負けるにしても衰えるにしても、例えばどデカい負傷を乗り越えて再起するドラマを背負ったトウカイテイオーとは、真逆の緩やかで当たり前な下り道である。
そしてそれは、あらゆる競走馬がピークを過ぎれば歩むことになる、定めの道でもある。
名馬が美少女になる、オタクの夢を詰め込んだファンタジーとして展開してきた物語が、三期にして”夢のない”衰えに向き合うのは自分としてはむしろ必然で、一期のスポ根ど真ん中であれば状況を大きく変えていただろう、トレーナーさんの手は今回上手く届かない。
永遠のライバル二頭がしのぎを削り、激走の対価として迎えた限界を更に超えていくという、二期のようなドラマもない。
ダイヤちゃんは遠くパリに離れ、シュヴァルがモリモリ飯食って上がり調子なのに反して、『以前ほど食えない』という非常に落ち着いた表現で持って、キタちゃんの終わりが積み重なっていく。
ショボクレた、と言い捨てることも出来る地味さであるが、しかしその等身大の噛み合わなさ、しっくりこなさがしつこく描写される中で、自分の中にジワジワと納得が積み上がっていった。
こういう終わりにしたいから、三期はああいうトーンだったのだろう、と。
ドラマチックな激突やロマンティックな触れ合いはたしかにあれど、今までよりもどこか抑えた質感で展開していく、温度低めの群像劇。
この段階でG1五勝、文句なしのスーパーホースのはずなのにどこか泥臭く、圧倒的なカリスマというよりも頑張る町娘といった塩梅のキタサンブラックが、たどり着いてしまった最後の下り坂。
ゴールドシップの引退を真ん中に据えてしっかり描いた第3話の意味が、ここに来てしっくりとハマる、終わりを告げる彼女の役目。
それらは衰えること、勝てなくなること、終わることを、ウマ娘のアニメが描くために選ばれた筆致だったのかなと、今思っている。
足のどっかが壊れたとか、心になにか引っかかるものがあるとか、形があるから突破できる困難は、キタちゃんには訪れない。
なんとなくで輪郭のない終わりが、正体の知れぬまま迫ってきて、キタちゃんなり必死にあがいて、出口を探して、しかしどん底の絶望というほどの重苦しさもない中で、ふと目の前に開けた愛すべき人々の言葉に寄って、自分の現状を飲み込んでいく。
そういう、駆け足でもドラマティックでもない終わりというものは世界にありふれていて、様々な存在がそこに至って、駆け抜けてなお新たな道に駆け出していくのだろう。
その、未来への助走期間とも終わるための下り道ともいえる普遍的な足取りを、このお話は三度目に捉えたかったのかな、と今回のお話を見ていて思った。
上がるにしても下がるにしても、特別で嘘っぽいドラマが強く発生はせず、あまり体温を上げすぎずに進んでいくその手応えが、あらゆる人にいつか訪れるその時をそのまま描こうとする、とても誠実な姿勢の反映に見えて、スッと飲み込むことが出来た。
この穏やかな終わりの受容は、勿論こっから大記録を打ち立てるキタサンブラック最後の激走のための前フリだ。
泥まみれの天皇賞において、ライバルの存在も仲間のエールもキタちゃんを前に進ませず、ただただ今まで走ってきた自分と、予期せぬアクシデントが山ほど起こるレースに向き合い魂を燃やすことで、彼女は走りきり勝つ。
この孤独とも取れる泥まみれの独走が、ピークを過ぎて終わりへ進むキタサンブラックが今、どれだけ逞しく力強いのかを、上手く示していたとも思う。
日本全部を背負って凱旋門賞に挑んだ一期の主人公とも、幾度折れてもなお立ち上がった不屈の二期主人公とも、違う足取りでキタサンブラックは勝ち、終わっていく。
それを描くことは、衰えて終わることではなく、それでもなお走り抜くこと、勝つことを描くためなのだと思うし、歴史に既に刻まれているキタサンブラックという競走馬の生き様を思えば、間違いなくそうだろう。
泥まみれでも、衰えても、なお走り抜いて永遠へと突き進む。
その輝かしい幻を疾駆する馬体に見るからこそ、僕はレースに夢を見る。
人間の姿をしていない、自分の言葉で語ることもない競走馬は何よりも雄弁に、一瞬のレースに挑むその身体で、走りで、とても普遍的で大事なことを語りかける。
穏やかに当たり前に、ピークを過ぎた自分がどこに行くべきなのか、どう終わるべきなのか見定めたキタちゃんの描き方には、そういう競馬の原点へと辿り着こうとする意思みたいなもんを、勝手に感じた。
それは今回急に生えてきたわけではなく、明らかに今までと違うトーンで描かれた三期ここまでの物語全てが、準備し響き合って生まれた手応えだと思う。
果たしてそれが手前勝手な幻なのか、確かに作品と呼応し得た結果なのか。
残り二話、見届けたい。
次回も楽しみだ。