イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

僕の心のヤバイやつ:第9話『僕は山田が嫌い』感想

 今更ながら、僕ヤバアニメの感想を書いていく。
 二期も始まったこのタイミングで、提出し忘れていた宿題を周回遅れで差し出すような記事になるのはなんともダサいが、好きなアニメの感想を書けないまま留まっている方がよっぽどなので、こっから書いていこうと思う。
 二期の感想だと思ってたどり着いてしまった方には、大変申し訳無い。

 この話数で感想が溝にハマって動けなくなったのは、一個明確な理由があり、それはアニメ化に際してとある場面の流れが改変されていたからだ。
 ”アニメ化”というものが原作を全力で読解し、メディアの違いを生かした上での独自の再構築を行う以上、”原作通り”という感覚は創作者達の努力が生み出した見事な解体、増補、再配置の結果であり、様々なものが異なっていく。
 僕ヤバアニメは特に、原作初期のダイナシギャグな感じを薄くして、京ちゃんと山田のピュアな恋路を全面に打ち出したテイストでアニメになっていた。
 牛尾憲輔のナイーブで美麗な音楽、スローモーションとクローズアップを駆使したエモーショナルな演出と、作品の軸足を主役二人のラブロマンスに絞ることで、TVシリーズとして見やすいものになっていたと思う。
 過剰にフォーカスを絞りすぎて、原作が持つ剽軽な味わいを殺しすぎない加減をしつつ展開してきた物語は、今回ありふれた思春期の衝突を切り取っていく。

 

 

 

 

画像は”僕の心のヤバイやつ”第9話より引用

 頼れる親友・小林の勘違いと強がりなぞをチャーミングに挟みつつ、物語は京ちゃんと山田が『付き合ってなくても、友だちいなくても、中学生ならやってる』メディアである、LINEアドレスを交換するまでの紆余曲折を描く。
 堂々オフィシャルスポサードを獲得し、現在の中学生が持つ実在感を小物から出していく手法自体が、身近だからこそときめき憧れられる作品としてのアニメ僕ヤバのブランディングを感じさせる。
 第1話で運命の出会いを演出する手助けをしていたナンパイを、間に挟むようにして山田の独占欲、牽制、嘘が描かれ、京ちゃんはホゲホゲ天然に思えた憧れの少女が思いの外現実的な存在であることにショックを受けて、背を向けて距離を取ろうとする。
 中学ニ年生にしては少し幼く思えて、しかしよくよく考えればそういう、柔らかく人間関係の芯に近い距離感で生きている少年少女の触れ合いは、夕日の中で涙ながらお互いの気持を伝え、抱きしめあう形で落着して、じれったいカップル(未満)の距離感はまた一歩前進していく。
 いつか新作ゲーム機クソつまんなかったと、本当に欲しい物こそ遠ざけてしまう如何ともし難い気性と新たに向き合い直して、今度は素直に気持ちを告げる。
 京ちゃんと山田の恋路は、常に取りこぼした幼さ、素直さと誠実に向き合い直すことと繋がっている。

 アニメーションという間尺に合わせるにあたって、原作からカットされたセリフがある。
 アニメにおいては間に小林のドッタンバッタン空周りをはさみ、図書館での牽制合戦が京ちゃんの心に染み入るまで時間を取った形で描かれる、疑心暗鬼の描写だ。
 長いが引用する。

 

『僕は―……利用されたのか?
 ナンパイは嫌いだけど、あんな顔見たくなかった
 そうだったんだ―……しつこい男を牽制するために利用したんだ
 好きでもない男を
 ああ しょせんそんなもんだ
 僕が勝手に山田は他の人間とは違うと思っていただけで
 嘘偽りで人を傷つける汚い大人と変わらないのでは
 最初から全部――そうだったんだ』

 (漫画”僕の心のヤバイやつ”第3巻.KARTE42より引用、強調は筆者)

 

 原作において、京ちゃんは自分が恋の道具にされたことだけに傷ついているわけではない。
 好きでもないはずのウザい恋のライバルに、傷ついた顔をして欲しくない気持ちを裏切られたこと。
 嘘偽りで人(つまり京太郎自身だ)を傷つける汚い存在と、好きになった女の子が同じであったこと。
 そんな偽りの存在に想いを寄せていた、愚かな自分自身に傷ついて京ちゃんは、山田杏奈を拒絶している。

 僕の受け取り方としては、ここには僕ヤバの凄く好きになれる要素がギュッと詰まっている。
 あんだけ性と死にまみれた態度で世界から孤立しようと頑張っていながら、京ちゃんは極めて優しく純粋だ。
 恋のライバルが強めの肘鉄食らわされて、都合の良い展開になったから喜べば良いものを、ナンパイが山田の牽制にどれだけショックを受けたか間近に見てしまって、そんな顔はしてほしくなかったと悶える。
 (ここはアニメが家に帰るまでの放課後描写を挟み込んだことで、ジワジワと衝撃と疑念が深まっていく感じが強くなっており、独自解釈による再構築が効いている場面とも言える)
 バキバキに山田でオナニーしつつ、親しく接するか距離を取るかの判断基準は『他の人と違う、嘘偽りのない存在』か否かにあり、精神の有り様……中学事件の失敗で決定的に傷ついてしまった自分の幼さ、純粋さへの憧れに、価値を見出してもいる。

 山田杏奈に惚れ込んで、彼女一人に振り回されて意固地になり、あるいは好きになりすぎて傷つかないように、露悪な態度で距離を取る。
 京ちゃんが彼の特別な女の子にすっかり夢中で、視野が狭まっている描写は作品のエンジンとしてブン回りつつ、それだけが彼の世界を構築しているわけではない。
 好きになれないはずのナンパイに傷ついて欲しくない気持ちも、好きなはずの山田を嫌悪する気持ちも、ラブコメディの主役の中にはしっかりあり、その延長線上にはどんな人間になりたいのか、思春期の中で不安定に揺れている自己像への視線が強い。
 京ちゃんは、”嘘偽りで人を傷つける大人”にはナリたくないのだ。
 山田杏奈を死姦する、暴力的で身勝手な妄想でドビュドビュしていたくせに、望むのはあくまで強く優しく、純粋な子どもを裏切らない立派な大人になること……である。

 

 そんな願いにもう一度近づけるかも知れない奇跡として、京ちゃんは交わることのないカースト上位女に出会い、見つめ、彼女が好きである自分を自覚した。
 そこに宿るときめきはここまでの話数でしっかりと積み上げられてきて、物語の主柱として美しく削り出されてきた。
 ナンパイへの感情、どういう大人になりたいかという理想をセリフから削って描かれるアニメにおいて、山田とのロマンスが強調されるよう物語が剪定されているのは間違いない。
 しかし僕がこのお話を好きになった一番の理由……優しく強い自分になりたいと願いつつ、なかなかそれが敵わない難しさと誠実に向き合う思春期の描き方は、取りこぼされているわけではないだろう。
 ここら辺を納得するのに時間がかかって、今更こんな感想を書いて気持ちに整理をつけても居るのだが、心ときめくロマンスは(原作においてそうであるように)思春期の震えと切り離し難く連動し、有機的に影響し合いながら転がっている。
 恋すればこそ京ちゃんは育ち、育てばこそ山田は京ちゃんをもっと好きになっていくのだ。

 ”ヤバイやつ”になることでクラスから孤立し、世間から理解されないほど特別な存在になったと、夢いっぱいの子どもであることに挫折した京ちゃんは青春のワクチンを打つ。
 それは人生からドロップアウトしかねない毒で、実際不登校が常態化する寸前から学校に戻り、クラスの輪から浮いてそれこそが自分の望みなのだと、自己暗示で傷をごまかす青春に浸りかけてもいた。
 山田杏奈と遭遇したことで、彼女の引力に惹かれる形で京ちゃんの人生はもう一度ねじ曲がり、明るく充実した煩悶に、自分とは違うからこそ尊敬できる誰かとのコミュニケーションの中に、身を置くことになる。
 顔良し立場良し、”ヤバイ”自分とは縁遠いと思われた美少女はとんでもなく変な大食らいであり、自分が取りこぼしてもう一度得たいと思っていた純粋さを備えていた。
 かつての自分、あるいはこうなりたいと願う未来の自分の影を美しい顔貌の奥に見たから、京ちゃんは山田杏奈を好きになったのだ。
 そして年相応の図書館での牽制と、山田当人は見落としているその残酷な”ヤバさ”は、裏切られたと京ちゃんに思わせるには十分だった。

 

 ここで裏切られた(と思い込んだ)のは京ちゃんの純な恋心だけでなく、山田杏奈に彼が投げかけていた理想像であり、もう取り戻しがつかないほど失ってしまった(と思い込んだ)自分の幼さが、もしかしたら取り戻せるかもしれないという愚かで、ありふれていて、だからこそ切実な願いだ。
 嘘偽りで人を傷つける大人になんて、なりたくないと願っていたのに、そういう存在になりかけている自分を特別に引っ張り上げてくれる、無垢な天使。
 山田杏奈という実在が、けしてそういう存在ではないと思い知らされて、京ちゃんは彼女を……彼女を好きな自分を否認しようとする。
 それは目の前でモガモガお菓子食って、当たり前に嫉妬もすれば他人を傷つけもする、等身大の山田杏奈ではなく、手前勝手な思い込みをこそ選ぶ……ある種の逃げだ。

 心のエンジンに恋という炎が灯ってしまっている山田は、しかしその拒絶に傷つきつつも立ち止まることはなく、追いすがって手を引く。
 図書館での牽制で、一人の人間の心をどう傷つけて、それが彼女の特別な少年をどれだけ傷つけたかを、未だ未熟な山田杏奈が自覚していない(からこそ、ああいう芝居を叩きつける)のは、なかなか面白い削り出しだ。
 京ちゃんには見えてしまう……見えすぎてしまうからこそ傷つき、考えすぎてしまうからこそ足を止めてしまうものが、山田には見えず気にせず突っ走って、それこそが京ちゃんが山田を好きになる、何よりの理由だ。

 資質も性格も大きく異なり、だからこそ惹かれ合ってすれ違う二人の道は、京ちゃんがもう一度素直に目の前にあるもの、かつて自分が出会ったものに目を開くことで、暗い引力に惹かれることを止める。
 ここまでの物語で目にしてきた、自分が好きになった山田杏奈……山田杏奈を好きになった市川京太郎がどんな存在であったかを、思い出し内省することで、京ちゃんはガキっぽい拒絶を止めて、好きな子を好きでいる自分に立ち戻る。
 ここにおいて、かつては素直に欲しいと言えなかった、防壁を張って”好き”を遠ざけた自分を理解し直し、今度は間違えないように勇気を持って踏み出す所が、過去と未来の交錯点として恋にときめく今を描いていて、とても好きだ。
 山田杏奈を好きで居ると、心を揺すぶられ正気ではいられなくなるけども、しかしかつてなりたいと願った自分に、成れなくて打ち捨てた自分に、より近づくことが出来る。
 疑念と嫌悪……というラベルを貼ることで、これ以上傷つく道から自分を遠ざける理由を探っていた京ちゃんの懐に、山田が飛び込み抱きしめる/抱きしめてもらうことで、京ちゃんはもう一度、作品の本道へと戻っていく。
 『僕は山田が嫌い』という、結構マジな拒絶反応の奥にある『僕は山田が好き』に戻っていく。

 

 この物語において、モノローグは市川京太郎の特権である。
 彼が何を考え、何に煩悶し、何に興奮してシコシコドビューするかは過剰なほどに語られるが、彼の視界の先にある気になる存在達が、何を考えているかは明示されない。
 無論言葉や態度として現れたメッセージは鮮烈で的確だけども、他人の”真実”なるものが作中ゴロッと出てきて、人間関係の正解に向かって進んでいくお話ではない。
 現実においてそうであるように、市川京太郎に他人の心は見えない。
 だから恋情がもつれた結果ぶっ放された強烈な牽制に、傷つき思い込んで距離を取ろうともするし、そうして生まれたすれ違いを埋めるべく近づいてきた女の子を、抱きしめ返したりもする。
 解らないからこそ解って欲しい気持ちが、見えない他人にもあるのだと一個ずつ理解しながら、嘘偽りで人を傷つけることのない存在へと、自分を近づけていく。
 恋することで、解ったつもりになって裏切られて、近づいたり離れたりぶつかったり抱き合ったりする中で、子どもたちは過去を取り戻し未来を引き寄せていくのだ。

 解らないからこそ解かろうとする。
 解らないけど解ってもらおうと、必死に誠実に手を伸ばす。
 そういうすれ違いと触れ合いを、アニメにおいては二人の恋路にフォーカスすることで伝えようとする姿勢は、やっぱ正解だったのかなと、初回放送から長く時間が開いてしまった今更思う。
 いち視聴者でしかない僕が勝手に思いを巡らせて、作りての意図や工夫を読むのは無駄といえば無駄であるし、そこを噛み砕けなくて感想と視聴が溝にハマったりもするのだが、しかしこの長い遠回りもまた、京ちゃんと山田が作中向き合ったコミュニケーションの仲間と思うと、妙に愛おしくもある。

 二期放送を契機に、今更ながら視聴を再開する形になったが、やっぱ良いアニメでありアニメ化だと思う。
 自分の不出来で溜まってしまった”宿題”を、自分なりの気合を込めて終わらせて、新たに描かれている物語へと追いつきたい。
 次回も楽しみだ。