イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ダンジョン飯:第7話『水棲馬/雑炊/蒲焼き』感想

 揺れる湖面は水鏡、驕りも学びも余さず映す。
 ケルピー人魚に刃魚、超大型クラーケンまで飛び出す水辺の大冒険、ダンジョン飯アニメ第7話である。

 センシとアンヌの切ない決着に、ライオスのヤバさが唸る人魚グルメ、大迫力のVSクラーケンと、バラエティ豊かな面白さを堪能できた。
 命懸けながら面白そうな冒険をポップに楽しみつつも、センシほどの強者が……あるいは強者だからこそ魔物との距離を見誤ってしまったり、それを契機にまた一つ絆が深まったり、魔物食いタブーを巡るやり取りにライオスの壊れた人格が見えたり、悪食が祟ってトホホなオチだったり。
 思わずかじりついてしまう楽しさの奥に、身になる描写が沢山あって、非常にこのお話らしい回だったと思う。
 前回チルチャックが奮戦の果て、ミミックへの苦手意識を”食った”ように、センシもケルピーへの過剰な信頼に引っ張られて死にかけ、仲間の命綱に助けられ、魔法嫌いな気質を少し緩める。
 そんな人間的な変化が騒がしい冒険の中にあって、お互い素性も願いも知らぬまま冒険に挑んでいるパーティーが、かけがえない仲間になっていく手応えをしみじみ味わえる。
 僕はやっぱり、そういう気取らぬが奥深い味わいが毎回ちゃんと在るのが、このお話の好きなところだ。

 

 人間、勝手に見知らぬ誰か(あるいは何か)に共感を寄せ、気分で命を預けたり遠ざけたりする。
 人間に近い形をしていたり、自分の望むとおりに行動している存在は、自分たちと同じ仲間だと思ってしまいがちだが、ライオスが指摘する通り、魔物は魔物である。
 仲間の魔法に命を預けられず、”アンヌ”と特別な名前を与えた水棲馬の背に乗っかったセンシは、獣の顔むき出しの怪物に食われかけ、その命を救われる。
 自分の驕りと過ちを丸ごと噛み砕くように、水棲馬を腑分けしていくセンシの隣で、マルシルが彼女の魔力を弾くヒゲを梳くべく、馬油石鹸を作る描写が好きだ。
 口に入るわけではないけど、水棲馬の油を原料にするそれは煮てかき混ぜて作る一種の”料理”であり、迷宮でもキャピキャピした乙女趣味を捨てない(かわいい)マルシルは人間を形作る”衣食住”のうち、”衣”の楽しさを担当するキャラとも言える。
 魔物食をいやがっている彼女が、センシから手ずから馬油を受け取り、彼をおしゃれに飾るため、水上歩行の魔法がかかるように、苦労して綺麗でいい匂いのする石鹸を作る行為には、ここまでセンシがパーティの腹を満たしてくれたのと、鏡合わせの真心が宿る。

 魔物にしか興味がなくて人間社会で生きにくいライオスに比べ、センシは食と人間への慈しみを持ち、斧振る腕も頼もしい、親しみやすい人物だ。
 それは人の心に寄り添う柔軟性と、自分の似姿に共感できる感覚をしっかり持っているからだが、だからこそ水棲馬を自分の延長線上に置き、命を盗ることはないだろうと油断もしてしまう。
 あくまで冷静に客観的に、魔物が異物だからこそ興味を持ち続けているライオスが、しっかり水棲馬の危険性を予期していたからセンシの命も助かるわけだが、しかしその適切な”遠さ”は、アンヌに心を寄せていたセンシのチャーミングな”近さ”に比べ、人間関係において色々トゲが多い。
 人に興味を持てず、異質で危険なな怪物だからこそその生態に興味を持つライオスより、世捨て人としてダンジョンの一部となり生き抜いてきたセンシのほうが、人の心がわかっている(感じがする)のは、なかなかに面白い。

 センシはクラーケンをあくまで頭足類の一種と理解し、慣れ親しんだ屠殺法で一撃必殺、急所を抜いて危機を突破していく。
 あくまで”食材”として、敬意を持ちつつも冷静に魔物を見据えて、恐れず挑んでいく冷静な心持ちも、水に引っ張られて死にかける中で取り戻していく。
 水棲馬を巡る冒険の中で、センシは嫌っていた魔法に少し心を許し、をお化けイカがまな板に乗っかるための”調理器具”として、マルシルの”水上歩行”を活かせる自分を作り上げた。
 最後に好奇心に負けて未知の食材を生食した愚か者が、食物連鎖当然の摂理として地獄の苦しみを味わうのを見て、ダンジョン環境の保護者と奢っていた自分を戒め、誠実な謙虚さを取り戻していく。
 パーティーの可愛いヒゲオヤジ、頼れる魔物食の先達と思えるセンシにもまだまだ改めるべき所があって、そこに手を差し伸べられるからこそ一行は”パーティ”なのだと、じんわり美味しい人間ドラマの味が冒険の中しっかりするのは、やっぱり見てて面白い。

 

 このホッコリ力の高いセンシの変遷に比べ、『コイッツマージ……』と回を重ねるごとに暴かれていく、ライオスの性根。
 悪いやつではないんだけども、人間社会を成り立たせている不定形の空気を感じることが極めて難しく、何気なくヤバいラインを踏み越えてしまう在り方が、今回は人魚/魚人を巡って表に出ていた。
 『人型はなんかイヤ』という”気分”はつまり、哺乳類であり愛嬌を擬態していた水棲馬にセンシが心を寄せた在り方と繋がっている。
 『私に似ているものは私を害さない、故に私はそれを愛する』という方程式は、希望的観測としては大変に一般的かつ心を落ち着けるうえで有用で、そこにしがみつかなきゃ人間生きていけないわけだが、絶対の真理ではもちろんない。
 異質な猛獣である魔物を迂闊に同一視すれば何が起こるか、ライオスの冷静な視線があったからセンシは命を拾ったわけだが、この冷静な線引はともすれば、『死ねば肉だし』で同類をかっ喰らう、人類最大のタブーへと踏み込みかねない。
 食事と隣人を分ける何かが、”気分”が不可視で不定形であるがゆえに社会の基盤として共有され、それ故複雑怪奇な人間模様が成り立っている現状に、ライオスの合理と興味(あるいは興味の不在)は上手く適応できない。

 しかしライオスが完全に社会性と共感ぶっ壊れた存在かというと、血と社会的ポジションが間近な妹取り戻すために必死に迷宮に潜っているし、アンヌに対してセンシがそうであったようにケン助に名前をつけて心を寄せているし、社会で生きていくための接続具は十分生きている。
 生きているうえでぶっ壊れてもいて、そんな自分の性根とどう向き合っていくのか……大好きなモンスターと戦い生き延び食う旅は、人間の中で生きるしかない人間であるライオスのことを、照らす不思議な鏡となっていく。
 『ヤベーって!』とチルチャックに釘を差されても、自分なりの合理に基づいて擬態でしかない回想を雑炊に混ぜ、そこにくっついたヒューマノイドの卵を食べて嬉しい隠し味として、マルシルに食わせる。
 そこヤバさに気付けない壊れ加減も、センシを救った冷静も、妹と仲間を大事に思う気持ちも、入り混じってライオスという青年を形作っている。

 そんな複雑で奇っ怪な己をこの迷宮と、その外にひろがる人間社会の中でどう扱っていくのか。
 ワーワー騒がしく文句をたれつつも、窮地を共に乗り越え同じ釜の魔物飯を食ってくれる仲間を頼り、また頼られる中で、ライオスの社会性はどうなっていくのか。
 そんな一風変わったビルドゥングロマンスが、やはりこのお話の柱であろう。
 ライオスが上手く馴染めない、不可視の”気分”が常識となって包囲する遠くて大きな人間社会と、ライオスの凸凹ひっくるめて隣り合い、肯定し時に『お前それは……』とぶっ叩いてもくれる、身近で温かなパーティー
 その両方に振り回され引き寄せられながら、激ヤバ魔物狂いはどんな風に迷宮を走り抜け、自分を作っていくのか。
 『また死んでおるぞー!』なカブルー一行が、健気で溌剌とした初心者パーティーっぷりを、マトモに社会に適応できている真っ直ぐさを見せるほどに、社会一般の”気分”から逸れつつも脱落していない、奇妙な変人パーティーの特異性、面白さも鮮明になっていく。

 パーティはそれぞれの職能を分担した機能態であり、より大きな……迷宮の上の方で展開する社会では爪弾きにされる”ヤバさ”を、個人単位で許容し共有できる、より小さな社会でもある。
 『ここからもはじき出されたら、それこそ終わりだぞ!』と間違いなく言える、ライオスに優しく一緒に戦ってくれる、頼れる仲間たち。
 彼らを助け、また助けられ……好奇心に勝てぬまま寄生虫を生でかじり、寄生虫寄生虫に胃の腑をほじくり返される醜態を、『しかたねぇなぁ……』とケアされる、お互い様の共同体。
 ライオスの旅が彼の異質性を孤独に放置する単独行ではなく、情や縁や契約に縛られ共に進む冒険だからこそ、このお話は面白い。
 そんな味にも気づく回であった。

 

 というわけで、水辺の大冒険に色んなモノが照らされる回でした。
 クラーケンとの大立ち回りは迫力あって最高だったし、思慮深いセンシの良さがしみじみ煮出され、ライオスのヤバさの有益な一面が垣間見えたり、話数積んだからこそのコクがあって、大変良かったです。
 ”食”はあんま作らんのだが、キャピついた個性を活かして”衣”の華やぎを担当するマルシルの善さも、石鹸作りとおヒゲの手入れに良くでてたなぁ。
 おヒゲもふもふんなったセンシ、どう見ても可愛い妖精さんで最高。
 俺は可愛いおじさんが好き。
 次回も楽しみ。