イマワノキワ

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鬼滅の刃 柱稽古編:第3話『炭治郎全快‼ 柱稽古大参加』感想ツイートまとめ

 鬼滅の刃 柱稽古編 第3話を見る。

 遂に始まった柱稽古!
 元風柱軍曹の愛ある鬼シゴキに並走する形で、アニオリで最終決戦の胎動を描く構成。
 血しぶき飛ばない死人出ない、厳しくはあるけど実質中休みな稽古一本槍だとダラケる……という判断(あと尺が持たない)だろうけど、たしかにいい感じに緊張感があってよかった。
 第1話のアニオリから引っ張る形で風 VS 蛇のラインが太くなってて、ぶっちゃけ無限城に入るまで全然キャラ分かんねぇ二人の掘り下げが前倒しされているのは、全体的なトーン調整としてもいい感じ。
 炭治郎との接触はなくとも、荒い態度に生真面目さと傷を隠してる彼らの人間が、伝わる改変だと思う。

 

 メインの方は遊郭編で共闘した宇髄さんの、アフターエピソード的な色合いもある鬼シゴキ。
 まぁ言うたかて、無一郎が容赦なく木刀でボッコにするなか、竹刀で適度に小突きつつモブ隊士の体力と精神を実践に向けて磨き上げ、柱稽古スタンプラリーに挑む姿勢を作ってあげてる宇髄さんは、嫁さんたちが言う通り優しい。
 そういう人が苛烈な鬼にならなってなお、腕と目獲られて戦士としては引退に追い込まれるんだから、鬼相手の闘いはまことに厳しい。
 …炎柱稽古は無いんだから、生きて後進の育成をしてくれてる宇随さんの運命は、全然幸せなものなんだけどさ。
 煉獄さんがどういう稽古したのか、見たい気持ちはちょっとあるなぁ……。

 炭治郎は才能に恵まれ運命に愛された特別な主役で、それと並び立つ特別な子ども達とばかり、ここまで絡んできた。
 だからこそモブ共をごぼう抜きする実力をつけ、上弦殺しの奇跡を幾度も成し遂げてきたわけだが、その特別さが苦戦の中だと、なかなか見えにくい。
 なので今回、常人…というにはムッキムキな半裸のニーちゃんたちとどんだけモノが違うか、その特別さにどんな意味があるのか、可視化されたのは新鮮だった。
 いやー…改めて描かれると、『そらそーだよね』って感じ。
 普段の装束脱がしてみたら、めっちゃ傷だらけだしムキムキだしさぁ…あの戦歴と身体で、水柱も分かりにくくデレる天真爛漫で有り続けてるのが、多分一番特別。

 

 竹刀がパスパス軽い音を立てる、宇髄さんの疑似襲撃を見ていると、なんとか地獄で生き延びるための実力と胆力を付けさせたい彼の厳しい優しさと、それが噛み砕かれるだろう未来を同時に思い、なんとも言えない気持ちになった。
 ここまでさんざん描かれた、鬼の爪牙が残酷に何もかも奪っていく殺し合いと、今回の”稽古”は違いすぎる。
 あのへなちょこモブたちがあっさり死ぬ姿は、そういう惨劇ばかり見てきた僕らには容易に想像できて…でも今回、彼らの汗と根性を間近に見てしまうと、なかなか想像できなかった一人間として当たり前の眩しさも、立体感を得ていく。
 そういう人間が、十把一絡げに肉塊と散らばるのが、この後の闘いだ。

 それはあんまりにも悲惨で、しかし作中の彼らもそんな地獄を過去に背負ってるから、わざわざ私設暴力組織の兵隊やっとるわけで。
 描かれない哀しみと痛みを鬼に背負わされて、フツーの人が鬼斬の修羅に成り果てていく螺旋に、確かにある人間の表情。
 そういうモノを見てしまうと、特別な主役の特別な闘いに、少し違う香りが混ざりそうだ。
 いやー…本当に良くないよ、鬼殺隊。
 構成員自身が一番鬼殺隊解散=鬼のいない世界の達成を望んでいて、そのためには行くところまで行かないと無惨滅殺の悲願が果たせない矛盾が、半裸のマッチョがヒーヒー言ってる姿から感じれた。
 あの人らが、ボンボコ死ぬんだからなぁ最終決戦…。

 

 自分たちをごぼう抜きしていった才能の塊を、恨むことなく希望の灯と真っ直ぐ見つめて、明日を信じる真っ直ぐな連中ばっかだったのが、微笑ましくもありがたく、また哀しかった。
 フツーにいい人が鬼殺隊のモブには多く、そういう人だからこそ不惜身命当たり前の狂った組織に身も置けるんだろうけど、それにしたってフツー過ぎる。
 フツー過ぎる人が上弦レベルとやり合うと、どういうことになるのかを、宇髄さんと炭治郎の超絶バトル(全然本気じゃない)へのついて行けなさが、良く語っていた。
 そらー柱達も焦るわけだが、人間のまんまアンタラの領域まで行くのは前提からして無理なのだ。

 その無理を踏破したからこそ、炭治郎は宇髄軍曹ブートキャンプをラクラク乗り越えて、次のステージに進みもするのだが。
 人間やめた外道になって、力を求めなきゃ目的が果たせないってのに、フツーの人をフツーに鍛えて戦力にしようとしているマトモさと、そのまんま死地に頭から突っ込んでいくイカレ加減が、アンバランスで”鬼殺隊”って感じだ。
 鬼食ってでも強くなろうとした玄弥が、あくまで異端であるってのは、体育会の合宿めいた匂いもある今回の半裸マッチョ祭りにも漂う、鬼殺隊の正気と歪みを象徴してると思う。
 鬼殺しに狂いきってる組織なら、もっと半鬼量産して戦力底上げするでしょ、みんなフツーなんだから。

 しかし鬼殺隊が選ぶのは、フツーに山ン中駆けずり回って基礎体力を手に入れ、死なない程度潰れない程度に加減したコーチングで人間のまま、強くなる道だ。
 ここら辺、入隊試験で全滅上等のハードコアな試練を課してるのと齟齬起こしている感じもあるが…まぁ連載初期だかんなッ!!(メタ領域からのスジの悪い擁護)
 狂ってるのにマトモで、世間の裏にいるのにフツーで、当たり前の人達が当たり前じゃない強さを求めて、当たり前に闘い続けてきた鬼殺隊の顔が、良く見える回だったと思う。
 狂っているから人間より強い鬼のロジックを、そのまま引き写しても意味がないから、フツーが大事っていう描き方自体は納得もしているよ!

 

そういうフツーの人達が、恐怖に震えながら死地に飛び込む理由として、フツーじゃない主人公の異様な強さが仕事すると示されたのも…良いのか悪いのか。
 嫌だって炭治郎、自分の特別さが優しい人たちを地獄に駆り立てるの直視しちゃったら、結構ダメージ入るでしょ。
 死にたくない幸せになりたい大事なものを守りたい…当たり前の煩悩を残して必死に生きてる人たちと、当たり前に仲良くなれるあの子は、そういう人たちが普通でいられないほどの悲劇がどんなモノか、自分が奪われた日常の輝きに照らして、ちゃんと見れる。

 でも心の何処かが、何かを投げ捨てなきゃ何かを掴めない過酷さの中、そこに特別じゃない誰かを引き込む 己の引力を自覚してしまうと崩れていくような感じもある。
 『自分だけ強ければ、自分だけ傷つけば、誰かを死なさずにすむ』つうのは柱の多くが背負ってる思いで、その究極が一切周りに馴染まなかった富岡だと思うけど、んじゃあ『みんなで強くなって、みんなで傷ついて、みんなで死にましょう!』ってのも、ずいぶんイカれた話である。
 鬼殺隊はこれを肯定しているわけじゃないけど、鬼と戦うミッションはその狂気を否応なく必要とはしてて、それが人間としての瑞々しい感情、闘いの外側に置かれるべき幸せを大事にするあり方と、擦れて軋む。

 

 対話の余地がない怪物との殺し合い、理屈で割り切れるもんじゃあない。
 それは理解しつつも、鬼に劣らず業の深い組織だなぁと思わされる回でした。
 しかしまー、戦う事を選んだのもあの普通で優しく弱い…もしかしたら強くなれるかもしれない人たちなわけでね。
 この矛盾を自分なり乗り越えるべく、”鬼滅の刃”は個として完結して強い鬼(その代表たる鬼舞辻無惨)のエゴイズムと、弱いまま生きて死んで継いでいく鬼殺隊の強さを、作品の柱に置いてるのかもしれない。

 色んな出会いから思いを継いで、炭治郎の修行は新たなステージへ。
 過去を思い出しちゃった無一郎くんの変化が、アニメでどう描かれるかも楽しみにしつつ、次回を待つ。
 柱稽古編…ぶっちゃけ放送前思ってたより楽しいな。(三話目の素直な感慨)