イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『きみの色』感想

 山田尚子監督最新作、”きみの色”を劇場で見てきましたので感想を書きます。
 ネタバレにならない範囲で感想を言うと……とても奇妙で独特で、素晴らしい映画でした。
 作者が受け取っている個人的な世界の手触りを、どうすればアニメーションに落とし込んで共有可能な形に出来るのか。
 動きや構図、色彩や音楽といったアニメーションを成立させている全てを、とても美しい形に削り出して組み合わせることで、非常に繊細なイマージュが具体化されていました。
 奇人の脳内を覗き込む奇妙な旅を楽しむ物語と思いきや、そこで描かれている小さな苦悩や幸せには普遍的な手応えと豊かなおかしみ、瑞々しい可愛さが溢れていて、手近に引き寄せて慈しむことが出来る、チャーミングな映画でした。

 凄く特別な言葉で綴られているのに、書いたものがそれで何を伝えたいのかあますところなく分かってしまう、魔法の書物を紐解いたかのような不思議な感覚を、100分全身に浴びせてくる映画で、本当に凄かったです。
 極めて個人的でありながら、見ているこちらを置いてけぼりにしない凄まじさを、めちゃくちゃ気楽にブン回してくるので、一見何も起こってないし何も凄くないように思えてしまう、力みが一切ない凄み。
 その究極の自然体が届けてくる、美しく優しく少しだけ厳しい、生きるに値するだけの美麗に満ちた、豊かな映画体験でした。

 可愛かったし、面白かったし、凄かったです。
 めちゃくちゃオススメです。

 

 

 というわけで、山田尚子×サイエンスSARU×STORY inc、夏の終わりの注目作として公開されたこの映画は、箱のデカさに反比例して極めて個人的で、かつ普遍的な、とても奇妙で素敵なお話だった。
 めちゃくちゃ良かったので、見てない人は見たほうが良いと思います。

 一般的な作劇作法、こっちが考えてる「こういう感じで話が進むんだろうなぁ」を、徹底的にスカし裏切り上回ってくる語り口や、怪物的な美麗さで作品世界を構成していくアニメーションとしての冴え、そこに反射している作家の目と世界認識を通じて、山田監督がどう世界を捉えているのか、100分強制的にシンクロさせられるような体験でした。
 人間の基本的設計として、伝わることのない主観をどうしたら伝えられるのか、極めて言語化が難しいものをロゴスに頼らず、非言語的な感覚に染み込ませるように解らせてくる、優しい剛腕。
 それにぶん殴られぶっ飛ばされ、とてもいい気持で映画館を出ることが出来た。

 

 無論この映画を見終わって感じた「俺は山田尚子を識っている!」という感覚は誤解でしかないのだけども、100分間のひどく穏やかで美しくて、でも当たり前の苦悩とか難しさも確かにあった長崎の青春を通じて、トツ子たちのことが解ったと思い込めるのと同じくらい、山田監督のことをが染みる……染みたように感じられる映画だった。
 嫌な人が一人もおらず、展開を盛り上げるだろう暗い起伏を極力排除した話作りはセオリーから大きくハズレているけど、それでもなお眼の前の映像を通じて何かが的確に伝わり、感じ取ることが出来る体験それ自体に、「世界とか人間って、ここで描いているように美しくて優しくて、繋がれるものだよ」と語りかけられている気がした。
 ここは感受性と価値観の領域なので、人によってかなり評価は分かれると思うけど、世の中に”正解”とされている音量の大きなお話をあえて選ばず、作中牛尾憲輔が編み上げたような静謐で透明な声量でもって、ありふれた……とはとても言えない変わり者共の青春に、徹底的に寄り添って削り出した手つきの徹底は、凄まじいものだと思う。

 本屋に並ぶ美しい書物、長崎の町並み、五島の海と雪、世界に満ちている花、くるくると回る円形の運動。
 劇中歌として選ばれた”My favorite things”のように、山田監督が美しいと感じているものだけで作品世界を満たしつつも、要らないものを排除してそれを成立させる偏狭さではなく、確かにそれが世界に満ちているのだと思わせる幅広な魅力。
 それはやはり、あらゆる物事に独自の感性を差し込み、特別性の眼球で美しさの本質を見て取って、アニメーターとして再構築が出来る腕によって……とても歪で美しいフェティシズムによって成立していると思う。

 

 「これこそが美しいのだ」という猛烈な確信を、作品全てに満たして作り上げた美しい場所の、美しい人達には冷たい人形の手触りがなく、人間ならば必ず溢れさせる細やかな感情、ズレて繋がるそれぞれの世界、そこに生まれる生命の息吹が、生き生きと弾んでいる。
 この体温はやはり、子の作品が本来動かないものを動かす芸術であるアニメーションで、山田監督が卓越したアニメーターであることによって生まれていると感じた。
 静止画ワンカットではけして生まれ得ない、連続し転がりまわる動きの快楽、そこに宿る言葉より雄弁な意味を、異様な濃厚さで積み重ねつつも透明感を保ち、濁りがない。
 作品全体を貫通するこの特別な雰囲気が、特別なことなく進んでいく話運び、そこに生きてる奇妙で愛しいキャラクターたちを、するりと飲み込ませる潤滑油になっていた。

 思い返してみると、映画を構成する全ての要素が一つの意思のもとまとめられつつ、それに見ているのを染めようとする強圧的なエゴイズムの匂いなく、自然生み出された魅力的な世界に誘われ、引き込まれ、その一員となってしまうような、特別な映画体験だったと思います。
 自分がこういう感覚を覚えたのは、十数年来の山田尚子マニアであり、彼女が生み出すアニメーションに惚れ込んで映画館に足を運んだ贔屓目、相性の良さがもちろんあるのだろうけども、そういうところを貫通する絵と音楽のシンプルな凄さ、一貫性がある映像体験が生む普遍性が、確かにあったと思っている。

 

 

 世界を色合いで捉えてしまう特別な視界を持ったトツ子を主役とするこのお話は、自動的に彼女が捉えている主観を美しい色と動きでアニメーションさせることを、作品のエンジンに据えてしまう。
 他人と共有されず自分を「ちょっとぼんやりした子」と浮かび上がらせる特別な主が持っている、豊かなイマジネーションと色彩を僕らに届け、共有させ、憧れさせる所から物語は動き出し、トツ子が見ている世界を共有させてもらいながら進んでいく。
 そこには猛烈に「私が見ている世界」の色が濃く、しかしともすれば孤独で暗い場所として他人を排除してしまいそうなトツ子の世界は、輪郭線を飛ばした柔らかな水彩の淡さでこちらを招き入れ、思わず驚愕の声を上げるような美しさを届けてくれる。

 この個人的主観へと観客を引きずり込んでしまう魔力は、もちろん作中一切の破綻なく積み上げられていくバキバキのレイアウト、美しい色彩と撮影といった、アニメーションの技量によって生まれている。
 山田監督天性のセンスで組み上げられた画面の構成は、ぼんやりしたトツ子の感性に引っ張られて作品が甘く緩くなっていくのを的確に拒絶し、温かでありながら均整が取れていて、見ていてとにかく気持ちがいい絵を心地よく動かし続け、成立させていく。
 女の子が日々の生活の中で見せる、自身意識すらしていない奇跡のような可愛さを特別星の目で切り抜き、幾重にも重ねて活き活きした可愛げをキャラに宿していく手つきは、”けいおん”における平沢唯、”たまこまーけっと”における北白川たまこ、”聲の形”における石田マリア、”リズと青い鳥”における鎧塚みぞれ、あるいは”平家物語”におけるびわに向けていた、ちょっと幼くてぼやぼやしていて、だからこそとびきり可愛い地上の天使たちへの規格外の愛情が、驚異的な分厚さで滲んでいる。
 山田尚子、世界で一番「ぼんやりさんな女の子」が大好きな女(ひと)……。

 

 

 トツ子はその身に刻まれた特別な色彩感覚によって、真実の自分をなかなか他人に伝えることが出来ず、朗らかで幸せな日々を送りつつも、どこか内側に溜め込んだものがある。
 そんな彼女が世界で最高の青として惚れ込み、思わず現を忘れて顔面にボールを受け止めてしまうきみちゃんの魅力も、トツ子の主観を通じて描かれ、僕らに受け止められていく。
 トツ子が見ている世界は一人称に据えたカメラを使わずとも、彼女が身を置く世界を夕焼けのオレンジや朝焼けの緑、暮れていく世界の群青の一色に、美しく染めて描く色彩選択によって良く伝わる。

 トツ子が身を置く世界、彼女だけが世界にあって他の人が画面上にいない場面、あるいはそんなトツ子の感性に他人が共鳴し同居するシーンにおいて、この映画は(例えば青の時代のピカソの作品のように)シンプルな一色で世界を染め上げ、美しく単純化することを選ぶ。
 それは多分、他人と上手く深く交われないから幼さの先へとなかなか進み出せない、トツ子の主観を反射する色合いだ。

 ともすれば世界を一つの色に染めてしまう、複雑さがないトツ子の視界は乗り越えられるべき未熟さと捉えられてしまいそうだが、この話はそういうありきたりな成長物語へは舵を切らない。
 ”成長”を促す世界との衝突や乗り越えるべき課題はあんまり顔を出さず、想い人探しもバンド結成も曲の練習も、極めてスルスルと引っ掛かりなく進んでいく。
 森の三姉妹やシスター日吉子を筆頭に、この世の善良を人間の形に煮固めたような人とばかり縁があるトツ子は、無理くり己の在り方を切開しさらけ出すことなく、温かな居場所を見つけていける。

 普通の物語ならヌルいと受け取られかねないこのスムーズな語り口は、しかしトツ子なりの小さな、しかし否定し難く確かにある難しさと、そこに同居している彼女だけの美しさを鮮明に(主観的に!)描き切ることで、不思議な納得をもって飲み込めた。
 ルイくんの兄にしろ、きみちゃんがおばあちゃんちにいる事情にしろ、「普通のお話ならそこを彫り込んでドラマの種にするだろ!」みたいな部分を徹底してスルーして子の映画は進んでいくわけだが、そこに語りきらない不自然や作為よりも、語るべきではない物語の必然、踏み込まない優しさみたいなのを感じてしまったのは、自分としても奇妙なことだった。
 この映画が世界を見て描き手渡してくる、独特でありながら、だからこそ魅力的な手つきを既に浴びているので、相当奇妙な話運びをされても「これが”きみの色”が選んだ語り口なんだなぁ……」と、飲み干してしまう共犯関係が作れたのは、幸せな視聴だったのかもしれない。

 このセッティングで、バンドメンバー二人の甘酸っぱい恋を決着させる……どころか、告白すらしない進展のなさで放置するのってフツーあり得ないわけだが、終わってみると「これがきみちゃんとルイくんとトツ子の決断なら、それで良いんだろう……」みたいに思えてしまうの、やっぱラッキーだなと思う。
 人生そんな風に、あんま劇的なお話にはならないけど確かに何よりも熱くうねる心の交流で満ちてて、そこから生まれる絆や音楽は当事者を超えて世界に広がっていて、美しくて幸せなものを確かに作っていくんだなという、しみじみとした納得を受け取って映画館を出れたのは、世にありふれた作劇の正解というやつを視界にすら入れず、ただひたすらにトツ子たちの主観に絞って彼女たちの青春を、そこにあった本当を積み上げ続けた、語り口の徹底にも在った気がするのだ。、

 

 トツ子の単色の世界がいつか、例えばきみちゃんがしろねこ堂でやるせなくギターを弾いているときのような、複雑でリアルでまた別個の魅力を持った色合いを得て、子の映画は終わるのだろう。
 終わってほしいな、という期待も込めて僕は座席に座っていたわけだが、それは雪の中の合宿を終えて輝く美しい朝や、自分たちの特異な感性で世界中を巻き込んだヴァレンタイン祭での花園の幻視の中で、見事に花開いていく。
 きみちゃんの青、ルイくんの緑と合わさって光の三原色を生み出す”赤”こそが自分の色だと、三人で駆け抜けた青春のクライマックスたるステージの中、トツ子はようやく自分を見つける。
 それは秘密と感動を共有できる特別な人と、心の底から繋がれる特別な体験を、特別過ぎる美しさに包まれながら過ごした日々が、トツ子に与えてくれた色彩だ。

 憧れていたバレエを上手く踊りきれなかった、小さな心の棘と合わせて、トツ子は否定し難く自分と結びついた特別な色彩感覚によって、朗らかに世界から隔絶されている。
 複雑に色分けされた他人のリアルではなく、その本質的透明度と心地よさをまず感覚してしまう、純粋極まりないトツ子の感覚は彼女を年不相応の幼さに閉じ込め、美しく他人が共有できない単色に染めていく。
 それが”現実”なるものの複雑で濁った色に汚されることなく、優しい人たちに見守られ育まれた”トツ子らしさ”として、物語が始まる前も始まった後も、最高の音楽を奏でルイくんとの別れを経験し、世界の複雑な色を自分に引き寄せられた後も、美しく残り続けるのが好きだ。
 それは必ず消えてしまうわけでもないし、消えればそれ以上の成熟を手渡してくれるものでもなく、トツ子だけが持つトツ子の色であり、美しさであって良いのだ。

 

 この美しく少し淋しい単色からトツ子が進み出して、他人と色を混ぜ合わせる幸福、混ぜ合わせたいと思える特別さを見つけていくことが、この穏やかな作品の太い背骨ともなっている。
 尋常ではない夢中っぷりで惚れ込んだきみちゃんに、巻き込まれ引っ張られる形で累くんと出会い音楽を始め、女学校の規範から逸脱した”悪いこと”にも挑み、トツ子は段々と変わっていく。
 他の人が当たり前に見ている色合いが、家族と柔らかく温かい愛でつながればこその難しさが、自分の中にも確かにあって、それを手渡し混ぜ合わせることで、もっと幸せな場所へと自分たちを進めれると、音楽と書物と四季の移ろいに満ちた、穏やかな日々の中でトツ子は学んでいく。
 それはとてもちっぽけでありふれていて、だからこそ大事な発見であり、世界と人間を特別な色で見てしまうトツ子の異彩がなくとも、あらゆる人に共通な発見だと思う。
 こういう”人間の当たり前”が特別でもなんでもない、どこにもありそうな人生の一幕が、実は極めて特別な手触りと色合いに満ちていると削り出すお話なんだと、やはり僕は思う。

 

 トツ子はきみちゃんと共に過ごす中で、自分の中にあって外に出しにくかった独自の感覚を歌詞にし、音楽にし、思わずくるくる回りたくなるような幸せをステージ越し、誰かへ伝える所までたどり着く。
 それは世界に彼女が交わるのを封じる”欠点”が、世界と繋がりうる”特別”へと変わった証明なのだが、このお話はそういう自己証明に格段特別の大きさを割り振らず、トツ子等身大の幸せなライフイベントとして、淡々と、かつ感動的にしっかり描く。
 色が見える主人公が、色の見えない音楽をやる時点でかなり捻くれているわけだけど、しかしダイレクトにトツ子が絵画という表現に繋がってしまっていたら、三原色は混ざり合わなかったと思う。
 自分の中にある色を、ノートの上に書き出し、携帯電話越しに仲間に伝え、音を重ねて音楽にしていく、共同作業の煩雑と混色があればこそ、トツ子は自分の中にある色を外側に表現することで、大事な人が喜び幸せになってくれる事実を、しっかり確かめられた。
 あるいは最初の接触では上手く噛み合わなかったバレエのステップのように、色んな出会いとタイミングの重なりによって、音楽があの時のトツ子を選んだ……ということかも知れない。
 そういうあんまり素直にはハマらない、しかし圧倒的な愛しさで描かれてみればそれ以外に答えはないような、偶然とも運命とも取れる出会いによって人生が転がっていく様子も、子の作品が描きたかったものの一つ……なのかもしれない。

 

 トツ子自身は持ち前の幼さもあって、恋のキラメキをルイくんに抱くことはない。
 しかしスノードームの中に反射するきみちゃんの純情を見て取ることによって、その豊かな感受性で誰かを好きになる気持ちの美しさ、その大事さを学び取ることが出来る。
 僕はトツ子にとっての”恋”がここで描写を止めてしまうことも、そうして解ったきみちゃんの気持ちが作中成就……というか表現も交流もされない所も、凄く好きだ。
 人生の見せ場としてドラマティックに結実しなくても、書店で初めて出会ったときから心を揺らした素敵な出会いはどんな宝石よりも綺麗なものだし、言葉にならずとも卓越した感受性と優しさでもって、その眩しさを解ってくれている友だちがいる。

 そんな子に背中を押されて、寂しくて哀しくて進み出せなかったルイくんとの別れに向かって、旅立つ船へ「がんばれ!」を伝えに行くという、ラストシーンを飾るにはあまりにも地味で、あまりにも人生の真実に接近したあの離別。
  三人で笑い合いながら音を重ね、幸せに満ちていた時間があまりに豊かに描かれたからこそ、堤防の上で動けないきみちゃんの辛さと、それを動かしてくれるトツ子の存在と、必死に絞り出したエールを船の上受け取るルイくんの気持ちは、言葉を超越した圧倒的な存在感でもって、僕の側に届いてくれた。
 巣立ちの日を満艦飾に飾ったテープが、なにか大きなものに引っ張られて宙に舞う時、そこには美しく淋しい単色ではなくて、確かに沢山あった”きみの色”が宿っている。
 その複雑な色合いが、確かに美しいものであり、自分の外側にある”きみの色”であると同時に、きみがいればこそ解ることが出来た”わたしの色”でもあると、トツ子が確かめられるようになるまでの物語のラストとして、あの美しい色彩以上のものはなかったと思う。

 それは風に拭きちぎられ消えていくけども、確かにそこに在ったのだし、また新たに現れてくるのだ。
 自分の見ている世界しか解らなかった女の子が、持ち前の愛しさや透明度をけして失うことなく、自分にも確かに特別な色があって、それが音と心で混じり合うことの特別な幸せへ、たどり着くことは出来るのだ。
 世界はそんな風に色に満ちて、なんだか独特の盛り上がらなさで進んでいって、しかし確かに人間一つを揺り動かしてしまうほどの力強さを宿して、色んな美しさが希望を反射するのだ。
 そんなちっぽけで玉石のように確かな実感を、握りしめて映画館を出ていく手助けを、それぞれの小さな難しさと幸せと、とびきりの美しさを示してくれた子どもたちが、生きることを楽しく頑張ってくれる映画で、凄く良かった。

 

 

 山田監督が全霊を込めて「子の世界は生きるに値するほど恩寵に満ちているし、美しいもので満ちている」と告げてくるアニメは、他に類を見ないほど良く祈り、それに答えて兆しが遣わされる物語である。
 トツ子は一度も聖書を読まないが「いつも聖堂にいる子」と周囲に認識されるほど、足繁く祈りの場に身を置いているし、自分の行いを判断する時は常に神の存在を考えにいれる。
 ベッドに刻まれた”God Almighty(全能なる神)”の文言を、見ている色が共有できない不安を癒やす支えの一つにしているし、それが学生時代のシスター日吉子が刻んだものだと解ることは、神への幻滅よりも常に優しく味方になってくれた大人と今バンドをやっている自分を繋ぐ、新たな啓示になっていく。

 宗教映画というよりは教えの実践、信仰の実相をチャーミングな生活の中で描いていく映画であるが、一見かけ離れているように思えるバンド活動と祈りは繋がっているのだと、若かりし頃ロックンロールに明け暮れていたシスター日吉子はトツ子に告げる。
 「ロックは悪魔の音楽」という、今となってはカビ生えてる通り越して化石みたいな言説がもう少し、生っぽい響きを持っていたかも知れない時代において、シスターがそう信じてロックに明け暮れていたのかは、楽しい想像が伸びるところである。

 ともあれトツ子には人格の透明度と輝きを宿して”色”が見えてしまい、人間社会においては彼女を危うく遊離させるそれは、人間の本質を直感できる特別な可能性であり、またそこから受け取った喜びや情熱を音に変えて、仲間との繋がりやより自分らしい表現へと継いでくれる、試練であり希望だ。
 きみちゃんの色に夢中になってボールをぶつけ、親しくなって解ったその太陽性にのぼせ上がって宇宙を幻視する気質は、個人的でだからこそより特別に神の実在を感じる、霊的体験への親和性の現れと、言うことも出来るのだろう。
 俗っぽい部分もチャーミングながら、作品全体の心地よい超俗姓を体現するように、にごりなく透明で美しいトツ子の純粋さは、聖女という存在が思いの外身近で、チャーミングであることを教えてもくれる。

 

 トツ子は祈り神に近づいて生きることを、物語の始めには耐え難いことを耐えうる忍耐として認識している。
 しかしそれには続きがあり、変えるべきものを変えうる勇気と、それを見定める知恵があって初めて、より神がそこに在ることを感じられる人生が訪れると、シスター日吉子は告げてくれる。
 このようにトツ子の為りたい自分により近いシスターもまた、完璧な聖人などではありえず、常に迷い悩みながらどう子どもに向き合うべきか、いかに神に顔向けできる自分であるかを、考え探りながら生きてもいる。
 音楽の絆と神への信仰でつながったトツ子と日吉子は、その真の意味においてシスター的な関係であって、少し年経た日吉子の知恵と勇気を借りることで、自分と世界の色を探すトツ子の旅は、祈りに報いるだけの美しさと優しさで満ちた、平穏な青春となってもいく。

 厳格な女学校の規範に照らし合わせれば、厳格な処罰が下る状況で、シスターは幾度も妹たちの間に立ち、今生きている彼女たちに必要な導きと償いはなんであるかを、必死に考えている。
 男子と一晩を明かす五島のハプニングを相談された時、彼女が必死にロザリオを繰っていたのはとても印象的だ。
 それは何度祈りを唱えたのか数えるための法具であり、あの時彼女は自分がどうすればトツ子たちに恥じない、正しい自分でいられるかを神に問いかけ、自分に探していた。
 そういう足掻きをしなきゃ「合宿」という平和な答えに、キャンドルに照らされた聖堂での告解と受容に至れない、当たり前の人間の必死の努力を、このお話は色んな角度から小さく、優しく、極めて的確に切り取って、積み上げてアニメを編んでいく。

 しろねこ堂の音楽が悲しさや寂しさを青く織り込んだとしてもまさしく聖歌だったように、祈りの形にならなくとも人はこの地上が生きるに値する、美しい場所であることを願い続けているし、傍から見てればちっぽけな、しかし自分が生きることと切実に結びついた愛とか恐れとか愚かさとかに揺らされながら、もうちょいより善く生きられる自分を探し続けている。
 我々が”信仰”と考えているものよりもう少し大きいフレームに、神がそこに在ってs会は美しく生きるに値する証明は収まりうるのだという、しなやかで力強いメッセージが強い物語だなぁと、見ながら感じた。
 ここら辺の実感がまさしく、この映画が圧倒的に優れたアニメであるために徹底して美しいものを削り出し、積み上げ、祈り証明するように造られていること自体から得られるのは、表現と内実が繋がった良い物語だなぁと思う。
 トツ子がたどり着いた美しい色を見届ければ、作り手が世界をどう見ているかはこれ以上ないほどによく解るし、それほどまでに真摯で強力な表現にたどり着くには、世間一般に流布するヒネたニヒリズムを軽々飛び越えて、美しさと優しさを当たり前のものと信じ切る強さが絶対必要なのだと、つくづく良く分かる。
 そういうものに支えられて、作品はトツ子が沢山の祈り……つまりはそれを必要とするだけの悩みたちと向き合っている様子と、その歩みを”姉”であるシスター日吉子が自身悩みながら導く様子が、僕らの中に積み上がっていく。
 その人間の営みにこそ、世界を色彩で満たす大きな存在が反射しているのだ。

 

 このように恩寵と祈りに満ちた物語だからか、子どもたちは表立った反抗をしない”いい子”であり、むしろ家族の愛に応えられない未熟な自分をこそ後ろめたく思ってしまうような、魂の綺麗な子たちである。
 子の反発の少なさを反映してか、しろねこ堂の三人が自分たちのオリジナルとして選ぶ音楽は極めて奇妙な、しかし必然的な美しさに満ちた編成と楽曲にたどり着いていく。
 そもそもバンド編成がピアノ/ギター&ボーカル/テルミン&オルガンのスリーピースという時点で異形だが、ヴァレンタイン祭に奏でられる3つの楽曲もまた、青春のみずみずしさをそのまま叩きつけた瑞々しさと、活力に溢れた弾むリズムと、奇妙ながらつくづく自分たちでしかありえないオリジナリティに満ちた、分厚い世界観のあるものだった。
 たった一回のライブでこの個性の塊が解散し、あの三曲から数多の表現を生み出しそうだった可能性がプロにもならず消えていってしまうことに寂しさを感じもするけど、しかし丁寧に切り取られたしろねこ堂の歩みを見ると、音楽は彼らにとって生活であり祈りであって、誰かが価値を決めるゴールではなかったという事実は、良く分かる。

 それぞれの魂の色が光の三原色であり、三人の個性をぶつけ合い重ね合って生まれていく3つの曲で物語が完結していく、Trinityの暗示に満ちた物語。
 それは分かりやすい起伏を遠ざけて、愛され満たされているからこその贅沢な……と、切り捨てられてしまいそうな生きることの難しさに、両手を合わせたり音楽を弾いたり、笑い合ったり一緒にお菓子を食べたりしながら、混ざり合って向き合っていったお話だ。
 自分の色合いを濁らせる理不尽が襲いかかることはなく、つまりそれを乗り越えて分かりやすい成長を示すことはしないけども、しかしトツ子たちが背負う難しさは彼女たち等身大の手触りが確かにあって、端で見ているより切実で悩ましい感覚を、僕らに教えてくれる。
 そういう生っぽい難しさを、確かに越えさせてくれる特別さが、本や猫や花や雪……奇跡のように美しいもので溢れた世界の中には確かにあって、物言わぬ自然に隣り合うように、言葉や態度で愛を伝えてくれる優しい人たちもまた、彼らの隣りにある。

 なかなか自分の外側へとでていかない家族への感謝と愛を、特別な出会いを経て友達に助けられ、あるいは世界に満ちた美しさを改めて満腔に満たすような体験を通じて、子どもたちは勇気を込めて、己の外側へと解き放っていく。
 三人が三人であったから、混じり合うだけの個性と共鳴を確かに持っていたから、生まれた私たちの色。
 それを描くためにはパートがあり共同制作をし成果物を皆の前で披露できる、”バンド”の物語でなければいけなったのだと、見終わってしみじみ実感した。

 

 奇跡のような一年が過ぎて、あの聖堂で合うことがなくなったとしても、しろねこ堂が生み出したものは子どもたちの中で響き続けるし、見つけた色は消えない。
 それに何度だって出会い直して、もう一度新しく重なり合うことは出来るのだと、娘の語りは希望に満ちて前向きに、離別の瞬間をラストカットに選ぶ。
 この100分に描かれた物語の前に置かれた、あえて語られぬ部分も多々あるこどもと家族の触れ合いと慈しみが、途切れぬことなくトツ子たちの青春を支え、導いていたように。
 この100分の先にある未来が、生きるに値するほど美しく、恩寵と祈りに満ちているのだと静かに教えてくれる映画で、とても良かったです。
 エンドロールが終わった後、けして戻ってこない一瞬の永遠のなか戯れる三人を描いたのは、それが儚く消えていく幻ではなく、確かにそこに在った実在なのだと、改めて思い出してほしかったからなのだと、僕は勝手に受け取った。

 長崎に残るトツ子ときみちゃんも、島を去っていくルイくんも、三人だからたどり着いた「きみの色=わたしの色」を魂に刻みながら、物語の外側に続いていく人生を、これからも歩いていくだろう。
 そういうしなやかな継続性、祈りに満ちた生きる息吹を、全てが嘘っぱちの柄で作られたアニメーションという媒介で形作った全て……フィルムに滲む作りてたちの忍耐と勇気と知恵に、心からの敬意を。

 いい映画で、とても面白かったです。
 ありがとうございました。