イマワノキワ

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義妹生活:第10話『縁 と 未練』感想ツイートまとめ

 義妹生活 第10話を見る。

 前回お互いの恋心を自覚し、エモーショナルな熱が作品に入った…かと思いきや、時計の針を巻き戻したかのように何事もなく、いつものストイックで窃視的なカメラワークに戻っていく。
 それは燃え上がった感情が何もかもを焼き尽くしてしまう前に、”兄妹”という枠の中に自分たちを抑え込んで大事な人を守ろうとする、子どもたちの優しさ故の逆行だ。
 同時に巻き戻った表層は、巻き戻せず動き出した心の軋みや、生活の中で積み上がった関係と変化をより際立たせて、時の流れを可視化していく。

 物わかりよく冷たくつながればそれで正しいと、思いこんでいたスタートから約半年。
 一緒に飯食って洗濯物をたたみ、心の柔らかな部分をお互い思いやり、他人には預けない大事なものを受け取りあって生まれた、瑞々しい恋心。
 それに蓋をしなきゃ”生活”を共には出来ないと、他人が家族になっていく邪魔をする壁を壊し、そうして生まれた絆がまた壁になって、素直で傷つきやすい自分を遠ざけていく。

 そうして溢れた水の中窒息死かけている辛さを、微笑みで誤魔化して進んでいく新たな季節は、沙季ちゃんと悠太くんが初めて出会った春とも、お互いの距離を縮めた夏とも、違った匂いがする。
 その手触りを、ゆっくり丁寧に伝えてくるエピソードだった。
 やっぱこの穏やかなアダージョが、あまりに心地よいアニメだ。

 

 

画像は”義妹生活”第10話より引用

 二学期が始まり、子どもたちは両親の仕事の事情を慮り、偽物の家族から真の親子へと移り変わっていくための一歩として、学校という場所に二人の関係を解き放っていくことを選ぶ。
 それは優しさ故の気遣いがなんか変なこんがらがり方をしていた春より、生活の積み重ねを経て彼らが少し成長し、より正しい形で世界や他人と繋がれるようになった、善き証だ。
 そんな微笑ましい成長をゆったり描きつ、物語を切り取る画角はあの時からずっと続く緊張感と美しさに満ちて、夏の終わりに見せた一瞬の躍動と開放を、まるで陽炎か何かだったかのように遠ざけていく。

 兄妹だとバレてからかわれるだのやりにくいだの、ガキの都合に親を巻き込むんじゃなくて、その大変さを半分背負って、新しい自分になろう。
 沙季ちゃんと悠太くんが踏み出した一歩は、その過程で凄く率直に…まるで本当の兄妹みたいにちゃんと話し合っていること含め、季節の移ろいとともに優しさの使い方を見つけていっている、二人の変化を照らしている。
 一緒に飯食って服たたむ、当たり前の日々を丁寧に丁寧に積み重ねていったことで、こういう変化が何処から生まれてくるのか明瞭に可視化されているのはこのアニメの強みだ。
 それは”生活”という苗床に、思いやりを蒔いて芽生えた秋の花だ。
 優しく正しく、とても美しい。

 

 しかしその”いい子”っぷりが絶対の正解ではないことも、夏の終わりに一瞬炸裂した熱を、冷ますような画作りがしっかり伝えてくる。
 血の繋がらぬ親を心から思いやり、手前勝手な不都合を引っ込めて助けようと動く、望ましい成長。
 それは亜希子さんが寂しさとともに振り返る、ワガママな女の子が気づけば引っ込めてしまった奔放と、真逆な窮屈さに捉えられている。
 あの頃と同じく髪を短く切っても、沙季ちゃんも悠太くんも無邪気な子どもには戻れないし、恋も知らないガキじゃないからこそ、自分たちを”いい子””兄妹”の檻に閉じ込めて、何かを守ろうとしている。
 その不器用な健気は愛しく寂しくて、とてもこのアニメらしい。

 なぜ、”いい子”でいようとするのか。
 他人でしかない誰かを家族と認め、”兄妹”であることを積極的に肯定しようとするのか。
 夏の終わりに見つけてしまった花火の色が、何もかもを焼き尽くしかねない危険な夏を孕んでいると、ちゃんと解ってしまっているから二人は、己の恋心に蓋をする。
 数ヶ月共に暮らした時間が、気づけば壊していた壁の向こうにある柔らかな真心が全部ウソというわけではないが、外面整えてそう装っているように、それだけが全部本当というわけでも、またない。

 

 混濁する感情を思い込みで切り分けて、自分を押し殺しながら不器用に、歪な形に整えようとする、不格好な努力。
他人はしょせん他人と、冷たく遠ざけた関係が大人で正しいのだと思いこんでいた春から季節は進んで、二人は自分の優しさに素直になることを少し学んだ。
 でも相変わらず、本心を誰かに告げることなく勝手に正しさを思い込んで、その枷に自分をハメ込む苦しさを、苦笑いで飲み込む生き方は変わらない。

 少し前に進んだようでいて、新しくも懐かしい罠に自分を閉じ込めて、狭い水槽の中で息苦しく、溺れかける水だらけの思春期。
 結局沙季ちゃんも悠太くんもそこから出れていない事実をスケッチするべく、秋の始まりを…あるいはアニメの終わりを告げるエピソードは少し、懐かしい筆致で己を描いていくのかも知れない。

 

 ここら辺の足踏みや後戻りは、物語が始まった春を更に飛び超えてもっと幼い日々に食い込んでいる感じもあり、なかなか根が深い。
 大好きなお母さんが苦しんでいる様子を、無邪気な同級生よりも早く認識して、子どもな自分を鋳型に嵌めざるを得なかった、沙季ちゃんの幼年期。
 それがずっと消えず響いている様子…そういう幼い自分を抱きしめてもらったからこそ、義兄を好きになった歩みも、このアニメは丁寧に追ってきた。

 幼さを殺そうとしても、結局は同じ場所に戻ってしまうのならば、どうしたら子どもたちはかつての自分より強くて正しい、大人になっていけるのだろうか?
 極めて普遍的で難しい問いかけを、詩的で静かな表現でもって問いかけ続けてきた物語は、不自由な檻から抜け出たと思いきや、だからこそ新たな檻へと自分たちの心を閉じ込め直している兄妹の、秋を穏やかに見つめる。
 その静けさが、足踏みや後戻りを繰り返しながら、しかし確かに昨日よりもっと優しくなり、強くなり、正しく生きられるようになっていく子どもたちの足取りの全部を、肯定してくれているのが好きだ。

 少し上手くなった料理、あの頃より率直な繋がり、大事な人を機能より大事になれる生き方。
 悠太くんと沙季ちゃんが”義妹生活”の中、紡ぎ手に入れたものはとても大切で、美しくもある。

 

 たとえ不自由に思いを閉じ込めていたとしても、そういう視線が子どもらにしっかり向いているからこそ、彼らの真摯で不器用な悩みや身動ぎを、ちゃんと見つめることも出来る。
 そういう筆を作品が選んで、だからこそここまで物語が来たのだという事実を、改めて確認できる秋の始まりであった。
 俺はやっぱりこのアニメの、生真面目で優しすぎるからこそなんかトンチキな方向に突っ走ってくガキのヤバさとか、それを生身の青春体当たりでもっていい方向にお互いもっていく絆だとか、そこに生まれる瑞々しい感情だとかを、尊いものだよ何も間違ってないよと頷いてくれてる姿勢が、いっとう好きだ。
 真実、子どもに優しいアニメだと思う。

 触れ合い共に一歩を踏み出しているようでいて、水槽に閉じ込められた小さな魚のように、その心をすれ違い迷わせている二人。
 家族が他人の始まりならば、他人が家族の…あるいはそれ以外の繋がりの始まりになっても良いのだと、人生をまだ開き直れない誠実な恥じらいが、一体何処にたどり着いていくのか。
 恋の行方も気になるけども、この可愛らしい思春期の獣たちがどう生きていくのか、見届けたい気持ちがマジで強い。
 どう動いていくにしても、とても落ち着いた筆致で最後まで描ききってくれるのだろうと、信じられる終章開幕で、大変良かったです。
 次回も楽しみッ!