イマワノキワ

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ALL OUT!!!:第24話『絶対戦えなかった相手』感想ツイートまとめ

プリパラ:第139話『愛フレンド友』感想

かくして、アイドルは神話となる。
プリパラ二年九ヶ月の集大成、直接的には第130話からの三ヶ月をまとめ上げる、パラ宿体制での実質最終話となります。
神アイドル、女神たちの運命、『みんなトモダチ、みんなアイドル』。
自分たちが選び取ったテーマを信頼し、どっしりと腰を落として主人公たちが引き寄せた奇跡を描写し切る、横綱相撲のフィナーレでした。
いい最終回だった、プリパラが好きでよかった……あと一話あるけど。

さてはて、今回のお話は第130話で的確にまとめ上げられた『神アイドルになって、女神を救うという奇跡を起こす』モチベーションが、実現する回です。
神GPの激しいぶつかり合いも、勝負という枠組み自体を壊した女神とのバトルも、全てはこの時のため。
しかし奇跡を起こすステージはすぐには始まらず、じっくりと危機的状況、それに巻き込まれるモブアイドルと、名前のあるアイドルたちの奮戦を切り取ります。

これは同じように世界を救う奇跡を起こし、しかしそのための努力や代償を駆け足で描きすぎた二期を、もう一度描ききる意味合いもあったのかな、と思います。
作り物のお話ですし、女児アニというジャンルでもあるし、起こそうと思えば奇跡は簡単にやってくる。
しかし、インスタントにならざるを得ない奇跡には納得が薄くて、どうにも乗り切れない部分があることを、第88話の性急な描写は教えてくれます。
あの時らぁらと救世主の地位を奪い合ったひびきが、今回は『自分にできることはここまでだ』と素直に白旗を上げていること含めて、救いきれなかった『アイドルは世界を救う』というテーマを、じっくり書き直す意図を、僕は感じました。

それが可能なのは、非常に強力にキャラクターのモチベーションを統一・確認し、守るべきものの価値、それを引き寄せる奇跡の重さを、神GPの前に描いた第130話があればこそだと思います。
あの話で『何故ジュリィとジャニスは救われなければいけないのか』『神GPと、その先にある神アイドルにはどういう意味があるのか』を明瞭にしておいたおかげで、神GPもシリーズ総決算としてのブレなさを手に入れ、一勝負に重みが出た。
あの話で『神アイドルになる→奇跡が起こる→女神が救われる』というラインを作っておいたこと、さらに言えば凄く強調されているからこそ『本当にそれだけで、お話が終わるかは疑問』という予見も可能になる。
ここらへんは今回、めが兄が『本当に神アイドルだけでいいんでしょうか?』と念を押すことで、全員参加ライブへとラインを繋げるいい展開でした。


クライマックスに説得力を出し、展開の価値を確認していく。
そういう骨格部分の太さだけではなく、プリパラと現実が混ざり合い、AI知性達の狂気が滲み出るカタストロフ描写は、SF的な味わいがありました。
プリパラになってから『量産品』であることを隠さなくなっためが姉が、『これで本当に、さよならプリパラですねぇ』と表情を変えずにつぶやくシーンは、メインで扱うことはなかったけど作品を支えていた『無慈悲なプリパラシステム』への恐怖を確認できて、不思議な満足感があった。

カタストロフの最中でも責任の押し付け合いをしてる、各国のめが兄達と合わせて、『マジでクソだな!』って感じの描写だったんですが、だからこそめが兄が本物のタフガイとなり、アイドルには出来ない仕事をやりきったシーンは、見事な輝きを放っていたと思います。
めが姉がどんなことがあっても『システム』であり続けるのに対し、めが兄はセレパラ体制に反攻したり、らぁら達に個人的な肩入れをしたり、長いシリーズの中でじっくりと『人間』になっていく。
いわば『諏訪部順一声のピノキオ』みたいなドラマ性を背負った彼は、小さな描写を積み上げてじっくり変化していった、プリパラの歩み全体を背負うキャラとも言えます。
そんな彼が、アイドルに求められる『耽美で優しいお兄さん』という機能を自分の使命と受け止め、口先だけのスタイリッシュ先送り野郎から、男の肉体を最大限活用し、奇跡のステージを作り上げる自己実現を成し遂げたのは、僕は凄い嬉しかった。
かつて対立していたひびきだけが、人知れずタフガイになったライバルを見守り、『呆れた』というひびきなりの賛辞を送っている所含めて、めが兄の話は良い収め方だった。


他にもななみちゃんが帰還したり、サブキャラクターのクエスト達成に目配せが効いてた回なんですが、やはり最大の見せ場は主人公とアイドルたちに用意されています。
これまでどんなときでも、持ち前の行動力でお話を引っ張ってきたらぁらが決断し、ステージに立ち、奇跡を起こす。
ステージの立ったアイドルだけでは奇跡には足りず、『みんな』の力で奇跡を引っ張り込む展開は、第37話の再演とも言えるでしょう。

雷霆で歌が中断し、『敗者』たる各ユニットのメドレーに繋がる描写も、第37話の栄子を思い出させます。
あの時は『勝者』として選ばれステージに立っていたドレッシングパフェも、今回は観客席で神アイドルを見守る側。
しかし同時に、いの一番に歌い出す栄誉を与えられ、奇跡を引っ張り込む大きな力になります。
ステージは『アイドル』として勝ち残ったものの聖域だけど、観客席が負け犬の掃き溜めというわけでは、けしてない。
むしろ観客席もまた一つのステージなのだ、という展開は、モニターの向こう側にラスト・メッセージを告げるクライマックス前と合わせて、強烈なメッセージを持っていました。
これは『プレイヤーが主役』になれる『ゲーム』というメディアを母体に持つからこそ、生まれた展開だとも思います。


そうして約束されていた奇跡は、分厚い描写に後押しされ達成される。
『アイドル世界の頂上たる、神アイドルになる』という、第1話から掲げられてきた大きな目標を、形の上だけではなく、世界を救済できる特別な存在として描ききること。
これまでの道のりの果てにあのステージがあることを示すためにも、世界の危機は真実味を持って、じっくり描かれなければいけなかったわけです。
まさに大団円、『みんな』を大事にしつつ、その代表として勝ち残った三人をしっかり輝かせる、見事なステージでした。

その上で、ジュリィは霊体を思わせる『特別な体質』に変化し、らぁら達とはまた別の世界を生きることになります。
僕はこれは、変則的な『死』だと思いました。

一期でらぁらは、ファルルの『死』を理解しきれず、その無知と諦めの悪さで死者蘇生の奇跡を成し遂げます。
ニコンが娘の死を嘆き、怒り、拒絶し、散々に泣きちらした果てに受け入れた感情の機微は、子供のらぁらには難しすぎたわけです。
翻って三期、らぁらはジュルル(最後まで、らぁらはずっとこの名前で女神を呼んでいました)のママになり、理不尽な『死』が二人を切り離す運命に憤ります。
そんなことは認めない、奇跡でひっくり返してみせると叫ぶ彼女は、二年の時間を開けて、あのときのユニコンと同じ立場になったわけです。

今週ラストで見せた『いつか会えるかもしれない』『死は永遠の別れではないかもしれない』という希望は、プリパラのみならず、僕らの現実の中でも『死』の理不尽を受け入れる(あるいは麻痺させる)足場になります。
転生によって、あるいは死後の世界によって、あるいは今生きる人々が死者を忘れないことによって、『死』を乗り越えて/受け入れて生きていけるかもしれない。
そういうお伽噺によって、人間はあまりにも辛い『死』にフィルターをかけ、理不尽を受け入れながら生き延びてきました。
ファルルの『死』を理解しきれなかったまま蘇生させたらぁらは、女児アニのファンタジックなフィルターに助けられて、パラ宿の物語が終わるこのタイミングで『死』を理解した。
今回の結末は、まぁそういうことではないかな、と思います。

今回らぁら達がジュルルとの別れを受け入れられるのは、精一杯全力を絞り尽くした結果奇跡を起こし、もう一度会えたことが大きいでしょう。
ジュリィが精霊となってやりたいことの一端は、おそらく来週垣間見えるとは思いますが、それは人間の世界と重なり合いつつも遠い、特別な世界です。
そういう世界に旅立ってしまうとしても、去りゆく人に己の全てを捧げ、悔いなくやり切って一つの結果に納得できたことが、らぁらがジュリィの旅立ちを感謝の気持ちで見送れた、大きな理由だと思います。
そういう気持ちに導くために、一年かけて神GPの値段を上げ、最後にグッと温度を上げまくったんでしょうし。


無論、一期であまりにも完璧に『死と復活』の物語をやりきったため、ジュリィに同じ結末は与えられなかった、というのはあるでしょう。
パラ宿の物語が閉幕し、アイドルタイムが新しく始まる周辺事情では、ジュリィは『次の出番』がある生者ではなく、新しい世界に旅立つ精霊として終わらせた方が、収まりが良かったのかもしれません。
色々と理由はあるのでしょうが、ジュルルを『死なせた』上で不思議な感謝と満足があるのは、赤ん坊の彼女と主人公たちが本気で向き合い、泣いたり笑ったり戻したり、妥協なく『生き抜いた』結果だと思います。

自力では食事も取れない赤ん坊を守り、なんとか意志を通わせ、一歩ずつ成長させていく。
ジュルルの発育を丁寧に切り取ってきた三期が同時に、らぁらが他者を理解し、子供ではなくなっていくお話でもあったと思います。
そんなジュルルは、ママよりも立派な理念を持った女神ジュリィであることを思い出し、ママよりも先に死んでいく。
成長と死のやるせなさを孕みつつも、風に溶けていったジュリィの生き様には、ラストのらぁらとおなじく感謝を覚えました。

思い返してみるとジュリィは、妹を人間を愛せる女神に育て上げる使命、後世を託せる神アイドルを育てる使命、自分自身が人間の喜びを知りたいという願い、全てを達成しています。
人間味を獲得しすぎた妹が、世界がヤバくなろうと姉LOVEを貫いて一緒にシステムに食われかけたのは想定外だったんでしょうが、それも使命をしっかり果たした証拠です。
色んな人を振り回しているように見えて、システムのリセットと後進の育成をやりきり、母娘の愛情、人間の素晴らしさをこれ以上ないほど体感出来たジュリィは、やっぱ立派な女神だったなぁ。
使命感を優先しすぎて自分の願いを押し殺す方向ではなく、世界全体を巻き込んでも自分の願いを叶え、世界も変革する方に賭けるあたり、プリパラのキャラよな。

ジュリィがしっかり走りきってくれたおかげで、彼女の衣鉢を継ぐ形になるジャニスも女神としての貫禄を手に入れ、いい塩梅でお話を終えることが出来ました。
何度もいいますけど、三期中盤以降は彼女が時にガミガミ突っかかり、時にノンシュガーが代表する人間の輝きに感動してくれることで、話が安定性と加速度を手に入れられていたと思います。
去っていった美しい過去が、姉妹の肖像画として新たな女神を見守るラストカットは、そんな彼女に報いるいい終わりでした。
中学生くらいになったノンシュガーが姉たちの高みまで上り詰め、再びジャニスと出会うシーンも見たかったけども……まぁ未練よな。


というわけで、プリパラの二年九ヶ月を総決算する、見事なステージでした。
『みんなトモダチ、みんなアイドル』
この綺麗なお題目に血を通わせるべく、笑いも、涙も、努力も、美しさも、使える手段を全て使い倒し、本気で物語を積み上げてきたアニメが迎えた、視野が広く、充実感のあるエンドマークでした。
第1話でらぁらをステージに向かわせた『プリパラは好きぷり? なら大丈夫ぷり!』をラストに入れてくるところとか、ホント正着を一個も外さず、完璧にやりきってくれた感じです。

しかし最後の最後に、やりきっていない部分をしっかり見つけ、1話使ってエピローグとしてくる目の良さがプリパラ。
ボーカロイドは生まれ持った電脳生命としての宿命を、果たして乗り越えられるのか。
姿なき精霊となったジュリィの優しさは、どんな奇跡をもたらすのか。
そしてアイドルタイムへの出張が確定してるらぁらを、どうパパラ宿に送り出すのか。
プリパラ三年間の総決算、楽しみに待ちたいと思います。

小林さんちのメイドラゴン:第11話『年末年始!(コミケネタありません)』感想

この世界の片隅でどっこい生きてるトカゲたちのお話、今週は年の瀬堕落伝説。
うっかり悪魔の家電・コタツを手に入れてしまった小林家がどんどん沼に沈んでいくお話……と思いきや、餅つきしたり近所付き合いしたり初詣に行ったりパーティーしたり、外に出ていく場面の多い話でした。
返ってくるべき『家』があればこそ、臆せず『外』に出て行けもするという両立を、柔らかな笑いを交えつつのんびり展開するエピソードでしたね。

というわけで、コタツという『家の中の家』を手に入れたところから始まる今回ですが、メイドラゴンらしい風通しがなくなるわけではなく、というか逆に外部とよく交流する話でした。
考えてみれば、コタツの入手は商店街のふくびき券を集める、つまりトールが『家』から出て、商店街という『外部』と馴染んだ結果なわけで、まんじゅう顔でふにゃふにゃしつつも、色々な場所と接続を維持するのは道理です。
同時にコタツ(が代表する『家』)はとんでもなく親密で温かいものとして描かれていて、小林さん達が手に入れたぬくもりを象徴もしている。
そこに出て、入って、また出て行く運動の価値をこの亜に目を常に描き続けた以上、今回のお話はある種の集大成とも言えるのでしょう。

トールは今週も甲斐甲斐しく人間の真似をしていて、餅をつき、おせちを作り、そばを打ち、初詣に行きます。
それは形式を真似ることで人間性を獲得していこうという、トカゲ故のある意味浅ましい行動ではあるのですが、餅はきんとんやミカンや鳥の彫像と交換され、おせちはみんなの胃袋を満たす。
ものぐさな小林さんに進めた年賀状は、いつもとはちょっと違う挨拶を親子が果たす切っ掛けになったりします。
トールが必死に人間を真似てきた行動は、扉を開け、こたつから出て世界と接触する足場として、ちゃんと報われているわけです。

トールが人間を真似た行為が、意図しないうちに小林さんや周囲の人達に良い影響を与える様子は、このアニメでは何度も描かれています。
トールは愛しい小林さんとの暮らしを維持するため、嫌々ながら人間を学び、人間の姿でその内側に溶け込もうとしていました。
そしてそれは一方通行ではなく、第5話で「以前の自分を思い出せない」と述懐しているほど、小林さんの生き方も変えている。
『年末年始は寝だめするだけ』だった小林さんの年の瀬は、トールとカンナがいることでイベント盛りだくさんの騒がしいものとなり、振り回される疲労も心地よいものとなった。
そういう双方向性はこのアニメの軸であり、『人間』の小林さんを『救う側』、『ドラゴン』を『救われる側』に固定しない公平性を保つ、大事な足場でもあると思います。

今週見ていて凄く良いなと思ったのは、そんなトールの奮闘を小林さんがよく見ていて、照れながらもちゃんと言葉で『ありがとう』と言ってあげているところです。
トールはメイドというロールを背負っているし、小林さんに一方通行の恋情を持っているので、とかく『尽くして当然』という立場になりがち。
しかし小林さんはトールの好意を、『恋』という角度で反射は出来ないにしても、かけがえのない存在としてちゃんと認識し、様々な形で好意を返しています。
『家』の中の小さな幸せは、ともすれば見過ごしてしまいがちな穏やかな努力に支えられているのであり、それを言葉にして感謝することで、関係性のメンテナンスをちゃんとやれる。
やっぱり小林さんは、人間力の高い信頼できる主人公で、とにかくありがたいなぁと思ったシーンでした。


タツを中心に『家』を描く今回ですが、どこかのったりとした雰囲気が漂っていて、小林家の外のキャラクターの出番もたくさんありました。
初詣のシーンはみんなの着物姿が見られて眼福でしたが、才川とジョージーさんの『お嬢様/メイド』関係が『妹/姉』という足場に立脚した、一種のロールプレイであることが確認できたのは面白かった。
血縁に立脚した姉妹関係だけが真実というわけではなく、どう振る舞ったって二人は姉妹であるという事実を否定せず、前提にした上で関係性と戯れている感じが、力が抜けた知的さを感じさせて、僕は好きでした。
『主人/メイド』『夫/妻』という関係性と戯れつつ、実態としては色々歪でも、でも本物の暖かさがあるというのは、小林家もおんなじだしね。
バロックでビザールだろうと、本当の愛がそこにあるなら、そこが『家』なのだ。

他にもファフッさんがあざとかったり、エルマがちょろかったり、翔太くんはもう一生金髪巨乳オッドアイゆるふわ器デカい体もデカイ系お姉さん以外では勃起できない身体にされてんだろうなと思わされたり、賑やかで楽しい話でした。
初詣から家に流れる展開が好きで、ジャージーさんは才川を守るために一緒に寝て、大人チームは雑煮食って、ひとしきり騒いだあとファフッさんは徹夜ゲーっていう、『仲は良いんだけど、必ずしもベタベタしすぎない』感じが良かった。
あそこでヘッドフォンをして、音がもれないようには気を使う辺りが、ファフッさんなりの気遣いというか、人間との距離感なのだろうなぁ。

第3話ぶりにお隣さんが出てきて、木彫りのゴリラに仲間ができたのも嬉しかった。
あれはトールが『外』との付き合い方を覚えたトロフィーみたいなもんで、あのリビングでいろんなことが起きてきたこの物語を見守ってくれる、一種の守護神みたいなものだとも思う。
今後も小林家の生活は積み重なって、幸せが増えて、時々仲違いやすれ違いもあって、それも受け入れて『家』は暖かくなっていくだろう。
それを見守ってくれる、物言わぬ視線が2つになるというのは、なんだかとても象徴的に今後を祝福するように感じたのだ。
そういうフェティッシュをしっかり画稿設定に入れ込み、場を壊すほどではない主張を込めてジワジワ画面に捉えていくスタイルが、非常に京都アニメーション的だなとも思う。
画面に語らせるのが好きよね……僕も好きよ。


というわけで、先週に引き続きドラゴンたちが手に入れたものを確かめるような、12月の肖像画となりました。
やっぱねー、キャラクターたちが彼らなりに必死に積み上げてきたものを大事にして、確かめ、報いてくれるお話は、つくづくありがたい。
トール達が作り上げてきた『家』の暖かさ、『外』との繋がりが巧いことコタツに集約されていて、ほっこりと笑える良いエピソードでした。

と言ったところで来週は、意識して飛ばされていた物語の始まり、メイドラゴンZEROらしい。
僕は話数を勘違いしていて、来週で終わりかと思ってたんですがあと二回あるんですねぇ……ありがたい。
今週も絵馬やら小林さんの電話やら、トールの家族に話が集約する伏線を細かく巻いていたのですが、その前に作品の爆心地を掘り下げてくれるのも大歓迎ですね。
来週も楽しみです。

リトルウィッチアカデミア:第11話『ブルームーン』感想

青い月の魔法が少女を導く、王道青春魔法学校ストーリー、今週は設定沢山出てくるよ!
お話としては第1話、第6話と続いてきた『劣等生と新米先生』のお話第三弾という感じで、シャリオへのあこがれを純真に持ち続けるアッコと、それに貫かれる痛みを隠しつつアッコを見守るアーシュラ先生の関係が、また一つ変化するエピソードでした。
二人の関係の重なり合わせとすれ違いを軸に据えつつ、魔法学校と古代の伝説にまつわる設定もたくさん出てきて、今後のストーリーを導きそうな予感。
光輝く剣、七つの言の葉、封印された大魔術、そして地下の古き魔女。
王道ファンタジーな道具立てが、青い夜の魔法を際立たせる、静謐なお話だったと思います。

世界設定絡みの大きな入れ物と、キャラクター個人の感情のドラマが同居している今回。
主に動いているのはアッコとアーシュラ先生で、シャリオに対する憧れと未来への不安、そしてシャリオ本人だと気付かないまま現在を支えてくれる先生との関係が、複雑に切り取られていきます。
何も知らないまま夢を叩きつけてくる残酷さと、それに素直に答えることは出来ない誠実さが絡み合って、二人の描写はただの『いい先生と生徒』に収まりきれない奥行きを持っています。

青い月の光が幻想的な今回は、コメディ色はやや抑えめにして、アッコもいつもの元気で強気な姿ではなく、不安に震える弱さを見せます。
ポラリスの泉が見せてくれたシャリオの過去に自分を投影し、無軌道な夢にただ乗っかるのではなく、目の前の現実を一歩ずつ踏みしめていくこと。
それは正しい決断ではあるのですが、同時に『ルーナノヴァに来さえすれば、夢が叶う。魔女になれる』という幻想を捨て、何にもできない自分を直視することにも繋がります。
それはとても恐ろしい、誰かにすがりたくなるほど怖いことです。

なのでアッコは自分の夢の始点であり、果たすべきロールモデルでもあるシャリオに直接出会って、自分を励まして欲しいと願う。
情けない自分に押しつぶされそうな気持ちと戦いながら、憧れと強がりを杖代わりにして、いつものドタバタ馬鹿をやっているのだと思うと、僕はアッコがとても愛おしくなってしまいます。
こういう人間的震え(と、それを押さえ込んで頑張る高潔さ)が登場人物から感じられると、一気に作品とキャラを好きになっちゃうんだよなぁ。

アッコは愚かであると同時に、非常に真っ直ぐな直感力を持っていることは、これまでも示されていました。
『本当に大事なものを、直感的に選び取ってしまう鋭さ』は例えば、第7話で魚達を開放する一連の流れからも感じられますが、今回も亡霊の偽装に惑わされず、『あなたはシャリオじゃない!』と断言していました。
それは自分の中のシャリオにしがみつくあまり、アーシュラ先生の真実に気づけない視野の狭さの反映でもあるのだけれども、雑音に惑わされず正しい答えを導ける聡明さでもある。
シャリオへの偽装は気づけても、亡霊自身が大いなる魔女の偽装だったことは気づけないバランスも含めて、アッコの幼さ、愚かさ、それと背中合わせの聡明さというのは、大事にされている印象です。

何も知らないからこそ、いちばん大事なものに気づける。
恐れで足を止めてしまう人々の中で、自分の心の中の『魔法』を灯火に、嵐に飛び込んでいける。
数多の神話や童話、文学の中で切り取られてきた『愚者のパラドックス』というべきテーマを、アッコは明瞭に背負っているように思います。
怯えたり不安に思ったり、様々な『震え』を丁寧に切り取り、ただバカなだけじゃない描写を重ねていることも含めて、そこにこそ作品の鍵があり、主人公の存在意義があるのだというメッセージを、今回は強く感じました。
そういう骨太な類型を採用し、しっかり表現しようとする意欲が強くあるのは、とても良いことだと思います。

 

そんなアッコの真っ直ぐな清らかさだけではなく、幼いが故の愚かさもちゃんと描くのが、このアニメです。
アッコはアーシュラ先生=シャリオだという事実に気づかないまま、無邪気にシャリオの過去や気持ちに分け入っていく。
その無遠慮さに傷つけられつつ、アーシュラ先生もまた、どうにか事実を隠したまま、アッコのひたむきさに向き合おうとします。

『夢はかないますか?』という問いかけを、夢破れた大人に問いかける残忍さ。
アーシュラ先生はそれに怒ることなく、夢を捨ててしまった自分をあざ笑うでもなく、沈黙の中で必死に考え、自分にできる言葉を探します。
アッコの望みのまま『叶いますよ』という言葉を口にすれば、輝きを捨ててしまった今の自分の姿がそれを裏切る。
『叶いません』と答えてしまえば、アッコの尊い純朴さを踏みにじってしまうことになる。
なかなか難しいジレンマから生み出された『夢見たものが手に入るんじゃない、一歩ずつ積み重ねたものが手に入るんだ』という言葉が、クラウ・ソナスの封印を解く魔法の言葉になるのは、アーシュラ先生の真面目さと優しさに報いた、いい展開だと思いました。

アッコはシャリオに強く憧れ、彼女から言葉を貰うために、規約を破り、地下への冒険にも踏み出します。
しかし亡霊と対峙した時、正しい答えへと彼女を導いてくれたのは、憧れではなく現実の世界で一緒に触れ合う、アーシュラ先生の言葉でした。
『過去』の幻影への想いが少女を道につかせ、そこで出会った障害を正しく乗り越えさせるのは『現在』の関係性。
『未来』に向かって走り続ける少女の物語として、大事にするべきものを見逃していない構成だと思います。

アッコは子供であるが故に、凄く危うい憧れに背中を押されるまま、思い切り走ることが出来ます。
それが必ずしもうまくいくわけではない事は、彼女の憧れである"シャイニー"シャリオが輝きを失って、アーシュラ先生になってしまったことからも見て取れる。
しかしその輝きは疑いようもなく大切なものであり、それを背負ってお話を引っ張るアッコもまた、とても大切な存在です。
彼女が震えながら憧れを燃やし、物語の真ん中を突っ走ることでアーシュラ先生も、魔法界自身も、失った輝きを取り戻すかもしれない。
実際にアーシュラ先生は、アッコに傷つけられつつ『いい先生』であり続けることで、輝いていた『過去』ではなく、生徒を教え導く『現在』にも、少しずつ輝きを与えているように思えます。
青い月の光の中で、師弟が穏やかに語り合う私室のシーンは、主人公が世界に取り戻す光と、それを反射して美徳を再獲得していく世界、両方が切り取られていました。


そういう影響力に特権を与えるのが、今回開示された設定群でしょう。
まだ世界が魔力に満ちていた黄金期に、ナイン・オールド・ウィッチによって設立されたルーナノヴァは、魔法界の衰退を反映して借金まみれになり、『現実』世界の厄介者になってしまっています。
封印された究極魔法を復活させれば、黄金時代は再び蘇り、魔法はかつての栄光と美徳を取り戻すかもしれない。
そのための鍵となるのが、アッコが継承したシャイニーロッド(『クラウ・ソナス』)であり、そこに宿る『七つの言の葉』なのです。

(『ナイン・オールド・ウィッチ』がディズニー初期の天才アニメーター『ナイン・オールドメン』から引用されているとすると、魔女黄金期は古き良きカトゥーン全盛期と重なっているのかもしれません。
とすれば、カトゥーンの文法を現在の深夜アニメでリバイバルし続け、かつての『魔法』を自分たちなりに蘇らせようとしているこのアニメやTRIGGERと、お話全体の構造が重なってくる気もします。
まぁ物語は現実の写し絵であると同時に、そこに息づくキャラクターの生き様そのものなので、あまり過剰なメタ読みに振り回されるより、飛び出してくる物語そのものを素直に咀嚼していくのが良いかな、とも思いますが)

死の国めいた地下洞窟を深く下り、超自然的な地母神と洞穴で出会い、厳しい問いかけに正しい答えを返すことで、偉大な一歩を踏み出す。
今回のアッコは愚者であるがゆえに真実にたどり着ける、ちょっと神話的なキャラクターとして描かれていたと思います。
『輝く杖/剣』に選ばれた、自覚のない英雄候補生アッコの真っ直ぐな思いが、『現実』の厳しさを乗り越え、あるいは変質させながら輝くものを取り戻していく物語。
それは『魔法復興』という現実的な現象であると同時に、例えばアーシュラ先生が『過去』との折り合いをつけるとか、アッコ自身が夢を叶える道を一歩ずつ進むとか、精神的な現象でもあります。
今回明らかにされた具体的な設定は、前者をより分かりやすく示すと同時に、後者のテーマ性を支える支柱にもなるわけで、こうして印象的に示せたのはお話全体にとって良いことだと思います。


かつて自分が諦めた自分自身が、教え子の中にまだ活きていて、それどころか今を頑張る最大の活力になっている。
アーシュラ先生としては、とても複雑な状況だと思います。(「そう言えば、今夜はブルームーンね」という台詞と、憂鬱(Blue)そうな表情を同時に切り取る演出、僕はとても好きです)
がしかし、第6話で『教師』としての本分に目覚め、アッコを教え導こうと決意した先生は、アッコのあこがれを壊さないよう、『いつか本当のことを』と願いつつ、嘘を積み重ねる。
『奥に真実が隠されている嘘』は、亡霊を装いアッコの本質を試したウッドワード先生も使っているわけで、師弟はよく似る、ということなのでしょう。

『冴えない教師』という『現在』は、受け入れなければいけない現実であると同時に、シャリオという『過去』から切り離され手に入れた未来でもあります。
ブルームーンアビスで亡霊がアッコに問うた『過去を犠牲にして未来を手に入れる』か、『未来を諦めて過去と現在を守るか』という二択に、アーシュラ先生は成功できなかったわけです。
アッコが『情けない過去でも自分自身。一つも切り捨てず、一足飛びのズルも選ばず、自分の力で未来をもぎ取ってみせる!』と宣言した時、彼女はシャリオに憧れるだけの女の子から、自分の物語を生きる主人公へと、また一歩道を進めたのでしょう。
そんな力強い歩みに影響されて、アーシュラ先生もまた自分の物語を取り戻していくのだと考えると、やっぱこの二人の関係はいいなぁと、しみじみ感じ入ってしまいます。

アーシュラ先生がウッドワード先生から受け取り、アッコに引き継いだ『見たものが手に入るんじゃない、一歩ずつ積み重ねたものが手に入るんだ』という言の葉は、亡霊の試練を乗り越えさせ、魔女界全体がリバイバルを果たす切っ掛けになりそうです。
しかしアッコに自分がシャリオであり、夢破れて教師となった『現実』を告げられれないアーシュラ先生は、自分が口にした『一歩ずつ積み重ねたもの』としての現在を、受け入れきれているとは思えない。
生徒が教師から学んで先に進むのと同じように、教師もまた生徒から学び、大人と子供がお互いの輝きを反射し会う関係は、これまでも描かれてきました。
アーシュラ先生が『積み重ねたもの』の果てとしての『現在』を肯定し、アッコに真実を伝えられる日は、今回見せたアクションとはまた別の意味で、言の葉に魔法が宿る瞬間なのだろうなと期待しています。


今回のお話はウッドワード-アーシュラ-の師弟関係を軸に進みますが、ブルームーンの魔法を使って過去の真実に触れたのは、彼女たちだけではありません。
ダイアナも特別な鍵を託され、塔を登って古代の叡智が宿る魔導書を垣間見ていました。
アッコが許可を受けず地下に降りていくのに対し、ダイアナは正当なルートで高みに登っていく辺り、やっぱりこの二人は対照的な描かれたかをしていると感じました。
『魔法復活』という大きなテーマへのたどり着き方も、個人的な(だからこそ切実な)欲求に従って突き進み、結果的に道を切り開いてしまうアッコと、善き意思に従ってみんなのために正しい行動を取るダイアナとは対照的です。
ダイアナが『正しい』からといって、特別な存在に見染められ、選ばれた証のクラウ・ソナスを与えられるわけではないところが、なんとも不可思議で運命的なところです。

死の領域であり、亡霊すまう地下に降りていく歩み(オルペウスやギルガメシュの冥府下りを想起させます)と、様々な叡智が陳列された天に向かって登っていく歩み。
ルートは違えど、二人が旅路を経て知恵に至り、己の望みを叶えるために今後どうしたら良いのか、大きな枠組みを学ぶことには代わりがありません。
優等生故に波風が少ないダイアナは話が順当に進むので主役にはなれず、山あり谷ありの大冒険で道を切り開かざるをえないアッコは、そのドタバタ故に主役に座る。
ココらへんも面白い対比ですね……そろそろ、ダイアナ軸のドッタンバッタンもみたいけど、彼女が非常に優秀な調整役をやってくれるおかげで、話が迷わずにすんでる部分もあるしなぁ。
ここらへんは今後に期待、といったところでしょうか。


というわけで、青い月の魔法に導かれ、お話の大きな枠組み、そこで主人公が果たすべき役目について、見取り図が見えてくるお話でした。
その説明で足を止めず、アッコが特別である理由を神話的表現を借りて描き、彼女のあこがれの強さをお話のエンジンに据えて話をすすめる。
そのぬくもりに照らされて、アーシュラ先生の複雑な陰影もくっきり見えてくるという、視野の広い物語でした。

今回示された『七つの言の葉』と、それが開放する大いなる魔法に、アッコはどう関係していくのか。
その物語の中で、ダイアナやアーシュラ先生はどういう役割をはたすのか。
世界がグッと広がって、今後の展開に期待と想像が膨らむような、良いエピソードだったと思います。
来週も楽しみですね。

ACCA 13区監察課:第11話『フラワウの花は悪意の香り』感想ツイートまとめ