イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』感想

二年目のユーフォ、"リズ"の後の風景。
劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~を見て……から結構立って、感想をまとめます。
様々な要因から『これ!』と断言できない映画であり、それを適切に言い表す言葉を探すうち、こんな時間になってしまいました。
一つ言えるのは間違いなく傑作なので、まず見てきていただきたい。
以降、ネタバレバリバリで行きます。

 

 というわけで、"リズ"から一年、部活内人間関係と吹奏楽勝負論、汗と涙と青春の摩擦なユーフォが劇場に帰ってきました。
"リズ"が鬼才・山田尚子の映像表現を極限までピーキーに突き詰め、それに合わせて一対一の関係性、個人スポーツとしての吹奏楽をえぐり取っていたのに対し、今作はあくまでチームスポーツとしての吹奏楽、それを行う社会としての部活動に、ぐっとフォーカスを当てています。
高校生という時代、学校という場所、部活という社会。
そこにあり、そこにしかない空気をときに苦く、ときに甘く、ときに切なく多角的に描く筆。
TVシリーズを傑作として仕上げた筆……"いつものユーフォ"が100分という尺の中で、鋭く踊る作品です。

話の中心は黄前久美子に戻り、二年生になった彼女は"先輩"となります。
フィナーレにはまだ一年あって、でも一年目の呑気な立場では当然なく、導くべき後輩がいるからこその悩み、重たい軋轢が周囲を取り囲む時代。
その息苦しさと孤独、先達から受け取り育んだものを後進に届ける尊さ。
TVシリーズでは描けなかった"二年目"、リズがあえて焦点を当てなかった"部活"に踏み込みんだ歩みは、ユーフォの良さを生かしつつ、別の味わいを引き出してもいました。

癖のある低音一年を、サンフェスで、オーディションでぶっ倒し(あるいは反撃で傷つきながら)、勝負の場である関西大会まで突き進む青春探偵・黄前久美子
一度も学校の外側、社会と接する勝負の場所に出ることがなかった"リズ"とは、モティーフも描き方もやはり大きく違っていて、どちらも見事で意味のある筆だと思います。

鎧塚みぞれと笠木希美、二人の狭く濃い場所へ息を止めて突き進んだ"リズ"は、山田尚子の映像詩学、己のヴィジョンを映像作品に仕上げきるディレクションの巧みで、一作品として異常な濃厚さ、みっしりとした読後感を生んでいました。
それに対し今作は、"フィナーレ"と銘打ちつつ、一作で終わる作品ではない。
質的にもテーマ的にも100分でしっかりやりきっているのですが、全国金賞で勝ちきっていないし、秀一との恋は一時撤退だし、久美子個人の内面が深く掘り下げられる場面も少ない。
久美子は"先輩"として、全国を目指す武を維持するための目配せ、働きかけを積極的に担当します。
加部ちゃん先輩と一緒に新入生指導を担当し、部における社会的役割を積極的に果たす。
それは非常に立派なことなのですが、例えばTVシリーズにおける田中あすかとか、高坂麗奈とか、滝昇と果たしたような、濃厚な一対一の対峙シーンが少ない。
二年目で一番面倒くさかった奏と向き合い、自分の中のモヤモヤを吐露するシーンがある種のクライマックスですが、それで久美子の全てが燃えきったわけではない。
だから秀一から一時受け取ったサンフラワーは返してしまうし、関西大会で再びダメ金を取る。

それは"フィナーレ"の後のアンコールをどうしても期待してしまう展開で、その未解決和音の感覚が、この映画の評価を難しくしているポイントだと思います。
三年目が見たいけども、それは約束されていない。
原作三年目は同時タイミングで発行され、こちらにこそ"最終楽章"のタイトルが刻まれているが、それが京都アニメーションの手でアニメ化されるかどうか、未解決和音がしっかり終止するかどうかは、不鮮明なままである。
そしてその解決を絶対に見たくなるほどには、この映画はしっかりと"ユーフォ"であったし、短い尺の中で様々な感情と陰影、絡み合う心と音を丁寧に刻んだ、青春映画の傑作でした。

何しろTVシリーズは文庫本三冊で合計26話、番外編やスペシャル放送枠を挟めば約30話の長丁場です。
"リズ"がTVシリーズとフォーカスをずらして正面突破した部分を、"響け! ユーフォニアム"の看板を正式に背負うこの映画は、TVシリーズとほぼ同じ視点、焦点、方法論で描きに行っている。
部活という社会を描く広いアングル、その中で積み重なる陰陽様々な感情、義務と才能、嫉妬と敬愛。
TV版ユーフォを"いつものユーフォ"足らしめていた要素から逃げることなく、ど真ん中で殴り合いをし続けるその足が、描ききれず"(あるか不鮮明な)次"に託したものがあったとしても。
やはりこの映画は、野心的で誠実で美麗で、とても良い映画でした。


さてお話は秀一の甘酸っぱい告白(雪で始まった一期第一話と、シチュエーションを重ねている所がニクい)、を背景に、低音パートにやってきた一年生と久美子の取っ組み合いをメインに進んでいきます。
最初の強敵、のっぽの美玲ちゃんをサンフェスでぶっ倒し、くっそ面倒くさい奏ちゃんを雨の中の激重感情吐露で殴り倒し、低音パートがユニットとして機能するまでが、人間ドラマとしてのこの映画の背骨になります。
関西大会の演奏はその発表……一年間の人間関係の"フィナーレ"であると同時に、本番を迎えることなく切断された"リズ"の答え合わせでもあるように感じた。
『完璧に支えてみせるから』『オーボエ続けるから』
呪いのように、祝福のように言葉を絞り出した三年生が、どのような演奏にたどり着いたかを聞くことで、"リズ"の先に僕らが、あの子達がたどり着く。
それは部の外側に出て、社会の厳しいジャッジに晒されたからこそ確認できる、フィナーレの後に高く飛び立っていく二人の存在証明であると、僕は感じました。

あの演奏は間違いなく最高で、それは"リズ"(とTV二期、特に四話)を通じて脳髄に焼き付けられた物語が生み出した贔屓目ではない。
だけど、結果はダメ金で、北宇治は全国には出れない。
その『なんで?』感は作中のキャラクター、特に『頑張る意味』を探し続けてきた奏の気持ちに、僕らをシンクロさせる苦い毒です。
かつて物語が始まる前、久美子はその苦さに涙を流せなかった。
なんとはなしで流され、滝という劇物によって変化していく北宇治に揉まれ、高坂麗奈という才覚に刺激されて、『上手くなりたい』と吠えた。
TVを通じて僕らが見てきた久美子の物語の起点に、あの敗北で奏は立つ。
久石奏が、黄前久美子が乗り越えてきた『頑張る意味』を探る道のりを逆しまにたどって、その起点に立つまでの物語として、このお話を見ることもできるでしょう。
それは久美子と、彼女を主役とする"響け! ユーフォニアム"がスターティング・ポイントに帰還したということであり、ドラマとしては『振り出しに戻る』の先、原点に帰還した(させられた)からこその風景を見たくもなるのです。

そこに至るまでに、いい子を演じ……つつ、その内面に露悪的な鎧を着込み、凄く柔らかくナイーブな子供を封じ込めている奏の殻を一枚一枚剥がして、踏み込む必要があるわけですが。
奏はとにかく登場するシーンで軒並み影の中にいて、出会いのシーンでは陰りの中に身を置き、久美子がいる場所には踏み込まない。
屋上に続く踊り場、サンフェスで美玲の闇に切り込み誘う場面、ファミレス(店名であるOrtensia(紫陽花)は雨の中に咲く有毒植物)、あるいは最終的に衝突するオーディションの曇天。
大人な毒気を装いつつ、その実ひどく無邪気で幼い部分のある奏は、意識して薄暗い場所に身を置き、美玲の嫉妬を肯定し、特別な位置に滑り込む奸智を魅せます。

その毒気に久美子は、奏自身ではなくそこにいない田中あすかの影を、どこかに見つける。
数少ない演奏シーンの一つ、"響け! ユーフォニアム"に唇を捧げウォームアップをするシーンは、ブレスや衣擦れを細やかに切り取り、久美子の身体性(『そこにある』というエロティシズム)が際立つ見事なシーンです。
久美子は先輩になった自分、あるいは表面が似ている奏に視線を送りながら、去っていった女にどこかで目線を向けている。
バイバイと手を降って、まだ続く部活に向き合っているはずなのに、あまりに巨大な田中あすかの引力は久美子(と僕ら)を捉えている。
その名残がどこかに匂うからこそ、雨の中であれだけ色濃く自分の中の不安を吐露し、奏と共有しつつも、それが"二年生"の久美子の全てを背負ってくれるようには、どうしても思えない。

奏自身も賢く、雨の中の号泣(終わった後、曇天からレンブラント光が差し込む所が、彼女を縛り付けていたものからの開放を思わせて良かったですね)で毒気を抜いた後は、知性とズルさを残したまま自分の中の善性とも向き合えている感じがある。
社会が求める自分、自分が求める社会、他者に求められる自分、自分が探すべき他者。
例えば笠木希美と鎧塚みぞれ、田中あすか中世古香織が構築した(あるいは構築しそこなった)1ON1の濃厚な関係性に溺れることなく、巧く自分を確立できそうな強さを感じます。
久美子はとても大事で特別な存在だけど、そこに全体重を預けきらなくても、なんとかなってしまえる(ところまで、久美子が光に身を置きつつ引っ張り上げた)女の子。

(こういう健全さが極まってるのが川島緑輝で、デカ目の爆弾かと思われた求くんをあっという間に手懐け、逆身長差おねショタとして微笑ましく師弟している人間力は、北宇治随一と言えます。
あの子の才覚は高い演奏技術のために、何かを振り捨てる必要が一切ない充足感、正しさ、視野の広さと視力の良さであり、それは人生の全局面で通用する最強の武器です。
楽器を弾かなくなったとしても、どんな場所に立ったとしても揺るがず己を貫けそうな安定性が、求くんにどうやって、どういう影響を及ぼしたのか。
尺の都合があるとはいえ、是非にアニメで見たかったポイントと言えます。
……この映画、そういう部分マジで多いんだよな……アニメシリーズが長めの尺でゆったり、ストーリー進行に汲々とせず余韻を持たせて魅せていた部分を、どうしても省略しなければいけないところも、この映画の未解決和音っぽさを強くしている印象)

例えば第一期で濃厚な……あまりに濃厚な関係性を気づきあげた高坂麗奈
みかん飴に口吻してから手渡し、『私の久美子、久美子の私』を短い尺で濃厚に歌い上げるエゴイズムは相変わらず健在で最高でしたが、既に仕上がっている二人の関係は今回の映画で、あまり揺れない。
せっかく恋人になった秀一も、進路に部活に後輩に恋愛にと、抱え込みすぎた久美子に視線を外され、関係を絶たれてしまう。
圧倒的に特別な重力に身を浸しても、恋人という特別な関係を結んでも、新しい後輩と感情を結びあわせても、今作の久美子はどこか満たされず、不協和する問題点は解決を見ないまま、次の曲が始まってしまう。

肝心の田中あすかは、既に"先輩"となった部員を"後輩"に引き戻さないために、サッと現れてサッと帰ります。
小笠原元部長に『北宇治ー↓、ファイト↑ー!』を言わせない所が、田中あすかが引いた愛おしい一線(ドライな彼女にそこまでの愛着を抱かせたのは、間違いなく久美子なわけですが)を思わせます。
魔法のチケットとして手渡された、ひまわりの絵手紙。
それはこの映画中では使用されることなく、『作中で描写されたものには、意味がなければならない』という"チェーホフの銃"の鉄則を破綻させているわけです。
それがぶっ放されるほどの重たい圧力と、それを跳ね除けて生まれるカタルシスが、ちゃんと次の音楽に繋がるかどうか。
そこが不鮮明な所が、なかなかに難しいところといえます。


"リズ"ほど超抽象の領域には入っていませんが、TVシリーズの、あるいは京都アニメーションの特色である映像のフェティシズムは、今回も元気です。
例えば意志の鏡としての水は随所で顔を出し、久美子が何かに思い悩む時は、大概水がどこかにあります。
冒頭、告白を受ける時の橋。
将来を思い悩む時、隣を流れる河。
あるいは心境を吐露したときに降り出した、オーディションの雨。
水は複雑な心を反射し、惑いを生む部活という社会、そこに取り込まれた己の形を鮮明にしていきます。

奏の黒めな本性が見えてくる、サンフェスの練習シーン。
久美子は差し出されたペットボトルを受け取り、一口飲みます。
"先輩"という立場は奏の毒を拒絶させず、"部活"を維持していくためには色々苦いものも飲まなければいけない。
その毒が体内に溜まって、出処を見つけられない所が、今作での久美子の苦しさでもあります。
ファミレスでの食事シーンも似た記号論ですが、衝突と融和を繰り返して、奏がゴツゴツ毒をぶつけてきているのが、関係性の変化を思わせて面白い。
同じもの食わない二人と、当たり前のように"みかん飴"を共食する麗奈との関係、隠微な独占欲は面白い対比といえます。
ほんっと、あのシーンの麗奈は"怖い"。
素晴らしい。

物を食べる唇にもフェティッシュが宿っていて、冒頭ユーフォ(と"響け! ユーフォニアム"という楽曲、それを特別に預けてくれた田中あすか)に口づけする唇には、濃厚なエロティシズムがあります。
恋の契約を結んだはずの秀一は、キスを拒絶され、『そういうムードじゃない!』と宙ぶらりんにされて、挙げ句合宿で関係を絶たれる。
『黄前お前マジよー……』って感じですが、まぁ後輩からは頼りがい満々に見える久美子も、俺らが知ってるブレブレ人間であり続けているっていうことなのだろう……。
あんまりにも秀一があんまりなので、恋の逆転ホームランで文句なく大勝利してほしいってのも、フィナーレに続くアンコールを求める大きな理由です。
ほんとアイツ良いやつだからなぁ……文句なしで幸せになってほしい。

TVシリーズとは段違いの尺に縛られつつ、"二年目"を同じ濃度で描ききるために、一年目で印象的だったセッティングを巧く流用しているのも、面白いところです。
格段に上手くなった部員勧誘のポップス、問題山積の出だしとサンフェス、濃厚感情が踊るあがた祭、地獄めいたオーディション、勝負の本番……。
『ああ、いつか見たな』という追憶と感傷を有効活用することで、うまく説明を省略し、情緒を"場"から借りることにも成功しています。
そしてその"場"で展開するのは、二年目だからこその個別の衝突、個別の人間ドラマです。
人が変わり、立場が変わり、人と"場"から受け取ったものが蓄積したからこそ生まれた変化が、似通った状況から別の音楽を生み出してくる。

それは"二年目"だからこそ可能な描写であり、もしくは"リズ"でやったから大胆にぶっ飛ばしている部分でもある。
みぞれと希美は、今回ほぼ台詞がない。
『主役であんだけ激重感情塗りたくったんだから、こっちでは良いだろ!』とばかりに背景に徹する姿は、"リズ"での久美子を思わせる行儀の良さで、そういう意味でも2つの映画は相補的なのだな、と思います。
こっちではエキストラ顔(というには、本番の演奏で圧倒的存在感に過ぎるけど)してるあの子達が、どんな地獄をくぐり抜けたか。
それを思い起こしてニヤニヤするのも、なかなか贅沢な体験ですね。


久美子とあすか。
"一年目"を色濃く踊った二人の子供のような奏は、偽悪的な鎧、雨の中告白されたナイーブな内面から、『頑張ることの意味』『負けることの価値』を問うてきます。
これを触媒にして、むっつりと思い悩みながら"先輩"をやり続けている久美子もまた、不安な内面を吐露する。
『上手くなりたい』
頑張らない辛さに一年目で思い至り(これは鬼コーチ・滝昇にしごき倒された北宇治という"場"も同じ)、『とにかく頑張る』という答えにたどり着いてもなお、不安は心の奥から幾らでも湧き上がってくる。
それは人間が人間である以上逃れられない苦しさで、それでもなお『私は上手くなりたい』『みんなで上手くなりたい』という切望もまた湧き上がってくるから、久美子は"部活"に頑張る。

『負けたらどうしよう』という奏の不安をすくい上げるように、北宇治は全国への道を阻まれます。
『死ぬほど悔しい』
ソロをあすかに獲られた久美子が、泣いて吠えながら走った時の気持ちに奏がたどり着くところで終わるこのアニメは、"勝つ"ことだけを価値には当然おいていません。
負けても、諦めても、道を閉ざされても、才能のある友人との間に乗り越えられない断絶を認めても、一緒にいられないと解っても自分たちを繋げてくれたオーボエを吹き続けると決めても。
無価値と判断されてしまいがちな薄暗い色合いの中に、血の滲む圧倒的な真実があって、空疎な充足とか、自分を誤魔化すための喉越しの良い嘘とか、熱情に背中を向けたため息とかを跳ね除けたくなるような、"本当"がそこに宿る。

僕は久美子が結構多情なやつで、田中あすかと、高坂麗奈と、塚本秀一と、久石奏と、色んな人と相当濃厚な関係を結びつつ、一つの関係では満足も安心も出来なくて、色々手を伸ばして転がっている様子が好きです。
先輩とか、後輩とか、友人とか、ライバルとか、愛情とか、親愛とか、そういう言葉ではまとめきれない不定形の思いとか。
様々な感情で繋がり、それが様々な関係性を生み出し、社会と個人に伸びた様々な糸が綾を為して"黄前久美子"を作っている様子。
学年が上がって、立場が変わって、一年の時は甘えて吐き出せたものを飲み込まなければいけなくなり、あるいは別種の重荷を背負うようになる。
そういう多様性と同じように、勝つことと負けること、頑張ることと報われないこと、光に見えるものと陰りに思えるものが実は複雑怪奇に混じり合って、世界と己を形作っているのだと……そんな人のあり方、青春の形は愛おしく、総力を上げて語り切る意味があるのだと。

久美子にフォーカスしつつ、かなり横幅広く(尺のない中頑張って!)描くこの群像劇は、しっかり語っていたように思います。
それは『アリバイとしての部活』に背中を向け、吹奏楽の最前線からドロップアウトした葵ちゃんの、吹奏楽を諦め美容師は諦めなかった黄前麻美子の、あるいは今回の加部ちゃん先輩の書き方からも、しっかり伝わってきます。
吹奏楽をやって全国を目指す物語なのに、吹奏楽を諦めた人たちを悪く書かない。
それぞれの輝きと生き方があり、不格好な失敗があり、その先に続いていく人生があって、それが他人の喜びに……例えば吹奏楽を続ける(続けられる)ものに届く。
そういう場所の担当として、加部ちゃん先輩の誇りのある生き方は、あまりにも眩しかったです。
『よく書いた』としか言えねぇ……ありがとう京アニ
ただの聖人ではなく、尊い生き様を歯を食いしばって選び取り、強がりでも『新たな戦いに悔いなし』と言い切り、走り続ける久美子にバトンをしっかり託した"人間"として加部ちゃん先輩を書いたのは、ホント偉い。

僕は葵ちゃんを軸に描かれる『アリバイとしての部活』の描写(特に彼女が退場する一期七話 アニメ感想日記 15/05/23 - イマワノキワ)からこのアニメに前のめりになり、コンクールに出ない葉月を主役に据えた一期番外編が(好みを外れた"良し悪し"としての)ベストエピソードだと思っているので、そういう人たちの書き方は気になる人です。
"リズ"で突きつけられた『吹奏楽を続けるための才、その残酷な断絶』もそうですが、Aチームに受かるもの、落ちるものが必ずいる。
それは吉川部長が『全国大会金賞!』と書き、その不器用なノイズが不安な未来を暗示した瞬間から、北宇治が選び取った厳しさなわけです。
中学時代、勝った負けたで翻弄され、自分が傷つかないために夏紀に"勝ち"を譲ろうとする彼女は、そういう厳しさに真摯でいたい(『上手くなりたい』)のに、信じ切ることが出来ない。
哀れみを跳ね除け怒りを爆発させた夏紀と、一緒にずぶ濡れになって同じ恐怖、同じ不安を吐露してくれた久美子に抱きしめられることで、彼女は勝ち負けの地平の先にある光に、自分を投げ込むことが出来た。

頑張って積み上げた実力に選ばれた奏は、頑張ったから負けて泣く。
その悔しさは、では勝ち負けを問う場所に出れなかったBチーム、あるいは加部ちゃん先輩には共有されないのか。
彼らは『頑張っていない』のか。
寝落ちするほど根を詰めて、新入生一人ひとりの顔を見てかきあげた加部ちゃんノートを見れば、それが"否"なのは明白です。
皆が己の戦場を、必死に戦い生き延びる時、そこに優劣の差異はなく、勝者と敗者の境界線は乗り越えられる。

でも、負ければ悔しい。
選ばれなければ悲しい。
特別でい続けたいと、誰かと同じ存在にはなりたくないと、魂は吠え続ける。
おててつないで楽しい部活で、なぁなぁで戦わず己を磨かず行きているのも、魂が腐っていって苦しい。
勝ち負けが明白に、ときに理不尽に思えるほど峻厳と存在する場所に立ち続けるのも、また苦しい。
そこを超えた答えは、一度"負け"てみないと分からないからこそ、今回の映画は未解決の不協和に満ちているのかもしれません。
でもそこで、ニヒリズムに陥らず、不確かで答えのでない熱いうねりにがっぷり四つ相撲を挑み続ける姿勢が、僕はとても好きです。


というわけで、"響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~"の感想であります。
ここまで読んでわかると折り、僕は京都アニメーションという制作集団のファンだし、"響け! ユーフォニアム"という作品の信者です。
圧縮されている前後の文脈、原作から(恐らく血の涙を流して)省略・変更された様々な物語もたっぷり吸い込んで、初見では『語り足りない』と取られるだろう部分も、自動で補正してしまう立場にあります。
そういう立場だからこそ、この"フィナーレ"で終わるのは全く納得できないし、作中に込められた未解決和音は確実に終止を意識して配置されていると思います。
そしてそれを、しっかり奏ききる実力と気概がこの制作陣にあることも。
つうか日本で、ここまで"ユーフォ"作れるのは京アニ(と武田先生)しかおらんわ、やっぱ。

原作はこの6月で、最終巻が出ます。
全国金賞という"勝負"のゴール。
部長という立場に座り、部活という社会の先頭に立って運営していく"先輩"としてのゴール。
宙ぶらりんに投げ出した、秀一との"恋"のゴール。
そして三年間部活に、人間関係に、将来の自分の在り方に思い悩み、自分の中の輝きも薄暗がりも真摯に向き合った一少女の"人間"としてのゴール。
恐らく猛烈に描きぬかれるだろう小説でのフィナーレを堂々受け取って、なんとしてもアニメーションに仕上げて欲しい。
そのために必要な変化と衝突、後に解決されるべき不協和と、それでも成し遂げた成長はみっしりと、この100分に詰まっていました。
"リズ"で馥郁と描かれた景色の"先"を見事に見せたように、来るべきアニメ完結編が堂々の最終楽章を奏でることを、強く望みます。
いい映画、いいアニメ、いい物語でした。

 

追記 未解決和音と束縛、罪の果実に口づけを。

追記 曖昧で不適切なカテゴライズを、適切に名付け直すこと。その集積としての思春期の終わりに向けて、音楽は続く。

追記 結局”待つ”ということしか、今の僕には明言できない。