イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

リトルウィッチアカデミア:第7話『オレンジサブマリナー』感想

失敗を積み重ねて星への階段を作っていく、王道ドジっ子少女成長物語、今週は試験の季節。
先週ポラリスとアーシュラ先生に未来を指し示してもらい、学ぶ意味を見つけ出したアッコ。
しかしすぐさま優等生になれるわけでもなく、試験は軒並み大失敗、遂には退学の危機が迫ります。
金魚先生を巡るドタバタの果てに、小さな成長と持ち前の優しさが報われ、彼女を見守っていたアーシュラ先生もまた、教師としての成長を見せる。
笑いと感動が同居する楽しいお話であり、ルーナノヴァの授業風景やクラスメイトの特異ジャンルをさらっと見せる手際もありの、見事なエピソードでした。

今回も色んなことが起きているこのアニメ、軸になっているのはアッコとアーシュラ先生です。
先週ポラリスの泉でお互いの過去と未来を見つめ合い、夢を追いかけるために足らないものを自覚し合ったアッコは、ルーナノヴァを憧れのテーマパークとして捉えるのを止め、その本質である『学校』として利用しようとします。
アーシュラ先生もまた、ようやく教師としてアッコを支え、教え、導く立場につく……のですが、その前に一つハードルの確認があるのが、優しさの中で現実のシビアさを捉えるこのアニメらしさ。

学習の先にある資格、資格の先にある未来は、魔女たちの生活から遠い場所にいたアッコにはピンとこなくて、学業に真面目に取り組むのも『シャリオみたいになりたいから』です。
幼いころの夢の先に未来が直結していると、挫折を知らないアッコは無邪気に信じていて、アーシュラ先生にも『子供の頃は、何になりたかったんですか? 最初から先生になりたかったの?』と問いかける。
これに対し、アーシュラ先生は言葉を返せません。

アッコが憧れ、目の前で奮戦する理由になっているシャリオは、アーシュラ先生が諦め、置き去りにしてきた過去そのものです。
理由は定かではありませんが、夢が折れ曲がり挫折した果てに、名前を変えてたどり着いた教師という場所は、アーシュラ先生にとっては思い描いた夢の未来では、けしてない。
かといって、かつて抱いていた夢をシニカルに笑い飛ばし、現実を適当に過ごすことが出来るほど、アーシュラ先生も擦り切れてはいません。
生徒の前では、そしてまだ割り切れていない自分自身のあこがれの前では嘘は付けないけども、『夢が叶った、望みどおりの仕事です』とも、胸を張って言い切れない。
あまりにも無防備に輝くアッコから飛び出した夢の矢が直撃し、その痛みに何も言えなくなってしまうアーシュラ先生と、彼女を置き去りにして友達へと、輝く未来へとノータイムで駆け出してしまうアッコの対比は、ひどく残忍です。
そしてその残酷な真実から目を背けず切り取るからこそ、この後発生する二人の変化はより鮮明になり、分かりやすく届くのでしょう。


方向を見定めないままとにかく走り出してしまうアッコと、足を止めて眼鏡の奥に表情を隠してしまうアーシュラ先生。
『生徒』と『教師』に分かれた二人は、欠点はそれぞれ違いますが、どちらも適切な結果を巧く引き出せない状況から、物語に入っていきます。
全体的に話を牽引するアッコが目立っていて、りんごには毒が混じり、教室は爆発し、バカにされたら即喧嘩、元気に大暴れしたままAパートは進んでいきます。
ポラリスの泉で真面目な顔をしたからと言って、夢ばっかり見ていた劣等生がいきなり合格ラインに達するわけではないし、『お転婆で向こう見ずで粗忽なドジっ子』という、アッコのキャラ性がいきなり変化するわけではありません。

シアンよりも行動が優先するアッコ『らしさ』は、欠点であると同時に長所でもあります。
退学という未来を突きつけられてちょっと凹んで、でもすぐさま奮起して行動に出る(そしてとんでもない結果を引き起こす)ことも、『試験』という即物的な結果よりも、目の前で涙を流す魚の子供を助けるために駆け出すことも、アッコの真っ直ぐな行動力が引き寄せてきます。
ひねくれ者のスーシィが学校に残っているのも、何をしでかすか判らないアッコの側にいると、一切退屈しないから、というのが、結構大きいのでしょう。

今回アッコは、自分への見返り(=物語の最初で囚われすぎていた、試験合格という結果)を思わず忘れ、目の前の弱者を守るために魔法を使って、絶滅危惧種を保護します。
絶滅危惧種』という対外的な地位におバカなアッコが気付いていないことは、後の対応を見ても明らかですが、彼女は何も考えない愚者のまま(愚者だからこそ)、パイシーズ先生が問題にした『利他的行動における魔女の存在論』を自分の行動で証明する。
アッコの短絡的な行動が『何も考えていない』わけではなく、ルーナノヴァや教師の価値観、一般的な枠組みでは評価されない『別の価値観軸』にもとづいていることは、これまでも描写されてきました。
なので、パイシーズ先生や環境保護団体といった『別の価値観軸』に目を開いたキャラクターは、彼女の短絡的な行動を正しく評価する。
座学では他種族言語を習得できなかったアッコが、水中という『現場』に赴き、泣いている誰かのために身振り手振りで奮闘した結果、魚類語を習得できる流れは、アッコがただの劣等生ではなく、『別の価値観軸』にいることを巧く示しています。(ダイアナの古ドラゴン語、アンドリューのラテン語に引き続き、言語が『活きた知識』の最前線にいるのは、面白い価値観だと思います)

この価値観の立体性を分かりやすくするため、『普通=一般的な価値観軸に習熟している』ロッテと一緒に冒険に出し、『普通』の魔女学生ならこうする、というテストケースを隣に配置しているのは、非常に巧妙ですね。
事前に白魔法テストの中でロッテのバックボーンに自然に触れておくことで、ロッテは『魔法の資格が当然あって、それが職業に結びついている世界』の住人なのだと、巧く説明していますし。
このアニメは魔法の異世界をしっかりと設定した上で、その設定に躍らされるのではなく、使いこなしてドラマの魅力を引き立て、自然な流れの中で設定を説明する手腕に、非常に長けていると思います。

しかし同時に、アッコは夢を追いかけて全寮制のルーナノヴァに入学したのであり、問題の残る価値基準に対し、自分を順応させていく必要があります。
今回真面目に授業を受けようとする態度はその現れであり、毒リンゴや爆発する教室は、彼女のアウトサイダーとしての力と、魔法世界のインサイダーになろうとする新しい方向性が、衝突した結果とも言えるでしょう。
今後も『内側』と『外側』の衝突はアッコと、彼女を取り巻く世界の中で幾度も起きるんでしょうが、このアニメはアッコが徐々に『出来る』ようになっていく描写が非常に丁寧、かつ論理的なので、彼女の努力が無下にはならないと信頼できます。
前回一騒動巻き起こした変身魔法にしても、不格好ながら『水中で活動する』『魚の言語が理解る』っていう目的は達成していますしね。


かつては世界最強のアウトサイダーだったシャリオも、今ではすっかり赤髪を帽子に閉じ込め、控えめすぎる新任教師になってしまいました。
アッコが魔法界の古い価値観(と、それを代表するフィネラン先生)に追い込まれる最中でも、アーシュラ先生は周囲を気にして、助け舟を出すことが出来ない。
心細い状況の中で手助けを求めるアッコの視線を、ちゃんとアニメで捉えているところが細やかですが、それに気づきながらもアーシュラ先生は積極的になることが出来ません。

しかし物語が最終局面に差し掛かり、アーシュラ先生はシャリオの赤い瞳を降り戻し、フィネ欄先生に思い切りぶつかっていく。
それはかつて自分を追い込んだ(であろう)魔法界の古い価値観に挑戦し直すことであり、折れ曲がった夢の先にある『教師』という現状を、全力で演じきる、ということでもあります。
これまで細やかな心遣いは見せても、真正面から何かと対決する行動を見せなかった(それは二代目シャリオであるアッコの仕事でした)アーシュラ先生が、失ったはずの過去を取り戻す。
それは先週、ポラリスが見せたシャリオの努力がアッコに道を示したのとは逆しまで、過去の自分を追いかけ、劣等生だった過去の自分によく似た妹分の奮起が、そしてもしかすると、打ち捨てたはずのシャリオの輝き自身が、アーシュラ先生に真実を見せる構図です。

『世間体に惑わされて、評価されるべきものを見失ってしまうのはバカだ』
『私は一歩ずつ成長するアッコを評価し、見守りたい』
アーシュラ先生の魂の叫びは、アッコを守るために発せられたものであり、同時に肯定しきれなかった現状にしっかり向かい合う宣言でもあります。
笑いとアクションの中に、アッコの成長と健気さ、優しさをしっかり埋め込んだ物語を見てきた僕達の意見を、真っ向から代弁してくれるアーシュラ先生は、今回ようやく『教師』としてやるべき行動を果たしました。
それもまた、魚をすくったアッコの行動と同じように、後先を考えない愚者だからこそ掴めた真実なのでしょう。

『スタイルや特質は違っても、弾む胸の鼓動は共通している』というのは、例えばダイアナやアマンダの描写に息づく筆致なわけですが、今回のアーシュラ先生もまた、同じ輝きを秘めていたわけです。
そしてそれを引き出したのは、かつての自分に勇気をもらい、まっすぐにルーナノヴァまでかけてきたアッコの生き様、そのものなわけです。
『余計ごとを顧みず、胸に輝く正しい星を信じることが良い結果を引き出す』というのは、アッコの密猟者退治だけではなく、アーシュラ先生の反論にも共通する、今回(そして多分、この亜に目全体)重要なロジックなのでしょう。


今回のお話で特に好きなのは、アッコからアーシュラ先生に繋がった正しさのバトンが、フィネラン先生にも届いたんじゃないかな、と思える瞬間を、ちゃんと切り取ってくれたことです。
フィネラン先生はいわゆる『嫌な大人』でして、魔法界の膠着した価値観でアッコを勝手に判断するし、実際に魚が救われた尊さを見ないで『恥』と断じてしまうし、学園という閉鎖された領域からアッコを追い出せば問題が解決すると思っているしで、やり込めて倒すべき『敵』です。
しかしそんな彼女もまた、成長していく少女を見守り、導き、期待する『教師』であり、例えばダイアナのような『インサイダーの価値観』にそぐう存在には、プラスの評価を与えています。
彼女もまた、アーシュラ先生がアッコに見たような星を、生徒に見つけられるかもしれない可能性を持っているわけです。

その可能性は物語が終わる直前まで閉じられていて、彼女は『敵』であり続けるわけですが、アーシュラ先生が教育の理想を叩きつけられた瞬間、強い戸惑いの表情を見せる。
それはフィネラン先生もまた、『教師』としてアッコの味方になってくれる(かもしれない)存在であり、誰かが為した正しい行いを真っ直ぐ受け止め、評価できる善き人(かもしれない)可能性を、大事にしたからだと思います。
現実の忙しさの中で、人はどうしても大切なものを忘れてしまうけども、偶然と運命がもたらしてくれるきっかけを掴めば、目を見開いて星を見つけられる。
そういう希望が『主役』以外のありふれた人々にも開かれていることは、『信じる力』という誰もが持つ美徳をこそ『魔法』だと規定するこのアニメにとって、結構大事ではないかと思います。(なので、ネルソン先生がパイシーズ先生だと気づかないまま、風邪気味だから手助けしようとしてくれる描写ホント好き)

アッコだって、ポラリスに出会うまでは憧れだけを暴走させて、夢を掴むために学校を活用することに思い至らなかった。
アーシュラ先生だって、見失っていた輝きをアッコが証明してくれるまで、わからず屋の世間に自分の考えを叩きつける勇気が生まれなかった。
そういう切っ掛けが積み重なって、人は変わっていくし、変化は様々な場所で響き合う。
しばらくは『嫌な大人』をやらなきゃならんフィネラン先生が、そうそう早く変化していくわけではないと思います。
でも、フィネラン先生(が代表する、魔法界の古い価値観)がアーシュラ先生の熱意に、それを生み出したアッコの輝きに無関心でも、無感動でもないという期待を、あの一瞬で僕は強く抱くことが出来た。
それはとてもいいことだなと、強く思います。


そんな風に輝きが乱反射する本筋を捉えつつ、魔法学校の様々な教科を説明したり、愉快な仲間たちが持っている強みを見せたり、脇道もしっかりしているのがこのアニメの良いところ。
魔法世界のセンス・オブ・ワンダーは、物語を加速させる大事な燃料なので、具体的でワクワクする描写が積み重なっていくのは、凄く良いと思います。
パイシーズ先生のシュールな授業とか、ダイアナの星読とか、なんかワクワクする絵面が毎回入るのは、やっぱ良いなぁ……。
しかし、アクセルロッドとかトリヴァースとか抑えてる金魚って、もしかすると一番のファンタジーなんじゃなかろうか……互恵的利他主義が生物学の近接領域であり、それをよりにもよって『金魚』が教えるという捻ったセンス、僕好きです。

アッコを取り巻く問題児たちは、機械技術とか食品操作とか白魔法とか、それぞれ特別な一芸を持ったスペシャリストでもあります。
試験を横断しながらココらへんを描写する手際、今回非常に良かったですが、アッコは劣等生であり、友人たちが持っているような『特別な強み』をまだ手に入れられていないことも、巧く切り取られていました。
ポラリスの水鏡で姿勢を正し、学習が成長に結びつく土台はちゃんと作ったし、根本的な魂の正しさも魚を助ける過程で証明したしで、『アッコもいつか、自分だけの武器を見つけるんだろうなぁ』と思えるのは、すごく良いと思います。
欠乏の描写と同時に、そこを埋めるだろう可能性の兆しもちゃんと描くことで、視聴者の想像と期待が膨らんでいく作りになっているのは、本当に凄い。

もう一つ気になるのは、『アッコは学園を離れる』というダイアナの星読でしょうかね。
『ルーナノヴァが現状のまま、閉鎖的で日和見主義的であるのは良くない』ってのはこれまで何度も描写されているわけで、アウトサイダーであるアッコがそこを小さく変えつつ、いつか『現実』と激しく衝突することにはなると思います。
『アッコは学園を離れる』という未来視が、そういうストーリーラインの中でどう活かされるのか、凄く楽しみですね。
今回退学の危機を回避したことで、一見予見が外れたかのような予断が自然と生まれるのが、引掛けとして非常に巧妙ですね。

ダイアナは一見アッコの第一敵対者に見えるようにポジションされていながら、実は『アウトサイダー的価値観を秘めたインサイダー』である、つまりアッコ最大の味方になりえる『敵』として、かなり繊細に描写されています。
ダイアナ自身がアッコを嘲笑していない事実も、非常に丁寧に切り取られています。
そんなダイアナが見つめた未来は、ただの悪い予言ではなく、様々な意味合いを込めた未来への爆弾として機能すると、彼女が好きな僕は思っちゃうんですよね。
こういう物語的地雷が意図を込めて、そこかしこに埋め込まれているのも、このアニメの楽しいポイントだと思います。


というわけで、教師と生徒、二人三脚で成長していく試験の物語でした。
前回非常にエモーショナルに描いたアッコのリスタートをちゃんと引き受け、決意の先にある苦労と成長をしっかり膨らませて描いてくれたのは、2クールの物語として凄く豊かだし、ありがたかった。
今回のような小さな変化を積み重ねて、アッコは知恵を付け、出来ることが増えていくのだろうし、そんな彼女に巻き込まれるように、他のキャラクターも魔法の世界も、より善くなっていくのだろう。
そういう確信を深められる、とても良いエピソードでした。

過去を見つめ、歩むべき道を見定めて、でも変に真面目にはならず、自分らしく楽しく、時に厳しく歩いて行く。
アッコと仲間たちの青春は来週も輝いているだろうし、その輝きを受けて、教え導くべき大人たちが瞳の曇りを晴らし、真実の輝きに向かい合う瞬間だって、必ず見れるでしょう。
そういう双方向の優しさと強さが毎週見れるのは、やっぱ凄く良いなと思います。
俺このアニメ好きだなぁ、マジ。

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第7話感想

銀杏の敷布は黄金の夢か、寝ても覚めても定かならぬ、消えては浮かぶ浮世の苦楽、見えつ隠れつ時逆の、運命の地四国で明らかになるどんでん返し、落語心中七話でございます。
三途から戻ってきた八雲師匠は『落語に満足してしまう恐怖』を小夏に漏らし、時を巻き戻す二代目助六の"芝浜"を探す旅の途中で、樋口はみよ吉との因縁を口にする。
『全ては、八雲師匠がぶち壊しにしてしまった』という樋口の誘い口に乗っかる形で、耐えきれず松田さんが口にした、心中の真相。
生き残るもの、死んでしまったもの、水一つ隔てて行き来する過去と現在が、未だ影響を失っていないことを強く感じさせる、大きな潮が来る前の静かなお話でした。

もともとサスペンス色の強いアニメですし、形式的にも与太郎の弟子入り(現在)→八雲の語り(過去)→助六襲名(未来)→真打ち昇進(さらなる未来)……と、時間を行ったり来たりする話でもあります。
時と因果を巡る物語の中で、様々な伏せ札が明らかになることがお話を前進させ、また波紋を引き起こす。
今回明らかになった心中の真相もまた、そういうお話の構造に則った暴露だと思います。

一気の尺をほぼ使った八雲の『語り』に『騙り』が入っていたことは、一応1期12話

昭和元禄落語心中:第12話感想 - イマワノキワ)でも懸念していた『信頼できない語り手』が具体化したということで、そこまで意外ではありませんでした。

むしろ樋口とみよ吉の関係という、もう一枚の札が明らかになったほうが衝撃的で、これまで個人的な欲望を見せなかった樋口の笑顔の底に何があるのか、少し見えてきた気がします。
みよ吉ってのもまた因業な女で、信さんにしても菊比古にしてもこの女に出会って人生変わっちまったわけですが、樋口もまた、ファム・ファタールと出会うことで落語に目を見開き、人生を変えられた男であった。
落語心中を止めようと迫ってくる樋口の心に、初恋を略奪された恨み、あのときの綺麗な女を殺した八雲への復讐心があるとしたら、意図的に演出されてきた不自然な親切にも、色々納得は行きます。

とは言うものの、愛と憎悪は背中合わせ、何もかにもが白黒付けられないことばかりというのは、これまでのお話を貫通する一つの真実です。
みよ吉の転落を巡る色々に暗い炎を燻らせつつ、菊比古の才覚に(それこそ与太郎と同じように)貫かれたというのは事実だろうし、周囲を巡っておせっかいするのも、ただ突き落とすための準備ってだけではないでしょう。
愛が道を間違えて腹を刺してしまうことだって、地獄に突き落としてしまうことだってある浮世のなかで、樋口が抱え込んだ呪いは、落語や八雲にとっての祝福になることも、またあると思います。
と言うか、関さんの名演もあって僕は樋口が好きなので、滅びそうな花を踏み荒らすために育てているような、先のない破滅主義者だとはあんま思いたくないのだな。

信さんと菊比古の青春が終わった日の思い出を、狙いすまして取り出して、松田さんから真相まで引っ張り出した樋口が、一体何を狙っているのか。
一つのサスペンスが終わったと思ったら、新しい謎と期待が頭をもたげてくるのは、作品から活力が失われない、見事な運びだと思います。
願わくば、樋口の初恋と恨みが上手いところに着地してほしいもんだと思いますが、そういうのを激しく横合いから殴りつけて、人生の荒波を容赦なく描写するのもこのアニメ。
八雲の行く末にも深く関わってくるでしょうし、気になる部分がまた一つ増えたな、という印象ですね。


そんな樋口が持ってきてくれたフィルムは一種のタイムマシンでして、泡沫の夢と消えた『八雲と助六と小夏の、マトモな人生』の名残でもあります。
夢と現がひっくり返りつつ、いちばん大事なものを思い出し、捕まえるハッピーエンドの"芝浜"は、後に待ち構える残酷な運命を強調しつつ、助六が願い、掴みかけていた幸せの形を巧く投影してくれます。
しみじみと情を語り、幸せを歌う二代目助六の姿に、残酷な時が食い尽くしてしまったかつての夢の城の『今』がかぶさる所は、巧すぎるし残酷すぎる演出でした。

八雲と二代目助六が『生きて』いた過去を蘇らせる反魂香の魔術は同時に、今を生き、落語を蘇らせようともがく三代目助六の姿も見事に照らします。
映像も録音も荒い古臭いフィルムという『虚構』から始まった物語は、落語に思い入れ、人に思い入れる与太郎の人情で魔法を掛けられて、総天然色の『現実』に移り変わってしまう。
慰問落語で"死神"と出会ったときから、『虚構』の中に『現実』を映し、『現実』を『虚構』通り混ぜることで色鮮やかに理解していく与太郎の発想力は、彼の特質であり長所でもあった。
その思いの強さが、因縁の渦に首までつかった八雲や小夏を、少しでも息がつける岸に引っ張り上げてきた過程を、僕らも見守ってきたわけです。
与太郎のイマジネーションに相乗りする形で、八雲の芸、助六の芸を生々しく感じ取り、その息吹を身近に受け取る一体感が生まれる意味も含めて、非常に良い演出だったと思います。

樋口が『与太郎たった一人の強み』と言っていた、落語世界をそのまま現出させる語り口。
助六とみよ吉を失い、人殺しの汚名を背負うことになる直前の八雲は、"明烏"の郭を視聴者の目の前に現出させてみせます。
sれおは与太郎の圧倒的なイマジネーションが生み出した幻ではあるんですが、同時に在り得たかもしれない、もう一つの八代目八雲の高座でもあります。
己を強く押し出すのではなく、四国の田舎町で手に入れた小さな幸せを支えに、自分の体を通して落語を溢れさせる方法論。
現実には、背負った業の重さに耐えるために、『一世一代の名人』という看板を支えに、落語の首根っこを技術で押さえ込んで従わせるような芸風になりましたが、あの時あり得たかもしれないもう一つの八雲は、実は三代目助六に良く似ているわけです。

時間を巻き戻し、因業を書き換えて幸せを掴みたいという、人の弱く儚い願い。
それがかなわないことは、それこそあの旅館で起こった心中の顛末が鮮明に教えてくれることではあるのですが、人間がどうしてもそれを願ってしまう生き物だということも、二代目助六の"芝浜"から滲む業です。
ひどく残酷に、幸せになりたいという願いは現実に衝突し、破綻してしまうわけだけども、たとえ死んだとしても思い(もしくは妄執)は引き継がれ、演者を変えて再演される。
その結末が過去と同じにはならないこともまた、三代目助六が八雲や小夏の因縁に飛び込み、散々暴れ倒した物語の中で、僕らが見てきたものでしょう。

巧くはいかなかった儚い願いも、時を越えて報われるかもしれないという、小さな希望。
それを背負える無垢さを持っていればこそ、与太郎はこのお話の主人公なのであり、彼が話しの真ん中にいるのなら、色々あっても哀しいばっかには終わらないんじゃないか。
そう信じられるよう、お話が積み上げてきた重みが機能しているのは、なかなか幸せなことだと思います。
同時に、因果をひっくり返す聖人の馬鹿さ、愚かさ、身勝手さもちゃんと描き、それが落語という『業の話芸』にとっては弱さにもなるというところに踏み込んでもいるのが、このお話のすごいところでしょう。


弟子の輝きが闇の中で光る中で、師匠の八雲はしょぼくれていました。
あれだけの業を詰め込んで納めた『落語』が、死と衰えに穴を開けられ、体から逃げていく恐怖。
なかなか伝わりにくい『それ』がぐっと胸に迫るのは、銀杏の落葉が世界を埋め尽くす美術の迫力もありますが、これまで八雲の人生に付き合い、落語に付き合い、彼がそこに込めた重さを体感できるような物語を積み上げてきたことが、一番大きい気がします。

弟子や見舞客には口すらきかないのに、娘同然の小夏にはもらいタバコをせがみ、己の苦しい胸の内を明らかにする。
落語と人間関係の重たさにすり潰されそうになって、女の胸にすがる姿は二代目助六を思い出させますが、小夏はそこで一緒に落ちていくのではなく、『シンドくても生きろ。落語を続けろ』と蹴り飛ばします。
親の仇と思い込んでいる(思い込まされている)からキツく当たるんでしょうが、同時にそこには名人・有楽亭八雲への尊敬と、クソジジイへの愛情が宿っていて、なかなか不思議なシーンでした。

小夏が母・みよ吉の血を引いていることは、明らかになった過去の真実からも強く見えます。
敷居を乗り越え、激情のままに母(みよ吉からすれば『あの女』)を追い詰め、殺す仕草に重なるように、みよ吉もまた敷居を乗り越え、血まみれで『そんなこと言っちゃいけない!』とつぶやく。
真っ当な親子なら乗り越えなかった一線を越えて、夫を刺し母を突き落とす因業の地獄が生まれてしまったわけですが、殺したいほど憎んでおきながら、愛情故に男を傷つけてしまうところも、燃え上がるような感情が破滅を引っ張ってくるところも、二人はそっくりです。

そんな小夏だからこそ、むっつりと意地張っていた八雲も背中を丸め、胸の中に巣食っていた闇を吐き出す気になったのかもしれません。
このアニメにおいて『煙草』は強烈なフェティッシュで、信さんと菊さんの(同性愛的とすら言える)親密な関係とか、死の予感としての紫煙とか、みよ吉の婀娜な因業の小道具とか、いろんな意味合いをノセて描写されてきました。
小夏と八雲の間で交わされる回し煙草は、憎しみを縁にして繋がった親子には許されることのない口づけであり、八雲と助六が接近しつつ飛び込むことはなかった(飛び込んでいたら、また別の結論にたどり着いていただろう)共犯的同性愛の、延長線上にあると思います。
そういう形でしか、そういう相手にしか甘え、自分の弱さをさらけ出せない、八雲の業。
それが巧く切り取られたシーンだなと思いました。

体の中から落語が逃げていってしまう恐怖、落語に満足してしまうことへの慄き、衰えへの震え。
生き死にの土壇場で小夏を選び、心中し損なった八雲は、助六とみよ吉が待つ地獄を待ち焦がれていました。
しかしいざ、死が目の前に迫ってみると怖い。
一世一代の"死神"を演じても、『アタシと落語は心中します』とカッコつけてみても、震えるほどに死ぬのは怖いわけです。
それは人間として当然の姿で、そういう『マトモ』を良くも悪くも受け止められないからこそ、八雲は大名人まで上り詰めたんだと思いますが、どっちにしても八雲は生きるか死ぬかを迷いつつ、崖の前で立ちすくんでいる。

銀杏の敷布に浮かんだベンチを、上から切り取るカメラは、反発しつつ寄り添い合う小夏と八雲の前に、水たまりを配置します。
みよ吉と助六が手に手を取り合い、夫婦として堕ちていった三途の川に引き寄せられつつも、落語と身内が必死に手を引っ張って、飛び込んではいけない二人。
彼らが配置されている画面の上半分には、水たまり、三途の川、『死』はまだありません。
何がどうあろうと生きてしまっている八雲が、空虚さと衰退に怯えつつ、これからどう死んでいくのか。
三代目助六が落語を、八雲をどう活かすかと同じくらい、八代目八雲と落語がどう死んでいくかは
、物語の大きな焦点であり続けています。


孤独を嘆きつつも、八雲の側にはふてくされ、悪態をつきながら隣り合ってくれる小夏がいます。
あの時、生きる側に八雲を繋ぎ止めた少女は母になり、妻になり、殺したいほど憎んだ母に似た、そして似ていない女に育った。
それは八雲が死に取り憑かれつつも、名人の名前を揺るがないものに仕上げ、与太郎を育て上げ、衰えていったのと同じ、時間の産物です。

時が流れても変わらないもの。
時が奪い、育むもの。
時経たことで明らかになるもの。
時間の流れの中で人間の業を追いかけるこのお話にふさわしい、色んな顔を埋め込んだエピソードだったと思います。

色んな顔と言えば、一応旦那になる与太郎もまた、師匠の真似をするように小夏にすがり、涙を流してました。
師匠がもらいタバコと愚痴でしか情を表現できないのに対し、素直に抱きつき素直に甘える与太郎の可愛げが目立つシーンでしたが、どっちにしても甘える女はおんなじってところに、血よりも濃い芸事の親子を感じます。
八雲相手には接近させた煙草を、与太郎には遠ざけ、守ろうとする小夏の仕草にも、一筋縄ではいかない男と女の関係の複雑さが見えて、なかなか面白かった。

小夏は『あんなズルい女にはならない、あの女とは違う』と自分に呪いを掛け、その結果として記憶まで封じてしまったわけですが、結果として親の分からない子供を身ごもり、『女』の業から逃げられない道を歩いています。
ここらへんのままならなさは、みよ吉に呪われて落語に縛り付けられた樋口とか、死に損なった傷を癒せないままここまで来てしまった八雲と共通であり、お話全体を貫くルールに従順な振る舞いです。
自分を守ってくれた八雲を『人殺し』と断じ続けている事含めて、意識していない『女のずるさ』を小夏が背負っているのだと、夫への対応で見えるシーンでもありますね。
娶った与太郎自身が『これは同情だよ。同情から始まる夫婦があってもいいじゃないか!』と言ってんだから、外野が口出すことじゃあないんだけども、小夏はどーも与太郎に男を感じていない部分があって、なんとも報われねぇなぁって時々思っちゃうね。

秘められていた過去を掘り返し、死人が墓から蘇りつつも、人は浮世で生き続ける。
その先に何があって、苦楽も明暗も引っくるめて転がる人間の生き様に、落語はどう食い込むことが出来るのか。
真摯に捉え続けてきたテーマは加速しつつ、物語はまだまだ続きます。
本当に面白いアニメで、ありがたい限りでございます。

アイドル事変:第7話『飾りじゃないのよマイクは』感想ツイートまとめ

プレイレポート 17/02/19 BBT『God,s OCTAGON』

今日はシェンツ先生のオリジナルシナリオを遊ばせてもらいましたよ。BBTでごわす。

シナリオタイトル:God's OCTAGON システム:BBT GM:シェンツさん

浅間忍さん:"凄皇流・地の拳"常盤兵馬:19歳男性:凄皇流=ダメ半魔:アタッカー 武を己の本懐とする凄皇流の拳士。練気の才覚がなかったため、火とか雷とかは出せないが、格闘技術の根本である『踏み込み』を極めた結果、神をも殺す打撃を手に入れた。己の中の修羅を否定しない、優しき拳神。
よねちょくん:"エンプティ・サジタリウス"空船奇助:34歳男性:寄生体=真狩人:サポーター 半魔に妻子を殺され、復讐の魔狩人として闇に身を投じたアヴェンジャー。闘争の果てに死に、寄生体により蘇った時に、仇の記憶を根こそぎ失う。以来フラッシュバックに悩まされつつ、殺すべき仇の顔を見失ったまま荒野を彷徨い続けている。
コバヤシ:"グラン・シャリオ"曳山誠司:16歳男性:メタモーファー=御伽噺の住人:ディフェンダー 池袋で噂の、超高校級のスタイリッシュ執事。その実態は、シンデレラを運んだ"かぼちゃの馬車"の魂を受け継ぐ人間。誰かを助け、守り、舞踏会場に連れて行くことを己のエゴとする非戦主義者。

というわけで、シェンツ先生のKOFリスペクトシナリオを遊ばせていただきました。得意分野である『トンチキNPC目白押し』『伝奇脳全開のキャラ造形』が唸りまくり、テーマである格ゲーへのリスペクトも熱い、非常に面白いシナリオでした。
人数多い系シナリオは、一人ひとりが薄くなったり頭数をさばききれなかったり、ハンドリングや筆力に色々難しいところがあるネタだと思うんですが、シェンツ先生はその難しさを巧く魅力に変換していて、やっぱすげぇなぁ……(CV:細谷佳正)って感じです。
シナリオ全体の構造はかなり早い段階で見てきて、ミドルは楽しいイベントを腹いっぱい食べ、ロールプレイを堪能することに集中できる構成も、ネタの強さを最大限活かすスマートさでした。ここらへんの整え方が、人数を魅力に変えるテクニックなのかなぁ。

PCもいい具合にキャラが立ちつつ、お互いの顔をよく見たツッツキ合いが出来て、非常に楽しかったです。僕は格ゲーシナリオなのに純サポーター気質のキャラを投入し、色々迷ったり道を見つけたり、主役っぽい動きができて楽しかったです。ここら辺はほかキャラが色々トスを上げて、道案内を担当してくれたおかげなのでありがたい限り。
やっぱ同卓してくれた人と設定やロールを交換させて、自キャラが色々変化しつつ、気付いていなかった魅力をプレイの中で見つけるというのはTRPGセッションにおける最大の魅力だと思います。これはPLだけではなく、シナリオやGMとの交流でも同じで、メッセージをやり取りしながら変化し、その中で変化しない『キャラクターらしさ』を実感できるのは、非常に気持ちいい。このリアルタイム性と実感の強さが、物語メディアとしてのTRPGの特色であり、魅力なのかなぁと思いました。

非常に面白いセッションで、たっぷり遊んだ充実感が強かったです。格ゲーシナリオだけに戦闘の構成も凝っていて、しっかり楽しむことが出来ました。良いセッションでした、同卓していただいた方、ありがとうございました。

キラキラ☆プリキュアアラモード:第3話『叫べライオン!キュアジェラート!』感想ツイートまとめ