イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

スター☆トゥインクルプリキュア:第19話『虹の星へ☆ ブルーキャットのヒミツ!』感想ツイートまとめ

追記 壁の向こう側を見る能力は、今後様々な形で格差が広がっていくだろう世界に進む子供たち(と、かつて子供たちだった全ての存在)にとってとても大事になるだろう。だから今”Imagination”なんだと思う。

ぼくたちは勉強ができない:第10話『かの新天地にて迷える子羊は[X]と邂逅する』感想ツイートまとめ

プレイレポート 19/06/08 TNX『Be a Beast』

今日はNOVA-Xのオンラインコンベンション”ONline VOICE ONly” https://sites.google.com/view/onlinevoiceonly-tnx/さんに参加して、楽しくオンセしました。

シナリオタイトル:Be a Beast システム:NOVA-X RL:潜鯰さん

睦月さん:雨宮蛍:12才女性:マネキン◎ハイランダー●クロマク 河渡ファイナンスの御曹司として、蝶よ花よと育てられた少女。親の因果が子に報い、地下闘技場で一発当てないと地獄流しの憂き目に合う。無自覚にクロマクの才を開花させ、夜に咲き乱れる悪の華の片鱗を見せる。
GTさん:”剣落とし”ギタゴロ:27才男性:レッガー◎カタナ●チャクラ 人山いくらのストリートチルドレンとして鉄砲玉に選ばれ、その逆境を自分の腕前だけで跳ね返した禍つの刃。情け容赦のない暴力性と、一本通ったスジが同居する生粋の侠客。
あんくさん:”浮遊生物(プランクトン)”彩=ポワヴロン:22才女性:トーキー◎コモン●アヤカシ NOVAスポに所属するコモンな事件屋。不運に愛されており、何かと荒事に巻き込まれては失神している。その精神には強力なアヤカシが寄生しており、魔の力で状況を制圧、生還していることに気づいていない無辜の怪物。
コバヤシ:”無垢なる獣”タブラ・ラーサ:外見10代男性:ヒルコ◎チャクラ●クロガネ ヒルコ街で気ままに暮らす力自慢の青年。浄化派の作り出した元戦闘用ホムンクルスであり、家族の重病を治すために地下闘技場に身を投じ、白紙のプロファイルにアクトで出会った生き様(スタイル)を書き込んでいく。剛力で終わらず、”武”の天分に満ちた知恵持つ野獣。

こんな感じのメンバーで、楽しくセッションいたしました。RLの潜鯰さんを始め、PLさんも全員始めましてな状況だったんですが、落ち着いて相手の顔をよく見て、しっかり敬意を持った良いセッションになったと思います。とても楽しかったです。
潜鯰さんはRL三回目ということでしたが、自分の”好き!”を最大限の武器にぶん回して、思い切り楽しませてくれました。レッガーが好き、魂を燃やすデュエルが好き。そういう気持ちが燃料になって、PLにしっかり伝わる熱くて力強いシナリオだったと思います。
個人的には数字がそんなに跳ねていなかったのも良くて、ロールに集中して楽しむことが出来ました。かといってゲーム的な楽しさがスポイルされていたわけではなく、地下闘技場で発生するトンチキなイベントをランダム性とうまく噛みあわせ、こちらの想像力を刺激するギミックは非常に面白かったです。

自分は図体だけデカいショタで、あんまやらないタイプのPC1をプレイ。何かと賢い強キャラをやりがちなんだけども、『初対面の人相手に上取る動きもどうなの?』と思ったので、とにかく善人でピュアな感じで遊びました。
例によって例の如く喋りすぎてしまうので、自分に集まるリソースやロールプレイのチャンスを他の人に巻きつつ、PC1としてアクトの軸になるよう、シナリオを真正面から受け止めることを意識しました。なんとかやれたかなー。どーだろ?
今回は自分のスタイルをまだ見つけてない状態で入って、アクトの中で何かを見つけて帰るドラマをキャストに仕込んだわけですけども、他キャストとの熱い交流、シナリオに込められた熱量と敬意、RLの真摯なマスタリングにしっかりと助けられ、ザックザクとお釣りを貰って帰ることが出来ました。
NOVAはやっぱりスタイルが絡むとゲーム全体が面白くなるシステムだと僕は思っているので、それを追い求めるべく色々小賢しい芸を仕込んだわけですが、それが上滑りせずセッションとしっかり噛み合い、ラーサが自分のスタイルを確信して終わることが出来ました。
そういうセッションが出来たのはやっぱり、僕が初期状態で仕込んだ色々をRLや他PLが受け取り、膨らませてくれた結果だと思います。想定したものの何倍も面白い体験が帰ってきて、『僕の物語』が『みんなの物語』になる。TRPGの醍醐味をたっぷり味わうことが出来て、非常に面白かったです。

良いセッションでした。同卓していただいた方、ありがとうございました。

ユリ熊嵐感想まとめ(第7話~第12話)

ユリ熊嵐:第7話『私が忘れたあの娘』
記憶と殺意が交錯する惑乱のメモリア、七番目のお話は銀子の看病。
その合間にゴミクズ人間針島が食い殺されたり、銀子のルーツが判明したり、紅羽の記憶が戻ったり、るるが甲斐甲斐しかったり、今週も盛りだくさん。
というか、単純な物語的進行という意味では一番進んだ回かもしれん、銀子寝込んでたのに。
クマ世界は今まで描写されていなかっただけで、ユリ世界と同じくらいかそれ以上に、同調圧力と詭弁が吹き荒れる、碌でもない現し世でした。

王子様と思われていた銀子ですが、孤児で少年兵というヘヴィな身の上の、偽装王子だったことが判明。
ユリの世界にクマが潜んでいるように、クマの世界でも透明な嵐は吹き荒れており、断絶の壁と言いつつ、内実は差がない。
孤独な魂に神の愛情を約束し戦場に突っ込ませる構図は色々生々しすぎて、そらー影絵少女風の演出でフィルタかけないと描写できないわ、って感じ。
熊が女をぶっ殺した後の表現が控えめに言って絶頂(エクスタシア)であり、別の意味で生々しくもあるんだけどさ。
どこもかしこも毎日吹雪吹雪氷の世界であり、そういえばピンドラのサブタイトルで使ってましたね『氷の世界』


一方紅羽は案外満更でもなく、非常に珍しいことに純花さんの回想シーンが今回存在しなかった。
これが失ったものを忘れ、新しいスキで欠損を埋め直していることになるのか、かつてのスキを思い出して現在の傷を修復しているのか、多分どっちも正解なんだろう。
死者の残した傷を生者との関わりで埋めていくのは、健全、かつ不完全な僕達にはそれしか許されていない手筋だと思うのですが、まだ表に成っていないカードが何枚かあるので、安心はできないなぁ。
健気なるるちゃんの描写といい、表情の柔らかくなった紅羽といい、安心したい気持ちはたくさんあるんだけどね。

母の死、純花の死。
穏やかに治癒されつつある現場をひっくり返す鬼札が、全部墓場に埋まってるのは、クマが殺人鬼的側面を持つ以上、正しい作りだと思う。
『クマは人を食べる、そういう生き物』である以上、銀子と紅羽を繋ぐ『母の死亡』に銀子が関わっているのは間違いなく、そのサスペンスが現状物語を引っ張るエンジンなのかな、とCパートを見ていて思う。
針島さん殺害のシーケンスを見るだに、ユリーカ先生の関与が最重要なのは揺るがないけど。
TDといい、紫色のクソレズがひっそり心理誘導を仕掛けるのが流行してるクールなのか、今期。


見せ掛けの壁を乗り越えて、幼き黄金期を作っていたのが幼少期の銀子&紅羽なわけですが、それを断絶するのが母親の死。
生まれた時から愛されず認められない『透明な存在』だった銀子が、死地に赴いた理由がクマリア様という偽物の母親だというのも引っ括めて、銀子も紅羽も、母を失った子供という共通点がある。
銀子に掛かっている『母殺害容疑』『紅羽見殺し容疑』が本当だとすると、二回母親を殺して、想い人を自分と同じ境遇に引きずり下ろしてることになるわけだけど……それはないと思いたいなぁ。

主人公二人が思い出を取り戻し、話は完成に向かう……と思いきや、薄暗い秘密が墓場に眠りすぎててまだまだ不穏、というお話でした。
過去作に比べてユリ熊が(比較的)解りやすいのは、殺人を軸としたサスペンスの構図がお話の骨格を浮かび上がらせ、フーダニットが話を引っ張るエンジンになってるからというのは、確実にある。
そんなことも考えさせられる、折り返しの出題編第二弾でした。

 

ユリ熊嵐:第8話『箱の花嫁』
愛と激情のフェミニズムサスペンス、八話目はユリーカ先生のオリジン暴露と、四人の臨界点。
現状見せられてるカードを全て使って、屋上での四すくみを成立させてるお話運びは、疾走感と緊張感があって非常に良い。
この盛り上がりであと四話もあるのだから、一体どうなってしまうのか、期待大ですね。

Aパートを使って語られたユリーカ先生の過去は、見事なまでに『失敗した主人公』だった。
銀子と同じように要らないクマとして生まれ、人と触れ合ってスキを知り、しかしスキを諦めて己を匣に変えた女。
紅羽と同じように友情を育み、それを支えに孤独を癒して、しかし自分自身のスキを自分の手で破壊してしまった女。
屋上でのセリフが全て、自分自身に帰ってくる作りも当然という、綺麗で歪なシンメトリーでした。


ユリーカの歴史には二つの目配せがあって、一つは先述した『今の世代』との重ねあわせ。
愛する人と百合を育て土に汚れたのは純花/紅羽と同じだし、クマとしての欲望と人への愛情の狭間で擦り切れていたのは銀子/るると同じ。
同じ部分を強調することで、違う部分も強調されるという演出が良く効いていて、醜くも切ない『親の世代』の愚行がスルッと入ってくる。
これは、『今の世代』が魅力的なキャラクターとして描写を積み上げてきた、という証明でもある。

『百合の摘み取り』という行為が『今の世代』と『親の世代』で全く異なる行動になっているのは、個人的に面白い。
『今の世代』に取っては守りたくても透明な嵐によって強制的に摘み取られてしまうもので、『親の世代』は箱に閉じ込めて永遠にするために自分から行う行為。
『今の世代』が萎れた百合を一切描写しなかったのに対し、今回の回想では箱に閉じ込められ、精気を失っていく花の死体が、大量に描写されている。
思い込みと憎悪で作った箱に百合を入れても、その美しさは醜く変質してしまい、手と顔を泥に汚し、雨に立ち向かいながら根っこ付きで育てることでしか、百合を咲かせ続けることは出来ないというのは、示唆的な描写だ。
ユリーカも、スキの相手とともに百合を愛でることをしていたはずなのに、結果は異なってしまっている。
つくづく、呪いは恐ろしい。


もう一つは監督の過去作への目配せで、ガラガラの音とともに回る天蓋はピングドラムを、イノセンスを閉じ込める箱としての学園はウテナを、それぞれ強烈に思い出させる。
死人が出るたびに描写されていたロッカーもウテナの間宮編を思い出させていたが、今回その中身が語られたことで、更に印象を強くしている。
ユーリカが捨て子であることも考えると、『コインロッカー・ベイビーズ』への目配せでもあるのかな。

歪みきった無垢への渇望をその身に受け、傷つけられる役をピングドラムで演じていた能登麻美子が、今回は傷つける側に回っているのは、非常に印象的だ。
『既に終わってしまった青春期を懐かしみ、永遠に年老いないまま、現役の少年少女を玩弄する邪悪な男』というモチーフは幾原作品にはバンバン出ていて、ウテナの暁夫なり、ピングドラムの眞悧なり、枚挙にいとまがない。
"彼"もまたそういう亡霊の系譜に連なる存在だとは思うのだが、その妄執はユーリカに受け継がれ、学園という百合の箱庭も継承される。
ユリにしろクマにしろ男という存在がほとんど見受けられない世界で、"彼"と明言されている男が世界を歪めているのは、個人的に面白いポイントだ。

クマが人を喰う存在であり、ユーリカにとって捕食とは「スキを体内にし、空疎を満たす」行為である以上、失われるとはいえスキをくれた"彼"をおそらく、ユーリカは食しているのだろう。
既に"彼"の肉でみっしりと埋まってしまっていた結果、澪愛を食しても空疎は満たされなかったのか。
それとも捕食という行為それ自体が間違いなのか、既に間違えてしまったユリーカには一生わからない。
同じ立場にあった銀子も紅羽も正しい選択をしているのは、育てていた親の違いなのかもしれない。


仮面の告白が終わり、物語は屋上での対峙に向かって一気に滑り落ちていく。
未完成の童話が示唆するように、鏡を割って見えた本当の姿……怪物に銃弾を撃ちぬいたところで、今回の話は終わった。
メタファーに満ちたこの物語が、ただ寓意譚として進むのではなく、お話としての上がり下がりを兼ね備えたサスペンスに仕上がっているのは、個人的には驚きであり、嬉しい事でもある。

クマである罪を許し綺麗にまとまろうとしたところで、るるちゃんが出てきたのは嫉妬半分、正義半分といったところだろう。
今回、銀子は明確に紅羽へのスキを選択し、るるを切り捨てる。
自分るる好きなんで『もうちょっとその、なんというか手加減を……』とか思ったりもしたが、あそこは選択しなければいけないタイミングだというのはよく分かる。
判るんだが、何とか銀子が傷つかないように行動し続けるるるの姿が、愛しくて切なくてどうにもできなくて(唐突な言い訳Maybe

Aパートでユリーカの過去を見せておいたことで、紅羽を誘導しかつて自分がたどり着いた間違いに落とし込もうとする彼女の言葉が、全て自身に帰ってくる構造は巧い。
彼女の空々しい嘘はただ嘘であるというわけではなく、『親の世代』と『今の世代』の差異を強調する反響材になっている。
更に言えば、自分のスキを自分で滅茶苦茶にしてなお生き残ってしまうユリーカの性と、その結果犯した親殺し、恋人殺しの罪への裁きを求める心理も、彼女の嘘の中に見えてくる。
澪愛を食い殺した時泣いていたのを見ても、ユリーカは死にたくて死にたくてしょうがないのに、生き延びてしまうクマなのだと思う。

雷の音で台詞=過程=真相を省略し、銃声という結果が先に届いて引いた今回。
見事なクリフハンガーであり、次回が非常に気になります。
『あなたの箱を開けて』つーのはcome out of the closet(隠していた性的嗜好をオープンにする)とかけてんのかなとか、井上喜久子短時間ならまだまだ萌声行けるなとか、色んな事を考える回でした。

 

ユリ熊嵐:第9話『あの娘たちの未来』
衝撃の第8話ラストから、実写を挟んでの今回。
銀子の自問自答と紅羽の逡巡、ユーリカ先生の決着が描かれるお話でした。
共通しているのは過去との対話……なのかなぁ?

紅羽に撃たれた銀子が目覚めた場所は、かつて少年兵としてクマ的生活を営んでいた氷の世界であり、時間が巻き戻った場所です。
なので、死人のはずの蜜子も出てきて色々喋ってくれる。
彼女が銀子を責める良心と、真実を開示する探偵の仕事を同時にやってくれているので、あのシーンは凄く解りやすく展開してたと思います。
クマの世界とユリの世界を分けるという意味では、断絶の壁と同じ役割を持っている場所であり、あの蜜子はジャッジメント・ガイズと同じ仕事をになってるって考えられるかな?

銀子は秘されていた真実を蜜子の協力で思い出し、開示していき、己の罪を白日に晒していく。
蜜子の声は銀子の良心の声でもあるわけで、『『食べた』のは蜜子でも『殺した』のは銀子』という告発は、銀子自身の強い後悔を意味しているわけです。
だから、るるちゃんは「見殺しにした」と言っているのに、それを受けた銀子は「私が殺した」と言い換えている。
銀子の中で、泉乃純花殺人事件の犯人は自分であり、嫉妬という動機も強い後悔も、スキの裏側(内側?)でくすぶり続けていた。

銀子が純花と出会っており、会話もしていたという事実も公開されていましたが、強い後悔の念を見るだに、嫉妬すると同時に純花のことをスキになりかけていたじゃないかなぁ、などとも思ってしまいます。
『大好きで大嫌いで、ずっと友だちになりたかった』という繰り返されるモノローグは、銀子から純花への語りかけでもあるのかもしれん。
まぁ俺が純花大好きマンであるっていう事、みんな純花のことスキであって欲しいという願いを持ってることは、この読みに強いフィルタをかけてはいると思いますが。
でも、ただの嫉妬と罪悪感だけで、人間って死を覚悟できるのかしら?


蜜子の亡霊は彼女自身が言っていたように、銀子の欲望≒クマ的な部分でもあるわけで、銀子パートラストで蜜子を食し、一体化するのは欲望に身を任せることにした、という解釈が出来ます。
その結果「私はあの子を食べるよ」という宣言に至るわけですが、愛するものを食した末路は今回、ユリーカ先生がイヤッというほど魅せつけてくれているので、銀子は同じ間違いをしないと思いたいです。
あの終わり方が二回繰り返されるのは、ちょっと寂しすぎる。

しかし『あなたをヒトリジメしたい』という欲望は、けして切り離せないスキの一部分でもあって、蜜子との一体化は見方を変えれば、綺麗事ではないスキの本質と向かい合うため、絶対に必要な出来事と言える。
ここで欲望だけに押し流されてしまえば、空っぽの箱を満たすことも出来ず、自分自身が作った箱のシステムに殺されたユリーカ先生と同じ末路を、銀子は辿ることになる。
ユリーカ先生の断末魔を、母の面影を背負った紅羽が聞いたことも引っ括めると、間違えてしまったかつての主人公たちとは、違う道を歩かせようと物語は動いてると、僕は思うわけです。
思いたいだけなのかもしれんですが。

氷の世界から帰還した銀子は、否応なく生者としてもう一度、紅羽に再開しなければいけない。
その時彼女はユリに化けたクマではなく、ユリ的なモノを剥奪された剥き出しのクマになっているはずです。
ここら辺の流れは『月の娘と森の娘』そのまま。
今回その結末を仄めかして引いたので、断絶の壁を超えたクマとユリは一体どうなるのか、箱の中の結末を早く知りたいところですね。


一度は銃という暴力で銀子を排除した紅羽ですが、特に誰の力を借りるでもなく、銀子の本心と向かい合いたいという気持ちに辿り着いています。
クマを排除する存在としてではなく、友達として再話に立ち向かいたかったというのは、ユーリカの誘いに銃を持たずノコノコ出てきたことからも見て取れます。
こういう暴力への恐れは、迷わずユーリカ先生を撃った大木蝶子と対照的だなぁと思いました。
友達だった純花を殺し、自分自身も迫害したシステムの暴力に助けられる展開は、すんげぇ皮肉だった。

銀子と触れ合っていくうちに、紅羽は純花を凄い勢いで忘れていきます。
あれだけ回想されてた死人のシーンは露骨に減り、ペンダント触るだけでいいのに胸元に手を差し入れようとする紅羽の欲望は、自分としては実は嬉しい。
頑なに他者を排除し、死人のために己を捧げて生きるより、薄情に死人を忘れて、目の前の暖かさに齧り付く浅ましい生き方のほうが、嘘も無理もないように思うからです。
悪意を秘めた透明なクラスメイト達では紅羽の空疎は埋まらなかったわけで、紅羽を薄情にさせる(=過去に囚われるのをやめ、今を生きさせる)のは、銀子だけの特権なわけです。
そう言う唯一性は作中で特殊化されている『スキ』以上の意味合いで、『好き』という言葉にしっくり来る。
ラブ・ストーリーであるこのお話において、そう言う関係性が構築されているのは、良いことだなと思います。
紅羽の、そして銀子の心にも純花という刺が刺さっている以上、完全に忘れ去ることなんて出来るわけもないし。


そして失われてしまった人、壊してしまった関係に一生取り憑かれた人の哀れさが、今週のユリーカ先生の姿であります。
『失われた永遠の名残を恣にすることで、喪失を再獲得しようとする存在』という意味では、苹果を陵辱することで桃果を取り戻そうとしたゆりさんとか、かつての自分の面影を背負ったウテナを蹂躙して憂さを晴らしてた暁夫さんとか、ウテナのことを時子と呼んでいた御影といった、イクニ世界のダメ人間をやっぱ思い出します。
綺麗な時を閉じ込めて湖に沈める試みは、必ず歪んで腐敗していくのが、幾原邦彦の世界律なんでしょうね。

ユリーカ先生は澪愛に選ばれなかったと思い込み、永遠の友達を自ら破壊し、空疎な心の延長として嵐が丘学園を製造し、その内側に透明な嵐という暴力装置を呼び込んでしまった、凄く『悪い』人です。
しかしその心の奥底には、『善き』ものとして描写されている主人公の少女たちと同じ、柔らかで綺麗な愛情があった。
それは歪んでしまったけど、本質的に同じものであり、危険性を孕みつつやっぱり『善い』ものなんだと思います。
そういう『善い』ものがどうしようもなく変わってしまって、何処にも行けない結末を迎えてしまう寂しさと哀しさを、僕は紅羽に看取られたラストシーンには感じてしまう。

今回ユリーカ先生が退場したことで、彼女が主人公たちのうつしかがみ、間違えてしまった主役であるという構図は、凄く鮮明になったと思います。
綺麗な思い出と永遠の約束は四人の少女たち総てに、選ばれなかった切なさは銀子が純花を見殺しにした動機、るるが銀子の真実を告白した理由に、それぞれ結線されている。
ユリーカ先生は澪愛を捕食した瞬間に決定的に間違えてしまったわけですが、四人の少女たちの物語はまだそこに到達していない。
それは、まさにこれから語られる未来の物語なのです。

そして、かつての主人公たちと今の主役たちは、大筋は似通っていても大きく違う所が沢山あります。
紅羽が持っているクマへの憎しみは母の愛情の反転であり、"彼"の喪失を歪んだ形で引き継ぎ、箱への偏愛を募らせたユリーカ先生とは違う。
一度銀子を排除した紅羽は、銀子とるるが与えてくれた友情を頼りに、再話に向かって自分から歩き始めた。

紅羽はこの様に違う部分をはっきりと見せているのですが、選ばれなかった寂しさと独占欲を抱え込んでいるクマたちが、ユリーカ先生とどう異なるのかは、まだ見えない所です。
というか、今週亡霊と対話し一体化した銀子は、かつてのユリーカ先生と同じ位置に立った、と言えます。
そこからどういう道を辿り、どういう結論に至るのか。
とても楽しみですね。

 

ユリ熊嵐:第10話『ともだちの扉』
最終回を前に一話しっかり使って、るるちんを氷の世界に送り出すエピソード。
クマとユリの間を狡賢く立ち回っていた作中唯一の大人、ユリーカ先生が居なくなったからか、学生たちの透明な嵐は本格的な暴走を開始。
壁の内側に残ってしまった紅羽と銀子の運命や如何に、というところでしょうか。

今回は徹底的に紅るる回でして、細かく細かく少女の心が揺れて動いていく様を、たっぷり尺を使って描写していました。
おそらく今回がエピローグ前最後の出番となるるるちゃんは、キャラクターを総括するべく、丁寧に自分の心情を喋り、主人公に真心を残して去って行きました。
途中すんごい勢いで死亡フラグスカウターが数字を上げており、「おいィ? るる死亡は許されざるよマジ!!」とかなってましたが、死ななくて良かった……。
やっぱ可愛いし良い子だよなぁ、るるちん。
かなり好きっすね、ええ。

るるに対応していくことで、紅羽も自分自身のテーマである『クマとユリの間の断絶にどう相対するのか』という問いに、答えを出していました。
るるを抱きしめる決断をすることで、クマである銀子を迷いなく愛する事前準備を済ませるという流れは、なかなかスムーズ。
最後すんごいストロングスタイルのツンデレでるるを追い出してましたけど、まぁ壁の中碌でもないからね……。


一見銀子を間に挟んでスキとキライで拗れているようにみえる間柄ですが、スキとキライ、ユリとクマ、過去と現在の間で面倒くさいことになってるのは、実は登場人物全員同じ。
真っ先に解決したのがるるだったというだけであって、三角関係だから複雑な関係だったというよりは、作品自体が複層的で相矛盾した感情を要求している、という感じですね。

王子様に奇跡を起こしてもらって、弟を失ってしまった自分を救いたい気持ち。
自分より紅羽がスキなのを知っていても、まだ銀子がスキな気持ち。
るるちゃんが抱え込んでいる気持ちはビューティーが指摘していたように、矛盾に満ちています。
その上で、断絶の壁を超えて触れ合った紅羽に、恋敵でも捕食対象でもない、友人としての感情を持ってしまっているのが、ここまで状況がこじれた理由の一つです。

感情と行動に矛盾が満ちているのは紅羽も同じで、『クマは殺す』という建前であり本音でもある気持ちと、クマであるるると友達でありたいという気持ちは、透明な嵐吹き荒れる壁の中では両立できない感情です。
今回透明な嵐が学園の外に飛び火し、魔女狩りめいた過激さを加速させていたのは、矛盾を矛盾のまま維持できるモラトリアム期を終わりにして、決断への圧力をかける意味もあるかと感じました。
いや、殺獣メーサー車とサイボーグゾンビクマ、出したかっただけかもしんないけどさぁ……。

似ている二人は、その矛盾を解決する糸口を既に掴んでいる、というところまで似ている。
るるは紅羽が銀子を撃つ状況を産んでしまった、己の発言への後悔。
紅羽は取り戻した過去の記憶と、母親の死の真相。
いま「それが正しいと思える」ことを貫くためには、過去と真っ向から向き合い、自分の起源を確認することが重要なわけです。

 

過去に向かい合うといえば、親世代の関係を現在の少女たちが再演していく構図は、事態がクライマックスに向かうにつれ強調されています。
今回で言えば、過去において澪愛-銀子が行った逃亡幇助が、紅羽-るるでリピートされている。
クマに戻ったるるが布で包まれているのは、露骨に赤ん坊のイメージ、無力さと無垢さの強調でしょう。
弱くて純粋な存在を逃した後、澪愛はユリーカに食べられたわけですが、紅羽もまた銀子に狙われた所で今回終わっています。

悲劇もまた再演されるのかなと悲観する局面ですが、過去とは類似もあれば合同もあるというのが、このアニメでの再演の法則。
今回で言うのなら、自分勝手で暴力的≒クマ的な愛情を乗り越え、恋敵とすら友達になれた紅羽とるるの関係性は、ユリーカ先生がついに手に入れられなかった夢だと言えます。
今回のエピソードは紅羽とるるのお話であると同時に、紅羽とクマ、紅羽と銀子とのお話でもあるわけで、そこで出た結論「私は、友達を排除させたりしない」もまた、るるだけではなく銀子にも適応できることでしょう。

同時に、蜜子≒クマ性と一体化した今の銀子は、最初から優しく理性的≒ユリ的なクマだったるるとは、全く別の存在でしょう。
絵本の結末のように、断絶の壁を超えた新しい世界へ歩み出せるか否かは、今回一つの答えに辿り着いた紅羽が、土壇場でいかなる決断をするかに賭かっています。
作品全ての価値が主人公の決断に集約していくこの流れ、まさにクライマックスというのに相応しい。
ユリ熊嵐最終盤、いったいどうなることか。
楽しみですね。

 

ユリ熊嵐:第11話『私たちの望むことは』
アバンで全てが終わった後の状況を描写し、そこから銀子の過去と現在をトレースしていく、時間遡行型エピソードでした。
『何故銀子は、紅羽との過去を彼女に開示しないのか』『何故紅羽は、クマへの憎悪という呪いに縛られていたのか』という謎が開示されて、お話のパズル最後のピースがしっかり入った感じがあります。
その上で、未だ嵐の渦中にいる二人がどこに行くのか、それは解らない。

紅羽から見た過去は既に語られているので、銀子から見た過去の真実を描写するのが、Aパートの仕事になります。
かつて出会い、通じ合い、しかしシステムの暴力によって傷付けられて身を引く。
銀子-紅羽の最初の出会いは、やはり紅羽-純花の関係と重なっています。

このリフレインが逆説的に意味しているのは、クマとユリ(ヒト)の間に差異はないということです。
クマもヒトも、『世界で最も強い』透明な空気のシステムに踏みにじられ、ズタズタにされる生贄であるというのは、同じことです。
過去回想の中の透明な嵐も、時間を経て成熟したはずの現在と同じように、無邪気で無垢で、それゆえグロテスクなものでした。
それは、透明な嵐を子供たちが担っているからというだけではない、社会からの排除が持つ本質なのだと思います。

相手の顔を見ない、相手をヒト扱いしないことを前提に加速していく暴力は、まるでサイボーグクマが踏んでる発電用弾み車のように、暴力が無理解を加速し、無理解が暴力を後押しする構図を持っています。
どこまでも転がり続ける『世界で最も強い』システムの前には、クマもクマ寄りのヒトも同じこと。
システムの犠牲者であるという点において、紅羽と銀子と純花、そしてるるは同じラインに立っています。
それでもなお、システムに同化されないという意味でも、彼女たちは同輩でしょう。

断絶の壁を乗り越えた同輩なのは犠牲者だけではなく、加害者もまた同じ要素を持っています。
クマの世界に帰還した銀子は、『お前はクマリア様の子供ではない』『世界を害する毒』と決めつけられ、集団から排斥されます。
世界から排斥された子供を再集結させたあの集団ですら、異分子を排斥するシステムを内包している。
即座に吊るしあげて殺すという、透明な嵐の対応とは大きな差異がありますが、別にクマの世界も楽園というわけではないのです。

こうして考えると、王女というシステムの頂点に立ち、気に食わない弟を何度も排除してきたるるは、システムの内側に居た稀有な経験を持つ女の子になります。
弟の死、システムによる排斥に強い後悔を抱くからこそ、システムから飛び出したアウトサイダーである銀子に、かつて失った夢の再獲得を託したのかもしれません。
るるちゃんの死については、後でまとめて語ります。


システムによる排斥から一度は避難した銀子ですが、断罪のコートによる約束にすがり、共同体を追放されても待ち続け、ついに約束の時を迎えます。
アホな事ばっかりやってるエキセントリック集団なので分かり難いのですが、思い返すと断罪のコートは峻厳な法則の番人としての態度を、ずっと崩していない。
最初は銀るるという特別なクマだけに見える存在なのかと思っていましたが、紅羽にも接触するし、ユリーカ先生ともコンタクトしている。

ヒト-クマの境を代償や契約と引き換えに飛び越えさせる彼らは、人格的な存在と言うよりも、クマリア様や断絶の壁、トモダチの扉といった『アンチシステム-システム』なのかなと思いました。
システムなので人間的な幸福よりも、『ヒトとクマは越境可能である』という法則の維持に関心があるし、『ヒトになりたいクマ』『クマになりたいヒト』には、区別なくコンタクトしている。
紅羽からの拒絶を味わい、クマ世界からも孤立した銀子がコートをとの約束を信じられるのは、それしか希望がないのもありますが、彼らが公平なシステムとして孤独に立っているからではないでしょうか。

彼らを『アンチシステム-システム』と言ったのは、境界を越えようとするキャラクターを襲う困難は、クマの中に潜んでいる本能的欲求にしても、クマ・ヒト両方の世界に存在する排斥にしても、自動的でシステム化されている、強力な存在だからです。
「あの子をヒトリジメしたい」という欲求も、異分子を排斥する空気も、圧倒的で自動的で無慈悲なシステムであり、スキという気持ち一つを抱いて闘うにはあまりに強大過ぎる。
作品内に数多く埋め込まれた『アンチシステム-システム』は、システムから排斥されつつも融和を目指して闘うキャラクターに、そして物語全体に一種の救いを与えるべく用意されている印象を、僕は受けます。
システムと闘うのはただ個人ではなく、真理だとか運命だとか、色んな言われ方をするだろうけども、システムに対向するシステムも同じという視点を、断罪のコートからは感じるわけです。


そういう意味では、蜜子の亡霊も、クマとヒトの融和を遮断する一種のシステムといえるのでしょうか。
あの存在が、銀子の後悔が生み出した幻影なのか、銀子の持つ欲望の具現なのか、はたまた本当に蜜子の死霊なのか、厳密な区別は付けれないし、つけなくてもいいと思います。
重要なのは彼女が象徴するのがクマの本能、「あの子をヒトリジメしたい」という気持ちであり、それはとても強いものだ、ということです。

今回銀子は蜜子の亡霊と決別し、本能に支配されたクマではなく、対話可能なヒトとして紅羽と対峙します。
作品のルールに照らし合わせると、それは無条件に肯定される行為ではなく、だからこそ蜜子は『牙を失った獣は死ぬ』と警告してから消える。
蜜子が銀子の超自我でもあることを考えると、アレは『嫌な予感』というか、クマ的なものを否定してもクマはクマであるという矛盾への危うさに、銀子が気付いているという証明なのかな、と思います。

銀子はクマ的なクマでして、紅羽を殺そうとした透明な女の子たちを何人も殺しているし、それ以前に少年兵として戦場で人間を殺している。
銀子個人がクマ的な自分に決別しても、クマとして殺した女の子達は消えるわけではないし、それを行った自分自身もまた残っている。
ここら辺の不安定な構図が、『それはそういうものだ』という確信に基いて行われているのか、意図的に見落としているのか、はたまた単純に気づいていないかは、紅羽と銀子が最終的にどういう結末を選択するか見ないと、判んない部分だと思います。


その上で、今回るるちゃんが死にました。
るるちゃんは一度断絶の外側、クマの世界に対比させられた上で、ユリ的な自分を選択してトモダチのために帰還し、死んでしまった子です。
銀子に遺言を残す描写、その対話(人間的な行為!)が夢か幻だったかのように急速に切断されクマの死体が映る描写。
影絵で死んでいった透明な女の子たちに比べ、るるちゃんの死は特権的です。

るるちゃんはいい子だったし、好きになれる女の子だったので、彼女の死が特権的に描写されるのは自然なことであり、重要な事でもあります。
『共感できるような女の子が死んでしまったのなら、涙くらい流したい』というのは人情であり、劇作のメカニズムとしては、そこを狙って話を組み立てていく部分です。
透明な嵐に満ちた世界の中で、友のために死ねる子がいるというのは、『アンチシステム-システム』の存在、圧倒的な現実に打ち勝つ夢想的な運命の証明として、重要な事でしょう。

その上で。
特権的に死んでいった女の子たちと、影絵のように消えていった女の子たちの間の差異、劇的な存在と劇性を有することを許されていない存在のそれぞれの死の間に横たわっている差異を、この作品がどう捉えているのかが、僕個人としては気になります。
英雄の死と一兵卒の死が別の問題だからこそ、一兵卒が集団化した時有する『透明な嵐』に圧倒的な力が宿っているということなのか(兵卒が英雄を殺すためには、『透明な嵐』という武器がいるのか)
特権的に死ぬためには透明あり続けない選択、苛烈で鮮烈な生き方(ウテナの歌詞を借りるなら『いさぎよくカッコ良い』生き方)をしなければならない、ということなのか。
影絵のように消えていった女の子にその選択肢はあったのか、それとも彼女たちはあえて透明で在り続けることを選んだのか。
るるちゃんの特権的な死は、ここら辺の疑問を再浮上させる機能を僕に果たしてくれました。

最後の疑問に関しては、書いていくうちにある程度の答えが見えてきて、『機会はあったが選択を拒んだからこそ、女の子たちは影絵のように死ぬのだ』という感じです。
『排除の儀』は投票行為なわけで、それを拒む自由と恐怖が存在しているっていうのは、紅羽も純花が一度あの場に居合わせて、かつ『スキを諦めない』という鮮烈な生き方を選択していることからも、結構見えるところかなと。
しかしそれでもなお、選択を拒んだ透明な影絵の軍隊が奮う暴力、『透明な嵐』は何度首謀者が死んでも、おそらくその起源≒教祖たるユリーカ先生を手にかけても、止まるどころか加速しながら突き進み、ついにるるちゃんを手に掛ける力を持っています。
この話において、劇的な選択をしたからといって必ずしも、己を害する世界に対し何かを成す特権が与えられるというわけではないわけです。
ヒロイックに見えて、ペシミスティックな話だと思いますね。

この話が英雄劇として終わるのか、はたまた悲劇として終わるのか、それとも大概がそうであるように英雄的悲劇もしくは悲劇要素を持った英雄譚として終わるのか。
落着の為所は、やはり紅羽と銀子の決断にかかっています。
スキの行き着く場所が何処なのか、こうして文章をまとめている比較的冷静な脳髄も楽しみにしていますし、スキを諦めない英雄的少女たちの行く末にドキドキしている心臓も、同じように期待を高めている。
……そういう状況で再放送挟むのかよ! 死にそう!!

 

ユリ熊嵐:第12話『ユリ熊嵐
ユリで熊で嵐! ユリと熊が嵐!! なアニメもついに最終回。
透明な嵐を内包した世界の厳しさは一切忽せにしないまま、一筋の光明を掴みとる終わり方でした。
とても良いアニメです。


色々と考えたいことはあるのですが、とりあえず見ながら気になっていた所で、最終話になって腑に落ちた所を書いていきたいと思います。
ミステリでもあるこのお話に最後に残った謎、『過去、運命に操を立てたのは誰?』という問いかけに、今回答えが出ていました。
紅羽の記憶がなくなったのだから、それは当然紅羽……というロジックを、現物が出るまで一切思いつかなかった僕は偉そうなこと言えないなぁ……とか思ったりした。

この謎解きは『自分の願いを他者に押し付ける高慢の罪を、紅羽は過去に犯している』ということでもあり、その事がヒトがクマになる最後の決断に繋がっているわけです。
クマは自分の望むままに人を食べ、自堕落に肌を重ね、相手の気持を考えず行動する宿命を持った生き物だという描写は、例えば蜜子だとかユリーカ先生だとか、過去にたくさんされてきました。
銀子も蜜子と同化することで、クマ的な自分に一度は支配され、それを乗り越えて紅羽の前にもう一度立つ。
それを追いかけるように、紅羽は過去の罪を思い出し、クマ的な自分を受け入れクマへと変わる。
ユリ的なクマとして断絶の壁を乗り越えてきた銀子とルルと出会うことで、『クマを殺す』ことをアイデンティティとして物語に立ち現れる紅羽は、自身の罪によって失われた過去に立ち戻り、クマ的なユリとして再誕し、死ぬわけです。
銀子と紅羽の死については、後で話します。


ともあれ、他人が変わることを望んでいた紅羽も、他人をヒトリジメにすることを願っていた銀子も共に歩み寄り、ヒトがクマになるという奇跡が起こる。
それを前にして、今まで無邪気な子供のように(実際子供の年齢なのですが)銃という暴力を弄んでいた透明な女の子たちは、それが命を奪う道具であることを思い出したように、暴力の行使をためらい始める。
紅羽が最初から銃が下手くそな子であったことを考えると、あの子達は奇跡を目の前にして、紅羽のように変わることが出来る可能性、決断のチャンスを突きつけられたのだ、と言えます。
壁の模様も、トモダチの扉に変化してましたしね。

しかし世界は奇跡に目をつぶり、新たな同胞を受け入れることなく排除し、誰か生贄を捧げて維持される日常の中に帰還していく。
奇跡は目の前で起きているのに、今までそれでやって来た世界から飛び出す勇気を持てず、また人狼ゲームに帰ってしまう蝶子たちを、愚かだなぁと切り捨てることが、僕はどうしても出来ない。
多分僕も、あの場にいたら銀子と紅羽を殺していただろうな、と思います。
蝶子のように、奇跡など起きていないのだと、アイツラは人間じゃないんだと言い聞かせながら、同調圧に背中をされて暴力を振り下ろす決断をしていたと思います。
それが『普通』です。

学園ではなくウテナが消えたTV版ウテナや、全てが消えた荒野に走りだした映画版ウテナ、世界を呪う眞悧という悪意を祓わないまま陽毬の死だけを退けたピングドラム
奇跡には常に犠牲を必要とし、その癖残忍なまま巨大なシステムには変化がない世界を、幾原邦彦という作家はいつでも睨んでいるように思います。
その視線には、強烈なニヒリズムがある。
その上で、一条の光を諦めない信念があるからこそ、僕は彼が監督するアニメーションが好きなのですが。


奇跡は確かに起きていて、たった二人、変わった存在もいる。
あの時銃口を下し、透明な嵐の輪廻から降りることを選択した(つまりは、次の生贄になることを決意した)撃子は、紅羽と銀子が、紅羽と純花が、ユリーカと澪愛が、恋人たちがいつでも出会う場所である『あの場所』でこのみを見つける。
撃子も一人であるなら他の子と同じように、銃を手放さず透明な嵐に加担していたのでしょうが、彼女だけが死んだはずのこのみが涙を流す姿を見ている。
死人でありクマでありサイボーグであるという、他者の刻印を三重に押されたこのみも、奇跡を前にして涙を流す存在に戻る。

もしそれを見ていなかったら、もしくは他の子はそれを見ていないからこそ、銃を手放すことは出来なかったと思います。
透明な存在は透明なままではないけれども、そこから一歩を踏み出すのはとても難しくて、一人ではけして出来ないものだという答えは、銀子が奪ってしまった命の意味を何処に置くかがずっと気になっていた身としては、しっくり来る解答でした。

透明な嵐のシステムが存続した以上、二人のこれからは、銀子やるるや紅羽や純花やユリーカ先生がそうだったように、嵐の中に飛び込むように厳しいことでしょう。
今回の奇跡がそうだったように、巨大なシステムへの無謀な足掻きであり、死を以ってしか成就しない恋が再び生まれるのかも知れません。
世界は依然として、冷たく厳しい氷の世界のままです。


銀子と紅羽がクマリアの元へと旅立っていく幸せな終わり方が、このアニメでは描写されています。
しかしそれはあくまで撃子がガンスモークの果てに見た光景であり、一人称的な世界です。
有り体に言えば、妄想とも希望とも現実ともつかない、箱の中の描写です。
既に銃を手放し世界からドロップアウトする覚悟を決めた撃子にとって、紅羽と銀子に訪れた奇跡は世界と戦う覚悟の源であり、けして否定したくはない『スキ』であると思います。
『スキ』が身勝手なものでもあるというこのアニメのルールに基づいて言えば、紅羽と銀子の旅立ちは、撃子がこの後嵐の中で生きていくために必要な、身勝手な願いかもしれないわけです。
あのシーンを虚実定かならぬシーンとして描いた残忍さは、妥協がなくてとても凄い。

その上で、透明な嵐に飲み込まれないまま一人生き残ることなんて出来ないし、エゴから生まれた愛でも、というかそういう愛しか、私達には術がないということも、このアニメでずっと描かれていたことです。
だから、撃子が見た二人の旅立ちは、現実であろうと虚構であろうと真実であり、真実は強いものなのだと、僕は思います。
身勝手でも何でも希望は投げかけるしかないし、それを受け取ってくれるかもしれないという可能性それ自体が希望だということは、このアニメずっと言って来たわけですから。


虚実定かならぬ描写というのは、抽象度が極端に高いこのアニメにおいて、様々な描写に言えます。
何故クマリア様は純花の姿をしていたのか。
『スキがキスになる場所』というのは(作中における)現実に存在する場所なのか。
ラストシーンで二人が出会った『あの場所』は、断絶の壁を飛び越えたどこかなのか、死後の世界なのか。
これらは全てあやふやで、見る側に委ねられた描写です。

そもだに、断絶の壁によって隔てられたクマとユリという根本設定自体が、非常に抽象度が高く、どうとでも解釈できる要素です。
そして、そこに何を見るかというのは、それこそ紅羽が立ち竦み決意を持って砕いた鏡のように、視聴者の興味や感心を写す所です。
このお話でカメラが捉えていた様々なものは、現実において何を照応するのかというのは、見た人それぞれ答えがあると思います。
同性愛の問題やいじめの問題、地域紛争や高度情報化社会。
もっと個人的なものを投影される視聴者の方も、もちろんいるでしょう。
神話やおとぎ話のように、現実をそのまま照応しないこのお話は、多様な解釈と答えを許容している作品だと思います。

そして、全ての答えは十分以上に価値があるように、このアニメは作られていると思います。
マニアックな設定遊びでも、ペダンティックなメタファーの遊戯でもなく、愛と断絶と排除の話をする上で必要な措置だから、抽象度を上げた。
あやふやで曖昧で、現実には起こりえない設定を持ち込むことでしか、見せられないものがあると信じた。
その結果、直球勝負では辿りつくのが難しい確かさと豊かさで、テーマを語り終えたのだと、見終わって僕は思いました。

『これはどういうことかな』『俺はこう思うな』という反応を導くのは、作品が内包する描写と、反応する視聴者の内側にあるものしかありません。
24分なら24分のボリュームを足場にして、見た人の気持ちや感想、もしかしたら感動というものは飛び立っていくわけで、足場が確かでなければ、高い跳躍は出来ない。
そして、ユリ熊嵐という足場は豊かで確かです。
そこを土台にして飛び立った多様な感想、その人なりの受け取り方というのは、たったひとつの真実によって叩き潰されるものではなく、一個一個がそれ自体貴重なものだと思うわけです。

多様性を許容しておいて自分自身の意見を出さないのもアンフェアなので、この段落の一番最初で上げた、あやふやな描写の僕なりの解釈を書いておきます。
クマリア様が純花の姿をしていたのは、その前に立ったのが紅羽だからでしょう。
峻厳な世界の小さな希望が、個人的な経験の中で最大限自分を助けてくれた尊い人の姿で見えるというのは、個人的に納得がいく所です。

そして、『スキがキスになる場所』も『あの場所』も、両方死後の世界です。
天国か地獄かは判らないですが、ミルン王子もるるも、銀子も紅羽も死んでいます。
そして、そのことはけして絶望ではない。
対話する意識が残っている(≒意識を生の定義とする立場を取れば、亡霊は生存しているという結末を導けるから)からでも、彼女たちの愛の軌跡が鮮烈で『十分生きたから死んでもいい』というわけでもないです。
撃子とこのみという、希望を受け継いた次世代が作品世界に残ったからでもない。
彼女たちの物語はあくまで彼女たちのものであり、死者が大きな影響を与えたとしても、死人のものではないですから。

それは多分、彼女たちの物語がこのようにして収まるしかないように、このお話が説得力を持っていたからだと思います。
自分はこのアニメの『銃』の描写をずっと気にしていて、何も打ち抜けない紅羽の銃弾が最終的に何を捉えるのか、とても注目していました。
彼女が選んだ標的が『鏡に写った自分』だというのは、そういう立場からすると非常に『してやられた』描写でした。
頑なな自分と過去の罪を、持て余し続けた力の象徴で撃ち抜くというのは、思春期の少女が成長していくお話でもあったこのアニメにおいて、圧倒的に正解だと思います。
そして暴力をそのように使ってしまった以上、あの二人に応戦する選択肢はそもそも存在しない。
そういう意味においても、あの二人の死は必然だし、それ故に単なるエンドマーク、作中人物の退場という意味合いを大きく超えている。

死ななきゃいけない宿命にあったというわけではなく、峻厳として動かない透明な嵐の中で、断絶していた二人が出会い、別れ、再び出会うお話として、此処に辿り着くようにしっかりと組みててられたからだと思います。
虚実定かならぬ世界での救いも、『どうせ嘘っぱちじゃねぇの?』というニヒルな反応より、『ああ、そうだと善いなぁ、本当に失ったものを取り戻せる場所があるといいなぁ』と願ってしまうような気持ちを、僕は持っています。
12話(実写も合わせれば13話)見てきて、僕は凄くこのお話に納得している。


それにはこのお話の構成が、強く関係していると思います。
ウテナの1/3、ピングドラムの1/2という尺の短さが逆に、メイン・テーマに関係ない部分をすべて切り捨て、作品の抽象度も天井まで上げる決断を産んで、シンプルで骨太なお話になっていました。
ぱっと見感じるフレイバーに相反して、このお話はとても解りやすいし、飲み込み易いアニメだと僕は思っています。

ただ抽象的なだけのお話は退屈ですが、観客を引っ張る物語としての強さもまた、このアニメにはありました。
過酷な世界に迫害されつつ、宿命に引き裂かれた二人が再び出会うラブ・ストーリーとしての強さ。
別れに傷つき、悪意に躓き、思い出に支えられ、出会いに立ち上がる、波瀾万丈の青春物語としての強さ。
失われた記憶をキーとして、絶妙なタイミングで真相が明らかになっていくミステリとしての強さ。
色んな物語の強さがしっかりとあって、『クマの星が爆発して、クマが二足歩行で人間襲うようになった』なんていう、妄想全開の筋書きが気付けば心のなかに染み渡って、前のめりになるように見ていました。

お話の強さが視聴者を引き込む片輪だとすれば、もう一個の車輪はキャラクターです。
みんなトンチキだけど自分の願いに素直で、自分勝手で優しくて、哀しい子たちばかりでした。
みんな好きなんだけど、一人だけ選ぶなら……純花とるるちゃんで悩むなぁ……。
僕純花好きでねぇ……彼女が見せる優しさと強さは、凄くキラキラして見えたんです。
るるちゃんは個人回で満塁ホームランを撃った後、銀子への愛が暴走しちゃう所まで引っ括めて、最高に愛しかった。
銀子も紅羽も、蜜子もユリーカ先生も撃子もライフ・ジャッジメント・ガイズも、このアニメのキャラみんな好きだったなぁ、俺。


自分たちが描きたいものから逃げず、不器用なくらいに真っ直ぐ、本気で挑んだ作品でした。
そしてその本気は、楽しい亜に目を見たなぁという気持ちに、ちゃんと結実したと思います。
一視聴者の立場から偉そうなんですが、凄く良く出来ていて、凄く好きになれた、大事なアニメになりました。
スタッフの皆さん、ありがとうございました。
ユリ熊嵐、本当に素晴らしい、最高のアニメです。

ユリ熊嵐感想まとめ(第1話~第6話)

ユリ熊嵐:第一話『私はスキをあきらめない』
『百合で熊で嵐! ユリでクマでアラシです!!』とばかりに始まった、イクニチャウダー改めイクニゴマモナカの新作。
お話を一言でまとめると百合で熊で嵐なわけだが、普段のイクニを更に上回るメタファーと舞台演劇的カット割り、攻めた色彩のラッシュで、『起こること全てが隠喩、もしくは詩である』と考えたほうが気分が楽になる、そんな圧倒的にワケワカンナイアニメ(超褒め言葉)だった。
とりあえず、分けわからないなりにまずは溺れるのがいいな、と思った。
溺れるだけの水量と熱量は、既にあるのだ。
とは言うものの、ゴボゴボとイクニ汁飲まされているだけでは勿体無いので、少し読む方向で感想を書く。


全体を制圧しているトーンが思いの外陰鬱で緊張していたのは、主人公紅羽といきなり喪失されるヒロイン純花が、出だしから日陰者として描写されているからだろう。
一見平穏に見える嵐が丘学園(このネーミングからしジェンダーSFっぽいよな。ブロンテ姉妹)だが、クマというアウトサイダーを『断絶の壁』によって排除し、内部の規範から離脱するものは『透明な嵐』によって害される、統制的な世界だ。
タイトルにもなっている『私はスキをあきらめない』とはクマの言語でもあるわけで、クマ的なユリである主人公と、わざわざ人間の世界に侵犯してきたユリ的なクマが、教室と世界の地盤を揺るがしていく展開を幻視したりした。

乱入者たるクマが『あの子もこの子もよりどりみどり』状態なのは、蛮種たるクマ以外に公認された暴力が存在しない、不健康で去勢された世界だからなのかなぁ。
純花失踪事件の時、警察来てたけど。
ウテナでもピングドラムでもそうだったけど、社会変革のお話になりそうな気配がムンムンしてる。

クマが『そういうもの』として行使する暴力(こっちには?が付くが。あの子らがブルータルな存在なのは間違いないのだと思うけど、描き方がいちいちコメディなので、どこまでをメタファーとして食えばいいのか、いまいち間合いが判っていない。全部食えばいいと思うけどさ)は開けっぴろげで後悔がないが、百合の花を摘み取るハサミだとか、空から落ちてくるレンガだとか、学園内部の暴力には顔がない。
それは暴力を引き受ける責任がないということであり、クマが百合の花の雄しべをぺーろぺろするのには『ユリ裁判』の承認が必要であるのに対し、顔のない暴力はどんな劇的装置もコメディのタッチも必要とせず、それこそ嵐のように吹いている。
2つの暴力に最速で対面してしまった委員長、百合園蜜子の扱いが気になるところだ。


あとまー、エロスの描写が今までよりはるかに解りやすいというか、比喩表現が比喩に為っていないというか、少なくともメインテーマの一つにセックスがあるんだろうなとは感じた。
『庭いじりをして、手が汚れたから友達』という直線勝負の描写には、思わず声を出して笑ってしまった。
熊が女の子を食べるとき必ず女の子が寝てるとか、受粉する前に切り取られてるめしべとか、露骨なメタファーは他にも多かった。

主役四人が全て、人間のふりをしているときは帽子で髪を覆っているのも、一つには性的抑圧/放埒のメタファーなんだろうなぁ。
屋上でユリ熊乱暴された後、紅羽の髪の毛も着衣も乱れてたし。
特に髪の毛というフェティッシュだけがそうではないんだけど、このアニメのメタファーは『~~である』という一対一交換ではなく、『~~という側面も含む』という一対多交換になるのが、難しいと同時に面白く魔術的であるところだ。
帽子で言うなら、熊のや教室の反逆者といった主役たちの本性をクローゼットしているという味方もできるし。

メタファー的な話をすると、今回一番のキ印シーンである『断絶のコート』での裁判シーンなのだが、あれはすごく素直な『良心の葛藤』の表現でもあるんじゃないか。
つまり、『そういうもの』として自分を認識しているクマも、女の子を食べるのに躊躇いがあって、非常に古典的な天使と悪魔の言い争いよろしく裁判官と弁護士と検察を呼び出してるという見方も、あのシーン出来んじゃないかなあ。
無論それ以外の意味も大量に含んでいるだろうし、そこら辺は次回以降見えてくるとは思うけど。


百合に関しても、例えば『嵐が丘学園』が『バショ』、『クマリア流星群』が『レキシ』とカテゴライズされるように、『椿輝紅羽』『泉乃純花』『百合白銀子』『百合ヶ崎るる』は『ユリ』としてカテゴライズされている。
これは個人的な感触なのだけど、この世界の性別は男/女ではなく、ユリ/熊なんじゃないかなぁ。
とすれば紅羽と純花がひっそりと育てていたタブーとは同性愛ではなく、もっと別の秘密が透明な嵐を呼び込んだんじゃないか、とも感じている。

わざわざユリ/熊という第三/第四の性別を製造したのは、男/女という差異に既に張り付いてしまっている種々のイメージを取っ払って、物語に必要な性別を再構築したかったのか。
はたまた男性性/女性性を一旦ミキサーにかけて、ユリ/熊という別の入れ物に再分配したかったのか。
まだまだ解らないことだらけなので確かなことは言えないが、気になるポイントだ。


全体的に見ると、話数がウテナの1/3、ピングドラムの1/2という事もあってか、最初から寓話としての側面を隠さずぶっ込んできた印象。
だから分かり難いし、むしろ解りやすいというなかなか厄介な出足になったと思う。
しかしこれだけ溺れさせてくれるアニメも滅多にないんだから、肺いっぱいにユリとクマとアラシを吸い込んでから、色々考えるなら考えるといいんじゃいかと思いました。
素晴らしいアニメであり、今後も楽しみで仕方ないです。
スゲェぜ。

 

ユリ熊嵐:第2話『このみが尽きても許さない』
一話の疑問点が一部解消され、新たな疑問が増えていくマジック・フェミニズム的アニメーションの二話目。
ユリの領域がかなりの勢いでクマに侵食されていたり、正義を司る存在かと思ってた委員長が陰謀を覚えたクマだったり、紅羽さんを取り巻く世界は思いの外険しい。
一話で感じた緊張感は、そこまで理由のないものではなかったなという感想を抱きました。

今回一番クマショックだったのは、銀るるコンビがバッチリ食ってたっぽい所。
ファンシーな外見に惑わされてたわけですが、お葬式されちゃぐうの音も出ねぇ。
食われた純花が、回想や他者からのリフレインという形で生存した紅羽に墓所から影響を及ぼしている以上、生き死にの問題はやっぱメタファーとして捉えるべきだとは思うけど。
そういう意味で、死んだこのみを『死骸』と呼んでいたのは、ユリの領域におけるクマの扱いが見て取れる描写だったと思う。

姓にユリが付くのが『ユリの皮をかぶった熊』というルールが今回見て取れましたが、ユリーカ先生も熊なのかしらね。
とすれば、紅羽さんのお母さんの生き死にも、裏が一枚ありそうな感じ。
クマである以上食人(食ユリ?)の欲求は基本的に抑えられない感じなので、哀しみとともに食ったのかしら。
ていうか、あの世界のユリはどういう風に生殖するのかしらね。

疑問といえば、委員長はいつ純花の味を知ったのか。
三つ折りソックスが映ってたところを見るだに、銀るるが食ってたのは純花で間違いないと思うのだが、食い残しをハイエナしたのか。
それとも、クマの捕食には肉を食べる以外の意味合いがあるってことだろうか。
いやどう見ても暴力的なセックスの暗喩含んでんだけどさアレ。
作品内のルールとして、クマの捕食はどういうもんなのか、今後注目したいところです。


一つの映像に多重に意味をもたせた魔術的表現作品である以上、描写への疑問はじっくり見ながら、自分で納得するのがいいと思っています。
そういう意味では、今回勝手に納得した部分も多々あって、一つは紅羽の特殊性。
彼女はクマを憎む言動を繰り返し、実際に銃を持っているけど、それを的確に行使できていない。
"銃"にも色んな意味が付与されていると思うけど、暴力という意味合いで見れば、『透明な嵐』という顔のない暴力も、『クマの捕食』という個別の暴力も、紅羽と純花以外のキャラクターは的確に行使している。
そんな中徹頭徹尾"銃"が当たらない、もしくは"銃"を構えることすら思いつかない紅羽は、特権的に暴力の行使から隔離されているキャラクターなのかなと思いました。

クマから身を守るべく構えた銃はクマ排除の役には立たず、露骨に性的なアプローチをかけてきた委員長から身を守る最後の一線として、儚い障壁の仕事をしているだけです。
露骨なファルス主義的見方をするなら、あの銃は男根の解りやすいメタファー。
"それ"以外に委員長の邪悪な陰謀を拒む手立てがない、もしくは"それ"こそが邪悪な陰謀から乙女を守っているっていう絵面は、個人的に意味深だなと感じました。
紅い椿の花言葉は「謙虚な美徳」「控えめな素晴らしさ」「誇り」だそうですが、椿輝紅羽は激しさとは無縁の特性を持ってるのかなぁ。

とまれ、紅羽の銃弾が一番最初に誰を貫くかで、あの銃に何が込められているかが判る気がします。
……『LOVE BULLET→YURIKUMA ARASHI』なんだから、好きになった銀子を貫く愛の銃弾というのが一番素直なんだろうが、それはちょっと寂しい気もします。

手早く食われて死に、『対話可能なキャラクター』ではなく『再発見を繰り返される謎』になってしまった純花も、暴力から隔離される特権を有しているのか。
今見せられているように百合の花と花壇と紅羽を愛し、純粋さと無垢の象徴のような女の子のままなのか、それともそれをひっくり返す真実が墓所から暴かれるのか。
なかなか油断の出来ない所だなと思います。
ピングドラムの眞悧先生やプリクリ様、TV版の御影、劇場版の暁夫や冬芽などなど、イクニ作品は亡霊が元気よね。


暴力を男性的な属性とするのは、比較的一般的な観念だと思います。
実在の怪しいユリ裁判の面々以外男の外見をした存在が排除されているこの作品で、暴力はクマの属性とされている。
捕食という暴力、思い出や哀しみに接近しようとしない直線的な肉欲は、常に『ユリの皮をかぶった熊』が受け持っているわけです。
(『透明な嵐』という暴力はユリの専売特許なわけで、目に見えない陰湿な力の行使は『女々しい』行為なのか、透明な存在たる『スキを諦めた』ユリたちの内実が描かれないとなんとも言えないところです。)

ならば単純に『クマ=男』という図式、『ユリ=女』という絵が描けるかというと、そう簡単でもないかなと感じています。
この作品のクマは常に『ユリの皮をかぶった熊』だし、ユリも"銃"を使うことでクマに対抗し殺すことができるし、というか基本女の外見をした存在しかいないしで、『ユリ/クマ』と『女/男』は単純な照覧関係にはなく、境界線は揺れ動いている。
暴力を行使できないにしても紅羽はクマに殺意を持っているし、"銃"も所持している。
クマである銀子も、紅羽の"好き"が本物であるか否かを重要視する、非暴力的な視点を持っている。

ココらへんの揺れを担保するために、『ユリ/クマ』という区分を創造したのであれば、それは成功していると僕は感じます。
涙の味を分かろうとする銀子と、クマを憎みつつクマを殺せない紅羽が、近づいたり離れたり、食われそうになったり愛し合ったりする運動が、このアニメの根本的なエンジンだと現状思うわけです。
紅羽の家はユリの世界と断絶の壁、その分岐点に存在してるわけですし。

というか男性性/女性性で暴力という属性を区分するのではなく、暴力を人間の属性として見なおせつーことなのかもしれん。
そうなると暴力に抗う手段も保たず死んでしまった(と現状理解できる)純花は、非人間的な属性を持っているんだろうか。
判んねー事たくさんあって、なおかつ判りたいと思えるのは、幸せなことなんだと思う。


色んな要素、色んな意味、色んな意図が映像の中に練り込まれているアニメなので、此処でグダグダ考えてることもまたひっくり返ると思います。
それもこの作品を見る楽しみだと思うので、積極的に妄想を吐き出していこうと感じています。
自分はフェミニズムや魔術に興味がある人間なので、ユリ熊嵐をそういう視座で受け取っているけど、興味の領域が違う人は全く違う意味を、映像から受け取るのかなぁ。
そんなふうな作品の外側に、興味の矢印が向くアニメって、かなり豊かなんじゃないでしょうかと思うわけです。

 

 

ユリ熊嵐:第3話『透明な嵐 INVISIBLE STORM』
委員長がその邪悪な正体を露わにし、透明な嵐が吹き荒れ、紅羽がようやくその銃弾を命中させる回。
『クマのメガヴァイオレンスも相当だが、ユリの陰湿な暴力も大したもんだぜ!!』と言わんばかりに、学園裏サイトっぽい吊し上げが結構クッキリ描写されてた。
クマの世界もユリの世界も、どっちもどっちって感じ……なのかなぁ?

正直もう少し引っ張ると思っていた委員長は、悠木碧渾身の怪演をブースターにして突き抜けていった。
撃ちぬかれたのは腕章だけなので、その実死んでないというルートもあるとは思うが、重要なのは紅羽が『殺した』と認識してる所だと思います。
クマの正体を見てもなお、紅羽は蜜子を人間だと認識し、自分の行為を殺人と認識して気絶した。
割りきれているようで混乱した思春期に彼女はいて、そういう女の子がクマに好かれていて、多分クマに好かれる。
紅羽さんの心の天秤は今後も揺れ続けるんでしょうが、その不安定なバランスと、それ故に所持しているポテンシャル両方を見た気がしました。
とりあえず、童貞(刃牙のガイア的な意味で)は失い大人の階段は一歩登ったやね……女の手助けで鉄砲うつってのも、ファルス主義的だな。

三話目でようやく手にした力を行使し、生き残るための戦いに紅羽は勝利したわけだけど、同時に殺人という咎を背負うことにもなった。
生きるということは変質していくことで、綺麗なものも幼い部分も否応なく変わっていってしまうのだとしたら、永遠であるということは死ぬことでしか保証されない。
永遠に綺麗な思い出を保存するべく、純花さんを早々に退場させたのだとしたら、やっぱこの話は残酷だ。


そして蜜子は見事なヘイトアーツの使い手だった。
あの眼鏡を使った煽りは紅羽に最後の一線を越えさせるだけではなく、純花さんのピュアネスも強調しており、いい悪役してんなぁと思います。
指すら触れ合わない消しゴムの受け渡しを見ても判るように、純花さんと紅羽さんの交流は肉の接触を極端に少なくしたストイックなもので、何かというと肌を舐めに来るクマとは大きな違いがあるね。

銀るるが『純花は』食べていないことが公開されてましたが、同時に他の人間は食ってるっぽいことも公開情報に。
最後のクマショックを見るだに、彼女らが守りたいのはスキを諦めない人間であり、透明になってしまった人間を食うのに躊躇いはない、ということだろうか。
『そういう生き物』であるクマに、ユリですらない人間社会の善悪を当てはめてもしょうがないが、単純に『いいクマ』とは言えない含みのある終わり方だ。
感情の天秤が揺れ続けているという共通点だけではなく、『スキを教えてくれた』という関係性も、ユリサイドのカップル・クマサイドのカップル両方に共通してる感じ。


排除の儀の閉塞感と気持ち悪さは、クマを断絶して世界を成り立たせている人間側の異常性が良く出ていて、なかなかパワフルなシーンだった。
一心不乱に自分の正義を信じきって、真顔で生贄を選び出す少女たちの顔は、鏡のように不気味だ。
メタファーも何もないかなり直線的な比喩が出てきて、ちょっと見方を変えられる気持ちよさもあった。

食われるだけに見えた『透明な存在』も、透明なりに悪質な敵意をむき出しに荒れ狂っており、今後彼女たちがどういう任を担っていくのか、個人的な注目ポイントだったりする。
顔もなく名前もなく、ただ脅威だけを担保する一種のシステムなのか、それともスキを諦めないことに何らかの価値を見出すものも出てくるのか。
あんま関係ないけど、カチューシャさんが幕を天井から下ろしていたのは、レンガを落とした犯人つー暗示だったりするのかね。


素直に見る、という意味では、蜜子の悪辣さを壁にして描かれた純花さんの純粋さも、心に刺さるものだった。
死人でありながら出番が多く、『何か』を期待させる立ち位置にいる純花さんに、僕ら視聴者は色々な考えを抱くわけだけど、嵐の百合園のシーンは真っ直ぐでとても良いシーンだったと思う。
クマが絡んだ時、暴力的なエロティシズムが画面に突き刺さるアニメなので忘れがちだけど、純花さんと紅羽のシーンは『思春期に起こる友情と愛情の狭間(これを『百合』と呼称していいかは、それがあまりに乱雑にジャンル語として使われすぎた結果を鑑みると、頷きかねるけど)』の描写として、清潔さと健気さに気を配った、素直かつ丁寧な映像になっている。
その後裸で隣り合っても、指すら触れ合わない辺り、二人から生殖の匂いを排除する方針は徹底してる。
その純粋さが、スキを諦めない人間だけのものなのか、個人的に気になる所。


抽象と具象、比喩と事実の境界線が分かり難いアニメだとは思いますが、むりくり区別をつけて一方の見方だけで押し切るのではなく、両方に足場を作って行き来するほうがより作品を楽しめるのかな、と思える第三話でした。
当面の脅威となりそうだった蜜子が(一時的に?)退場したので、今後の物語を回す軸が何にになるのか、あんまり読めません。
ユリの姿をしたクマを撃ち殺し衝撃を受ける紅羽と、『食べる』と『食べない』の間を行ったり来たりする銀子。
両主人公が持っている不安定さが、物語を回すエンジン……でいいのかなぁ。

 

ユリ熊嵐:第4話『私はキスをもらえない』
イクニの切れ味鋭いコメディがフル回転になる回……と見せておいて、るるのオリジンが全て開示される、かなり直球な回。
話数が少ないからか、ユリ熊嵐は過去作品と比べるとほんとにストレートな表現が多いなぁと思います。
無論言葉遊びというか暗号というか、言い換えとメタファーはたっぷりあるのだけれども。

るるちゃんはクマの国の王女様で、罪グマで、カインコンプレックス持ちで、弟のことが大好きで、大嫌い。
銀子が王子様かつ罪グマであることも含めて、この話貴種流離譚でもあるのね。
『無垢なる存在を既に失ってしまっていること』『スキ(愛すること?)とキス(愛されること?)の間にいること』などなど、紅羽と共通する部分が多いことが、オリジンが開示されることで明らかになってました。
三人目の主役である銀子も、既に何かを失っていると示唆されていたけど……最後に出てきたネックレスを素直に読むと、紅羽母との因縁かな?

釘宮さんが非常に良い演技をして、弟くんの無垢さは胸に刺さりました。
(熊でミルンという命名が、相変わらず衒学趣味剥き出しで好きです。
アラン・アレクサンダーなのか、それともクリストファー・ロビンなのか
姉に何度殺されても、ただ姉を愛し続けキスを強請るミルン王子の幼稚な純粋さは、暴力的ですらあってなおかつ寂しく、綺麗。

紅羽が何を見ても失った純花を思い出すように、るるも世界の全てが弟を思い出す縁なのだとしたら、なかなか辛い生き方だったろうなと思います。
るるちゃんが王子たる銀子の言葉と行動で救われたように、銀子と心を通わせれば、紅羽も純花を諦めて、新たに旅立つ事ができるんでしょうか。
あの子の純花ロスも相当に深刻ですが、まぁしょうがないよね、純花ちゃんいい子だから……。


弟を殺した赤い蜂は常時るるちゃんの周囲を旋回し、他人を寄せ付けない防衛機構。
弟くんはその内側に最初から入り込んでいるわけで、何度も弟を殺す憎悪と矛盾しますが、その矛盾は作品冒頭からずーっと『大好きで、大嫌いだった』と宣言されております。
アレを無理くり解釈すると『愛憎半ばする虐待の末に殺しちゃった』と受け取ることも出来ますが、あんま解体せず、描写を素直に飲み込むのがいいかなぁと個人的には思います。
ともあれ、抱え込んできた矛盾を受け止め、言葉と行動で生き延びる道を示してくれた銀子にるるちゃんが惚れ込むのも、納得の行く描写だったかと。

弟が何度も持ち帰った永遠のキスを、蜂蜜粥にして傷ついた紅羽に分け与えようとしてるるるちゃんは、紅羽を見つめる銀子に嫉妬を抱かない、献身的な子だなと思います。
キスを諦めてスキを選んだ結果、既にるるちゃんは過去との決別ができてるってことかなぁ。
何かを捨てて人間の姿になるというのは、人魚姫を思い出して暗い気持ちになるので、るるちゃんにもビターでハッピーな何かを残してあげて欲しいものです。
……エピソード一発でるるちゃん凄く好きになってる辺り、俺も綺麗にイクニの手のひらの上だな……。

怒涛のように駆け抜けた三話までとは打って変わって、キャラクターの内面とそれを生み出した歴史に、解りやすくアプローチするお話でした。
今回足を止め、キャラの内側に入る回を入れてくれたお陰で、登場人物の心理に共鳴しやすくなって、とても良かったなと思います。
いつもの様に色んな事を考えて、先のことに思いを馳せて、多分大半は勘違いと思い込みで。
そういう事をさせてくれるアニメって希少で、好きですね、僕は。

 

ユリ熊嵐:第5話『あなたをヒトリジメにしたい』
ユリとクマが織りなす青春期フェミニズム童話、そろそろ折り返しの五話。
前回るるちゃんがどういう子なのか説明したのに引き続き、銀子の内面やオリジンがかいま見える回でした。
クールなキメ顔で王子気取ってるクマが、まさか脳みそドピンクの中学生男子とは思ってなかったぜ。
しかし腐れ妄想ぶん回しのヨダレだらだら熊だとバレた方が、素直に銀子を受け入れる事ができたので良かったと思います。

銀子が中学生マインドなのは何かと紅羽を剥きたがるからではなく、塩辛ナポリタンで判るように、相手の事情を斟酌せず自分の好きだけを振り回すから。
そのことに彼女は自覚的で、今回の裁判で議題になったのも『スキという感情のエゴイズム』でした。
確かに相手が自分のことを『本当にスキ』なのかは、人間にもユリにもクマにも判らないことであり、スキは常に一方通行で時に相手を傷つけるものなのでしょう。
その上で、自分の中の『本当にスキ』を諦めず前に進む所が銀子の未熟であり、同時に王子の冠を被る資格なわけです。

そこで空気を読んで引き下がってしまえば、彼女が捕食している『空気を読んでスキを諦めた、透明な女の子』になってしまうわけで、バカでスケベで絞れば青汁が取れるくらいに青臭かろうと、銀子は銀子の『スキ』を諦めず猪突猛進(熊突猛進か?)する。
そのことでぶち壊れる壁もあるだろうし、相手のことを考えずにぶつけた『スキ』が裏返って『キス』が帰ってくることも、あるかも知れないしないかも知れない。
結果を手に入れるためにはとにかくやってみるしかないわけで、その行動力が銀子を主人公たらしめているのでしょう。

紅羽にはむっちゃ欲情するのに、一緒にお風呂に入って裸エプロンするるるちゃんには毛筋もピクリしてない辺り、銀子からるるちゃんへの『キス』は確かに望み薄。
それでも断絶の壁を超え、敵の只中に一緒に飛び込み、銀子の中学生恋愛をサポートしてくれるるるちゃんの献身は尊いなぁと思います。
クマの恋は(今まで演出された部分を見ると)打算と肉欲にまみれてるわけですが、特別なクマである銀るる両方が、プラトニックに相手を思いやる恋をしているのは面白いところだ。


銀子が理想化された中学生男子だとしたら、純花を『ただ一人の相手』と思いつめ、狭くて苦しい世界を守ろうと足掻いている紅羽は、理想化された中学生女子だと言えます。
『ただ一人の相手』が失われても、大概の子どもたちはその消失に折り合いをつけ、何とか生きる術を手に入れ、面白くもなんともない普通の大人になっていくわけですが、純花はそういう普通の解決法を、頑なに拒絶します。
これは純花が母を一度喪失し、その時にクマとユリが仲良く暮らせるような、理想化され保護された世界も同時に失ってしまっていることが、影響しているのかもと思いました。
銀子のことを思い出せないのも、失ってしまった黄金期の記憶を思い出せば出すほど、それがもう手に入らない現実を痛感し、その痛みを避けるべく防衛行動にでているのかも。
しかしそうなると、紅羽は既に一度『スキを諦めている』ことになるわけで、ココらへんの謎解きはまだまだ予断を許さないところであります。

紅羽の頑なな態度は変化の拒絶なわけですが、純花は既に死んでしまっているし、紅羽自身も銃をとって蜜子を殺している。
紅羽自身がいくら望んでも、時間という止まることを知らない川は流れ続け、子供じみた紅羽を押し流していく。
このアニメにおいて、変わらなくても満たされていた二人だけ-最初は紅羽+母親、後に紅羽+純花-の世界は最初から失われており、そういう意味においては非常に残忍なリアリズムが埋め込まれた物語なんだと思います。(青春の季節を切り取った物語がより良いものになるためには、絶対この認識が必要だし、幾原邦彦作品は全て、ここを立脚点に物語を開始しています)

抽象度が極端に高いため、全てをメタファーとして読んでしまいがちなこのアニメですが、紅羽の頑なな態度の描写は、孤高に世界と戦う少女の姿として、何らかの秘められた価値をほのめかす以上の意味、映像単独の肌理をしっかり持っていると感じました。
銃という実力の行使を引きずり、己が持っている暴力に怯える様子も引っ括めて、脆くて強く、綺麗で汚い紅羽の姿に、単なる象徴以上の感情を抱いてしまう。
透明な嵐に毅然とNOを叩きつけ、フツウになってしまうことに抗う紅羽の姿は、とても苦しそうで気高く、僕はとても好きなのです。
そういう感情のうねりがしっかり生まれるのは、アニメとしてとても良いなと思います。

変わっていく景色、変わっていく立場に適応し巧く生きていく方法は沢山あり、一つは全て忘れて透明になってしまうことであり、もう一つは『スキを諦めない』まま変化に抵抗する(もしくは変化と巧く付き合う)方法を見つけることです。
死んでいるはずの純花は、『誕生日の日まで封印された手紙』という秘密を今回提出してきました。
秘められたものが明らかになり、困難に対応するすべが見つかったり、あるいは新たな困難が出現したりすることが相互対話の重要な仕事であるのなら、『封印された手紙』は死者との対話を可能にする重要な装置になるでしょう。
既に己の死を予感していたようなやり取りも含め、『封印された手紙』との対話が始まれば、紅羽の閉じて尖った世界は否応なく変化と直面させられるんじゃないでしょうか。


理想化された子どもたちは以上のように、泥の中から生まれた蓮のような描写をされていますが、それを取り巻く顔のない人たちはまぁ胡散臭いことこの上ない。
『クマ=ユリ』という世界の真実を巧みに否定し、何かと肉体的接触を図るユリーカ先生の保護者面。
哀しみを偽装して紅羽に近づき、彼女の最も大切な場所を愚弄しにかかる針島さんの狡猾さ。
音頭を取っていた鬼山さんが行方不明になっても、制度として継承されてしまう『排除の儀』。
『クマもユリもろくなもんじゃねぇなぁ』と思わざるをえない、薄汚い描写が冴え渡っておりました。
『雑巾を一番みすぼらしく見せるためには、飾り立てるのが一番』というメイキャッパー理論をナチュラルに実践する辺り、すんげーイヤーな描写だったねアレ。

今回衝撃的だったのは、今までさんざん好き勝手に食い散らかしてきたクマも、狡猾なユリの知恵に返り討ちにされることがあるというラストの展開です。
『そういうもの』として説明されていたクマの捕食は、それこそ嵐のように作品の中で絶対かと思っていたわけですが、綺麗にひっくり返されてしまいました。
同時に王子たる銀子も罠にかかり、血を流す一匹のクマであると示されました。
ここら辺は前半、コメディ成分たっぷりに見せられた煩悩全開のキャラ崩壊と、背中合わせかなと思います。

心を閉ざしたお姫様を救いに来たクマの王子は、脳みそドピンクな上に下らん奸智の罠にハマる、等身大のクマでした。
『この話童話と象徴一辺倒ってわけじゃなく、結構生臭い人間の血まみれ青春闘争なんだぜ?』と囁かれるようなエピソードだったかと思います。
透明な嵐に取り巻かれながら、自分たちのスキを諦めず、それ故分かり合うのが難しい子供たちのお話は、まだまだ続きます。
彼女たちのことがより好きになれて、とても良い回でした。

 

 

ユリ熊嵐:第6話『月の娘と森の娘』
気づけば折り返し点のブルータル・フェミニズム童話、六話目。
過去と未来を純花の手紙で折りたたみつつ、銀子が秘めた罪を開示してショックを与えてヒキという、見事な構成でした。
同じ内容の手紙が、一回目と二回目で完全に意味を真逆にするのが、とても鮮烈。

もともと暗喩と抽象化を駆使しているこのアニメ、非常に童話っぽいところがあるわけですが、その作中で語られる童話は非常にスムーズに銀子と紅羽の過去と現在、そして未来を指し示していて、お話の真ん中らしいアイテムでした。
鏡に向かい合う最後の障壁は、まんま己のエゴと対峙する運命と解釈していいのだろうか。
鏡が割れて見えた相手は獣と獲物なわけで、月の娘は持っている銃をどうするのか。
続きが気になるので作者に聞きたいこと沢山あるけど、お母さん死んじゃってるしなぁ。

あ、さんざ紅羽を『暴力とセックスから遠ざけられてる子供』扱いしてた僕ですが、嵐の花壇の後ガッツリ純花と寝てて、『あ、すいませんでした紅羽さん、思いの外大人でしたね』と謝罪しちゃった。
ゴミクズ人間針島さんと陰謀の黒幕(多分ユリーカ)の褥に比べっと、やっぱ清潔な印象を受けるので、『寝てる寝てないが問題じゃない! 寝ることで何が生まれてるかが大事なんだ!!』と言い張ってみようかな。
……流石に聞き苦しいなコレ。
今回出てきた2つの婉曲的ベットシーンに差異があるとしたら、それが多分紅羽を主人公たらしめてるポイントだとは思うので、考えてみるのは大事な気がする。


『飾ってから地面に叩きつける』方式で、効果的に紅羽の心を折りに行った透明人間たちですが、いざ死人が出そうになると即座に逃げる辺りも引っ括めて、最悪に胸糞悪くて素晴らしかったです。
可愛いデザインとトンチキな演出で相当緩和されてますが、それでもアイツラ気持ち悪い。
『透明な嵐』という行為に嫌悪感を感じさせないと、このお話成り立たない部分があると思うので、あの生理的嫌悪感は凄く巧く出しているなぁと感心します。
すんげー頭沸騰した後に、二分くらい経って『でもなー、こういう部分あるよなぁ俺にも。あーやだホントやだ俺がやだ』みたいな気持ちになるのが、凄いなぁと。
起こっていることは寓意的で婉曲的なのに、自分に照らし合わせて考えちゃうのであれば、それは最上質のファンタジーの証明だと思うんすよね。

その悪意に取り込まれつつも、想い人に願いを届けた純花さんはほんと凄いなと思います。
純花さんはユリたちの同調圧力に殺される前に、クマの衝動的殺意に喰われたわけで、作品世界に存在する暴力全ての矢面に立った。
それでもなおスキを諦めず、紅羽にもスキを諦めさせなかった。(紅羽がスキを諦めていたなら、自分を傷つける手紙は燃えるがままにしてただろうし)
純花さんの小さな英雄的行為は、自分的にはすごく大事にしたい決断なわけです。


一方、ヒロイシズムを引き継いだように見える銀子は、とんでもない罪を告白していた。
叙述トリックを活用する作品なので断言は出来ないですが、仮に蜜子の殺人を見過ごしていたとしたら、『銀子は紅羽がスキ』というだけで許される罪ではない。
『あなたをヒトリジメしたい』気持ちが故に恋敵を間接的に殺害して、どういうルートをたどれば紅羽のキスを手に入れることが出来るのか、現状自分には思いつかない。
ここら辺は今回のラストカットの真相と、秘密を抱えたまま縮まった二人の距離がどうなっていくのかで明かされていく部分でしょう。
上手いヒキだなぁ。

るるちゃんは献身的に介護をしていたのに、目覚めるなり『紅羽!?』って為ってたのは、ほんとヒドい。
前回王子様の仮面が綺麗に剥げて、ダメダメな部分も見せてきてるが故の発言なんでしょうが、もうちょっとるるちゃんに優しくした方がいいぜ銀子くんよー。
まぁるるちゃんは銀子からのキス貰えなくても、ずっと銀子の事スキでいるって決意してるからね、外野がとやかく言うことじゃないんだけどね……。

綺麗な記憶も怪しい過去も暴露され、過去と現在の帳尻が繋がらないまま、一時の劇的山場を超えた今回。
過去が現在と未来に、どういう捻れを与えてくるのか。
今後が更に楽しみになるエピソードでした。