イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第一章 presage flower』感想

劇場版Fate/HF、第一章を見てきた。
PC版発売より13年を生き延び、今なおサブカルチャーの最前線を貼り続けるFateの最新劇場版として、今桜ルートをやる意味にしっかり向き合い、質感と意図のある映像、制御の効いた話運びで『予兆の花』を咲かせる、良い第一章であった。
見ようか迷っている方には、ノータイムで視聴を進める。
音響、映像、ともに映画館でしか味わえない豊かさがあり、体験として心地が良い。
本編に加え、Fate/stay night自体、そこから派生したコンテンツのネタバレをバリバリやるので、未見の方は注意して欲しい。

 

※19/01/18 追記
公開なった第二章へのリンクを張っておきます。こっちでも長い感想を書いているので、気になる方は見てください。

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章 lost butterfly』感想 - イマワノキワ

 


というわけで、桜ルートついに映像化である。
DEEN版SNが11年前、UFO版UBWが二年前、取りこぼしてきたものを拾い上げるように、HFが劇場三部作でアニメ化されるにあたり、非常に冷静に『Fate』は解体されていた。
知っての通り、PC版はルート制御によりSN→UBW→HFという順番でしか物語を体験できないようになっている。
そうなっているのは、ルートを重ねることで聖杯戦争の真相に迫っていくミステリ的な構図を作るためであり、各ルートで肯定された物語の綻びを次ルートで解剖し、別角度から掘り下げるためでもある。
『正義の味方』が辿り着いてしまう摩耗について語るためには、セイバーの金色の輝きに憧れ、恋い焦がれ、その熱情でセイバーが『正義の味方アーサー王』として走り抜けた自分自身を肯定し、別れる物語が前提となる。
過去の自分を否定するべく奮戦する男が、その当人によって失った輝きを見出す物語をやるには、士郎の必死の戦いを見たセイバーが自分を肯定する物語が必要になる。
そして『正義の味方』が『人間』となる物語をやるためには、まず『人間』を超越した『英雄』の輝きを極限まで引き出す必要があったのだ。

今作は徹底的に『人間』の物語である。
何しろ冒頭三十分、サーヴァントも魔法も一切顔を見せないまま、学生・衛宮士郎がごくごく普通に学生生活を送り、間桐慎二と決別し、間桐桜と接近していく過程に使われるのだ。
ランサーとの死闘、凛による復活、土蔵での『運命』との出会いはOPバックで手早く終わらされ、別ルートでは華々しい活躍を見せていた英雄たちは、さくりさくりと死んでいく。
衛宮士郎間桐桜という『壊れた人間』を『人間』に戻すまでの悪戦苦闘こそがHFなのであって、聖杯戦争という心躍る仕掛けはその時、あくまで舞台装置に変わる。
セイバーとアサシンの戦闘が、障子越しの紙芝居でしかなく、士郎が一切手出しできないままセイバーが泥に染まる≒一度死ぬシーンなどは、そのことを非常に巧く示している。

(とはいうものの、大胆なカメラアングルを多用し、アクションのアイデアも普段に盛り込まれた戦闘は、非常に興奮するものだ。
じっとりとフラストレーションが降り積もる展開の中で、一種の『抜きどころ』としてサービスされている感じもないわけではないが、あそこまでしっかり仕上げてくれれば十分以上にエンターテインメントである。
特にキャスターVSアサシン、ランサーVSアサシン戦はPC版でイマイチわかりにくい描写だったものが、時系列としてもしっかり整備され、補強されていた。
今後アサシンが担う仕事を考えると、油断ならぬ強敵であり、漆黒の猛獣であり、忠義の戦士でもある彼がアクション大活躍だったのは、とても良いと思う)


しっとりと積み上がる、士郎と桜と慎二の一年十ヶ月。
その冒頭からして、衛宮士郎の異常性は鮮明に切り取られている。
感情のないロボットのように、射法八節を完ぺきに『こなして』撃つ彼は、名も無き先生が見抜くように異質だ。
それは10年前の大災害で『生き残ってしまった』という罪悪感、サバイバーズ・ギルトが育んだものだし、そこからすくい上げてくれた唯一のロールモデル衛宮切嗣の遺言/呪いを受けて『正義の味方』であろうと願っているからでもある。
部活をやって、ダチと喧嘩して、美少女な後輩に慕われる、ごくごく普通の学園生活。
そこでは、士郎のあまりに巨大なトラウマは表面化しないし、『悪』を必要とする願望もまた充足されない。
『英雄の物語』の主人公として生成された彼は、ごく普通に充足された『いい感じの暮らし』に、癒やされつつも馴染みきれないのだ。

桜もまた、既に壊れてしまっている人間だ。
初登場時の死にきった目が印象的だが、シャツ一つ畳めない彼女は魔術の世界に身を置き、実父に売り飛ばされ、蟲蔵で性虐待の限りを尽くされた結果、心を殺してしまっている。
道具的存在として、衛宮士郎の内情をスパイするべく送り込まれた生活の中で、ゆっくりと桜は治っていく。
温かい食事を取り、シャツのたたみ方を覚え、明かりのある部屋で眠る。

それが衛宮士郎にとっても温もりであったことは、冒頭帰ってきた『家』が薄暗く、冷たい色合いをしていることからも解る。
藤村大河と家族同然の繋がっていても、切嗣を失った家は底冷えして寂しく、10年前の記憶は常に自分を苛む。
聖杯戦争』という命がけの異常事態が来るまで、彼は日常に適応しつつ孤立し、己の悪/夢が振り払われる試練を待ち望んでいた。
そういう宙ぶらりんで冷たい世界の中で、桜が不器用に、あまりにも不自然に接近してきて、じっとり湿度の高い歩みで関係を積み重ねたことが、どういう意味を持っているのか。
冒頭30分使って『聖杯戦争』以前の光景をじっくり見せるのは、それが描かれざる出発点であり、同時に『人間』として帰還する『我が家』だからだ。
不器用に壊れた人間が、それでも人間のふりをして、人間のような温もりで暖まれたような、うっすらとした夢の風景が、この映画の冒頭(と来るべき結末)にはある。


しかし、それは万能の処方箋ではない。
大火災によって受けたサバイバーズ・ギルトは生き死にの際を超えることでしか癒やされず、桜の瞳にはゆっくり光が戻りつつも、他のヒロインたちより明瞭に影が濃い。
自分たちが人間なのだと信じたいがゆえに演じ続けた、幸福の色をした日常。
そこに人間もどき達は、ずっとお互いの胸の中で疼き続ける秘密が邪魔をして、どうしても踏み出せない。

士郎は自分自身のやましさと救世主願望を真正面から見ようとしない(普通に暮らしている間は、見なくても生きていける)し、桜のそれは強烈な恥辱でもあるからだ。
大好きになってしまった先輩に、『私は蟲に毎日犯されて、生きてる意味なんてない塵芥なんです』と告白するのは、彼女の中にギリギリ残っている(からこそ、衛宮家の温もりに引き付けられる)『人間』が許さない。
むしろそれを告白しても受け止めてもらえる距離感を、じわじわ探るズルさが第一章の中では予兆されていく。
しかしそれは、決定的な激発には至らない。
静かに積み重なる日常に、なんのやましさもなく飛び込み、胸を張って『人間』として生きるためには、隠していた秘密を切開する強烈なイベント……聖杯戦争がどうしても必要なのだ。

このような日常/非日常の陰影、積み重なる鬱屈を反映して、この映画は境界線の描写、そこで踏みとどまる描写が非常に多い。
境界線、線、道路、障子を前にして、士郎は巧く踏み出せずに逡巡し、機を逃す。
あるいは、目の前で扉が閉まる。
『英雄』ならば迷わず踏み込める(実際の動作として、サーヴァント達は躊躇いなくとにかく踏み込む)一戦を前に、ただの『人間(もどき)』でしかない士郎も桜も、大きく躊躇い続ける。
痛みを伴いつつ、むしろだからこそ、成長と変化の英雄活劇の側面が強かった『Fate』は、しっとりと積み上がる中途半端さ、境界線を踏み越えられないフラストレーションによって、凡庸な『人間』の物語へと筆致を変えていく。

聖杯戦争前日、士郎は間桐亭(そこでは桜が暴力を受け、蹂躙されている)を前にし、扉を閉ざされる。
また道路の向こう側にイリヤの幻影を見て、踏み出せないまま見失う。
それが共に、愚かにも『正義の味方』だと信じ込んでいた義父・衛宮切嗣の縁深い人物なのは、なかなか面白いところだ。

救済と光に向かって歩きつつも、どうしても闇にとらわれて踏み出せない、ハンパな人々の物語。
顔には常に影がかかり、堂々と白日に顔を晒すシーンは殆ど無い。
『人間』の尊厳に顔を背けずにいられるほど、人を人たらしめる境界線を胸を張って踏み越えられるほど、この段階のキャラクターたちは強くないのだ。

人格のバランスが取れており、作中最も『人間』らしい凛は例外的に陰りが少ないが、そんな彼女も桜を話題に出されると、露骨に顔に影がかかる。
それはサバイバーズ・ギルトやレイプ・トラウマと同じように、彼女の『人間』を苛む過去の傷……妹を見捨てたという罪の意識が表面化する瞬間だからだ。
しかしHFを貫通する大ネタは、この第一章においては秘密なので、凛の顔は基本前に向いている。
彼女は士郎が惹かれ、桜が羨む真っ当な『人間』の偶像として、彼らを誘引し、あるいは拒絶し続ける。

SNならぬこの映画では、セイバーもまたヒロインではなく、明暗の淡いをふらつきながら歩く『人間』としては描かれない。
彼女は士郎が出会った非日常であり、手に入れたかった力であり、危機を前に完全と立ち向かうロール・モデルだ。
30分から60分までの時間は、士郎が唐突に現れた非日常の象徴たるセイバーに正面から向き合い、『聖杯戦争』に自分の意志で飛び込むまでに使われる。
ずっと顔を隠してきたフードを外し、アルトリア一個人として向かい合ったセイバーは、隠されていた秘密-10年前の聖杯戦争-を士郎に打ち明け、その運命を開示する。
流されるのではなく、己の意志で境界線を越える描写は、アルトリアと手を取り物語に飛び込んでいこうという、その瞬間に訪れる。
そこを超えた後、セイバーが士郎の私服(桜が時間の蓄積を経て、ようやく手に入れた『シャツ』との照応)を与えられるのは、この映画で衣食住が果たす意味を考えれば、非常に強い描写だといえる。
セイバーもまた、士郎が一瞬の温もりを手に入れられる『日常の一部』となったのだ。

そして、その時間は短い。
『英雄』を目指して聖杯戦争を駆け出す『これまでのFate』は、柳洞寺でセイバーを失うことで、かなりあっさりと終わってしまう。
そもそも、言峰神父の正体だとか、エミヤの復讐劇だとか、『これまでのFate』を支えてきた大ネタが『いや、キミら知ってるでしょ?』とばかりに序盤で表がえり、新たなカードの存在を示唆してくる事自体が、HFの醍醐味とも言える。
だからセイバーがヒロインであり、士郎の理想ともなる時間もとっとと終わってしまうのだが、それでも士郎にとってセイバーが特別な『英雄』であり、女であったという事実は大事だ。
桜への情愛に引き裂かれ、『正義の味方』への渇望を捨ててなお、士郎が困難にめげず戦い続けられるのは、やはりあの時『運命』に出会った衝撃あってのことだからだ。
それがないと、セイバーの黒い骸を前に戦い続ける今後の展開を、支えきれずに瓦解してしまうから。
あるいは、日常の蓄積で危うい関係を積み上げた桜が、運命的に滑り込んできた金髪の女に先輩を取られるという嫉妬と危惧が、体温を持って伝わらないから。
士郎とセイバーが『マスターとサーヴァント』になる教会前のシーンにじっくり時間を使うのは、とても良いと思った。


雨がしとしとと降り積もり、それが雪へと変わるこの映画は、非常に湿度が高い。
傷ついた士郎に肩を貸すセイバー、修羅場に先輩を引き込んだセイバーを睨みつけ、自分の男を取り戻す桜のシーンなど、嫉妬と情念のこもった名シーンであった。
降り積もる雨は『水』を属性に持つ間桐桜の心象風景であり、HFにおいて衛宮士郎がどのような存在に変化/腐敗していくかの予兆でもある。
死にかけた士郎は正義の在り処がわからないまま水に溺れる夢を見て(正しく『理想をだいて溺死』しかけている)、桜は水槽の中のクラゲを見つめる。
流体と化すほど大量の蟲に、常時漬け込まれた=犯され続けた桜のもう一つの姿を考えると、あのクラゲは正しく桜のミニチュアなのだろう。

水は腐敗を生み、心を蕩かしていく。
誇り高き英雄すら泥に汚染され、生き様を蹂躙されるHFにおいて、士郎と桜二人が水底に居続けるのは、納得のいく描写だ。
彼らは共に一度死に、死んでしまった心をなんとか継ぎ接ぎにしながら、人間のふりをしている半死人だ。
そんな彼らがどうにか『人間』になるまでの物語は、微生物の死骸たるマリンスノーが降り積もる海底にも似た、湿度の高い場所で展開していく。
曇り空が陰りを伸ばし、どこか肌寒い色合いの街が、UFOの高い色彩と撮影技術で活写されているのは、見どころの一つだろう。
そこに潜んでいる、ぬるま湯に溶けていくことへの隠秘な誘惑が、『英雄』への疑問という作品の背骨と巧く呼応している。
蕩けていくのも、別に悪くはないのだ。

泥に食われたセイバーが見る夢もまた、水底の夢だった。
海底から水上へ、逆向きに吹き上がる数多の死体に包まれながら、セイバーは聖杯を夢見る。
『そんなものがなくとも、悪い人生ではなかった』と開き直れたSNのヒロイン特権は、今回彼女には与えられない。
聖杯を手にし、人生を破却してやり直す夢を輝く聖杯に見ながら、彼女は泥に染まって生まれ直す。
彼女の目に写る聖杯は、燦然と輝く太陽、希望そのものだ。
士郎の悪夢が、常に黒い太陽、絶望と破壊の根源として黒い聖杯を睨んでいるのとは、真逆の態度だ。
同じく水底にいながら全く別のものを見ていることからも、HFでセイバーがヒロインを張れない描写は強化されている。
今後彼女は、強敵として英雄志願者・ニンゲンモドキの衛宮士郎に立ちふさがることになる。

ヒロインの資格が無いのは凛も同じで、雪の公園での対話シーン、桜(と私服を着たセイバー)とは共有した温かい食事を、凛は背中合わせで拒絶する。
士郎もコーヒーを手渡しはせず、二人は柳洞寺と間桐亭に別れ、運命もまたそこで切り替わる。
士郎が飛び込もうとしている『人間』の道、正しさが苛烈に情を切り捨てる道を、『魔術師』である凛は既に選択しており、彼女もまた、先の物語で士郎と対峙することになる。
凛と背筋を伸ばし、境界線をまっすぐ見据えて『正しく』生きることが出来る彼女は、憧れではあっても隣り合うことはない、海底から出た存在だ。

それと同時に、桜の存在に表情を震わせつつ、それを士郎に気づかせない彼女は、妹への情をおもりに人知れず、海に潜り続ける存在でもある。
『正しさ』の翼で高みに登り、同時に『情』をおもりに深く潜る矛盾した態度が、どこにたどり着くのか。
『正しさ』に憧れつつ、状況が『情』に流されることを要求してくる士郎とはまた間逆ながら、HFの凛はとても面白い位置にいるといえる。
そこら辺の特殊性を第一章の映像は控えめに、しかし確かに切り取ってきているので、彼女と士郎が決定的に決別した後の描写が、今から楽しみでもある。


『正しさ』
言峰との対話にカットアップされるギルガメシュの詰問(隠蔽され、予告編で開示される)は、非常に『正しい』
『今のうちに死んでおけば、最悪の結末だけは避けれるよ』という指摘に、しかし『人間』たる桜は従わない。
どんなに悲惨な状態でも、人食いの怪物に成り果てようとも、生きていたいし、恋もしたい。
愛する男の胸に抱かれたいし、真っ当な人間として幸せになりたい。

SNやUBWで士郎を突き動かし、多くのキャラクターを善導し、結末に辿りつかせた『正義』への意思は、HFに於いてはヒロインに『正しい死』を突きつけることになってしまう。
ここら辺のねじれを同一ソフトに組み込み、段階的に体験させる自己批評性がFateの優れた部分だと僕は思っているわけだが、第一章の士郎はあまり『正しく』はない。

迷いを振り払って飛び込んだ聖杯戦争では、『衛宮くんすぐ死ぬ』って感じですぐさま土手っ腹に穴が開くし、伝奇ジュブナイルの主人公よろしく手を握った金髪少女剣士は自分の手の届かない所で消えるし、雨でずぶ濡れだしひどく寒い。
そういう惨めな『人間』の情景に、同じ冷たさを共有して桜はあり続ける。
『正義の味方』として超常の力を振るい、かっこよく物語を踏破するチャンスを略奪-一種の物語的インポテンスに滑落-されても、そんな『人間』衛宮士郎を桜は待ち続けるし、士郎もまた、女を略奪され無力さを思い知らされた惨めさで顔をクシャクシャにしながら『ただいま』という。

冒頭30分積み上げたホームの描写が、物語の最後に返ってくる構図-しかもその日常はあくまで欺瞞でしかなかったし、聖杯戦争が始まってしまった以上欺瞞であることはお互いに明白だ-は、なかなかに綺麗だ。
この物語の結末が、『衛宮亭に帰ってくる』ことを約束されていることも考えると、第一章の終わりはHF全体の終わりとも呼応している。
どうしようもないほどに傷ついた切れ端を、どうにかつなぎ合わせて人間のふりをしている少年と少女。
この湿度の高い、『正しく』はない物語において、桜以外にヒロインはいないことを、第一章は陰湿に語り続ける。
少なくともHFにおいて、士郎の傷はアヴァロンでも魔力を込めた宝石でもなく、桜の柔らかな肉の中で癒やされる以外、道がないのだ。

その関係性を非常に雄弁に語るのが、蔵の中でストーブを挟んでの対話だ。
あそこで桜は士郎が『養子』であり、家族と魔術の因業に絡め取られ、自由に生きれない同志であることを確認する。
父と姉に見捨てられ、蟲に強姦され兄には殴られ、そんな自分でも人間だと思える温もりが、自分と同じ惨めさの中にいる。
地獄の中で共犯者を求める、とてもズルい、『人間』らしい桜が、僕はやっぱり好きだ。
けして『正しく』はないが、『人間』臭いぬくもりのある描写が、ストーブに引き継がれていく。

一度壊れてしまって、なんとか修復され、そしてまた壊れる温もり。
あのシーンのストーブは士郎と桜二人そのものであり、同時にそのストーブが境界線となって、二人は分離されてしまう。
桜は己の秘密を開示しないし、士郎は引かれた境界線に踏み込む勇気がない。
この氷の世界の中では凛もセイバーもヒロインたり得ず、湿ったお互いの身体をこすり合わせることでしか『人間』の温もりなど手にはいらないのに、そこに近づくことが出来ない。
一度灯ったストーブは、また消えてしまって闇が覆う。
HFは思えば、その繰り返しの物語だといえるし、『ぶっ壊れようとも暖かくなりたいもんだし、そこに恥じるものはない』という開き直りにたどり着くまでの紆余曲折だとも言える。

映画という媒体を映してか、バイオレンスもエロスもなかなかにアクセルを踏んだ描写が多く、PC版への軽い回帰を感じもした。
内側からぶっ散らがされた小次郎の無残な死体、赤く脈打つランサーの心臓は、なかなかにゴアゴアでよかった。
ライダーの見せる淫夢、あるいは治療される美綴の胸元に誘惑されつつ、『正しく』目をそらす士郎の潔癖も、なかなか興味深い。
唯一手に触れるのが、桜の幻であるのも示唆的だ。
サバイバーズ・ギルトを背負う彼は、性=生を直視しまっすぐ生きることを己に許していないし、それを暴力で獲得するのは更に認められない。

そんな彼も、陰花と咲き誇る桜を前にして、今後否応なく自分と彼女の性を受け止めるしかなくなっていく。
桜の湿度の高いエロスは既に匂い立っているので、今後加熱していく状況でそれがどう映えるか……収まりの良い『正しさ』を飛び越えて士郎が性に飛び込んでいく描写があるのかは、非常に気になるところだ。
生きることの後ろめたさをぶっ飛ばすHFにおいて、セックス・タブーを溢れるリビドーで乗り越えることもまた、『人間』として生きることに向かう道の一つだろう。
SNやUBWでは、魔力を供給し少年漫画的大活躍につながるクンダリーニ魔術だったセックスが、HFに於いては粘液ネトネトの無益で刹那的な行為に堕するのも。このルートの特殊性であり魅力だと、僕は思う。
イメージシーンに逃げることなく、"劇場版空の境界 矛盾螺旋"くらいガッツリやって欲しいところだが、さてはて。


事程左様に『人間』の物語として展開している今作、衛宮士郎の友人であり、間桐桜の兄でもある間桐慎二に相当強い映像が使われているのは、必然としか言いようがない。
恨み、妬み、愛し、期待し、絶望し、諦められずに藻掻く、あまりにも人間的な、矮小で等身大な存在。
あるいは愚かな道化として、あるいは無償で救うべきヒロインとしてアニメでは描かれてきた慎二は、その繊細な感情の襞を丁寧に切開され、非常に複雑な表情を見せる。
士郎が弓道部をやめることにあんなに憤るのは、一緒に弓道をしたかったからだろう。
臓硯に『失敗作』と断じられてなお、魔術の学習を止めないのは、ただ傷ついたプライドを取り戻したいからだけではなく、誇り高き間桐の末裔として見た輝いた夢の残滓が、彼を突き動かすからだろう。
慎二もまた、ワカメと罵られ嘲笑われる記号的キャラクターではなく、士郎や桜と同じく『人間』なのだという描写が、この一章非常に多い。

この後の展開を知っていれば、その人間性が最悪の形で発露し、桜を巻き添えに地獄の釜の底を落とすことも分かっている。
だがしかし、サバイバーズ・ギルトに悩む士郎がそれから開放され、普通の『人間』として生きることを望まれるように。
性虐待に苛まれ、摩耗寸前の心を男に縋って維持している桜が幸福に生き直すことを望まれるように。
慎二のプライドが保たれ、魔術を暴力ではなく知恵として使い、士郎と『普通の学園生活』をどうにかおくれた未来を望むのは、そんなに間違いでもないと思う。
誰もが『正しく』は生きられない業は慎二だけではなく、士郎や桜にも襲いかかり、彼らを苛む。
そこから巧く抜け出せるかどうかは、主役と悪役という物語的配置を横にのければ、とても小さな境界線で区切られた、平等な幸と不幸の問題だと思う。

『運命』が開始する前夜、慎二は妹の願いなどお構いなしに、士郎に弓道場の掃除を押し付け、サーヴァント同志の殺し合いに叩き込む。
その前に口にした「助けてくれよ、衛宮」は卑小で物質的な『掃除の手助け』と同時に、同しようもないほど因縁に飲み込まれ、心の開放を望んでいてもどうしても前に進めない自分の魂を、『助け』て欲しかったのではないか。
そんな最後のレスキューを、正義ロボットは当然聴き逃し、『運命』は駆動してしまったのではないか。
赤と黒が入り交じるあのシーンを見ていると、そういう気持ちが強くなる。
女を殴る男、尊敬できる父のいない少年、運命に出会えない魔術師、サーヴァントで勝てないマスター。
間桐慎二は正しく、衛宮士郎のシャドウなのだ。

充実したリアルを演じつつフラストレーションを溜め込む慎二もまた、水底で雨に打たれ、継ぎ接ぎのまま温もりを探している『人間』として、今回描かれていたように思う。
そんな『人間』の死体を決定的な分水嶺として、物語は『英雄』の物語から離れていくことになる。
殺人者としての桜の肯定。
世界全てよりも、一人の女の温もりを抱く決意。
星のように高い場所への憧れを捨てて、士郎は深く深く、マリンスノーが舞い散る闇の奥に進んでいく。
その歩みこそがHF全体のトーンであり、第一章は精確でストイックなタイムラインと演出に、それを乗せて切り取ってきた。
見事な『予兆の花』であろう。

その序章として、『英雄』への離別と『人間』のハンパさに満ちたこの第一章、非常に鮮明で面白かった。
HFが持つ『Fate』への批評性を見事に映像言語と化し、必要なエピソード、シーンを取捨選択し、あるいは付け足し、映像として開花させていた。
『予兆の花』には『迷える蝶』が続く。
一瞬の宿り木、乾ききった喉を潤す温もりの蜜を求めているのは、一体誰なのか。
それを肌で感じれそうな、エロスと寒々しさに満ちた映画になりそうで、第ニ章、非常に期待している。
楽しみです。

 

・追記 矮小なる人々の肖像
『人間』の物語にふさわしく、UBWやHFでは『現代伝奇』の範疇にお行儀よく収まっていた戦いは人間世界に拡大し、その被害はニュースで幾度も語られる。
当たり前に生きて、くだらないことに悩んでいる凡百の生命が、簡単に巻き込まれ死んでいく無残。
『英雄』の戦いはそういう物事を踏みつけにすることで成立しているのであり、HFの士郎は踏みつけにする側ではなく、される側に位置し続ける。
そして桜は、そういう無辜の人民を食いつなぐ怪物に、強制的にされてしまうし、その快楽に抗うことも出来ない。

『悪いことをしたら、叱ってくれますか』と呟いた妹と、『衛宮、助けてくれよ』と言った兄は、やっぱり士郎とよく似ているのだ。
その二人を前に、決定的に何も出来ないまま事態が悪化しきった後、全てを知る無力がどう書かれるかも、二章で楽しみなところである。
HFの士郎は『英雄』でも、『人間味を持ったまま英雄に慣れる存在』でもなく、徹頭徹尾『ニンゲンモドキ』なのだ。
そしてその危うさこそが、UBWで救いきれなかった問題点であればこそ、UBWの後にこの劇場版が来る意味、『英雄譚』としての側面が過剰に肥大した今のFateの最先端に立つ意味は、やはり大きいだろう。
第一章に漂う冷えた湿度を最後まで維持できるか、非常に楽しみだ。

 

・追記 『花の唄』断想