激闘の果てに、戦士たちが手にしたものとは。
さらばF・F……寂しく美しい風が吹くストーンオーシャン、第22話である。
というわけで、F・Fが死んだ。
アナスイが当てこするように、”たかがプランクトン”でしかない彼女は二度目の死に瀕し、エートロにそうしたように身体と生命と知恵を盗むのではなく、さよならを言う私のまま死んでいく。
彼女が自分を、神父が生み出したDISCに支配されるだけの存在ではなく、”知性”を宿した特別な存在として完遂するためには、傷を癒やし思いを伝える事が何より大事だった。
そこにこそ、人間の証明があるのだとF・Fは考えたのだ。
生き死にの結果よりも、自分が生きて何を掴むかよりも、大事なものが確かにあるのだと。
そう伝えられた徐倫が、”凄み”だけで敵の位置を知る一流の戦士に育った彼女が、とても可愛い表情をしているのが、僕にはとても悲しかった。
承太郎の魂が宿ったDISCを投げ捨てて、DIOが至った絶頂に旅立つ神父は、緑色の赤ちゃんに食われて人間を止めていく。
対して徐倫は戦士の顔と一緒に、この十代の少女そのものの震える魂を持っていて、それがF・Fに雨のように降り注いで”知性”を与えたから、二人のこの別れもある。
徐倫はF・Fに呪われない。
神父が失われた彼のDIOを求めて、沢山の人を陥れ、魂を物質化して略奪し、ためらわず殺し辿り着こうとする妄執を、その死から受け取りはしない。
あるいはスタンド能力のDISCだけを取り戻し、新たなF・Fを復活させると叫んだ時、その危うい縁に指がかかっていたのかもしれない。
しかしF・F自身が、そうして蘇る己は『さよならを言う私』ではないのだと、さよならを言いたくなる思い出にこそわたし達があるのだと、徐倫に告げたことで、祈りは呪いにならず終わっていく。
あるいは死と終わりに瀕してなお、そんな希望を運命に投げかけることが出来ることが、真実の”知性”なのかもしれない。
DIOがキリスト気取りでプッチ青年を裏切りに誘った時、その瞳は彼のDIOで完全に塞がされ、それ以外見えなくなっている。
ウェザーが激しい雨でF・Fの命をつなぎ、逃走を助ける霧を出した時、”ホワイト・スネイク”は無様な手探りで敵を見失う。
F・Fは一切の迷いなく人間の形を捨て、真実を徐倫に届けるためにまっすぐ突き進んだのに対し、だ。
そしてDIOの残滓である緑の赤ちゃんに食われ、新たな超越を果たすのは光のない新月の夜……吸血鬼の領域である。
無明の闇が、DIOに魅了された神父の周囲を覆っている。
王と崇め神と奉る悪のカリスマが、たどり着いた高み。
そこに至るためにプッチは、秘教めいた生贄を捧げ謎めいた呪文を唱え、正体定かならぬ”天国”に至ろうとする。
その理想は誰にも共有されておらず、妄想めいて不確かで、しかし凶暴に様々な人達(最終的には、文字通り全人類)を巻き込んで加速していく。
自分以外に見えないもの、もはや死せるDIOとの間にしかないものをプッチは確信していて、それが眼球に張り付いているからこそ、どす黒い無明に身を置いている。
生きる意味、死ぬ意味。
その真実に対し、瞳が開くことはない。
生き方を変えることも、さよならを告げれる誰かと出会うこともなく、突き進む孤独な道のりは、常に誰かの死体で舗装されている。
そうならざるを得ないから、彼は邪悪なのかもしれない。
プッチは殉教者の純粋さと小悪党のコスさを併せ持つ、とてもJOJOらしいラスボスだ。
徐倫の凄みに飲まれ、自分の命が失われる段になると、秘密を探った抜け殻は用済みとばかりDISCを投げ捨て、手錠を外させ死地から逃れる。
自分への憎悪よりも、父への愛が強いという親父の判断は正しい。
徐倫の”ストーン・フリー”は、傷を縫い人を繋ぐ”糸”のスタンドであり、直接的に人を殺すだけ……あるいは尊い魂を物質化して好きに使うだけのスタンドとは、立ち現れる精神の色が違う。
そういうモノを把握しつつ理解できない神父の”知性”は、DIOを失って孤独であるがゆえにそれをもう一度取り戻し、あるいは自身がDIOと一体になることに邁進する。
それは新たに生まれ変わると同時に、かつての自分を失うことなのではないか。
F・Fが書き換わった自分による復活を拒絶したのと、プッチが奇っ怪な方法で”ニュー神父”になるのが同じ回にあるのは、とても示唆的だ。
F・Fが体現する魂の光と、神父を抱擁する暗い闇の中間地点に、ナルキソ・アナスイは立っている。
彼の名前が過剰な自己愛を意味する”narcissism”を思わせるのは、徐倫以外何も……自分の命含めて目に入っていない過激な純愛っぷりから考えると、なかなかに面白い。
(それこそDIO自体ではなく、DIOに殉じる自分が好きな神父のように)徐倫を愛している自分が大事なら、自分の全てを使って彼女の望みを……自分にとってはどうでもいい承太郎の魂を繋ぐべく、F・Fに知性と生命を明け渡す決断はしないだろう。
その死に瀕して燃え盛る思いは、F・Fをプランクトンと蔑し、ウェザーと徐倫の抱擁をぶっ壊させようとする凶暴なエゴイズムと、同じところから発している。
間違いなく殺人鬼であり重犯罪者であり、初対面のティーンエイジャーにヤバいくらいメロメロな危険人物であり、そして愛のために一切を投げうてる”本物”でもある男。
全てのつながりが我慢できなかった解体魔が、徐倫との絆を繋ぐためだけに己を投げ出そうとする行為には、徐倫という彼の女神と、それに向き合う自分がシンプルに繋がっている。
神父との決着を繋いだ手錠は卑劣な策略で外されたが、アナスイとの間にある奇妙で真実な運命は、鋼よりも強く二人を(今は一方的に)繋いでいる。
ここに一つ、命懸けの変奏を加えたのがF・Fで、『なんでも命令を聞く』というアナスイとの盟約を裏切り、上回ってより正しく叶える形で、彼女は徐倫の希望を繋ぎ、アナスイを生かす。
自分は、ここまでで良い。
死と終わりを前に、愛する人を思ってそう踏み出せたのはF・Fもアナスイも同じで、『こいつが死んだら、徐倫が悲しむな……』と感じたのも、多分同じだ。
だからアナスイは、己の血でF・Fを繋いで命令を聞かせようとし、F・Fは他人の生命と知性を乗っ取って生き延びることを拒んだ。
F・Fが最後に果たした決断は、アナスイの想像力を徐倫一辺倒の世界から広げていく。
徐倫ではないコイツが、承太郎の魂を救うことが、徐倫の喜びに確かにつながっている。
命の瀬戸際、尊厳の極限で全てを掛けた選択を果たしたこと、F・Fの選択を目の当たりにしたことが、アナスイのナルシシズムを変化させ、どす黒い無明に光を手渡していく。
それはあの納屋で干からびかけていた”たかがプランクトン”に……その純粋な生き様に徐倫が可能性を感じ取り、水と”知性”を分け与えた決断の、続きにある未来だ。
変わっていけること、繋がっていくこと。
その極限を追う奇妙な物語は、F・Fの死を経てなお続いていく。
少女ひとりが引き受けるにはあまりに重たい宿命を、鋭くにらみつける徐倫のハンサムな顔立ちには、確かな凄みが宿っている。
でも友達が死んじゃったら、絶望を宿すにはあまりに美しすぎる朝焼けにひとり取り残されたら、徐倫はこういう顔をする。
風が吹いて、F・F最後のさよならを伝えた時、こういう顔をするのだ。
そこが大事な話なのかな、と思った。
戦士であり、少女でもあり続ける、糸のような靭やかさを宿した徐倫の魂が出会い、救い、笑い合い、終わっていったもう一つの魂。
その運命と思い出……”知性”は、たしかに受け継がれ続いていく。
糸が絡まりあった編み物のように。
それを紬続けていくために、徐倫は戦士になったのだろう。
そんな希望をつなぐために、F・Fはさよならを言ったのだろう。
さよなら、”フー・ファイターズ”。
君とのお別れは、やっぱり何度出会い直しても、泣いてしまう。