イマワノキワ

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ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン:第25話『自由人の狂想曲(ボヘミアン・ラプソディ) その①』感想

 遂に物語は”水族館”の外へッ!
 脱獄を果たし更に加速する引力と運命の物語、第3クール初手からマジ良く分かんねぇッ! ストーンオーシャン第25話である。

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第25話から引用

 物語の舞台は刑務所の外へと広がり、徐倫はさっそうと囚人服を脱ぎ捨てる。
 初めて見るガソリンスタンドやらバス停やらに興味津々わーくわくなエンポリオくんが可愛いけども、それも運命に縛られ囚われていた反動と考えると、やっぱ可哀想だね……。
 ”ストーン・フリー”は糸のスタンドであり、誰かと誰かを結びつけるが縛り付けはしない。
 むしろ囚われ人たちを自由(Free)にする強さと明るさがあり、それが水辺に虹をかける。
 エルメェスと三人で、脱獄囚の身分ながら奇妙に晴れやかに光の中を進んでいく姿は、ラストクールを牽引する主人公がどんな存在なのか、良く語っている。

 一方体調最悪のNEW神父は聖数3に導かれ、普段からまとっているゲイ・オーラを更に加速させて、彼自身の悪縁を引き寄せていく。
 運命と引力。
 ”ストーン・フリー”が引き寄せ結びつけるものは、何も光や善に向けてだけ開かれているわけではなく、ドス黒い闇に囚われた囚人たちだって奇妙な出会いと覚醒を果たして、自分たちの夢へと突き進んでいく。
 運命の時を待つ神父が目指すのがケープ・カナベラル……テンの一番高い場所へとぶっ飛ぶロケット発射場だってのは、彼の歩みが陽光のもとでは生きられない吸血鬼の影を追いかけてのものだと思い出すと、なおさら意味深だ。
 地球の引力を引きちぎり、高い天まで駆け上がってなにもかもを書き換えてしまえる、そんな革命への確信。
 ”覚悟”もまた、善なる者たちの専売特許ではない。

 オカルティックな確信と偶然に導かれて、神父は人生のごみ溜で這いずり回っていたDIOの息子たちを、スタンド使いとして覚醒させていく。
 彼自身が父なる邪神の洗礼を受け、運命に目覚めた”子”であることを考えると、彼らはある意味神父の兄弟なのかもしれない。
 使徒によって悪のカリスマが見た夢は継がれ、邪悪な伝導によって拡散していく。
 承太郎が自分の物語を完結させた後も、DIOという暗黒の太陽はその引力を奇妙に広げていって、運命の軌道はねじ曲がっていく。
 それを訂正する正しき人たちもまた、偶然の出会いに惹かれて必然と出会い、お互いの宿命を発火させた。
 その炎はF・Fを焼いて徐倫を檻から出させ、DIOの子どもたちと対峙させる。
 長く長く続く、血と運命の編み物。
 その最終章が、幕を開けていく。

 

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第25話から引用

 というわけで男囚人二人旅、ウェザーとエルメェスの奇妙な道行は、フィクションを現実化するイカレきったスタンド攻撃により、極めて奇妙な色合いを見せる。
 ツラ良すぎる雄二人、眼福を噛みしめる余裕も一切なく、何が起こっているか把握しきれない難行に巻き込まれ、事態は落ち着く暇なく加速していく。
 こっちの理解を完全に蹴っ飛ばして、とにかく現状だけが積み重なっていく感じはいい具合にモダン・ホラーで、まがりなりにもうろたえる(けど、迫り来る命の危機にはしっかり反応し、驚異を潰した後ろめたさも見せない)アナスイと、記憶がない故にフィクションに共感もしない(ので、敵スタンド能力に飲み込まれない)ウェザーを対照する。

 ウェザーは自身のスタンドでずぶ濡れの老人を照らし、事故から守る優しい男に見える。
 しかしそれは記憶を白紙にされたが故の、ある種自動的な慈愛であり、時に殺人すらためらわない凶悪なアナスイのほうが、”人間味”ってのはあるかもしれない……と、世界全部を巻き込んで狂わせていく”自由人の狂想曲”は静かに描く。
 アナスイが”ピノキオ”やら”狼と七匹の子山羊”やら、殺戮色に塗り直された童話に共鳴し取り込まれるのは、彼にもフィクションに共感する時代と感性がまだ残っている証拠だ。
 しかしウェザーは”白雪姫”をそもそも知らないし、だからこそ狂っていく世界に飲み込まれず、『本体を倒して、現象を終わらせる』という現実主義を貫いて、タフに突き進むことが出来る。

 それは頼もしい強さであるが、同時になにか大事なものを欠落させた危うい歩幅でもあって、『これまでのウェザーの行いは彼が”善良”だからではなく、”空白”だから行われたのではないか』という疑問を、静かに燃え上がらせていく。
 アナスイのようにフィクションへの憧れに、遠い日の追憶に引っ張られて精神と肉体が分離しないのは、ウェザーが強いからではなく、欠けて危ういからこそではないか。
 この危機を乗り越えた先に待つ最終局面で、この疑念はより致命的で残酷な形で結実することにもなる。

 ”自由人の狂想曲(ボヘミアン・ラプソディ)”が仕掛けてきた、無差別で冒とく的な攻撃は、徐倫という引力源が出逢わせた二人の男が、共同戦線を引いて乗り越えていく眼の前の危機だ。
 同時に思いの外普通で、でもキッチリイカれてもいるアナスイと、一見善良でタフで優しいウェザーが、記憶の欠落に起因する危うい空虚、共感能力と想像力の欠如を抱えているのだと示すための、一つの予言でもある……と、アニメで見返して思った。
 絵空事に憧れと救いを求め、胸踊らせ自分の人生を生き抜く糧を得る。
 アナスイがスタンド攻撃に飲み込まれているのは、”JOJO”を見て何かを確かに感じている僕らにも似た感性が生きていればこそだし、ウェザーが狂った世界に一切動じず暴力的解決策をクールに選び取れるのは、そういうものがないからだ。

 きれいな夢として描かれがちなフィクションを歪めて現実化し、無差別殺人兵器として操る能力者のドス黒い闇……それを乗り越えていくマトモな殺人者とイカれた善人の闘いは、次回決着を迎える。 
 一見状況解決の鍵となりそうなウェザーの欠落が、どれだけおぞましい秘密を抱えているか解るのは、まだ先の話だ。
 こういう視点で物語を見れるのは、一度その結末にたどり着いたお話をアニメで再び、俯瞰で見直しているからこそだなぁ……などと思いつつ、次回とその先を楽しみに待つ。
 アニメで動くと、”ボヘミアン・ラプソディ”本当にイカれてて良いなぁ……。