イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン:第31話『ヘビー・ウェザー その②』感想

 血縁と宿命にまつわる長いサーガ、その最新の悲劇を掘り下げるストーンオーシャン第31話である。

 プッチとウェザーの因縁が掘り起こされ、二人が根源的に何を望んで今闘うのかが示される回だが、人間としての神父を掘り下げることは彼が引き起こそうとしている世界規模の変化、それに伴う概念の強制に向き合うことでもあって、作品の核心に太くつながったエピソードだと思う。
 起こってしまった悲劇は打ち消せず、死者は蘇らない。
 しかし記憶を物質化して所有すること、殺人でもなんでもやってDIOが見せてくれた高みに這い上がっていくことは出来る。
 弟妹を巡るあまりに悲惨な事件の果てに、プッチはそんな結論を自分に刻み込んだ。
 運命は避け得ず、世界を駆動させる最強の力が確かにあって、そこに至りさえすれば愚かで浅はかだった自分も許されるのだと、信じるしかなかった結果が異様な力強さを誇るここまでの歩みであり、その悪行を許さぬ徐倫達に追いすがられてなお溢れる、”天国”へ自分を突き動かす意思の硬さである。

 他人をぶっ殺して世界を書き換える以外にも、それこそ神に懺悔し弱く間違える只人でしかない自分を認めた飢えで、妹の死を正しく悼み彼女の思い出を無駄にしないように生きていく道は、当然ある。
 しかし神父はそんな当たり前の歩みよりも、自身の足を直し謎めいた運命を教えた彼だけのDIOに自身の魂と、他人の血を捧げる道を選んだ。
 それは崇高な信仰の匂いを漂わせているけども、今回暴かれた過去を思えばただただ自分が安心したいがための足取りで、直近描かれたDIOの息子たちはひどく悲惨で、卑近な人生を取り戻すべく必死にあがいて、悪から這い出せなかった足取りに良く似ている。
 ここではない何処かへ天国の階段を登ってたどり着き、どうにも抜け出せない引力を振りちぎって別の自分になる。
 そんな再生/変身願望が世界レベルまで突き抜けた結果、作品は常人の塑像を超えた領域までブッちぎっていくわけだが、根源にはこの世にありふれた悲劇があって、神はそれを前に振り返ったりはしない。
 自分の個人的な悲しみに向き合ってくれない、遠大で黙りこくった神に見切りをつけたからこそ、神父は顔と声のある彼のDIOに思いを捧げ、救いを求めるようになったのかもしれない。
 まぁただの犯罪で邪教なんだけどさ、クソ吸血鬼への祈りなんざぁね……。

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第31話から引用

 春風のような恋をしていたウェザーとペルラが眩しい陽光のもとで愛を育み、出会いのきっかけが『ひったくりを許さない』という正義の現れだったウェザーとペルラに対し、神父は常に陽光が届きにくい場所や時間に身を置いている。
 DIOに血を吸われた訳では無いが、複雑な事情に絡め取られた自分の出口を彼に求めたプッチは魂を囚われ、誰よりも吸血鬼的な存在だ……と言えるのかもしれない。
 あるいはろうそくが揺らめく教会、あるいはねじれた十字架が見下ろす霧の中、あるいは悪徳と手をつなぐ黄昏。
 神父はあやふやな境界線を常に歩み続け、自分の決断で暗い闇の方へと自身を……かわいそうなウェザーとペルラの運命を引きずり込んでいく。

 プッチは神学生として神の言葉を間近に学ぶ立場にいたのに、そこで示されている意思を自分に引き寄せることは出来なかった。
 徐倫がごみ溜みたいな刑務所にブチ込まれ、友情と覚悟を学び得たのに対し、彼は古来より弱さを我が物とする強さとか、過酷な運命を目の当たりにしてなお絶望しない生き様とかを、ずっと考え学べる環境にいてなお、自分を支える形のない信念を手に入れられない。
 その代わりDIOと遭遇し、謎めいた哲学と形ある精神の力に導きを得て、生まれた時から足に刻まれた傷を治してもらう。
 癒やしは預言者の御業であり、生来彼に不自由を強いてきた(それとの折り合い方を、DIOと出会うまでは彼なりに見つけられていた)運命を”正して”貰ったことで、DIOは彼にとって奇跡の主となっていく。
 それが贖い主の奇跡などではなく、ドブ以下の人殺しがクソみてぇな異能で引き起こす、物理的現象でしかないと、三部見終わってる視聴者には解る。
 しかし全能ならぬ人間に全ては見通せないし、薄暗い迷いの中プッチ青年にも救いが……それこそ『悪には悪の救い』が必要だったのも、確かなことだろう。

 プッチは『チンピラがちょっと小突けばウェザーはペルラを諦めて、近親相姦の罪を知らぬまま犯して傷つくことはないだろう』と、甘く考えて最悪の結果を呼び込む。
 『そんなもんだろう、俺だったら無理だし』と思い込んで、他人を自分の限界にハメ込んで理解しようとする姿勢は、倫理の極限に徐倫を追い込めば心が折れて勝てるだろうと考え、”アンダー・ワールド”に引きずり込んで勝とうとしたヴェルサスと良く似ている。
 結果としてヴェルサスの想像よりも徐倫が気高く勇敢で賢かった結果、彼の想定は破綻していく。
 同じようにウェザーが真実ペルラを愛し、世界が神学校の坊っちゃんが想像するより遥かにカスだった結果、想像しうる最悪を遥かに超えた結果が、神父を包む無明から漏れ出して全てを飲み込んでいく。
 それは運命であると同時に無知の結果であり、安心を求めて『世の中こんなモン』と思いこんでしまうありふれた限界が、一番残酷な形で牙を向いた結果だ。

 

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第31話から引用

 結果ペルラの心身は引き裂かれ、春風が吹いていた心にはもはや雨もふらぬほど傷ついて、死んだ心と愛を肉体が追いかけていく。
 愛を奪われては生きていけないと、恋人と同じことを考えたからウェザーは自殺を図り、深層意識の表れでもある、プッチに引きずられる形で勝手に目覚めさせられた”ウェザー・リポート”に阻まれて、死ぬことを許されない。
 ここでプッチに”死ぬ”という選択肢が欠片もなく、自分と妹を襲った残酷にすぎる運命をただ呪い、思い出を物質に封じて所有することで慰みとしていくのは、面白い対比だと思う。
 プッチ神父は(後に世界規模の大改編をやらかすのに)自分を超えた大きなものへと身を投げる事がとにかくできない存在で、生きて死んでいく卑小な身の丈、物質としての人間のスケールから想像力を開放できない部分がある。
 死んでしまえば物質としての人間は終わりだから、自分は死ぬ訳にはいかない。
 生きて、自分をこんなところに追い込んだ絶対的な力の秘密を暴いて、ペルラの死はさけえぬ運命だったのだと、自分にはどうしようもなかったのだという免罪に、他人や世界を巻き込んでいく。
 殉死だけが美しく、生存にしがみつく仕草が醜いとはとても言えない(し、決死に生き抜く徐倫や『サヨナラを言う私』を死の際で掴み取ったF・Fを見れば、そう描いていないこともよく分かる)が、記憶のDISCを所有してなお、ペルラが何を思って死を選んだのか、それを自分に引き寄せ納得できない神父の救われなさは、なんとも濃い。

 深い深い悲しみの中、霧に包まれた妹に十字を切る仕草を禁じるプッチに、もはや神への信仰はない。
 神の身元で無垢なるものは安らぎを得るという、彼が学んできた救いは彼を裏切った。
 DIOが託した矢に貫かれ、欺瞞と簒奪をその権能とする精神のヴィジョンに目覚めたプッチは、妹の死体を抱き水に包まれながら、ようやく眩しい光を見る。
 それはDIOからの洗礼であり、新たな天啓であり、人生全てを掛けて、勝手に他人の命と魂を踏みにじって、自分の欲しい救いをもぎ取る……だけでは終わらず、世界のあり方を書き換えて自分の過ちと弱さをなかったことにする、狂熱の始まりだ。
 神父自身は確信と力の実感に包まれたいそういい気分だろうが、その犠牲となる人々がマジたまったもんじゃないのはペルラの死に様、双子に引っ張られる形で無差別殺戮兵器になったウェザーを見れば、よく分かる。

 全てが最悪の方向へ転がっていったこの物語において、エンリコ・プッチという個人がどんな責任と自由を背負って決断し、その結果何が生まれたか。
 これを直視しない(出来ない)弱さこそが、彼を世界の敵に、新たなる救世主に、ストーンオーシャンのラスボスにしている。
 超越的な力と目的に比して、その原因や動機……導かれる行いが卑俗だってのはJOJOのラスボスにはよくあることだが、神父は特にそれが濃い気がする。
 何もかも定められ抗い難く、妹の死は『仕方がなかったのだ』と言い張りたいがために、世界全部を書き換える。
 彼が目指す”天国”は、浅はかな決断によって妹をレイプさせ死に追いやった、弱くて情けないエンリコ・プッチ個人と向き合う勇気がないから、彼だけの救いたりうる。
 そんな悲劇が起きてしまってなお、何もかもをひっくり返す奇跡にすがらず生き続けている人はこの世界に山ほどいて、しかし神父はあくまで改悛の羊たちには混じらず、世界を変えうる特別な存在としての自分を”天国”に打ち立て、邪悪の化身DIOが綴った運命の予言が真実なのだと、だから自分に罪はないのだと、証明するべく全てを犠牲にしていく。

 彼が一番最初に簒奪したのがペルラの思い出であるのは、とびきり救いがないところだな、と思う。
 彼が学んだ神学には死を悼む知恵が沢山あって、墓碑に”in loving memory”と刻むのもその一つだ。
 墓に物理的に記憶が宿っているわけではなく、その言葉が一つの触媒となって、形のない愛すべき思い出が死を超えて蘇り、悲しみと孤独を癒やしてくれると信じるからこそ、墓碑銘はある。
 そんな形のないものに自分を預けられないからこそ、”ホワイト・スネイク”は記憶と能力を奪い去り、物質として自分の側に置く力を持っているのだと思う。
 そしてそんな有限の、奪い去り形にした時点で魂の本質から遠ざかってしまうただの物質に妹との思い出を、何も間違っていなかった清らかな証を求めてしまうくらいに、神父の家族への愛は嘘がなかったのだと思う。
 ここら辺徐倫の愛を受けて人になり、身体よりも精神が行き着く結末を自分の物語と堂々引き受けて去っていったF・Fと、厳し目の対比だなぁと思う。

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第31話から引用

 自分が何を信じ、何を裏切って運命に向き合うか。
 選ぶことすら許されぬまま、暴走する殺意と憎悪の塊にされてしまったウェザーとプッチは、闇の深い場所で対峙する。
 ペルラのために死ぬ自由も、真実を思い出す権利も奪われ牢獄に繋がれたウェザーを、何故神父は殺さなかったのか。
 記憶と感情をDISCに封じさえすれば、悲しすぎる因縁に囚われた弟を無力な存在に閉じ込められると、驕っていたのだろうか?
 ウェザーが抱えて当然の怒りと殺意を、自分に引き受けて応じる強さも、やっぱり神父にはなかったのだと僕は思う。
 あるいはウェザーの深層心理が彼に死を禁じたように、頭でわかっていても心が超え得ない一線が、プッチとウェザーの間にはあるのかもしれない。

 記憶を取り戻して、ウェザーは死ぬ気でいる。
 暴走する”ヘビー・ウェザー”を止めるすべはなく、自分が存在している限り異常な殺戮は続く。
 ”ヘビー・ウェザー”が全く理不尽で大層キモい、あまりに唐突なカタツムリ化で他人を殺していく(そのことに、ウェザー自身が耐えられない)のが、彼とペルラを襲った運命をウェザーがどう感じていたのか、表しているようで寂しい。
 世の中には虹から生まれるカタツムリのように、醜悪で不気味で唐突で理解不能なものが溢れていて、それがウェザーの魂を砕き、他人を殺し、自分を殺してくれないのだ。
 そんな絶望が、過去と思い出を取り戻し死人から戻ったウェザーを包んでいる。

 ”ヘビー・ウェザー”を目覚めさせ、神父と自分の死を望む今のウェザーは、では監獄で徐倫たちを助けてくれた優しい男と、別人なのだろうか?
 記憶がDISCとして抜かれていたから……それこそが人間の証なのだと信じる神父に”殺されて”いたから、ウェザーは善良だったのだろうか?
 今回描かれた悲劇と同じく、その解釈は見るものに委ねられていると思うけど、彼はただ忘れて戻ったのだと思う。
 ただ純粋に正義を信じ、春風のような恋に自分の全部を預けていた、16歳のウェス・ブルーマリンに。
 僕らが見てきたウェザーは、神父が自分の責任で果たしてしまった決断によって、人生を最悪に捻くれさせる前の……こういってよければ”本来”の彼だったのではないかと、甘っちょろく信じたいのだ。
 悪魔の虹を撒き散らしながら、そうではない自分になれる可能性をウェザーはずっと秘めていて、徐倫と出会い命がけの激戦に自分を投げ込む中で、もはや失われてしまったはずの正義をなし得た。
 ここまでの物語で描かれた”ウェザー・リポート”こそが、残酷な過去を乗り越えて再生した彼の可能性であり、DISC一つで粉砕される儚い夢であり、それでもなおたしかに残っている、16歳の少年がこう在りたいと願った英雄の形なんだと思う。
 それを完結させるために処刑人としてアナスイを選んだのも、男二人の奇妙な旅が確かに意味のあるもので、奇妙な友情が確かにそこにあった証なのだと、僕は信じたい。
 でもまー、悲しすぎるよな本当に……。

 徐倫マイマイカブリに襲われ、『喰われながら往く』決断を果たす。
 理不尽な傷を全身に浴びても、けして消せない何かが自分の中にあって、それは自分たった一人ではけして保てないと刑務所の中、父に守られた時思い知ったから、自分の決断を自分に引き受ける。
 食い破られる自分、弱い自分こそが望む未来を掴み取るのだと、信じて揺らがない。
 その確信はプッチがDIOと彼の”天国”に向ける狂信と、似て非なるものだ。
 逃避のために『ここではない何処か』を求める心と、正しい行いを完遂するために今ここに、喰われながら往く決意。
 その衝突はまだ、終わりを見せない。
 次回も楽しみです。