イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン:第32話『ヘビー・ウェザー その③』感想

 かくして、嵐は止む。
 三話にわたって続いた、ウェザー・リポートでありウェス・ブルーマリンでありドメニコ・プッチでもある男の物語、その終章である。
 死ぬことでしか止まらない悪魔の虹、それを生み出す消えない傷がグロテスクに荒れ狂った果て、訪れた終わり。
 春の日差しのような恋を壊され、思い出なき凪にて運命と出会い、進みだした先で嵐と吹き荒れて、辿り着いた決着。
 アナスイが述べる弔いのように、それが確かに救いだったのか。
 あらゆる死がそうであるよう(そうであるべきなのに、神父が盲信する天国への道では無価値とされてしまうわけだが)に、その意味を推し量ることはとても難しい。
 とにもかくにも、描かれたものを追いかけていく。

 

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第32話から引用

 蘇った記憶を語り終え、ウェザーは悪魔の虹の下で決着を待つ。
 あまりにも悲惨な記憶で世を恨み、自分を呪い、能力の暴走で人間を止めていく人生を前に奇妙な愉悦を感じる己を、けして止めることは出来ない。
 そんなウェザーが生きる望みは唯一つ、血を分けた双子の兄を殺し呪われた生に決着をつけることであり、その果てには死しかないのだと決意を固めている。
 殺すために生き、死んで終わる。
 その渇ききった決着を保留できたのは、神父がウェザーの記憶を盗み取って”殺した”からであり、名すら奪われた優しい男はただの偽物、もともと立っていた荒野に戻ってきただけ。
 そう考えることは、もちろん可能だ。
 自然と言ってもいいだろう。

 奇妙な能力が飛び交い、理屈を蹴っ飛ばした凄みバトルが説明を置き去りにかっ飛んでいくこの終盤戦、描かれていることの意味は見ているだけだとなかなか噛み砕けない。
 自分もこうしてアニメで見直すことで、”ストーンオーシャン”がどのような物語であったか、幾十年かぶりに掴み直している最中である。
 過去に呪われ死を求めるウェザーは、しかしF・Fの落とし前を激戦に求める。
 それはアナスイとも共有される悲しみと怒りで、プッチを許せない思いはペルラを奪われ世を呪う封じられた過去だけでなく、奇妙な縁で殺人鬼と大量殺戮兵器が出会った監獄の物語にも、たしかに刻まれている。
 神父によって命を与えられたプランクトンは、ただ命が永らえることではなく、徐倫との思い出の中にこそ、それにさよならを告げられる自分にこそ存在の意味を見つけた。
 その生き様に魂が震えたからこそ、ウェザーが呪われた生を続け、最後の戦いに挑む意味に、F・Fの名が加えられる。

 殺して、勝って、死んで、終わる。
 アナスイを執行人として選んだウェザーのプランは、覚悟の末に削り出されたかなり重たいもので、テキトーに自分を終わらせてくれるものを選んだわけではないと思う。
 この男ならば、確かに俺を終わらせてくれる。
 身勝手で狂った殺人鬼に対する奇妙な信頼を受け取って、アナスイは自分の全てである徐倫以外に繋がっている自分を、土壇場で自覚していく。

 もしこの闘いがウェザーの望み通り進んだら、アナスイは彼を終わらせ得たのだろうか?
 徐倫への恋以外に何にも心が震えない、醒めきった人殺しであった自分に思わぬ友情があり、共感があり、それはF・Fの……別の仲間の死で既に目覚めていたのだと自覚してしまったアナスイは、友達をちゃんと殺せたのだろうか?
 結局ウェザーは死んで負けて殺されて終わったのだから、意味のない過程なわけだけど、そんな事を考える。
 徐倫と出会うことで自分を蘇らせた男は、不思議な脱出行を進む中で誰かと響き合い、変わっていける自分を獲得していく(あるいは取り戻していく)
 ピノキオの物語に、確かに感動できた自分は大昔、そこにあったのだ。
 そんな過去を蘇らせたからこそ、ウェザーは惨劇を『ざまぁみろ』と呪う自分も取り戻してしまったわけだが、それでも絡み合った縁は嵐以外の何かを生み出し、魂はその中で再生していく。

 

 そういう歩みとプッチ神父は全く無縁で、二転三転する戦況の中変わることなく傲慢で、卑劣で、変化に対して強く閉ざされている。
 カタツムリに身を潜めての不意打ちは、目的(と彼が思いこんでいるもの)のためには過程などどうでもいいJOJOボスらしい振る舞いであるけども、そういう躊躇いのない停滞、他人を寄せ付けない完成度が、神父を強くしている。
 孤独な強さが本当は弱いのだと、世界と命をかけて証明する闘いはこの先もまだ続くが、命がけでも追いつけないほどに神父の妄執と孤独は強い。
 彼はDIOの息子たちを苦しめていた能力が、どのようなものなのか導きを与え、彼らの人生を変えた。
 彼がDIOに出会い看過されて今ここへ自分を運んでいる、強い引力を別の人に与えうる存在なのだ。
 しかし彼にとって全ての他人は”天国”に至るための犠牲でしかなく、自分のあり方を変えるような特別な存在は死んだ吸血鬼にしか許さない。
 心震わせ、新たに思い出を積み重ねて生きていく道は、神父の前に閉ざされている。

 弟を”救う”ために、悲しみと怒りの記憶を物質化して奪ったところが、神父らしいなと思う。
 自分の人生を決定的に書き換え、殺しでも何でもするドス黒い決意に突き動かした惨劇だけが人間の(つまりは自分の)全てなのだと、思うからこそそれを手に取れる形にする。
 ペルラの思い出を誰も触れ得ない自分の聖域ではなく、手に取れるかたちにまとめなければ前に進めなかった物質主義を、何よりも不確かなものを信じなければ仕事が成り立たない”神父”がやっているのが、なかなか面白い。

 彼は”天国”への計画のためだけに刑務所に努め、教誨師として仕事をしてきた。
 言葉を用いて他人に寄り添い、人生の表通りを真っ直ぐ歩けなくなった辛さを支えてあげれる立場にいたのに、他人を利用するばかりで変え得なかった。
 つながった運命の意味を考え、柔らかな心が求めるままに変わっていける可能性を、自分にも他人にも閉ざす。
 『こういうものだ』という思い込みに生きて、DISCの冷たい感触だけが人間と世界の真実なのだと思い込んで、他人も自分も道具にしていってしまう。
 そういう生き方が避け得ない運命なのか、その食い違いによって生まれた偶然なのか、判断するのは難しい。(だから前回のエピソードは、ナレーションから読者への問いかけが多く含まれていたんだと思う)

 

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第32話から引用

 両足をもぎ取られてなお、吹き出す鮮血すら武器に変えて運命に決着をつけるべく、己を前に進める闘い。
 ウェザー最後の一撃が血で作った”糸”でもって、神父を引き寄せる≒自分の手でヤツをつかむためのものだったことが、糸のスタンド使いを主役とするこの物語らしいな、と思う。
 柔軟に変化し、武器にも保護具にもなれる徐倫の可能性と出会うことで、確かにウェザーには何かが刻まれていた。
 だからこの土壇場、妙に”ストーン・フリー”っぽい一撃が運命の双子をつなぎ合わせ、引き寄せ、殺し合わせるのかなと思う。
 血まみれの闘いは原始的でありながら高度に抽象的にも見えて、なかなか形にならない切なさが血飛沫に滲んでいる感じがする。

 そういう場所にウェザーを運ぶ風も、決着の天秤を最後に揺らす変化も、主人公である徐倫から吹いている。
 激しい嵐の仲お互いに何も見えず、それでも響き合う気配を手繰り寄せて、喰われながら前に進むことを選ぶ。
 白紙のウェザーを変え得た生き様を徐倫は裏切ることが出来ず、その覚悟と凄みが最後の最後、猛烈に事故って決着を呼ぶ。
 神父はヴェルサスを身代わりに処刑し、さっきまで『愛ゆえにお前を殺さなかったんだ』と命乞いしていた弟を、残酷に終わらせる。
 戦いは続く。

 徐倫が駆けつけた時には全ては終わり果てていて、神父の言葉は予兆……あるいは土に刻まれたただの記憶でしかなくなってしまう。
 予兆は『どうであるか』よりも『どう読むか』にこそ意味があるわけだが、今回自分を勝者にした運命の多彩な読解を、神父は許さない。
 自分(とDIO)が見た”天国”だけが全ての救済であり、自分を縛り付ける悲劇を別角度から見直し、書き換える歩み(ウェザーが白紙の記憶の上、徐倫と一緒に戦いながら刻んだ物語のような)は許さない。
 変わらず、受け入れず、自分を決定的に射抜いた確信だけが自分の全てなのだと、絶望することで安心する。
 ここら辺の自足した不変性、それで満足せず他人を害して世界を書き換える凶暴さは、安らぎを求めた殺人鬼である吉良、高みに登って安心したかったディアボロとよく似てて、JOJOの悪党は大概怠惰だな、と思う。
 変われない自分を肯定するべく、他人は殺すわ世界は変えるわ傍迷惑の極みなところが、殺さないと終わらない物語の中心に立つ資格なのだろう。

 予兆の読み直しはいつでも命がけの作業で、徐倫はウェザーが命を絞り出して挑み、なお勝てなかった相手に、己の世界を証明しなければいけない。
 それが語り合いで終わらないことは、刑務所舞台の治安が悪いお話としてこの作品がスタートしたときから、JOJOJOJOである限り定められてるいるのかもしれない。
 闘って、殺し合って、そこに行き着くしかない場所へと己と運命を運んでいく。
 そんな物語からどんな匂いが立ち上っているのか、示す意味でも今回の血みどろバトルは、必要で大切なエピソードだったと思う。
 自分が信じる世界を、運命を、己自身を証明するキャンバスはこういう色をしていて、こんなにも激しくて哀しいのだ。
 それを示すために、ウェザーは死んでいく。
 俺はとても悲しい。

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第32話から引用

 ウェザーは救われていたと、アナスイは言う。
 それはアナスイ自身がウェザーと進む奇妙な度に、その果てに”殺し”を依頼されるような不思議な友情の中に、壊れきった殺人鬼である自分の救いを見いだせたから、出てくる言葉だと思う。
 『そう思いたかっただけ』というのは残酷ながら冷静な言葉で、他人……あるいは死人が何を望んでいたのか真実知ることは出来ないし、誰かが見る真実は常にその願望の反射でしかない。
 それでも、そう思いたいと願えるだけの思い出が、男たちの奇妙な冒険の中にはあって、神父が白紙に奪って終わらせたはずの思い出の上に、確かに新たな絆は積み上げあれていった。
 だから徐倫はそよ風の中でもう一度話がしたいと、涙を流すのだろう。
 ウェザーが悪魔の虹になるしかなかった喪失と、よく似た嵐がなにもかもを薙ぎ払っていった後の荒野に、仲間たちは進みだしていく。
 その歩みこそが、死んで止まることしか出来なかったかわいそうなウェザー(そんな彼が愛したかわいそうなペルラ)の物語を、死してなお先に進める唯一の手段なのだろう。

 ウェザーが神父の能力を盗み、DISCに物質化して託したスタンド能力
 これが全ての決着をつける大きな鍵になることを、すでにこの物語に出会っている(が、このアニメで新たに出会い直している)自分は知っている。
 神父が求める物質主義的な安心を、他人から奪い書き換える暴虐を”力あるヴィジョン”にしたスタンド能力を逆手に取って、形あるからこそ確かに手渡せる希望を、死にゆくウェザーが最後に選んだこと。
 それが無意味ではないのだと、ある種の答えを得ながら物語を見れるのは幸福……であり、不幸もである。

 ここに”ウェザー・リポート”のDISCがあることは、この段階ではただの啓示でしかない。
 そこに意味を見出すのは、ここから展開する激闘の中で誰かが死に、何かを託し、意思が紡ぐ糸が激しく結びあった果てに生まれる物語を見届けた、その瞬間だからだ。
 いま血を吹き出しながら闘い、どうにもならないものにそれでも抗い(あるいは諦めて安心し)、それぞれの生き様を紡いでいく戦士たちの運命。
 それを見届けて『そういう物語だったのだ』と初めて納得する喜びと驚きは、既読者である自分にはもうないと思っていた。

 しかしこのアニメ化が、動かないはずの思い出をたしかに揺り動かし、新たな意味と物語が編まれていく楽しさを僕に教えてくれる。
 こうして今僕が感想を書いている事実それ自体が、神父がウェザーを最初に殺した記憶の簒奪も、二度目に殺した命の略奪も、絶対的な答えなどではない証明なのだと、勝手に思っている。
 ウェザーは死に、DISCと思い出の中に確かに生き続けていく。
 思い出すらも激しい雨の中に消え果てても、それでもなお微かに残るものがある。

 人は出会いの中で変わるし、終わっていたはずのものは動き直す。
 ”ストーン・フリー”が紡ぐ糸はそういう、不確かな可能性にこそ繋がっていて、それを掴み取るための闘いこそが、呪われた男の救いなのだ。
 あるいはこれからの物語が、そうしていくのだ。
 次回も楽しみである。