イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

REVENGER:第10話『Nowhere to Run』感想

 我欲と妄念で取り囲まれた迷宮に、逃げ道なく追い込まれた鼠たち。
 狭まる包囲に誰を噛むか、おそらくは利便事屋最後の日常が終わっていく第10話である。
 嵐の前の静けさ、破滅の気配がひたひたと忍び寄る中血を見ない回であったが、幽烟が白面の下に押し殺している情念やら、雷蔵が新たな名と共に求める明日の形やら、まともな感性残っているからこそ迷う惣ニの狐迷路やら、良く燃えそうな業の薪がたっぷり積み込まれる回でした。
 特に幽烟が良く喋る回で、連絡役として黒幕連中の間を縫ってのらりくらり、のっぴきならない終わりに自分を追い込みながらも、何が許せず掴みたいのか、じわりと滲むようなエピソードでした。
 劉大人が自分の命で付けた火が、いい塩梅に温度を上げてきてる感じするなー……そこに乗り切れてない惣ニの煮えきらなさ含め、さてこの愛しきろくでなし共をどこへ導いていくか……クライマックスがとても楽しみになった。


 

画像は”REVENGER”第9話から引用

 的矢に茶の湯、将棋崩しに丁半博打と、色んなゲームが描かれる今回。
 遊戯を装って情報と情念を交わし合う冒頭、宍戸が用意した”的はずれ”なカバーストーリーを告げている間は、投げ矢は的に当たらない。
 真実に踏み込まずのらりくらりと、その素顔を読みきれなかった怪物の尾っぽを踏まずやり過ごすつもりの漁澤の矢は”中り”とはならず、真実利便事屋であるために真相へ踏み込む覚悟を固めた幽烟の矢は、見事に”的を得”ていく。
 それさえのめりゃ長崎を阿片に沈めて、他人から絞った涙と油でぷかぷか浮かんでいられる嘘っぱちを幽烟は拒み、真なる悪に恨みを噛む生き様を貫くと、色んな因縁のあった悪徳与力に告げていく。
 漁澤も幽烟の人間に惚れていたのか、賢く嵐をやり過ごして自分の下で生きる道を示すが、自分の指先で行き先を決めれる投げ矢を、幽烟はあくまで真ん中に投げ込む。
 漁澤の投げ矢が結局、一度も的に刺さらなかったのとは真逆に、中っちまったら命まで獲られるだろうやばい毒を、まるごと噛み砕く決意は揺るがずに真っ直ぐだ。

 晴らせぬ恨みを背負って返す、銭は無用の利便事屋。
 雷蔵が迷った果てに共鳴し、惣ニが未だに乗りきれず、鳰は最初からどうでも良く、徹破先生は空言とわかりつつだからこそ体重を預ける。
 そんな仕事人の理念を、あるいは銭金に魂売り渡した外法に、あるいは堕落の悦楽に街を捧げる天魔に、踏みつけにされてなお生きるのか、死ぬ気でど真ん中を狙うか。
 思えば劉殺しの大判を手渡されたときから、それが問われる大審問の扉は開いていたのかもしれない。
 幽烟は汚れた信仰者であり続けるために、的の真ん中を狙う。
 生きるか死ぬかは、矢を投げた後の話だ。

 

 

画像は”REVENGER”第10話から引用

 獲るべき外道の素顔を見ようと呼ばれた、茶席の設えはまこと悪趣味。
 阿片で狂って生まれた歪な茶碗を、マスターピースともてはやす歪みを、蒔絵職人・碓氷幽烟は断固拒絶する。
 人間の最も清く美しい魂を信じたいのに、”殺し”という人間最悪の手段でしかそれを果たせない歪みにとらわれて、こんなところまで流れてしまった幽烟にとって、宍戸が当然と垂れ流すバロック趣味は我慢ならないのだろう。
 人間は善なるものと信じ、それを示すために悪をやってきた幽烟にとって、蒔絵仕事は殺し屋を覆うカバーであると同時に、神の御業を形にするファイン・アートでもあった……のかもしれない。
 兎にも角にも、一人間が魂をかけて生み出す物神にド汚ぇ欲望をぶっかけて、歪さこそが正しいとのたまう宍戸の態度は、正しく唾棄すべき悪夢なのだろう。

 新進気鋭の写実絵師・碓心の掛け物に宿る悲嘆こそが、人間の本質と当てこする態度もまた、罪と哀しみに常時向き合い、その果てにある救いを信じ……たい幽烟にとっては、耐え難い雑音。
 人間が壊れる様にしか美を感じられない宍戸と、願わくば端正な美しさが護られて欲しいと金箔を手に取る幽烟は、人間としての生き方と同じくらい、美に関する哲学が相容れないのだろう。
 雷蔵が苦悶の果てに取った絵筆が、幾度も写し取る思い出の中の女。
 その透明な写実主義に芸術家・碓氷幽烟はたしかに感じ入るものがあり、彼が体現する”美”を守りたい気持ちも強い。
 これは武人としての共鳴、思い出の女のために命を張った生き様で雷蔵を動かした劉大人とは、また違った角度の共鳴だ。
 そして宍戸の差し出す悪趣味な茶碗は、そんな美意識を共有し得ない怪物が生きるに任せてたら、長崎がどんな泥に沈むかをよく語っている。

 

 

 

画像は”REVENGER”第10話から引用

 んで、そんな高邁な所に卑近な身の上を寄せきれず、俗世に迷うのが惣ニの生き様で。
 昼は仁術夜は殺生、己の二面性を安定して飲み込めてる徹破が、喜んですする大根汁では腹が膨らまねぇと、尾頭付きの栄達を求めてしまう当たり前の感覚。
 それは幽烟の生き死にを常時気にかけている”マトモさ”と地続きで、かつて虚無感にフラフラセルフネグレクトし続けてた雷蔵を、現世の岸に引っ張ってきたありがたい優しさでもある。
 鳰を追い出すほどに張り詰めた雷蔵のストイシズムとは、遠い濁水が自分の居場所と定めている、悟りきれない俗人の体臭は、その実ずいぶん暖かくて安心する。
 しかし理念に自分の全部を乗せることが出来ねぇバランス感覚が、この土壇場では迷いとなって頭を出して、せっかく身を寄せた暗い隠れ家から少しでも光のあたる方へ、もぞもぞと這い出していく。
 『こういうときこそ一か八かだ!』と無頼を気取る彼が、一番意気地なしに揺れて……つまりは一番正気なのは少しだけ安心して、哀れで不吉な描写だ。
 誰が一番イカれてるか、長崎瘋癲頂上決戦の様相を呈してきたこのクライマックスで、”普通に良い人”なのは死相でしかねーんだよなぁ……。

 

 

 

画像は”REVENGER”第10話から引用

 一方幽烟は再び流れて礼拝堂、噛み跡のない大判を突っ返して、事情知ったる恨みの小判を清国義士から引き受けての、蝋燭明かりが暗中になお暗い教理問答である。
 遠い昔の宗教弾圧を人殺しの理由とぶん回す礼拝堂だが、宍戸を噛むべき相手と詰め寄る幽烟をのらりくらり、何もかんもが神の思召と、胡散臭い南蛮坊主が交わしよる。
 ある時は弱者の恨みを晴らすリベンジこそが神意に叶うと吠え、ある時は長崎の罪を問う阿片禍こそが裁きなのだと嘯く。
 ジェラルド嘉納の弁舌には方便だけがあって、確固たる信念が、神を前にいかなる自分を差し出すかというヴィジョンがない。
 教理として脆弱なんだよなぁ……このおっさんがぶん回すリベンジ理論。

 都合に応じて出したり引っ込めたりする信仰は、真の信仰たり得ない。
 血みどろの殺し屋家業と、背中のマリアにそう刻んだ幽烟としてはそう吠えての決別であろうけども、ではあの金箔殺が正しい信仰、正しい”殺し”なのだろうか?
 人殺しになっちゃった時点で何もかも間違えているのは承知の上で、それでも己を義としてくれる信仰のあり方を求め流れ着いた利便事屋稼業。
 都合よく操られ、権力と利得の濁流に押し流されるだけの小舟だとしても、そこにしがみつく以外、己を神の前に引きずり出せない男。
 そういう人間が上層部との橋渡し、表社会との交渉役をやっていた事自体が、利便事屋の間違い……だったのかもしれない。
 まー残りが覚悟完了の侍、殺戮者と助命者の二枚看板、善悪の彼岸に立つ天使と、根っこがフツーな小市民だから、幽烟がやるしかなかった仕事とも言えるけど。
 どっちにしてもそんな表看板を投げ捨て、自分が信じる”正しい殺し”で長崎が阿片に飲めるのを止める道へと、微かな明かり一つ携えて幽烟は進む。

 

 

 

画像は”REVENGER”第10話から引用

 礼拝所に背を向けた幽烟が向かう先もまた闇の中であり、しかしそこで待つ男は同じ光を共有してくれる。
 画業という生き方、新しい名前、過ちを見つめ続ける姿勢。
 なにもかもを授けてくれた男の選んだ道は、己が進む道でもあると、手入れを施す刃には柄糸が巻かれていく。
 正式な切腹の作法としては不要で、第1話で何もかもを終わらせて武士として死のうとした時、雷蔵の手に握られていた脇差しには、なかったモノだ。
 『潔く腹を切る』という終わりを、愛した女の屍で決定的に奪われてしまった雷蔵が流れ着いた、思い出の中伏せられた哀しみを絵筆に宿し、写実し続ける生き方。
 その先にあるものをこの刃で切り裂いた後、もしかしたら死美人が笑うかもしれないと、雷蔵はつぶやく。

 これなぁ……難しいなぁ……。
 宍戸のゴミをたたっ斬り、長崎を”正しい殺し”で救った後、斬人の咎を利便事屋が許されてお天道様のもとを闊歩するエンドって、このお話のシニカルな空気感だとメチャクチャ想像しにくいんだよな。
 むしろ罪を背負ったまま”碓心”として新生する微かな希望が、殺しの重たさに無惨に叩き壊されてこそ、お話を貫通する筋金が通る感じはある。
 その上で過去と未来、女と男、死と生どちらが空っぽの男をを引き寄せていくかという勝負の決着を、”唯”と”碓氷”両方を偏倚した名前を今生唯一の希望にしてる男の生き場死に場にあずけて描き切るのは、なかなかいいキャンバスだと思う。
 喉を突いた死に様しか思い浮かばなかった雷蔵が、絵筆を杖に思い出に彷徨い、後ろめたさと哀しみを写実するこの現状から、更に進み出て面影が笑うか。
 その全てに寄り添ってきた幽烟が、己の信仰と罪を雷蔵に重ね合わせながら進む死地の先に、どういう決着を見るのか。
 灯芯とともに、男たちの未来も闇の中かすかに揺れ続けている。

 

 

 

 

画像は”REVENGER”第10話から引用

 んで。
 士道と信仰のためなら死ねる強火のクレイジーを横目に、無頼漢気取りの常識人はたいそう迷うのであった。
 遍路の貞が利便事屋の矜持を、宍戸が銭金に思いを乗せる浮世の哀しみを踏みつけにしたように、礼拝所の尼さんは女壺振りに狐巫女、大江戸コスプレ大会に勤しみながら””ギャンブル”を踏みつけにしてくる。
 人生乗せて一天地六、向こう見ずに偶然に命を賭けてきたはずの自分の活き方を、踏みつけにするように”勝たされ”て示された、磁石じかけの面白くもねぇ絡繰り。
 鉄火場に運気を図り、種銭欠ければ殺しで稼ぐ、御意見無用の亡八者。
 そういうセルフイメージで生きてきただろう惣ニの、穀潰しらしからぬ人情を逆手に取る形で、女は間者の真似事こそが生きる道だと囁いてくる。

 懐を探って中り札を引き寄せるいつもの仕草を、嘲るように”桐に鳳凰”見せつける振る舞いにも透けているが、偶然が持っている公平さも、アウトローの風通しの良さもお前らにはないのだと、尼さんの態度は告げている。
 法が裁けぬこの世の悪を、晴らしてみせよう仕事人。
 人殺しだからこそ軽やかに、人間を縛るしがらみを叩き切って”正しい殺し”が出来る特権に、かなりシニカルな視線を向けているこのアニメは、出口なく状況が煮立っているからこそ自分を無敵のギャンブラーだと思いたくて、鉄火場に足を運んだ惣ニを容赦なく踏む。

 お前が身を寄せていた”偶然”への信仰も、また裏があって都合よく操作されている。
 そう告げられて、荒れた生活の穴埋めに選んだ利便事屋稼業が、そもそもありえないほどろくでもなかった事実から目を背けてきた青年は、今更ながら迷う。
 このまま死地に流されて終わっていくか、賢く犬に落ちて生き延びるか。
 賽の目をどこに投げ込むか、エイヤの度胸がないところが、惣ニらしくて可愛く……哀しい。
 この局面で次回のサブタイが”賽は投げられた”なの、”Die”という響きが持ってるあんまりにも陰惨で示唆的な響きと合わせて、なかなかに絶妙だなぁ、と思う。
 このまま胴元がインチキ賽子握り込んでる仕掛けに踊るか、それとも自分だけの勝負をしに懐を探るか。
 賭け金は、もちろん命と誇りしかない。

 

 というわけで、最終決戦を前にいろんな関係や感情を整地し、あるいは乱していく回でした。
 前髪ぱっつんカンフーマシーンに出番取られがちだった幽烟が、ここでぐぐっと身を乗り出し己の信条を色んな男にこすりつけ、ドラマを発火させてきたのがいい感じだ。
 空っぽな男の終わった物語に、勝手に殺しの相方を押し付けて共に見据える死地は、闇の中の灯火に似ている。
 それを導きと信じられぬマトモさが惣ニを悩ませる中で、否応なく運命の賽子は投げ込まれていく。
 男たちのルビコンは、長崎に降り注ぐ血で染まっていく。
 次回も大変楽しみです。