イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン:第35話『C-MOON その②』感想

 迫りくる運命の瞬間、激闘の果て……ッ! VSC-MOON第二話、ストーンオーシャン・クライマックスである。
 今まで散々モダンホラーな演出に苦しめられてきた徐倫が、正体不明な怪物として神父を悩ませる前半戦から、お互いが”機”を待ち奪い合う後半戦、そして運命が神父に味方してたどり着く終極と、バトルまみれの回となった。
 べらべら長尺で喋ってる割には神父の思考回路は分かりにくく、何を確信し何処に進んでいくのかこの段階でも開陳しないもったいぶりっぷりもあって、この闘いが何を奪い合い目指しているのか、視聴者も俯瞰で捉えにくい感じがある。
 奇想天外な異常状況が、剥き出しのままズドンと出てきてスルッと終わっていく六部テイストも物語の進行に合わせて加速し、正直良くわかんないまま状況が転がっている手応え……なんだが、”C-MOON”の覚醒に合わせてさらに加速していくからなぁ……。
 アニメは最大限解りやすく書いてると思うが、ここら辺の難解さはもう話の骨格に組み込まれている部分なので、自分なり噛み砕いて咀嚼可能な部分から、噛みついていくしかない感じがある。
 そういう納得バトル第二ラウンドとして、このアニメ化を楽しませてもらっている側面は大きいよなぁ……。

 

 

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第35話から引用

 正体不明な共鳴で、相手の生存は感じられてもその実態は確かめられない状況で、神父は無明の闇を歩いて行く。
 必殺のはずの”C-MOON”をどう乗り越えたのか、神父は自分の能力のはずなのにその弱点を把握しておらず、自分の目で確かめずにはいられない。
 好奇心。
 人間のポジティブな資質として描かれがちなそれは、自分を危機に追い込む命取り、不定形の恐怖の源泉として描かれ、巻き込まれてしまった怪奇な状況をホラーテイスト全開で演出していく。
 ”糸”という特性を最大限に活かし、自分の中に∞(無限大)を描いたことで、徐倫は”C-MOON”の特性を乗り越えていく。
 『そんな事はできるはずがない』という思い込みは神父の限界であり、糸のように柔軟で靭やかな徐倫の発想力が、それを上回る時、彼女は怪物に……人間を追い詰める側になっていく。
 散々顔の見えない黒幕と、奴が操る刺客相手にモダンホラー・バトルしてきたお話が、ここで主客を入れ替えるのはなかなか面白かった。

 神父は徐倫が死ねば仲間の心が折れ、スタンドが弱体化して勝てると踏む。
 それは自分自身、ペルラの死を受け入れられず他人の犠牲を気にしない邪悪へと、ネジ曲がらずにいられなかった現実が敷衍されている。
 『人間はそういう悲しみに耐えられず、邪悪な引力に負けて墜ちていくものなのだ』という(神父なりの)真理を、個人的体験ではなく絶対的事実として受け止め、それにも基づいて行動する。
 想像力のなさ、独善こそがプッチの根本にあって、だからこそ重力は彼を中心に発現しているのだろう。
 世界の真ん中に自分がいるのだと、他人はあくまで周囲を漂う脇役なのだと、信じて疑えない猛烈なエゴ……と、それだけで自分を支えられない、信じきれない脆さの同居。
 彼がDIOの信徒として、失われた暗黒の太陽を求め上回るように自分の体を引きずっていくのも、真実孤独に世界に立つことが出来ない脆さの裏返しな気がする。
 そういうちっぽけな””人間らしさ”が、超常的な暴力とか世界を書き換えてしまえる圧倒と出会ってしまった時、何が生まれるのか。
 このイカレきったケープ・カナベラルは、そんな問いへの答えでもあるだろう。

 

画像は”ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン”第35話から引用

 ようやく、謎めいた陰謀の主は手が届き血が流れる”人間になった”……と言いたい所だが、ここからが神父のしぶとい所で。
 無敵のスタープラチナも降臨し、正義の戦士で囲んでフルボッコだ! と思ってたら、偶然と運命が軒並み味方して、なんか自分でほざいてたルール無視して良い感じの”位置”にINNしてゲーミング神父になった。
 ホントなんなんだよお前……。

 死体を容赦なくトラップに使う残虐さを遺しつつ、アナスイエンポリオに手を貸して一歩出遅れる。
 徐倫を助けるために神父を殺すより、目の前に落ちて来た仲間の命を拾うことを優先したのだ。
 こういう変化がサラッと書かれている所が結構好きなんだが、神父は激戦を経ても変わらず(変われず)、勝利が落ちてくるのを待つ。
 徐倫が持ち前の熱血で死力を尽くした決着を望むのに対し、ウロウロ歩き回って死体が拳銃を連れてくるのを待ち、必勝のチャンスを盗み取る。
 その戦術は承太郎が間に合うのを許してしまい、オラァッ! と一発食らう……のを逆に利して、不自由なフレームにハマって神父は宙へと浮いていく。
 彼が”試練”と呼ぶ、自分の邪悪さをせき止める強敵たちに神父はまったく敬意を抱いていないが、まるでジャンプのライバルキャラのように徐倫たちの奮戦は神父を新たな高みへと押し出し、彼個人の創造力を越えた可能性を開花させていく。

 『結果オーライのラッキーばっかりじゃねぇか! ラスボスとして恥ずかしくねぇのか!』と思ったりもするが、まぁ吉良も結果オーライラッキーボーイな自分を客観的に見れねーバカだったしな……。
 『主役を主役として成り立たせる存在の質量が、運命的引力を生んで仲間との絆とか、過酷な現実を乗り越える力とかを生み出すのならば、それに釣り合う強敵もまた運命に愛され、偶然を味方につけて高みへ上がっていくはずだ』という、物語的補正への思索が荒木先生に、あるのかないのか。
 そこら辺は計り知れないけども、確かに承太郎の一撃はスポッといい”位置”に神父をハメて、彼は”C-MOON”の新たな、そして正しい力の使い方に目覚め、絶対的運命だったはずの覚醒への時間を圧縮しだす。
 『さんざん意味深に押し出されてきた新月へのカウントダウン、一体何だったんだよ~~~』と言いたくもなるが、しょうがねーだろ”位置”が来ちまったんだからッ!

 主人公サイドが数で取り囲んでも、小憎らしいラッキーボーイは動力のないスペースシャトルを不気味に空に浮かび上がらせて、狂った太陽のように光り輝いていく。
 孤独であることは神父を追い詰めず、むしろあらゆる存在を道具扱いできる冷たさが、彼の翼となって自由を連れてくる。
 そんな彼が、宿命の敵を相手取ることでしか自分の新たな可能性、思いもしなかった出会いに向き合うことが出来ないのは納得だし、それに自覚的なのが全く腹がたつ所だ。

 例えば血を分けた兄弟であるウェザーとだって、血みどろの殺し合いに追い込まれる以前に腹割って話し合うとか、お互いの幸せを大きくしていくとか、人間なら当然出来ただろう。
 だが神父は得体の知れない人種差別主義者に金を渡し、『一発カマせば上手くいくだろう』と思い込んで、最悪の結果を引き寄せた。
 DIOの息子たちだって(行く先が善にしろ悪にしろ)より高みへ導けたはずなのに、侮蔑が付き合いのベースにあるから関係はギクシャクして、使い捨てのままで終わる。
 そういう、孤高……というにはあんまりに情けなくしょぼくれた孤独が神父には常につきまとって、しかもそれは未だ致命打にならない。
 宿敵DIOの念願を引き継ぎ、犠牲を気にすることもなく妄念に邁進する、絶対に止めなければいけない巨大な邪悪。
 その存在感に引き寄せられる強敵を、スイングバイで加速していくロケットのように便利に利用して、神父は新たな高みへと勝手に登っていく。
 ”強敵(とも)”との闘いが主人公を成長させていくという、ジャンプイズムを最悪の方向に捻ったキャラ……とも言えるか。

 この世の理不尽を神の与えた試練と受け止め、過酷な状況でも”人間”で居続ける助けにする、信仰の本道。
 この期に及んで神父服を脱がず、祈りの言葉を己への祝福と捻じ曲げて使う傲慢を、正してくれる相手はいない。
 つーか殴りつける正義の鉄拳を、自分に都合の良い後押しだと本気で思い込んで、実際高いとこまでぶっ飛ぶ捻くれ方が、神父の厄介さを補強してもいる。
 徐倫は裏も表もないメビウスの輪に自分を変えたけども、神父は何もかもを裏に捻じ曲げてしまうドス黒いブラックホールなのだなと、よく分かる攻防だ。

 

 かくして”試練”を乗り越え、神父は世界を道連れに孤独な高みへと登っていく。
 主役は果たしてそれに追いつけるのか。
 ストーンオーシャン最終局面、次回も大変楽しみです。