イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:ボク達の生存逃走

 一切”抜き”のない教育虐待の現場に巻き込まれたダチのために、何も持ってねぇガキに何が出来るか、等身大のもがきが続くニーゴの闘争記録である。
 他ユニットがプロデビューだ新しい居場所だ売れてきての進路変更だ、色々ありつつ社会とコネクトする中で、ニーゴは狭く細く深い場所へと延々潜っていく。
 この暗さと小ささこそがこのユニットの独自性であり、青春を描く物語に必要な陰影を担当するモノトーンの仕事なのかな、と思ったりもするが。
 夢を叶えた先にもまだ難しさがあり、学生の立場で自分たちなり”仕事”を見つけてある程度以上の社会的成功、経済的自立を果たす、スーパー高校生たちの飛躍。
 その高みを描くのも大事だし、経済と教育に長い影を伸ばす”家”なるものの重苦しさに、何も出来ない自分たちの無力に、延々苦しみながら取っ組み合い続ける等身大の小ささも、同じく大事なのだと思う。

 ”イミシブルディスコード”でその顔を描かれたまふゆの母は、娘の可能性と自由意志を認めない息苦しさを更に強め、生々しくイヤな行動をガンガンに加速させていく。
 楽器は捨てるPCは壊す、自分の信じる輝かしい未来のために善意でクソを撒き散らしてくるその姿は、ある程度戯画化されているけども普遍的な”親”の顔でもあると思う。
 年齢重ねれば無条件で、優しく強い人間になれるかと問われれば勿論そんなことはなく、むしろ自分が無謬の神様だと思いこめばこそ、他人を縛り付け死地に追いやって気づかない。
 すくすくと育てばこそ愛おしい我が子が、育ったればこそ自分だけの夢と喜びを手に入れている事実を認めず、延々と胎の内に閉じ込めたまま、善意で窒息死させていく。
 そういう事は、最悪ながら山ほど世間にあるわけだ。

 そういう身近な怪物に向き合うニーゴたちも、等身大の惨めさと悩みに身悶えしつつなんとか、奇跡のように真夜中出会えたダチのために何が出来るのか、必死に考え手を差し伸べ続ける。
 ハタから見てりゃとても立派に生きて、色んな人に幸せを届けているのに、瑞希の自己評価が極端に低く、秘密という重荷に押しつぶされそうな様が、今回は(今回も)どっしりと彫り込まれる。
 それは絵空事の魔法があんま有効に機能せず、延々足踏みをしながらちょっとずつ前に進んで、でもそれは錯覚でしかなくて、何も出来てない自分を思い知らされて、それでもなお微かな光を掴んで届けれる場所へ、必死にしがみつく。
 その泥臭い足取りが、やっぱり健気で必死で切実で、見ていて毎回切なくなる。

 瑞希はまふゆが自分とは違う存在であり、違う苦しさに追い込まれていて、それに自分ができることはほとんどなくて、それでもなお大好きだから手を差し伸べたいと、的確に状況を見据えている。
 この姿勢はへその緒切りきれてないまふゆ母と真逆で、他人を他人として自分と切り離し、その切断に痛覚を刺激されつつも、それを呑んで共感を諦めない生き方だ。
 まふゆ母があそこまで娘の自由意志を殺し、自分の意のままに動く人形として扱っているのは、自分の延長線上にある自分の一部として、身内であり他人でもある存在と癒着していたいからだ。
 そうやって、肥大化した自我を誰かに預ける/取り込むことで、分断の荒野に一人立つ寂しさと尊厳から逃げ続けることも、最悪ながら良くある話だ。
 それで人間一人潰して良いわけねーのは絵名の言うとおりなので、どうにか生き延びるべく方策は練らなければ、ならないのだけども。

 

 『全部ぶっ壊しちゃえよ』とニゴルカは囁くけども、なんだかんだ愛を知るニーゴの面々は受け入れがたい真実をまふゆに叩きつけるのは、最終手段だと二の足を踏む。
 既に一回、死にたい消えたい以外ない所までダチが追い込まれた姿を見ている以上、母の愛を不器用に信じることでなんとか自分を保っているまふゆの、人格支える柱を奪うと流石にヤバいことは、肌でビリビリ感じているのだと思う。
 だが『あなたのためなのよ?』とラベルはられた毒薬で、じわじわ中毒死まで追い込まれているまふゆの現状は、かなり待ったなしであることも解っている。
 そして”家”の堅牢な壁を乗り越えて、ウケてはいるもののビジネスになるほど社会と繋がれてもいないニーゴが、朝比奈家の事情に首を突っ込む難しさも。
 ここら辺の学生感覚を維持するべく、他ユニットがサクセスの階段を上がる中、ニーゴは社会的影響力を抑えめに話し転がしてきたのかな、という感じはあるね。
 大人と同じレベルで稼いでコネ作って経験積んで……って話になってたら、高校生なら当然の生苦しさから乖離した解決策を、選ばないのが不自然にもなるし。

 打てる手が少ない中、瑞希は大変生真面目に自分に悩み、まふゆを思い、ルカの一言を起爆剤に個人的体験を伝える決断をする。
 そこでためらうのは、自分と他人の境目を的確に引けていて、自分が選べた生存逃走が必ずしも、まふゆに適応できない可能性をしっかり考えているからだ。
 自分の場合は世界に殺されないためのアジールとして”家”が機能したけど、その”家”にこそまふゆは殺されかけているのだし、優等生な彼女は不登校という緊急回避を選ぶことも許されていない。
 立場も環境も人格も違う中で、一体自分に何が言えるのか。
 そこに苦悩するのは、(まふゆ母と違って)自分が自分であること、あなたがあなたであることの意味を、真摯に捉えているからだ。

 それはマイノリティとして、大多数の人はあまり悩まない”普通”に窒息死しかけた経験あればこそ、可能な態度かもしれない。
 痛みを知るものが必ずしも優しくなれるとは限らないけども、瑞希とニーゴの子たち(あるいは、プロセカの愛子みんな)は自分だけの痛みをまっすぐ引き受けた上で、他人に手渡せる形に整えて、リボンを掛けて手渡す術を、必死に考える。
 そんな人間が人間になっていく苦労に、セカイの住人たちが大きな助けになっているのが、VOCALOIDの物語として、現代の妖精譚として、僕の好きなところだ。

 

 瑞希は生きるために逃げる選択肢を、青春のサバイバーとしてまふゆに手渡す。
 後に仲間たちと述懐するように、そのプレゼントをどう使うかはまふゆ次第で、その独立性はしかし、自分がなんとか自分の体験から絞り出せる思いを、他人に手渡すのを躊躇う理由にはならない。
 全然解り会えない他人だからこそニーゴの四人は出会って、お互いが好きで、バラバラなままそれぞれの幸せと重荷を、ちょっとずつ分け合える距離感を紡いできた。
 そこには、『あなたがあなたであるだけで、あなたを愛しうる』という、不定形で宛名のない優しさが、分厚く横たわっている。
 ここも、愛情を人質に娘を思うまま操ろうとしている、まふゆ母と真逆なところだと思う。
 あの人ホント、本来見返りを持たず値札がつかない愛の現場に、手前勝手な経済原則持ち込んで我が子の魂ヤスリがけするの、やめたほうが良いと思うわなぁ……。

 瑞希が本当に苦しい時、お姉さんが差し出してくれたリボン結びのプレゼントが、どれだけ瑞希を救ったかは”そしていま、リボンを結んで”で描かれていたけども。
 その思い出を真摯に見つめて、ルカの後押しを受けながら今瑞希が、大事なものを手渡す側になれたのは、まふゆ母が体現している冷酷なエゴイズムと、そこに施された愛情の化粧だけが世の中の全てではないのだと、信じられる小さな、大事な手がかりだと思う。
 心の奥底から絞り出したものが誰かに届き、生きるか死ぬかの瀬戸際で命綱になってくれることが確かにあるのだし、それは窮地を乗り越えた後今まさに奈落に落ちかけている誰かに、再び投げかけられる。
 救われる側に立っていたものが、救う側になることが確かにあるのだ。

 それはこの冷たすぎる嵐のなかを、まふゆがなんとか生き延びた後いつか、彼女も誰かに命綱を投げれる存在に、なれるかもしれないという希望でもある。
 僕はあの子がそういう所まで、逃げ延び生き延びる姿を見届けたい。
 ニーゴの次の物語も、とても楽しみだ。