イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルマスターシンデレラガールズ U-149:第4話『羽が折れているのに飛んでいくもの、なに?』感想

 アイドルマスターシンデレラガールズU-149、櫻井桃華メインの第4話である。
 前置きふっ飛ばして本題……の前に、第3話以降お話に向き合っていくためには結構見る側の姿勢を変えなければいけないと思い、そこら辺を書いておく。

 

そういう怖さこそ芸事の必需品なのだと、一か八かのギャンブル抜きで成功できる甘い場所ではないと、シビアに冷たく掘り下げていく話では無いんだと思う

アイドルマスターシンデレラガールズ U-149:第3話『海に沈んでもぬれないもの、なに?』感想 - イマワノキワ

 

 と前回書いたけども、ここら辺の認識は改める必要があるかもしれない。
 露悪に子どもを巻き込むお話……とまではいかないが、理想の大人には程遠いドス黒さ、情けなさに包囲された状態で、子どもの悪い部分と大人の悪い部分を繋ぎ合わせたような現状のプロデューサーが、防波堤にもなりきれないまま子供の可能性に体半分以上預けて、どうにか経験を積ませてもらうお話。
 『子どもと一緒に、大人も成長していく』というヌルい(あるいは理想を投影した)方向性ではなく、かなり手びねりで生っぽいヤバさをプロデューサーが背負い、U-149の子たちがそれに翻弄され、傷つき、しかし持ち前の才で乗り越えていくお話。
 そういう、かなり影と苦味の濃い物語が展開されていく……気はする。

 この構図だと子ども達は自分の未熟さと向き合うより、プロデューサーを筆頭とした大人たちの情けなさ、あるいは自分たちを一人間として扱わない不誠実を飲み込み、未熟なクズたちを許容してなお未来に進んでいく、完成度の高い女神として作品を泳ぐことになる。
 アニメでしか彼女たちと触れ合わない僕にとって、それはあまりに苛烈で少女たちの(無垢と可能性をたっぷり含んでいるはずの)未熟さに触れず、『小さな大人』として物わかり良く、正しく、既に完成された存在として描く筆に思える。
 そればっかりが少女たちの全てではないが、ここまでのエピソード仁奈ちゃん以外はプロデューサーが己の不手際を謝る側であり、起きてしまった起きてはいけないことから成長を学び取るのは、アイドルの独力だ。
 その独立独歩が、大人なるものへの不信と不在に裏打ちされているように感じて、かなり寂しくはある。
 子どもなるものを子どもそれ自体として描くのではなく、『いずれ大人になっていく、大人が取りこぼしてしまったものを持っている存在』とだけ描くのは、大人だからこその強さや善さが作品内にほぼ見えない語り口と合わせると、あまりにも狭い視座だと感じる。


 これが年単位で全霊を注ぎ込んでアイドルに向き合い、その物語的蓄積を自分の体内に取り込んだデレマスファンにとって納得できる描き方なのかは、そうではない僕には分かり得ない。
 白紙の子どもがプロデューサーの頼りがいに支えられ、ちょっとずつ自分を見つけていく話にすると、ファンサイドに蓄積された物語を裏切る余計ごとにもなりかねない。
 そういう憶測を拡げつつも、僕はその莫大な背景を共有しておらず、偉大なるアイドルマスターとしてどこかで確かに何かを成し遂げただろう彼女たちのアイドル性は、僕には文脈として機能しない。
 それは単一のアニメとして世に出されてしまったU-149にとって、あくまで付随的背景でしかないと僕は思うけど、デレマス・アイマス全体の構図を見ればむしろ主因なのかもしれず、『お前はマニアじゃないし客でもない』と横っ面を堂々張り飛ばす商売をするわけもない(そうしてくれたほうが、踏ん切りがついて楽ではある)以上、アニメだけを足場にする僕の立ち位置はかなり宙ぶらりんだ。
 下手に推察しても的はずれな所を突っ走っていくので、自分に見えている範囲……つまりはアニメの中のU-149だけを判断材料に、このお話とは向き合っていくことにするけど。

 

 このお話において大人は子どもを下に見て、子どもは大人を諦めている。
 父母への敬慕と寂しさが奇妙に捻じれて、主人公格である橘ありすは自分を大人っぽくすること、あるいは他人に大人を期待することに、相当ひねくれたスタンスを抱え込んでいる。
 これは大人らしくも子供っぽくもなれない(あるいは、その悪い部分だけを引き受けている)プロデューサーを厳しくジャッジする、子ども代表の視線として常時、作品に配置された目だ。
 期待し、裏切られ、自己防衛としての諦観を他人に投げつけつつも未だなにか、大人であることと子どもであることに輝きを探っている視線。
 橘ありすの背伸びに手を添えるなり、目指すべき未来の具現として百点の回答を返すなり、作中の大人は(いつか)しなければならないけども、両親も仕事で触れ合う人も、震えながらぎこちなく保護者を演じているプロデューサーも、現状それには応えられていない。

 これは最終盤、ありすの個別回が来た時に炸裂する爆弾だろうし、他の子達の物語に寄り添う中でじっくりと埋め込み、作品を貫通する意地の悪い視線として、メインテーマを穿ち続けるだろう。
 つまりは観察者であり審査者である彼女を通じて、大人のあるべき姿を示せない大人たち……その陰りと対比する形で、ちったぁマシな、あるいはマシになりうる大人候補としてプロデューサーが描かれ続ける、ということだ。
 未熟こそが成長のキャンバスであり、失敗の中にしか変化が描けないのが物語なのだとしても、このお話が切り取るアイドルたちの外装は大変気合の入った仕草作画に支えられて、幼く見える。
 その内側にある心は才能の萌芽を宿して(大人たちが成し遂げられない)正しさや輝きを強く放つけども、子どもの脆さと弱さを当然持っている。
 そういく季節を自分も生き延びて、柔軟さを失い頑なに成長した心身を防波堤にして、ろくでもない世界の荒波から柔らかな感性を守る。
 それを大人第一の仕事だと考えて見ている立場にとって、大人なるものへの失望が作品の根底と前提にあると感じられるのは、なかなか難しい。

 

 しかし僕の思う”べき”は横において、U-149は”そう”であるのだから、そこを足場にお話と取っ組み合ったほうが建設的だろう。
 橘さんが厳しく睨みつける中、プロデューサーは巨大な芸能産業との孤軍奮闘を強いられ、大人の都合を押し付けられる子ども達の防波堤たり得ず、未熟なままかすかに差し出した手助けをアイドルたちに拾ってもらって、彼女たちが前に進む手助けをする。
 その過程でなにか成長を果たし、大人になってなお子どもらが子どもらしく、あるいは自分らしく羽ばたける足場づくりを、大人に相応しく成し遂げるかもしれない。
 あるいは世の中そんなに甘くはなく、成長は予兆で終わり、苦境に学びもなく変化もなく、半端な大人であり未熟な子どもでもあるキメラとして、作中に立ちすくむかもしれない。
 どういう方向性も有り得る話なのだと、僕は感想と視聴をいったん止めてハラを作り直した。

 そうしなければ筆が動き直さないということは、無邪気に『こうあってほしい、こうあるべき』と願っていたヴィジョンを作品に裏切られ(てのも、ナイーブに過ぎる言葉だけど)、なお見ようと思ったからだろう。
 子どもが子どもであるからこそ生まれる可能性を、善き子供らしさを残した善き大人が守り、導く。
 そういうヌルい話を、結局見たかったのだろう。

 だが、その期待はそのままの形では描かれず、しかしこのまま話を転がした結果、新たに削り出される独自の面白さ……になるかもしれない。
 既に世界を支える基底として、あるべき大人と子ども、その相互の関係性を前提に敷くのではなく、最悪のところから始め一歩一歩もがき探りながら、辿り着いた果てにある、この作品なりのメッセージ。
 それを自分なり見据え、噛み砕き、取っ組み合っていく視聴体験になるだろう。
 それはそれで、まぁまぁ楽しいんじゃないかと思う。
 思うことに決めたのだ。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第4話より引用

 さて、櫻井桃華の話である。
 櫻井グループのご令嬢として立場を忖度されつつ、やっすい高飛車お嬢様キャラを求められ、クイズの答え(=バンジーを飛ぶか否かの選択権)も既に台本に決めつけられているアイドルの現場へと、少女は微笑みながら漕ぎ出していく。
 第3話で想定外のハプニングに動揺しつつ、才と決意でインターネットのヤバさを飲み込んでチャンスに変えたみりあちゃんのように、櫻井さんもまた”凄い”。
 それは大人たちが怠惰に考える『子供らしさ』を、勝手なイメージを貼り付けても反撃してこない御しやすさを、『しょーがねーなー大人共は……』と飲み込んで、その至らなさを許してあげる態度だ。
 それを”バブみ”と表現する感覚は、流石に僕にもない。
 見逃される大人にとっても、許す子どもにとっても、かなり悲しいことだと思う

 暑い真夏に紅茶を差し出され、本当は濁りのない天然水を飲み干したいのに、誰かが求める虚像を演じることこそ”アイドル”なのだと思い込んで仕事に励む。
 桃華が持つ(みりあちゃんも持ってた)この俯瞰的な視座……年不相応な”大人っぽさ”とか、愛の証明を己のミッションとする気高さがどこから来るのか、エピソードは説明をしない。(分厚いデレマス文脈の中ではもはや当然で、描写も説明もいらないポイントなのかもしれない)
 とにもかくにも彼女は”そう”なのであって、そのナチュラルな(それこそ天然水のような)在り方をカメラの前で世間に叩きつけることで、第3芸能課の未来は拓けていく。

 その過程で彼女が相当に汗をかき、貪るように潤いを求める身体を持っている事実をちゃんと書いているのは、U-149の良いところだと思う。
 バンジージャンプという根源的な恐怖に向き合う見世物を選んだり、そこから見える新たな景色がいかなるものか、追体験に尺と作画コストを結構使っていたり、アイドルたちの眼の前に立ち現れる”生の今”に身体性を込めて切り取ろうとしているのは、結構独自の視座だし琴線にも触れる。
 このフィジカルな手触りこそが、あるべき理想が自分にも他人にも、子どもにも大人にも体現されないイヤーな世界のなかでほぼ唯一、実感のある真実なのだとしたら。
 自分だけが感じるこの手触り、喉を降りていく水への乾きに向き合うことで、櫻井桃華と仲間たちの未来は切り開かれる。
 そこを足場にしさえすれば、ガキだとナメて甘えた支配を押し付けてくるクソみたいな世間にも、それを前に震えてなお成し遂げたい何かがある自分にも、立ち向かっていくことが出来る。
 ……その独立した完結性に、善き大人であることを期待され、またそうでなければならないプロデューサーは、どう自分を食い込ませるのか。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第4話より引用

 このエピソードは、超具体的に『プロデューサー自身も飛ぶ』という形で、彼に存在意義を(かなりギリギリのラインで)与える。
 イヤーなディレクターが媚びつつ舐めて押し付けてくる仕事の暴力を、せき止めるどころか苦笑いしながら追従し、櫻井グループによるスポンサードを筆頭とした大人の都合に抗えない/抗わない情けなさ。
 これがプロデューサーを自壊させるギリギリのところで、カメラに切り取られているあるべき自分と今震えている身体の狭間で苦しむ桃華の素顔を見て、彼は撮影を止め同じ立場に落ちる。
 体を張って子どもと同じ立場になることで、最初は空言でしかなかった『あなたらしく』には体温が宿って、桃華が求められる以上の答えを、自分らしくありながら世間にも求められるアイドルとしてのイメージを、カメラ越しに世界に突き刺す助けになっていく。
 体験も実感もない、身体性に欠けた言葉がバンジー体験を通じて、体温ある真実としてアイドルに受け取られ直す過程は、このお話のフィジカルな手触りと同時に、『大人なるものはそういう手触りを有さず、我々に手渡さない』という諦観が分厚いことを、裏打ちしているように思う。

 アイドルとしてのミッションを愛の伝導に定め、それに相応しい気高い勇気と可憐な可愛さを有した、推すしかない”櫻井桃華”を、彼女は強烈に演じきる。
 それは第3話のみりあちゃんと同じく、基本的にはセルフプロデースであり、同時に情けない大人、子ども達が土壇場で発露させる善き子供らしさを失った元子供であり続けるプロデューサーが、ギリギリ限界で差し出した手助けで成し遂げられている。
 子どもが先導し、大人が後を追う。
 この捻じれた構図こそが現状のU-149であって、プロデューサーはこれを決定的に焼け付ける謝罪を大人びて優しい桃華に先回りされる形で封じられ、ギリギリ『大人が守って子どもが頼る』という世間の構図が保たれる。
 つまり、諦められ憐れまれているのだ。

 

 ここではない何処かで、プロデューサーに言われるでもなく自分がなすべきことを見つけていた桃華は、彼の助けでバンジーに踏み出し、逆さまに揺れる世界を通じてあるべき自分を確信する。
 それは大人に護られなければ踏み出せなかった視界かもしれないが、同時に莫大な時間と文脈の中練磨された”櫻井桃華”が(明らかにアニメに描かれた範疇の外側で)手に入れたものが、新たに掴み直された結果ではないのか。
 そういう推察を僕は勝手に、説明不足ともまた違う、奇妙にスキップする人物描写から受け取る。
 プロデューサーは櫻井桃華(あるいは、赤城みりあ)がどんなアイドルか、思い出させる手助けはしても、どんなアイドルであるか指し示す事はできていない。
 プロデュースをしていないのだ。

 この状況を何処かで猛烈にひっくり返さない限り、U-149というお話は『大人っぽい子どもが、情けない大人を導く』という構図から抜け出せないと僕は思う。
 ……あるいは世間一般に流布したこの”べき”をヒネるところにこそ、このアニメの特異性があるのかもしれないけど。
 しかしまぁ、引っ張られ気味な二人三脚であっても、アイドルとプロデューサーの物語である以上大人側の影響力と頼りがいが、もうちょい欲しいかなと思う。
 いつか大人になっていく子ども達が諦観ではなく、希望を持って自分を未来に送り出せる証明を、一番身近な大人である(はずの、あるべきな)プロデューサーに果たしてほしい。
 可能な限り、速やかに。
 そう感じる。

 

 同時にプロデューサーが撮影を止め、自分も飛んだからこそ桃華が真実自分らしく飛べた(その飛翔が、第三芸能課の仲間を更に飛ばす)のは事実だ。
 クソみたいな世間のテキトーな蔑視を身体でせき止めて、『お前らはナメられるべき存在じゃない』と常時伝え続ける、大人の、上司の、プロデューサーの責務が全く果たせていない現状を悔しく思うから、頭を下げかけるのだろう。
 その惨めさに背中を折られて、号泣しながら土下座して桃華に詫びるくらいまでツッコんだほうが、現状に変化を生む意味では良かったのかもしれないが、櫻井桃華という貴種は自分より弱く惨めな存在が、さらなる惨めさに追い込まれていくことを許さない。
 だから謝罪をせき止めて、あるべき自分の未来を舞う。
 その麗しい飛躍に自分が何を出来て、何も出来なかったかをプロデューサーには、結構真摯に受け止めて欲しい。

 

 

 

画像は”アイドルマスターシンデレラガールズ U-149”第4話より引用

 仕事が終わった後、ありすとも平らかな距離感を桃華は築こうとして、気恥ずかしさにせき止められて中途に終わる。
 同年代の友達に名前で呼ばれること、子供っぽい自分を許容することは今の橘ありすにはナチュラルな行動ではなく、ヒネた視線で大人を睨みつけ審査し続ける立場から、自分を出してあげることは難しい。
 主役として大トリまで、決定的な変化を保留されるだろう橘さんも辛い立場だが、優しく気高い子ども達は常に彼女を気にかけ、あるべき場所へと進むよう手を差し出している。
 それは、自分にとってありがたいことだ。

 ありすが年相応にナチュラルな自分を肯定できない/したいと思っているのは、両親という一番身近な大人への期待と不満足が、かなり分厚いのだと思う。(だから、第1話冒頭であれほど分厚く書いた)
 立派で愛すべき存在だが、自分が求める愛には十分答えてくれていない。
 橘ありす個人の、身体的ですらあるネジレを世界全部に敷衍して、子供っぽい名前で呼ばれてはいけない自分、頼りにならない大人たちを固定してしまっている。
 その視線が、肩を並べて一緒に笑い、ナチュラルな自分でいられる大事な友達との距離感にも反射されてしまっているのは、愛を受け取る橘ありすにも、愛を手渡す子ども達にも、すごく悲しいことだ。

 だからこの仕事を通じて、櫻井桃華が世間に訴えかけたい己のイメージを演じきり、だからこそ凄くナチュラルに笑える自分へと進み出せたのは、とても良いことだ。
 どっかの誰かが勝手に思いつき押し付ける、クソみたいなお仕着せではなく、自分だけが自分だからこそ生み出せる虚像を、カメラ越し世界と共犯させる。
 そういう才能があればこそアイドルはアイドル足り得るわけだが、その嘘はもっと素直に、心から笑える自分を掴むための手立てでしかない。
 誰かが用意した虚像に振り回されるのではなく、世界を夢中にさせる特別な偶像としての強烈な嘘を、小さな生身でえぐり取り引き寄せる、幼く美しい獣たち。
 ずいぶん強めにネジレた世界で、子ども達はタフに賢くイメージを乗りこなす。
 そこに大人は……後に大人になっていく者たちは、何を差し出しうるのか。
 そこを、僕はとても気にかけている。

 

 

 というわけで、第4話の感想である。
 第2話まで持ってた作品との組み方を、一回全バラシして作り直したため、長い文章になってしまった。
 こういうカロリーでアニメと向き合うのは正直しんどいのであんまやらないが、いろいろあってこういう角度でしか対峙できなくなったので、今後もこの硬さでやっていく。 

 正直、見たいものが見れるのかさっぱり判らんけども、見れそうな気配は感じているので、今後も自分にできるかぎりで見る。
 そういう姿勢が客観的に判断して正しいのか、間違っているのは正直二の次だ。
 そう観ることしかもはや出来ない自分を確かめるために、アニメ見てブログ書いてる意味合いは、僕にとって常に強い。
 そう思い出せたのは、結構な奇遇だと感じている。
 次回も楽しみだ。