イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 水星の魔女:第23話『譲れない優しさ』感想


 血の鎖と優しさの軛で繋がれた獣たちが、虚空に吠え声を撒き散らしてぶつかり合う。
 どうしようもないこの世界に、それでも続く何処かへたどり着くための物語、ラスト一個前の最終決戦、水星の魔女第23話である。
 前代未聞の原画陣をフル投入し、ビーム輝くフラッシュバックにMS戦、ドでかい殺戮兵器まで顔を出しての大騒ぎだが、対決自体はミオリネ達突入部隊 VS プロスペラ、エアリアル VS キャリバーン、グエルとラウダのジェターク兄弟という、三軸で回っている。
 後に家族となりうるもの、身体の在り方を違えつつ向き合う姉妹、拗れに拗れた兄弟関係と、血と家の呪縛を企業宮廷劇のど真ん中に投げ込んできたこのアニメらしい、因縁と感情に塗れた最終決戦その1となった。
 ここでプロスペラとラウダの行き場のない想いはどうにか落ち着きどころを見つけれた……ように見えるが、企業支配によりヒビが入った”公”を完全に崩壊させる議会連合の一撃で、エリーが斃れた衝撃をどう受け止めるのか。
 愛するものと別れていく宿命を、幸せを求める優しさが呪いになっていくどうしようもなさを、作品がどこに持っていくかが、最後までハラハラ燃え盛る展開である。
 ラストのラストまで見てるものを安心させない、サービス精神満載のジェットコースターであり続けてくれるのは、そこにリアルタイムで乗っかって楽しく振り回された視聴者としては、なんだかとてもありがたい。

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第23話より引用

 闘争を通じてしか表現も突破も出来ない、強く拗れた感情をぶつけ合う最後のチャンスとなるだろう今回、モビルスーツはその本懐を全力で暴れ倒し、宇宙空間を自在に飛び回る。
 圧倒的な性能と攻め手のバリエーションを見せるエアリアルとシュバルゼッテに対し、キャリバーンとディランザは守勢に回り倒されないことで、意思を通じ合わせる資格をどうにか、愛するきょうだいに証明しようとする。
 ガンドの呪いが子どもたちを蝕む荒い痛みが、激しいMS戦のなかで強く際立っていたのが、とても印象的だった。
 スレッタのそれは今まで姉達が肩代わりしてくれた苦痛と死を、自分で引き受けられるようになった成長の証でもあるし、ラウダの苦鳴はあまりに出来すぎた兄に自分が追いつくために、分不相応な力に溺れる危うさの証明でもある。
 ”ジェターク”であれば、学園の決闘構造に護られていれば一生知ることもなかった、子どもを兵器に変える呪いの実感。
 一期後半から二期中盤にかけて、血泥の中を這いずり回って兄が学び取った世界の形に、ラウダは高速で飛び込んで……兄とは決定的に違った場所へ突き進む。

 ヴィムを殺した事自体ではなく、自分にそれを預けてくれない事に憤慨しているのが、兄貴大好きボーイらしい歪み方だと愛しくなったけども、ラウダの憤怒は大人の領分からはじき出されたこの物語の子どもたち、全員に共通するものかもしれない。
 『お前が大事だから』を盾に……あるいは鉾にして、どうしようもない矛盾に満ちた世界の現実から、そこから利益を吸い上げる社会の構造から、そうして生まれる愛憎の泥から、無垢な存在を遠ざける。
 それは優しさのようでいて、キレイなものが世界に微かでも残っていて欲しいと、悪徳に塗れつつどうにか生き延びるために押し付けられた、愛という名の鎖なのだろう。
 デリングからミオリネへの、プロスペラ(とエリー)からスレッタへの、ヴィムからグエルへの優しさは、自分たちが信じる(囚われ呪われた)世界の形を押し付け、子ども達の望みや自由を圧し殺す、身勝手なエゴだ。
 それは自分たちが向き合う世界のどうしようもなさに、弱い存在を巻き込まない矜持でもあって、グエルがラウダを遠ざけたのはそんな親世代の歪な高潔を、より徹底的な形で再演した結果だ。
 護られるべきお姫様扱いにキレ、大事なものが傷つけられる世界の現実(シャディクがテロルを決行しなければ、”ジェターク”に護られて一生分からなかっただろうモノ)に怒って、ガンドの呪いに後押しされて、ラウダは逆恨みと思い込みを刃に宿して、激しく暴れる。
 それは『よりにもよって今ここでッ!?』とツッコみたくなる脇役の大暴走なんだが、同時に世界にに置き去りにされたあらゆる子ども達の代理でもあって、今ここでやる意味が結構ある”決闘”だったかなと思う。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第23話より引用

 学園で行われた”決闘”において、殺戮マシーンであるMSの兵装は非致死性な制限を受け、殺し合いは兵器とパイロット、彼らが所属する企業のデモンストレーションとして、安全に社会化されていた。
 それは地球の魔女たちが激怒するのも当然な、上流階級の歪な甘えと現実改変であり、同時に殺しの道具を悲しい本領から少しでも引きはがす、切実な祈りでも在ったように思う。
 捻じくれた弟の刃が、かつての自分が父にそうしたように命を奪いそうになる時、グエルは己の刃を収めてシュバルゼッテを抱きしめる。
 今はもはや遠い学園において、必死に追い求めた嘘っぱちの”決闘”での決着をあえて再演して、その頭部を握りしめる。(このバカげたリフレインは、前回のフェンシング対決と同じくグエルのノスタルジーであり、命をかけるべき矜持なのだろう)
 『この歪な嘘っぱちこそが、自分たちがたどり着いた本当なのだ』と、青臭く告げるように。
 それはあの学園で描かれた、巨人たちの決闘に心躍る何かを感じていた僕たちの気持ちを、お話の最後まで大事に連れて行ってくれる態度だとも感じる。

 思い返せば第1話、スレッタは宇宙にさまよいかけていたミオリネを救助するべく、エアリアルを使った。
 チュチュのデミバーディングも武装兵器ではなく、仲間たちを運命の結節点に送り届ける輸送機として、最終決戦に挑む。(パーメット通信を切られた途端機体が暴れるのが、それがつくづく統合と制御の技術……Cyberneticsなのだと最後に確認できる感じで、このお話を最新鋭のサイバーパンクとして見てきた自分としては、ちょっと嬉しい瞬間だった)
 そしてフェルシーはいかにもガンダム的なすれ違いの果ての惨劇を回避するべく、消火剤を抱えて兄弟の鉄火場に乗り込み、笑えない運命を書き換える。
 ディランザがシュバルゼッテを抱擁する姿は、腹違いの兄弟が初めて出会ったときの思い出と重なり、彼らが駆る鋼鉄の巨人が、彼らの身体と精神の延長/投影であることを鮮明にする。(ここら辺の究極系が、エリーとエアリアルと言えるか)

 私の道具であり、私自身でもあるMSを殺し合いの道具とするか、大事な何かを守るための仲間として扱うのか。
 地球の魔女たちが結局、『ガンダムは殺戮マシーン』という(過酷すぎる運命と環境に押し付けられた)想念から抜け出せないまま、自分たちをその犠牲にしてしまった過去を、学生たちの武器を取らぬ/収める闘争は乗り越えていく/引き継いでいく。
 この超克は、二度目の家族殺し/殺されを前にして刃を収める道を選べたグエルにも、テロの渦中でチュチュに助けられ、親友を傷つけられて何も出来なかった無念を抱えて最終決戦に飛び込んだフェルシーにも、多分共通している。
 無力なまま惨劇に押し流され、同じことばかりを繰り返す自分でいるのがイヤだったから、必死にあがいてここにたどり着いた。
 そこに行き着くまでに沢山の偏見と傲慢と衝突が確かにあって、それでも自分と他人を変えれる契機があって、ジェタークの子ども達も地球寮の連中もそれに手を伸ばして積み上げた結果、このガンダムらしくない結末にたどり着く。
 それは他ならぬ”機動戦士ガンダム”の最新作として、だからこそ”らしさ”を新たに削り出して若い視聴者にぶっ刺す定めを背負ったこのアニメだけが、選べる到達点だとも思う。

 

 あんな悲しいことはもう、これ以上いらない。
 作中のキャラクターも、それを見ている僕も感じている願いを、自分でコンソールを握って叶えていく。
 繰り返す宿命を意思でせき止め、新たな物語を書き記していける可能性の具現として、最後にMSを書くのは面白いし、とてもいいなと思う。
 同時に”ガンダム”を名前に背負う技術が、ヒリついたエゴと取り返しの付かない過ちを加速させる呪いとして、『もう乗るな……』としみじみ言われるヤバ物品として扱われているのも、また面白い。

 それは長く続いたがゆえに”らしさ”に呪われ、どこに行けば良いのか見えなくなったからこそ激しく身じろぎを続けた、”水星の魔女”のシビアなメタ批評でもあろう。
 赤く焼き付くガンドの証は、暴力の行く末を身をもって兄に教えられたラウダにはもう刻まれていない。
 でもその激しさと痛みを自身が思い知らなければ、どこにもいけない場所へラウダ(と彼が代表する沢山の子ども達)の心は行き着いてしまって、だからここまでやる必要があった。
 その上で、フェルシーの非殺傷武装は死に至る兄弟の熱を冷まし、笑えない終わりを笑える続きに書き換えていく。
 優しいご都合にも思えるけど、でも学園がテロの現場になって眼の前で命が失われる実感の中、反目を乗り越えて聞こえる叫びに手を貸したチュチュの決断や、自分は同じようにペトラを助けられなかったファルシーの無念があったからこそ、たどり着けた結末だとも思う。
 フェルシーが”ジェターク”じゃないのに、だからこそ必死の横槍で兄弟の死闘をせき止めて、なんかいい感じに叙情死しようとしてるバカ二人に”現実”見せてるのが、家なるものの壁の分厚さ、その内側で発酵していく情念の難しさを書いてきた話に、最後でいい風穴開けたなと思う。
 『家族の話に首を突っ込むな』という、ある部分ではとても正しい防壁が企業レベル、世界レベルに拡大した世界でどう、他人の思いを届かせるのか。
 同じ課題に、こことは別の戦場で挑む者たちもまたいる。

 

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第23話より引用

 超絶作画の煽りを受けて、眠り姫ポジションから起きたデリングが迸らせるセクシーも大概なことになっておるけども。
 『呪いの魔女の仮面が外れて、邪悪要塞ぶち落とせばなんでも解決って空気じゃねー!!』って難問を、パワーで押し切るべく新しく顔だした極悪宇宙兵器は、本来は送電用システムのはずだ。
 殺戮マシーンなはずのMSで人命救助と運命改変に勤しむ子ども達に対し、この歪みきった世界を生み出した当事者達は宇宙に新たな可能性を広げる生活インフラを、何もかもを無に帰す道具として扱おうとしている。
 ILTSが本来の使われ方をしていれば、水星の彼方まで電気が届き、人類はその生活圏を豊かに広げる未来もあるのだろうけど、その舵取りをする特権階級は生み出された廃墟から、どうやってカネを絞り上げるかにしか興味がない。

 そういう世界をより良く変えたいと願って、ガンド技術に夢を見た結果が戦場の倫理荒廃であり、これを断ち切るべくヴァナディースの虐殺に踏み切ったことが、プロスペラを魔女に変えた。
 ガンド兵器のろくでもなさを思い知った今では、Prologueを始めてみた時の『テメー!』感も和らいではいるけども、歪な宮廷の主として世界に君臨し続けた責務と合わせて、デリングがここで起きてくるのはまぁ必然である。
 大義と信念と愛に裏打ちされての決断だろうが、その苛烈が生み出した分断と呪いはあまりに大きすぎて、その歪な罪に向き合う特権は、王にしかないのだ。
 ここで目覚めなければ、過ちは子らへと不当に引き継がれ、悲劇は繰り返されてしまうのだから。

 

 そういう大人のろくでもない定めに、遂に向き合うことになるのがベルメリアさんであり、自分が銃を握らなければ目の前で何かが潰えるこの土壇場、作中最強のダメ大人もようやく、運命と対峙していく。
 プロスペラほど苛烈な意思で未来を切り開けず、デリングほど分厚い仮面で業を飲めず、等身大のろくでもなさで子ども達を兵器に変え、死ぬことも殺すことも選べない(が、実質的には死んでるし殺している)彼女は、演劇的な大げさを身にまとう作品をうまく、見てる側に近づけてくれる存在だったと思う。
 この期に及んで手渡された拳銃の重みに震え、しかし変わり果ててしまったかつての同志を前に銃を向け、銃弾からミオリネを庇う決断へと、強く踏み出していく。
 ここで差し迫った死に震えつつ身を乗り出すのは、ヴァナディースの殺戮を生き延び、強化人士四号を生み出して見殺しにしてきた彼女が、その生き様を決定的に書き換えた証明だ。
 そんなダメダメおばさんの覚醒を、かつて彼女を激情のまま(しかし正統に)なじった五号が彼らしい皮肉で寿ぐのも、彼らの決着としてかなり良かった。

 ペイルの企業工作員として、殺人ハロ(最後の最後まで、こういうオモシロぶっ込んで押し切る粗雑さが元気なの、このアニメらしいなと思う)を相手取っての大立ち回り、『なんで温室であんなあっさり、グエルに捻られてたの……』と思わなくもないが、水星世界観は高潔さが強さに直結するので、企業の走狗として大事なものは自分の命一つ、逃げてばかりの嘘つきクズは弱いのだ。(ここら辺の歪な想念を加速させるのがガンド技術で、こういう形でサイコミュ兵器を記述しなおす試みが、僕は好きだ)
 『今度は殺させない』『次は人助けにしておきなよ』と、花江夏樹の声帯に恥じない颯爽主役っぷりを発揮できている事自体が、愛するものを奪われてなおたどり着きたい場所を見据える彼の旅が、悲惨ながら有意義だった証明だなと思った。

 

 そんな連中に手助けされて、義母と向き合うミオリネの勇姿。
 エリーだけに全霊を捧げスレッタを切り捨てた決断を、不実だと断じる言葉は銃弾よりも強く、魔女を揺るがしていく。
 仮面を外してみればごくごく普通の母であり、人間である魔女がしかし、蛇の装束に見を包めばどれだけ恐ろしい復讐の権化となるのか、今までの暴れっぷりを思い出させるような立ち姿も、大変良かった。
 ミオリネの舌鋒がどんだけ刺さっているか、見せないための仮面はそのまま、プロスペラの人間らしさを覆い隠してもいる。
 そうやって心を殺さないと果たせないほど、彼女が挑んだ相手、辿り着きたかった場所は険しく遠かったのだろう。
 世界の形を書き換えてでも、愛娘が生きていける居場所を作りたかった祈りの重さをミオリネは知っていて、その歪みごと家族として抱きしめるために、ここに足を運んだのだ。
 正直プロスペラは暗黒大要塞ごと爆発四散して終わると思っていたので、青い果実を切り捨てられないミオリネの生き方と、そんな彼女に心通わしたスレッタの願いが魔女から仮面を外し、人間の顔も顕に生き残りうる道を開いていくのは、嬉しい衝撃である。

 ”決闘”においては政治的利害に絡め取られた嘘でしかなかった婚礼は、この最終局面において恋と真心の成就となり、繋がりのない者たちが同じ”家”に入るための、決定的な儀礼として扱われていく。
 愛すべき身内とどうでもいい他人に世界を切り分けることで、分断と差別を加速させていく家庭=企業主義が、世界を覆い尽くしてしまっているこのお話において、他人が家族になりうる可能性が婚姻儀礼にあることは、確かな希望だ。
 実の娘であるはずのスレッタを、道具と使い捨てる残酷で自分が傷つかないように、冷血な蛇の仮面で視界を塞いできたプロスペラであるけども、五号の殺さぬ銃弾とスレッタの言葉……差し出された掌を前にして、その瞳を開ける時が近づいてきている。
 ガンド技術を傷ついた人の癒やし、宇宙へ漕ぎ出す希望として信じたかつての魔女の目は、家の外にある大きな価値に拓けていて、しかしそれは叩き潰されてしまった。
 『お母さんを悪い魔女にしない』というスレッタの幼い祈りを、その伴侶として自分の血にも刻んだミオリネがここに立つのは、閉ざされ失われてしまったかのように思えるものを、もう一度蘇らせるためなのだろう。
 この再生はひと足お先、暗い部屋に閉じこもっていた自分をスレッタが助け出してくれた歩み、そうなれる自分をスレッタが再生させた道のりと……あるいは五号とベルメリアの奮起、クソ差別野郎から高潔な王子へと変化したグエル、その輝かしさに呪われ戻ってきたラウダとも、重なってもいる。
 『失われてしまったものは決定的に喪失され、二度と蘇りはしない』という冷たいリアリズム=ニヒリズムを、色んなキャラクターが/キャラクターで超えていく終盤戦ともいえる。

 

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第23話より引用

 そんな戦場の真ん中で行われるエアリアルとキャリバーンの闘争は、お互いが大事なパイロットの気持ちを反映して、高速苛烈ながら不殺を貫いていく。
 この全地球圏の命運をかけた姉妹喧嘩が、巡り巡って”決闘”の色合いを帯びているところがなかなかに好きなのだが、エアリアルはスレッタの愛機として学園に身を置きながら、意思ある人間として認識されず、学籍も得られなかった。
 データストームの申し子として人間の定義を外れ、生身の身体を成長させることも、社会的な立場を得て新たな出会いに手を伸ばすことも許されなかった、ガンドの末裔たる情報生命体。
 そういう存在を受け入れる善き可塑性が、戦争シェアリングで構造的断絶を加速させ、今地獄レーザーでなんもかんも焼き尽くそうとしている現行の世界にあるはずもないのは、まぁ納得がいくところだ。

 強化人士なり地球の魔女なり、あるいは魔女の使い魔なり。
 ガンドの呪いと経済の残酷に噛み砕かれ、余ったパーツをガンダムに接合された子ども達をたくさん書いたその畢竟に、最もサイボーグとして人間の形を捨てた(ゆえに、あまりに人間的なその悲哀が飛び交うビームに際立つ)エリーがいるのは、とても悲しくて綺麗な構図だ。
 ……スレッタとミオリネが手を繋ぎ抱き合い、身体を介して愛し合う事が出来るのだと隠微に暗号化してきたロマンスが、ここで『エリーは抱き合うべき身体も、そこに行き着くための成長も奪われてしまった』と逆さに刺さるの、かなり好きだな。

 スレッタを置き去りに、あるいは利用して加速していくエリーとプロスペラの共犯関係は、ヴァナディースの虐殺に何もかも奪われた母と子が、狭い檻に入らざるを得なかった結果生まれた”一つ”だ。
 この最終局面において親子は、ただ耳障りが良い洗脳ワードというだけでなく、末子が彼女なりの夢を掴むために確かに助けになっていた『進めば2つ』を裏切って、何か一つだけが自分たちに掴める可能性なのだと、目を塞ぎつつある。
 それを横からぶん殴って、自分が目の前にいるのだと理解らせる権利を得るために、スレッタはキャリバーンにのって赤い傷を浮かび上がらせ、ハァハァ荒い息をつきながら必死に戦っている。
 これを助ける形でエアリアルの結界を緩め、ミオリネたちがクワイエット・ゼロに乗り込む隙を作った『もう一人の僕』が誰なのか、明かしている余裕が最終話にあるかは気になるところだが……まぁどうにかなるだろう!!

 

 これまでも鏡越しの遠い距離感が、様々に実感のなさを描いてきたこのアニメだけども、議会連合が全ての抹殺を、あくまで経済的営為の一環として決め込む瞬間にもまた、窓と鏡面は顔を出す。
 それはビームが照射される空間全てに宿っている個別の命を、感情や宿命を顧みず、統計学上の……あるいは経済表上の数字としてしか見ない、血の通わない視線だ。
 これが発展させ駆動させた様々なシステムが、地球と宇宙の断絶と搾取を生み、ガンド技術を子どもを兵器に変える呪いにしてきた。
 銃弾飛び交う戦場に、頭を低くして乗り込んで決着を付けに行くミオリネたちの”近さ”も、こういう遠さを過去に背負えばこそ、血が通う。
 経済と統治の機械の中で、清潔に遠く人間の生き死にを睨みつけ続けている者たちが、人間が生きることの必竟に目を向けることはあるのだろうか?
 『殴られれば目覚めるだろ』は、シャディクがやろうとした間違いなので選んではいけないとして、コミュニケーションと制御の技術であるガンドは、そういう人間存在のどうしようもなさに風穴を開ける希望に、もしかしたらなるのかもしれないなと少し考える。

 自身ガンドで命を繋がなければ生き延びられなかったプロスペラは、遠い宇宙で娘の命が消えていく痛みを、間近に感じ取る。
 そんな悲しい形でガンドの可能性を見せつけられても、あんまりに痛ましすぎるけども、その傷は五号の銃弾が命ではなく仮面をふっとばしたからこそ、僕らの目に届く母の素顔だ。
 デリングの虐殺/制裁がなければヴァナディースで先端技術開発に従事し、人間がより強くより優しい存在として宇宙に漕ぎ出していく希望を、仕事として果たすことが出来たかもしれない魔女。
 親子の縁に呪われ狂い、過剰に”母”であることに縛られた彼女が持っていた、ビジネスパーソンとしての、科学者としての、英雄としての可能性もまた、あの事件は焼いてしまったのだと思う。
 仮面を引っ剥がしての生身で、幾度目か娘を失う痛みに焼かれるプロスペラがまだ、繰り返される惨劇の果てにたどり着けるのか。
 スレッタが祈ったとおり、悪い魔女にならずにすむのか。
 それは来週描かれる最終回で、僕らが見届けなければいけないものなのだろう。

 

 

 というわけで、銃弾の熱量を活かして色んなものを一気に刻みつけていく、パワーのある最終話一個前でした。
 前々回恨みの炎を勝手に燃え上がらせ、前回超かっこいいMSで颯爽横殴りキメてきたラウダを、理想に向けて邁進する主役たちから取り残されるなんか上手く行かねぇ連中全員の代弁者として、ガンドの呪いに突き動かされる最新の子どもとして、いい塩梅に活かしてきたのはとても良かったです。
 その上で『感情のぶつけ合い、関係のもつれの果てに必ず誰かが死ぬの、乗り越えられないガンダム的伝統にするのやめよう! 救命装置としてのMSを信じよう!! もーコスっても大概面白くねー味しねーフェイズだろッ!!』と、八重歯の救世主で裏切ってくるのも良かった。

 さんざん嫁姑レスバトルでやり込められてきたミオリネさんが、死なばもろとも世界と心中、娘大事な鬼子母神クリティカルヒットを叩き出し、新たな生き方に踏み出した強化人士とその親もろとも、希望の未来にレディーゴー! しだしたのもグッド。
 まぁそういうなんかいい塩梅の収まりどころが見えたタイミングで、地獄ビームがMS姉をぶっ壊しにかかったわけですがね……。
 『義娘のド根性でママンが人間に戻っちまったら、気持ちよくぶっ飛ばせるラスボスがいねー!』って問題を、第二の宇宙極悪兵器と最悪権力集団を出すことでどうにかしていくの、ハチャメチャながら大正解だな。

 どれだけ痛みを乗り越え未来に進むのだと、美しく心に定めてなお襲いかかる、理不尽と非情。
 それを超えていける可能性を最後に示し、ここまで踊らせてきた自分だけの物語を語り切ることが出来るのか。
 出会いから24話、あんまりにも色んなことがありすぎた赤と白の乙女たちは、日5に燦然と勝利のメイク・ラブをキメれるのか。
 次回水星の魔女最終回、大変楽しみです。

 

 

 

 

・追記 ダリフラは学園出たあとの『でも、あの夢は綺麗だったし嘘でもない』感で押し込むパワーが弱いので、そこ気に入ってねぇのかもしれん。

 

 

・追記 2クールでやり切るには明らかに過剰な要素を、あえて高圧縮な展開で強引に押し込んでいくことで異質な火力を出すという、核融合炉みてーなアニメだ。