かくして、人生という冒険は続く。
水星の魔女、最終話である。
『これが最後の大盤振る舞いだぁあ!!』とばかりに、超絶オカルトパワーが涅槃への扉を開き、死者への対話と幸福な奇跡が嵐のごとく暴れ回って、圧倒的なハッピーエンドをもぎ取っていきました。
元々セセリア懺悔室とか三馬鹿隔離部屋とか暗黒宇宙兵器×2とか、物語的に強引な所を面白さで突破していく作風が(ナイーブな外装に似合わず/それとの合せ技で)元気だったわけですが、最後の最後で一番でかいのをぶっ放してきた。
もある。
『終わり良ければ全て良し』……とはまたちょっと違う、『ここまで楽しませてもらったのならこの終わり方で大丈夫だよ、これが良かったよ』という、”水星の魔女”だけの特別な手応えをゴツゴツ感じられる、良い終わり方だったと僕は思う。
世界の悲惨さや業の重たさ、祝福と呪いが裏腹な運命のもつれ方を濃厚に書いておいて、『こんなのもうどこにも収まんねぇだろッ!』と観ている側に思わせておいてから、”ガンダム”が有している文脈で飽和爆撃カマして意味論を破壊・変質させることで(自分的には結構ギリギリ)優しいお伽噺にまとめ上げていくの、コンテンツとの踊り方として異質かつ圧倒的だったな……。
遠くに宇宙世紀のアレとかソレを睨みつつ、超絶物体パーメットのインチキ力はここまでも積み上げられてきたわけで、”水星の魔女”最後の魔法として物語を幸せに終わらせれる、いいケレンだったように僕は思います。
エピローグもスゲー良かったしな……。
先週衝撃のヒキを後始末しつつ、物語は母子最後の対話へと突き進んでいく。
四肢を奪われたエアリアルを後ろから支えるキャリバーンの絵面は、第1話で他ならぬエアリアルが宇宙に迷うミオリネを救出した事、あるいは全てが決着したあとガンド医療がペトラの足となっている描写と、面白く呼応する。
最初の決闘でディランザがダルマにされた時は嘲笑のネタだった『四肢を奪われたMS』はここに至って、エリーの命が奪われつつある切迫感で全く笑えないシリアスに色づいていて、機械と人間の境目はこういう所でも溶け合い始めている。
パーメットという魔法の触媒によって、機械的人間/人間的機械がそれを受け入れうる社会の成熟を待たずに生まれ落ちてしまったが故に、生まれた混迷と悲劇。
それを暴力的に決着させず、自分の願いと誰かの祈りを抱きしめて前に進めるためにはどうしたら良いのか。
ずっと考え間違い、迷って探してきたお話であったように思う。
プロスペラは五号によって引っ剥がされた仮面を被り直し、せっかく見えた人間性をもう一度覆い隠して、末娘との対話に挑む。
それは大願を成就させるために優しさを殺し、非情に生き続けるために必要な小道具であると同時に、パーメット汚染に削られていく命をどうにか保たせる医療器具でもあった。
今まで散々、蛇めいたその冷たさを強調されてきた重要なフェティッシュが、ここに来て新たな意味合いを手に入れていく話運びが、このお話らしい貪欲さで良い。
巨大なMSと小さな人間を隔てる透明な壁は、冷たい魔女の顔を反射する鏡にもなる。
そこにあるのは今までと変わりない水星の魔女であり、もう僕らがその素顔を、赤く疼く子ども達と同じ傷を見つめてしまった母の相貌が、運命の嵐で変わり果ててしまった末路でもある。
プロスペラが引き返せないと思い詰めている道、走りきらないと誰にも顔向けできないと思いこんでいる運命は、仮面を付けている限り外れることが出来ない。
コックピット、温室、あるいは過去。
様々な人が、様々な形で閉じ込められてきた閉鎖系、最後の象徴としての魔女の仮面。
これを引っ剥がして母を世界に解き放つべく、スレッタは一度キャリバーンのコックピットから出て、世界も母も取り戻す道へと進む決意を示す。
差し出される母の言葉はかつてのように甘く、ずっとそうであったように都合のいい甘言である……と同時に、心のこもった真心でもある、
一期最終回では仮面を付けたまま差し出され、赤い殺戮に少女を誘惑した掌には、プロスペラ剥き出しの心がしっかり宿っていて、その甘さと苦さを噛み締めた上でスレッタは、それを跳ね除ける。
そうなれるようにここまでの物語があって、色んな人の生きたり死んだりを至近距離で見届けた上で受け止められなかったり、捨てられてなお立ち上がって今度は掴み取ったり、母が歩いてきたのとはまた別の辛さと喜びに満ちた旅路が、少女を鍛えた。
そうやってようやく、彼女はコックピットの外に出てきたのだ。(ソフィーが死んだ時その棺に足を踏み入れられなかったことを、僕はここで思い返す)
死を覚悟している母の身勝手を乗り越え、二つ以上を手にする欲張りな道に突き進むべく、スレッタはもう一度コックピットへ……閉じているからこそ特別な魔法が育まれる魔女の大釜へと戻っていく。
こっから作品のオカルト濃度は急上昇するが、元々SFテイストに味付けされた古典宮廷劇として楽しんでいた立場としては、待ってましたの大魔法登場で結構ワクワクもした。
出陣前、五号とあの待ち合わせ場所で故人を偲ぶ現実的な決着でも十分叙情豊かだったが、ここであえてダイレクトな霊との対話に踏み込む過剰さが、このアニメらしい(と同時に、ガンダムらしい……とも言えるのだろう。これを()付き伝聞調で書く距離感が、僕と”ガンダム”の間合いだ)とも感じる。
全てが終わった後に思い返してみれば、確かに初恋だった別れの意味を取り返し、死せる者たちの祈りを束ねる形で、スレッタは全てを決着させる戦いへと踏み出す。
それは誰に託されたわけでも、背負わされたわけでも、呪われたわけでもない、彼女だけの物語の終わりで、お伽噺の始まりだ。
というわけで在庫総ざらいガンダム軍団全員出撃! 輝く奇跡がすべてを包む!
エアリアルのパーツで新フォームお目見え、キラキラ輝きながら魔法を拡大させていくキャリバーンは完全に魔法少女文脈にどっぷり浸かっていて、『”水星の魔女”ってそういう……』って感じ。変身バンクもあるし。
急に『さよなら、すべてのガンド兵器……』しだすのはノリと勢いの極地でなかなかスンゴイけども、呪い呪われ転がってきた物語を決着させるうえで、ガンダムを平和の担い手として燃やし尽くした上で物理的に消す手順は、踏んでおいたほうが収まりが良い感じもある。
ここまで子どもを呪い殺す悪魔としてしか描かれてこなかったGUND技術が、スレッタの決意と祈りによって反転して、死者との対話を可能にする奇跡になっていくダイナミズムも、大きなモノが精算されていく手応えがあって結構好きだ。
アーシアン/スペーシアンという対立軸が強く目立って、旧式人類/パーメットを体内に入れたサイボーグという人間定義の変貌は正直見えにくかったけども、それが戦争の道具として便利に使い潰されるだけでなく、旧来の世界ではけして起こり得なかった(だからこそプロスペラもデリングもそこに奇跡を希った)蘇りを引き寄せる可能性を最後に見せて、『やっぱガンダムは特別な祝福でもあるんだな……』と思えたのは良かったと思う。
霊的次元の戦いと並走する形で、ミオリネがシャディクとの面会で紡いだ密約を爆破させて、グループを解体もしていく。
世界を飲み込む巨大な呪いに成り果ててしまった経済装置は、企業宮廷で生まれ育ったお姫様にとっては守るべき/帰るべき家でもあり、それを叩き壊す決断には痛みが伴う。
それでも闘争を生み出す構造それ自体を解体することでしか解決できない問題があるのだと、バカ極まる幼馴染の生き方を受け止めた少女は学び取り、一つの終わりを選択する。
それはグループ内部の狭い価値観と、ソレが生み出す軋みをクール追い続けた(そこに焦点を限定することで、過積載極まる物語をなんとか走りきった)お話が至るべき、必然の決着だと思う。
他の級友が罪を贖い広い世界に生きて飛び出すのに対し、シャディクはなんもかんも背負って死地に己を決着させていくわけだが、世界と天秤にかけても惜しくないほど愛した人が自分のやりたいことを理解し、受け継いでもらったその顔は、とても誇らしげだ。
ここでいい空気吸ってるからテロルの事実が贖われるわけではないけども、しかしここに至るしかなかった愚かで賢く、卑劣で誠実な一人の青年がこの顔して終わっていくのは、キモイキモイ言いつつシャディクが好きだった僕としては、悪くない終わりかと思う。
そういう捻れた積み重ねを軽やかに飛び越え、親を売って扉を開け閉じて狭い場所から飛び出していく本物エラン、オメーは一体何なんだッ!
このチャッカリ感が皮肉にも、人間の上に立つべき選良をスコア化してきたペイルの方法論が正しかったと証明もしてるし、『閉じた所から出る』という共通演出もしっかり踏まえているしで、まーこのアニメ、この最終回らしい飛翔だとは思う。
むちゃくちゃ乱雑な一発を押し通すためには、細かく技巧的なアレソレを使いこなさなきゃいけないんだなぁ……。
末娘とガンダムたちが広げてくれたデジタル涅槃により、プロスペラは人間には本来果たせない(からこそ、死者の怨念を勝手に背負ってここまで突き進んだ)対話の奇跡を、ようやく手にする。
パーメットがもたらす人類拡張の可能性を信じ、それが戦場を地獄色に染め上げた結果ヴァナディースを焼かれた魔女にとって、この景色は失われたはずの理想が未だ生きていて、自分が信じたかったガンドの祝福が、死に際追いついてくる形でもあろう。
これを他ならぬプロスペラの呪われた末子として、都合のいい夢への鍵として弄ばれたスレッタが手渡す意味は、『優しい親殺し』のお話だったこのアニメにとって凄く大きいと思う。
人間社会を駆動させていくために、必然的に張り付いてくる欲望が奇跡の技術を歪めて、人間を殺しの機械に変える悲惨さを見かねたから、デリングはPROLOGUEの虐殺に踏み込んだ。
その性急すぎる決断がプロスペラを水星の魔女にして、彼女も世界も彼女の子ども達も炎に巻き込んだわけだが、親世代の呪いを願わず背負わされた子ども達はそれに傷つきつつ、痛みを糧に変えて希望に手を伸ばした。
大人たちが間違え、歪めてしまったものをその犠牲たる子ども達が浄化し、真の価値を取り戻して手渡しなおす展開は、業のフィルターとなった子ども達に色々背負わせすぎて大人に甘い気もするし、カルマ程度も乗り越えられず延々悲劇を繰り返すニヒリズムに、作品が毒されないための特効薬とも感じる。
僕個人としては、呪いを祝福に戻していく旅路は大人の物語の余録であると同時に、子ども達の物語本編そのものでもあるわけで、子どもを自我なき親の道具ではなく一人間として尊重しm向き合う意味をずっと削り出していたお話としては、十分意味ある決着にも感じられる。
誰よりもほかならぬスレッタ・マーキュリーが、お母さんに死んでほしくないからこの結末を、傷つきながら頑張って引き寄せたのだ。
それはとても偉くて、彼女だけが掴み取れる幸せな終わりなのだ。
これが主人公の特別に選ばれたプロスペラだけに再会の奇跡を手渡し、ガンダム殲滅に邁進した生き様を曲げてでも妻との再開を望んだデリングには差し出されない(そしてその決着を、黙って飲み込む老王をちゃんと描く)のが、このアニメの好きなところだ。
同時に人が縁と愛で繋がってしまっている以上、スレッタの願いはプロスペラの未来でもある。
仮面に呪われ、良心を殺して突き進んできた魔女の憂いが、物言わぬキャリバーンの立ち姿と重なっている画作りとかマジ最高なんだよな……。
人間の暴力性とか優しさとかを、18mサイズに巨大化する鋼鉄の文楽人形としてMSを活かす演出が特に終盤戦は強くて、このジャンルだからこその馥郁とした面白さをたっぷり堪能できたのは、なかなかありがたかった。
血の通わぬ戦争機械だったはずのガンダムは奇跡の器としての可能性を最後に発揮し、仮面に命と心を預けることで進んできた魔女は最後の意地を、鋼鉄の人形に重ねている。
娘たちをなんとも思わない冷酷な母親、自分の利益しか見ていない汚い大人。
そういうペルソナを前面に押し出され、無論それは否定しようもない真実でもあったプロスペラが、あの魔女狩りの日からずっと傷つき、それでも生きてきて、だからこそ譲れないものがある”人間”であることを、お話は最後に確認する。
ヴァナディースを焼いた炎で母であり妻であり人間であったエルノラ・サマヤは死に、蛇の仮面をまとったプロスペら・マーキュリーが生誕を祝われたPROLOGUEは終わる時に、もう一度エルノラが生まれ直すのは、やっぱ良い。
俺、PROLOGUEすごい好きだからね……。
霊達の優しい説得でも、スレッタ渾身の愛でも動ききらないプロスペラの魂が、ようやく再開できたエリーの一言で決壊し、仮面が壊れるのは面白い。
ここでスレッタの祈りが決定打になるのなら、そもそもプロスペラは別の生き方を選べたのだろうし、そこで自分が母を抱きしめきれないのだと解っていてなお/解っているからこそ、スレッタは全霊を賭して、死せる娘が母を抱く奇跡を引き寄せた。
愛する人が自分を愛してくれない悲しさを噛み締めた上で、それでも愛している自分の気持ちを大事に貫く、とても大人な態度だな、と思う。
魔女の使い魔として学園に放たれ、その呪いを絶対の正解として進んできた少女が、仮面の下にある傷も震えも、同じ背丈で受け止めれるようになったのだ。(その上で、母が愛するエリーに自分の弱さ全てを預け、愛娘より下に位置することを自分に許す特権……魔女が仮面を捨て去る特別さは、あくまでエルノラとエリクトにだけあると描く優しい冷酷が、僕は好きだ)
そうしてもらえることでようやく、プロスペラはただただ娘を愛する母親に戻れたのかもしれない。
離別を告げられた時、スレッタがここまで自分の魂を鍛えられていればそもそも話も変わっていたのだろうけど、あの時の彼女は殻の中で震えている未熟な存在でしかなく、猛烈に残酷に愛の外側に放り出されたからこそ、自分の足で進み手で掴む一個の人間に育つことも出来た。
終わりよければ全てよし……というには、プロスペラが突き進んできた地獄はあまりに他人を巻き込み犠牲にしすぎたし、結果として生き延びれたから荒野に放り出すことが正しいわけでも、当然ないけども。
どうしようもないものに突き動かされ、重たすぎるものを背負った人がようやく立ち止まって、本当に大事な願いと仮面を外した本当の自分を取り戻せる所まで、スレッタは自分を鍛えお母さんの手を引いて、なんとかたどり着いたのだ。
それは……やっぱ良いことだと思う。
爽やかな読後感のために正義や公平さの追求、因果が応報する必然性を結構捻じ曲げているのは、このお話の結構無視できない瑕疵だとは思う。
ケナンジさんが保証した大人の責任が、具体的にどう支払われるかを掘り下げると相当めんどくさく生臭いことになるので、幸福なエピローグに雑音を入れないようにそこら辺はだいたいカットされた。
そもそもこの質感で収まるように国家VS国家の広すぎる戦場ではなく、学園内部の決闘、あるいは企業支配下の搾取構造とそこで生まれる理念なき闘争のサイズに、描写を抑えていた感じもまたある。
大きすぎるものを最初から扱わず、どうしようもない業が何もかもを押し流して終わっていく『ガンダムっぽい』決着を回避するべく展開してきた物語は、なんかいい感じのスゲー勢いでお話を収まるべき場所に押し流しつつ、結構大きなものを取りこぼしていく。
その上で、スケールのデカい正しさにあえて拘泥しすぎない姿勢でもって、家レベルの感情と事情を世界レベルでこねくり回して熱を宿し、みずみずしい人間の表情を描くスタンスだけが、生み出しうるものも確かにあったと思う。
腐った血縁と利害で凝り固まった企業が、遥かなる高みから地上を見下ろすネオ・中世の狭苦しさに風穴を開けて、ちったぁマトモな”現代”をあの世界に作っていく大きな戦いは、青春を終えた子ども達が学園の外でやり遂げる、描かれることのない戦いになる。
それが未解決であることは、格差とか技術暴走とか経済支配とか、このお話が視野に入れていたモニターの外側にある問題を、僕らの物語に繋げていく一手でもあると、僕は考えている。
このお話で描かれた、最新鋭の外装をまといつつ古臭く普遍的な問題が、こんな最悪の形で牙を向かないようにどうにか、ちったぁマトモな舵取りを現実に祈る手付きが、確かにこのアニメにはあるように思うのだ。
僕はそこが好きだ。
同時にそういう難しすぎるネタを完全に描き切るには2クールという物語は大きすぎ、群像の熱い血潮を重視して展開する物語が彫り込むには、あんま素直に面白くないネタでもある。
そういう世界を生み出してしまった大人世代が、なんでそうなってしまったかという彼ら主役の物語は、プロスペラ以外は大胆にきり飛ばすことでなんとか、成立している話でもある。(例えば、デリングがガンダム殲滅を決意するに至った戦場の地獄とかね)
ある意味子どもらが乗り越えるべき、生っぽい課題を垂れ流しにする装置でもあった大人たちがそのツケを払う気配が薄いのは……人によってめっちゃ評価別れるポイントだよな、やっぱ。
しかしまぁこんだけ熱量あるドラマを通じて魔女の人間性を描かれてしまうと、エリクト・サマヤを人間に戻す話はやらにゃならんし、その代償として命なり自由なり奪われてしまうのは、全部奪われてなお殺戮ではなく救命を選んだ(その結果として沢山人もしんだが、その業ひっくるめでスレッタが母を許し受け止めている成長含め)彼女の決着として、僕としては正しくても面白くない。
だからプロスペラが魔女の仮面を外せる所までスレッタが引っ張っていって、生きて欲しいという願いがちゃんと叶う終わりになったのは、僕としてはいい終わりだと思うのだ。
かくして全ての業が光の中に消え去り、生き残った者たちは帰るべき場所へと帰っていく。
そのためのビーコンを、後にエリクトの新しい身体だと明かされる愛のマスコットが発してくれたおかげで、チュチュのデミは救命艇としての仕事を果たして、ミオリネがスレッタのもとにたどり着かせる。
かつて母と姉に宇宙に投げ捨てられた時は、溢れる涙を無音に封じ込めていた宇宙空間が、今回は触れ合いを遂げて確かな声を、生きている証を伝える舞台装置にもなる。
色んな人の努力と祈りが、望んで遠かった幸せな結末をなんとか引き寄せてくれている手触りが、大団円をより感慨深く受け止めさせてもくれる。
宇宙服のバイザーが無貌の仮面となり、スレッタの生き死にを見ている側……と、なによりミオリネに教えないハラハラ感は、水星の魔女にとって仮面がどういう意味をもっていたか、最後の最後で暴かれ直した後だと、より良く効く。
ヴァナディース壊滅以来、ずっとそれに呪われ支えられて生きてきた死人の無表情は、もちろん宇宙を駆けるとびっきりの愛でもってすぐさま顔を取り戻すのだけども、一瞬顔のない領域を経験することでスレッタは、愛しすれ違った母が仮面の下で何を見、何を感じたか、すこし接近できた感じもある。
バイザーの狭い鏡面を劇的空間として活用しきって、そこには全ての終わりの予感が、それを終わりにしない強い情熱が、それによって蘇る赤い命が、高速で明滅していく。
ずーっとツンツン社長の顔で、ベネリットグループという悪しき魔城(であり、自分を育んだ家でもあるもの)の解体を正しく頑張ったミオリネさんは、果たすべき責務を投げ捨てて、一心不乱にスレッタに飛びつく。
強くなければ生き残れなかったミオリネが、固い殻の中に隠していたとても柔らかなものに真っ先に触れて、それを大事にしてきたから彼女の特別になれた少女の仮面が最後、泣き虫なフィアンセの顔を照らしているのも、とても良い。
人が譲れぬ者のために争えば、握った刃は何かを致命的に終わらせていく。
その取り返しのつかなさを強く睨みつつ、笑えない結末をどうにか笑って迎えられる形に捻じ曲げて、結構な数が生き延びてこのお話は終わっていく。
それは㈱ガンダムを医療企業として立ち上げたからには、現実なるものに膝を屈して終わっちゃいけないポイントだったろうし、思い返せばコンパクトで甘やかなお話だった”水星の魔女”らしい決着だとも思う。
まーなんだ、生きてる方が死ぬより、やっぱり良いよ。
死ぬしかない状況、死にたくないけど生きれない状況が沢山あるのだと示してきた物語だけど、そんな悲しい結末が何もかもを飲み込んでしまう重たさより、なおのこと強い羽ばたきが、今を生きる人達には確かにある。
そう信じて誰かを抱きしめられるのは、抱きしめられなかった誰かの思い出が、痛ましい後悔となって胸を焼いて、あがきを止めるのを許さないからでもあろう。
そんなふうに生き死にを絡め取り不可思議に転がっていく物語の、あるべき一つの決着。
それが抱擁と帰還であることに、僕はとても満足している。
水星の魔女完ッ!!
……宇宙空間でヘルメットが過剰にコツンコツンするの、『日5というフレームが同性間のダイレクトなKISS&HUGを許さんわけだが、ここまで見守ったお前らは理解れ理解ってくれ!!』という暗号を勝手に感じ取ってしまって、第22話の隠微なる指先のダンスと合わせて、メチャクチャに面白いな……。
あとまぁ、運命的な出会いを果たした第1話では宇宙空間を漂流するミオリネをスレッタが救助する形で始まり、全てが決着するこのタイミングでは漂流者と救助者が逆になってお終わるという、対照の構図でもあるか。
そして三年後、豊穣たるエピローグである。
生き延びて学園を出たものはあるものは罪を償い、または傷を癒やし、失われたなお残る約束を現実に焼き付けるために、物語の続きを生きている。
先週燃え盛る情念をフェルシーにしっかり消化してもらったラウダが手渡した赤い人形が、巡り巡ってエリーの新しい器となってミオリネ社長の忙しい日々に同行し、憎まれ口を叩き合ういい関係が始まっている様子が、なかなか良い。
プロスペラとスレッタしか聴くことが出来なかったその声を、おそらくヴァナディースの遺志をより善く継いだ㈱ガンダム開発のデバイスにより、ガンドの子ではないミオリネも聞けるようになっているのは、本編では格差を拡大し紛争の火種にしかならなかった技術が、より善く人間の幸福と可能性を拡大していける希望の現れだ。
テロルにより失われたペトラの身体が、兄との距離感を適切に取れるようになったラウダに支えられ、また㈱ガンダムの義肢技術によって補われて、機械との良き関係を拡張する形で補われているのも、見たかった光景である。
医療技術としてのパーメットはエルノラがあの始まりの日燃やされた夢であり、新たに家族となったミオリネが引き継ぐ形で発展させているのは、悪しき閉鎖系として、それでもなお引きちぎれない愛着の源として描かれてきた”家”が、この先に続く物語ではもう少し風通しよく、心地いい場所として本来の可能性を取り戻せる期待を、眩しく抱かせてもくれる。
……スレッタとミオリネの婚礼はデリングもまた義父として、苦難も罪も共有する家族共同体に取り込んだわけだが、魔女の人生を捻じ曲げた虐殺に至る彼の地獄がどんなもんだったか、ママンにあてがわれた尺に比べると描写が薄くアンバランスなのは、まーしゃーないわな。
2クールという長いようでいて、描こうとしているものに対し短すぎる尺の中、SNSの情報伸展力を計算に入れた超高速・超圧縮展開でぶん回しきった結果、この詰め込み過ぎなフィナーレをむしろ幸福に受け入れられる、ドライブ状態の脳髄が生み出されているわけで。
そういう速度で展開する以上置き去りにするものはたくさんあるし、この速さで走りきったからこそ生まれたものは、そうして取りこぼされたものより多いと僕は感じている。
でもまーどっかで、PROLOGUEに至る王の地獄は見てみたいよ。
……今PROLOGUEの感想見直すとマジでデリングを超憎んでいて、それが24話話に付き合ってみてこういう願いになるんだから、物語を積み上げて生まれるもの、変わっていくものってのは大きいなと感じる。
ミカが三年の刑期を勤め上げ、おそらくは司法取引によりサビーナ達がミオリネの側に立つ中、シャディクはクワイエット・ゼロの罪科も自分に引き受けて、大好きだった女の子にサヨナラを言う。
結局死体を数え上げてみると、地球の魔女やら強化人士やら、社会の底辺で大きなモノにのしかかられた不自由なガキばかりが死んで、そういう場所から這い出してそれをひっくり返したかった男が、極刑こそが望みの結末とばかり颯爽と立つ構図にもなっている。
『ペイルの四魔女くらいは、キッチリツメてもいいだろ!』と思わなくもないし、サイバーな外装脱ぎ捨ててフツーのババァになった彼女たちが小憎らしくも愛しくもあり、自分としても心の置きどころは難しい。
デリングたちへの公聴会が継続中であるなら、ケナンジさんが差し出した『大人の責任』をこういう世界にしてしまった連中が率先して引き受ける準備を、三年かけて裏で整えていた……と読むことも出来るが、何しろこのアニメには愛されうる所まで育ったキャラが多いので、そこら辺を深く掘る横幅は今後に期待……というところか。
赤色にしろ白色にしろ、テロルによって情勢を書き換えんと大規模暴力行為を実行し、不公平な隠蔽や謀略を用いて自分の望む社会を得ようとしたものは、この歪なる近未来中世には多い。
それを裁くべき”公”も大分腐り果てて機能不全に陥っている様子が、ラスボスを買って出た議会連合の体たらくで見えている中で、間違えきった大人たちの素っ首を並べ、自由になった子ども達だけが荒野を闊歩すれば公平な裁きが行われたことになるのかは、判断が難しいところだ。
何より作中のキャラクターたちが……あの可愛そうな地球の魔女たちですら、殺し殺される血の連鎖よりもうちょい実りのあるものを望んでこの決着なので、色んなモノが戯画化されつつ、だからこそ現実のいろんな側面を反射し得たお話の最後に、あんま死人が並ばないのは良いことかな、と思う。
まーシンプルに自分の気持ちの話をすると、お話もそこに生きる人たちも好きになっちゃったんで、死なれるよりは生きてくれてたほうが嬉しい……てのはデカい。
そんな中シャディク・ゼネリは笑ってサヨナラを言った。
そこに何が含まれているかは(エピローグに刻まれた他の暗号と同じように)鮮明ではなく、様々に判断できる材料だけが多彩に転がっている。
クワイエット・ゼロの業まで背負って公判に臨む彼は、ミオリネがグループ解体の理想を背負ってくれた事実、自分の理想に殉じた”家族”の減刑をなぐさみに、刑死を一つのゴールとして受け入れるつもりなのだろうか?
彼ほどに思い詰め迷い選んだ人が、『これで良し』と笑って終わっていくのならそれもまた一つの終わりである感じもするし、その罪がどこから滲んだかを思えば、玉座から降りた王たちはその栄光の影を、支配の残滓を背負って、果たすべきを果たす感じもある。
それを為しうる正しさを食いつぶすことで、私家企業による社会支配という体制が確立してきた(だろう)歴史は本編の外側であり、僕が勝手に想像し楽しんでいる部分ではあるのだけども、シャディクがテロルによって、デリングとサリウスが”公”に向き合う準備を進める中で、自分の死体の上に再構築しようとしているモノは同じな気もする。
太平を呼び込むための生贄の羊として、子ども一人だけが縊り殺されていく未来に老王たちが寄り添うのならば、それは過ちを思い知って己を正す可能性は子供だけではなく、老人たちにも拓けている証明になろう。
クソみて~な生き方で世界を高いところから踏みつけてきたジジイ共が、この歪で危うい世界に最後何かを残すのであれば、それは穏やかな老醜ではなくはらわた掻っ捌いて未来を占う、赤心の破滅であって欲しい気持ちが、僕には強い。
死んでやれ、アンタらが怪物にしてしまった男の子と一緒に。
そういう感じだ。
そんな後ろ向きの始末より眩しく、エピローグには”学校”が眩しい。
サビーナが冷静に睨むように、地上に向かって公平に分配されたはずの資産は宇宙に再び吸い上げられつつあり、権力の構造はまるで生き汚い獣のように、自身の解体を拒絶し暴れる。
その余震は今後も世界に大きく広がり、身内を理不尽に殺されたテロルの犠牲者たちは当然ミオリネを……彼女が世界を変えたいからこそ依然繋がりを持つ(持たざるを得ない)空の上のお城を、許しはしない。
そこをハッピーエンドのローラーで均して、特別な運命に選ばれた”家族”ではない側……顔も名前も持たず、しかし確かに生きて何かを望む人たちの声を完全に封じ込めて終わってしまっては、かなり苦い後味が残ったと思うので、ミオリネさんが差し出された手を跳ね除けられるのは正しい描写だと思う。
拒絶されてなお立ち上がり、手を伸ばすこと/受け止めてもらうことの意味はあの暗い部屋からスレッタに促されて出てきた時、既に学んだわけだから、ミオリネさんはやかましい小姑とシャディクの遺産を隣において、ずっと荒野を進み続けるだろう。
そういう場所に進み出せるのは、長らく物語の舞台となった大きな箱……アスティカシア高等専門学園の思い出と出会いが、彼女の心に眩しいからだ。
グループ解体の荒波をなんとか乗り越え、家族を守りつつ学園を再興もしたグエルの頑張りも、『思い返せば、とびきりのバカだったな」とほほえみながら思い返せる、青春の宿木としたあの学び舎から受け取ったものが、とても大きいから生まれる。
テロリスト養成施設だった地球の学校も、本来の機能を回復して未来に種子をまいているが、あまりに不完全で不平等で理不尽なこの世界はとても簡単に、そこにある輝きをかき消してしまうだろう。
そうさせないために、受け取ったものをより良い形で未来に継げるように、アスカティシアの卒業生たちは自分たちの新しい居場所で、それぞれの物語を進んでいく。
その晴れ姿が、あの不完全で不平等で治安が悪い、でも確かに楽しさと輝きがたっぷりとあった”学校”が何を生み出しうるのか、誇らしく裏打ちしているように思う。
そしてその前向きさは、今まさに”学校”と”家庭”をほぼ唯一の世間として、生きるか死ぬかの青春闘争に挑んでいる世代をメインターゲットに選んだこのガンダムにとって、絶対必要なものであったように思う。
君たちが今いる場所とは似ても似つかない、でも血生臭さと不自由さがどこか似通っている、過剰に家族的で過剰に学園テイストなこの箱庭で、紡がれていく物語。
それが行き着く先はニヒリズム混じりの峻厳なリアルを睨みつつも、あくまで強引なハッピーエンドをとびきりの面白さで飲み込ませるファンタジーとして、眩く決着していく。
そういう幸福の揺籃として、呪いを祝福に転嫁しうる可能性の苗床として、”学校”を描き……物語の最後にまた眩く、新たに再生もさせる。
そのスケッチは、間違いなく優れた”学園モノ”だったこのアニメにとって、自分が選んだジャンルへの義理として、作り上げた物語とそこから生まれるメッセージへの信頼として、描かなければいけないものだったと思う。
それをちゃんとやり遂げてくれて、僕はとても嬉しかった。
長い旅を終えて物語が幕を閉じる最後の舞台に選ばれた地球は、一服の絵画のように綺麗だ。
それはレノアがスケッチブックの奥に秘めて、それを覗き込んでしまったがゆえに五号がクソ御曹司のコピーではイられなくなった風景であり、ミオリネさんが亡き母の面影を、その血塗られた実態を知らないまま夢見ていたユートピアの色そのものだ。
学園という閉鎖系、宇宙を舞台にした人工的な不毛をずっと描いてきた物語が、どこにもない楽園と夢見られてきたエデンの実情を、地球の魔女と最悪な”学校”を活かす形で描いて、そこに封じられた矛盾や呪いや祈りをたっぷり暴れさせた後、最後にたどり着いた景色は広く、穏やかな命に満ちている。
この景色を追い求め辿り着き、ここを家としてまた旅立っていくべき夢として成立させるために、狭い場所に閉じて転がる物語……その狭さに誰かを入れ、あるいは入れない様子を追い求め続けてきたお話があったのかなと、閉鎖と侵入のアニメとして見てきた僕は思う。
五号が追い求める約束の地も、ミオリネさんがようやく見つけた麦畑の学校にも、植物が持つ穏やかな豊かさが満ちているのが、あの温室で未熟な果実を切り捨てられないまま、母の思い出を小さく守りすがりついてきた女の子の行く末として、納得と満足度が高い。
クワイエット・ゼロはキラキラ粒子になって後腐れなく消失したが、そこに母が願った植物的平穏はそのまま娘たちに受け継がれて、夢ではなく現実の一つとして確かに、大地に根を下ろした。
そういうエンディングであろう。
そこに愛ゆえに殺戮を蒔いた死の庭師が、仮面を外し穏やかに微笑んでいて良いのかは……マジ悩むな……。
俺もママン好きになっちゃったし、スレッタが選び取った答えが”それ”なんで生きてる方が良いとは思うが、他の大人と同じく精算できるはずもない業と犠牲に塗れてるのは事実で、どう償ったものか解んねぇのもある。
死んで終わる決着は、良心の疼きを仮面で殺し続けてきたプロスペラの望む所でもあったわけだが、スレッタは全霊を賭してその”一つ”ではなく、もっと欲張りな”二つ”を願った。
それが母から受け取った魔法であることを思い出すと、プロスペラが失い奪われてしまった夢を彼女の娘たちが引き継ぎ形にして、生きてその行く末を少し見守れるだろうこの終わり方で、やっぱ良かった感じがする。
手を伸ばす、手を取る。
幾度も希望の表れとして、人と人が触れ合い繋がりうる希望として描かれたモチーフを最後の最後に再演し、物語は目一杯の祝福とともに終わる。
左手薬指に燦然と輝く、約束の指輪があまりにも眩しい。
おめでとう、スレッタ・マーキュリー。
おめでとう、ミオリネさん。
水星や地球に学校を作り、ガンド技術を命を守る祈りとして紡いでいくこれからの二人の道のりに、沢山の幸せがあると良いなと思います。
本当におめでとう。
諦めずスレッタが手を伸ばした結果、新しい体を手に入れたエリーがミオリネさんに悪態つきつつ、地球に宇宙に忙しく駆け回る彼女の同行者として(なかなかお互い素直には認めないだろうけど、大事な友達であり家族としても)殺戮マシーンを身体にしていた時には見れなかった場所を生きていられるのが、僕は嬉しかった。
それはプロスペら・マーキュリーが沢山人を殺し、色んな嘘と悪逆で世界を欺いてでも、唯一娘に手渡してあげたかった夢だからだ。
それを母と姉から引き継いで、二人だけの狭い終わりからより広い場所へと接続するために、スレッタはエアリアルの加護なくガンドの呪いと向き合い、リハビリに勤しみながら傷ついた足で前に進んでいく。
ソフィが自分の命を燃やしながら、必死に”姉”に訴えるように望みを叫んでいた時は分からなかった痛みを引き受けることで、スレッタは断ち切られそうになった願いや未来を、自分の手で掴み取れた。
その代償として傷ついた体を得たわけだが、片手はミオリネさんが引いてくれるし、ガンドの技術はもはや子どもを食い殺す呪いではなく、ペトラたち失ってなお生きていく人たちの支えとして蘇っている。
プロスペラもまたガンドに蝕まれていた事を考えると、何かに守られて痛みを遠ざけてい卵の時代から、過酷極まる試練を覚醒の契機と受け止めてようやく、傷だらけに歪んで真っ直ぐ進めなくなった人たちと同じ視線に、水星のおのぼりさんも立てたのかもしれない。
そこはただただ当たり前の幸せを凶暴に求めて、叶わず殺し死んでいった魔女の姉妹たちが、見たかった場所だ。
貧しき犠牲者たちは結局そこに立てなかったと考えるべきか、死してなお継がれるものを背負ってスレッタや五号は麗しき地球を歩くのか、パーメットの祝福は宇宙の瞬きに消えてなお、死者の祈りを現世にとどめているのか。
作品は明瞭な答えを(他のたくさんの描写と同じように)示さず、それを結論づけるのはあくまで僕らだ。
それはこのお話の特色たる豊穣たる未塾なのだと、見終わった今は思っている。
かくして、令和の新しいガンダムが終わった。
SNS時代のスピードと情報消化速度、拡散深度を最初から勘案し、明らかに2クールでは扱いきれない情報量や物語濃度、ネタとテーマを満載して動き出した物語は、どこに転がっていくのか全く読めないハラハラ感と、それがリアルタイムに醸し出す脳髄のドライブ感と、上がったり下がったり翻弄されながらも見てしまう可愛げを、元気に有していた。
終わった後から思い出すと、相当八方破れの力勝負、色んなところに穴があるお話に見えてしまうのかもしれないけど、僕は”水星の魔女”をリアルタイムで追いかけ、感想を書き、その熱狂をネット越し、あるいは友人とのdiscordの会話越しに共有する体験を選び、受け取った。
それは楽しく、豊かな大はしゃぎであったと、愉快に思い返している。
”テンペスト”を基軸に、古くて新しい抑圧と断絶に塗れた企業宮廷、その歪な揺籃たる学園に的を絞って始まった物語は、あくまでミクロなスケールに焦点を当てて転がることで、濃厚な関係性の変化と、そこから生み出される感情のドラマを見ているものに叩きつけた。
国家規模の戦争ではなく、あくまで私欲と業が構造にまで敷衍した紛争……それを無毒化した決闘を”ガンダム”として扱ったことで、これまでとは違ったスケール感とフォーカスで、新しい物語を紡げていたと思う。
そのコンパクトさが否応なく取りこぼしたものも多々あろうが、あんだけドッタンバッタン大騒ぎに風呂敷を広げつつ、なんとか『面白いアニメだったね!』が一番最初に来る読後感で終われたのは、やはり短く狭いからこその身の詰まった圧力を、最後まで生かし切れたからだと思う。
ここら辺の収まりは、『面白い』という創作で一番シンプルで掟破りな強さを要所でブン回し、高速すぎる地球の魔女の転校とかセセリア懺悔室とか凶悪宇宙兵器群とか、強引な横車を無理くり飲ませてしまうパワーがあったから、生まれたとも感じる。
このハチャメチャなパワーを計画的に、精妙に突き刺す犯行計画は、色々飲みにくい凹凸はありつつむしろその苦さごと飲み込みたくなる決着を、最後にしっかり手渡してくれた気がする。
何もかもが作りものなアニメーションのなかで、”現実的”なるものがどんな顔をしているのか、見分けることは思いの外難しいと思う。
原典からして劇場的空間を必要とし、MS決闘学園という飛び道具でリアリティラインを押し下げ、技術と経済が行き着く最悪の可能性を、陰謀渦巻く企業宮廷として描きなおした、この新たなるファンタジーは、多分あんまり”リアル”ではない。
でもそこで描く物語が嘘っぱちにはならないように、キャラクターが流す涙と血に体温が宿るように、貪欲かつ慎重に現実から取り込まれたものはたくさんあって、それは物語を加速させる燃料として、僕らの心に馴染む潤滑油として、それなり以上に機能していたと僕は思っている。
その幻想と現実のダンスの仕方が、SFでありファンタジーであることの意味と強さを物語に宿した足取りが、この話の沢山ある好きなポイントの一つだ。
同性愛や貧困、価値断絶や収奪の構造など、今っぽいネタを触りつつ決定的には踏み込みきらないその足取りを、絶妙と評するか及び腰となじるかは、人によって異なると思う。
なにしろ過大な情報量を、スクショと解説動画を通じて消化・拡散されることを前提にした物語であるから、24分の視聴体験を越えて浮かび上がっているものがおそらくは設計段階から仕込まれていて、亡霊のようにネットの上を、そこに繋がった人たちの間を駆け巡るお話ではあった。
そういう付随情報に触れたりとか、あるいは個人の興味領域に応じてどう読むかとか、元々『物語を読む』という行為に付随はしているけども、ここまでドラスティックに駆動していなかった行為で、ブーストされ拡大されることで生まれる、独自の奥行き。
その拡大と拡散に、ちったぁ自分も共犯したのかなという手応えも、最終回を見終えた今ある。
長すぎ読みすぎ考え過ぎなスタイルを絡め取られて、最初はサラッと距離を取ってストイックに感想を書こうと思っていた目論見は見事に崩れてしまった。
結果、この体たらくである。
まんまと作品が多角的に狙い撃つ”いいお客”になっただろう自分としては、若人が血に呪われ家に閉じ込められつつ必死にもがいて、なんとか自分たちだけの未来へ手を繋いで進んでいく過酷で前向きな物語をメインにしつつ、そのスパイスとして選んだネタへの視線は、結構真摯だったのかなと考えている。
あばたもえくぼ、楽しませてもらって好きにもなってしまった今の自分はあんま冷静な判断を下せてはいないのだろうけど、この酩酊と高揚はアニメに潜って返ってきた何よりのご褒美で、そういうのを味わえるのはやっぱり嬉しいことだ。
色々あったし、終わってみると色々言わなきゃいけないことがあるアニメだとも思うが、しかし物語を追う内スレッタとミオリネさんが好きになった自分としては、彼女たちがお互いへの愛を堂々指輪に刻んで、これからも大変なことがたくさん待ってる美しい世界へ手を繋いで、進んでいける終わりになったのは、何よりも嬉しい。
ありがとう、お疲れ様でした。
2クールの長きにわたり、たっぷりと楽しませてもらいました。
色々読みたい補講はあるけども、水星の魔女のお話として凄く気持ちのいい結末へ、繊細な力強さとハチャメチャな前向きさで、それを否応なく塞ぐ苦しさや難しさにも必要なだけ向き合ってなお、扱うものの重さに潰されず走りきってくれて、とても嬉しかったです。
それは物語る人たちが当たり前に果たすべき責務のように思えて、とてもタフな心根と確かな腕前を要求する、一つの奇跡だと思うから。
”水星の魔女”、とっても良かったです。
本当にありがとう!!