イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:仮面の私にさようなら

 久々のプロセカ感想となる。
 進級を前に色々収まったり新たな火種が吹き出したり、地盤が揺れている感じであるけども、ニーゴのタイトル出しエピソードは長らく災厄の周辺を巡ってきた物語がその心臓にたどり着いて、雨中に何かが終わって始まるお話となった。
 ここまでの積み重ねを思えば必然であるし、まふゆがこの後も生きていくには必然の切開であるけど、ずっとお母さんが好きで、お母さんも自分を真実愛してくれているのだと思いたかったまふゆの辛さを考えると、『良かったね』とはとても言えない。
 ニーゴメインエピにおいてはその分からなさすら不鮮明だった、不安と不快と願いの正体に色んな人のネガイを背負って踏み込んだ結果は、無理解の壁を壊せぬまま駆け出す形になった。
 消えたい死にたい以外なかった始まりから、どうにかネガイを殺されずに生きていく道に噛み付いてこうなっているのが、”成長”なのか僕には分からないけども。
 冷たい雨にずぶ濡れのままでも生きることをまふゆが選んで、それを奏が『大丈夫』と嘘ついて抱きしめあげれたことは、嵐の中微かな希望であろう。
 欠片も大丈夫じゃないこの状況を、どう大丈夫にしていくのか。
 肥大化しきった静脈瘤が遂に破裂した今、ニーゴと彼らのヴァーチャルシンガー達の戦いは、新たな段階へとシフトしていくのだろう。

 

 というわけで、起こるべきことが起きた今回。
 他ユニットがプロ契約結んだり仕事量が爆発的に増えたり、メコメコに凹まされてなお自分たちだけの伝説を目指したり、新たなキャリアのために巣立つ日を見つめだしたりする中、ニーゴは同じ場所をぐるぐると回り続けた。
 社会に接合した横幅広い変化よりも、身内の暗い問題に深く深く潜っていく物語を背負う関係上、それはディープで痛くて、一見変化の少ない足取りになる。
 ヴァーチャルシンガー達が現実世界に影響を及ぼしにくい関係上、そこで自己実現を果たす他ユニットの面々を、優しい避難所で支え助言しつつも、決定的な変化は彼らを外において起きてきた感じがある。
 しかしニーゴは狭く深い場所にとどまり続けた結果、まふゆが母の毒に抵抗し思いを伝えるこの決定機において、非常に大きな仕事を果たした。

 ニーゴKAITOは非常に荒々しく、母への反抗と生存をずっと煽ってきた。
 それを僕はまふゆの怒りが具体化したモジュールだと考えていたのだが、今回の働きかけを思うと彼が体現しているのは”客観”なのかな、と思う。
 愛着や自意識を一旦離れ、自分と自分を取り巻く環境、そこで起きている変化を俯瞰で見つめた時、確認できる違和感や道理。
 娘が苦しみながら仮面を外し真実を吐露しても、母はその苦痛以外の所を見つめてすれ違っている現状が書かれた今、KAITOが見つめまふゆに託し、それに背中を押されて踏み出した決断には、苦痛を伴う客観性がある。

 どう考えても、それはおかしい。
 『母は真実、自分を愛している』と信じたいまふゆがずっと見れなかったものを、KAITOは彼女に先んじて認識し、捻れた愛着共犯が行き着く先にある魂の死を、獣のように睨んでいた。
 黙っていれば絡みついてくるへその緒で窒息して、母の願望に縛られた人形として心を殺され、あるいはニーゴの物語最初にそこに追い詰められたように、自分を終わらせる選択肢をすることになる。
 優等生の仮面で自分を守りつつ、何も感じないことで辛さを誤魔化してきたまふゆが、麻酔薬のように接種し続けてきた離人と愛着を、貫通して沸き立つ希死念慮
 『死にたい』というネガイと、血が出るほどに裏腹な『生きたい』という叫びを無視しながら母と一緒に生きようとしたまふゆが、遂に無視できなくなった客観的事実。
 自分はニーゴなしでは生きていると言えないし、それを殺してくるお母さんが怖いし嫌いだ。
 その事実を、まふゆは混乱と迷妄の果てに抱きしめることにした。
 結果、あの雨中の放浪である。
 あんまりにも寂しく哀しいが、それをスタートとするしかねぇんだから、まぁしょうがねぇ。
 奏がいてくれて、そんな彼女が進み出すべき頃をKAITOが正しく告げてくれて、それは本当に良かった。

 

 まふゆの母はKAITOが持つ客観性を喪失して、『娘を愛している自分』というネガイに呪われ溺れているように見える。
 歯はこの関係に決定的にヒビが入るイベントが、『携帯電話の水没』なのがなんとも暗喩的なのだけど、自律呼吸もままならない我が子を羊水の中守ってきた時代から、まふゆとの関係性を、認識の上で変化させられていない。
 自分のネガイは全部娘のそれと同じで、なにもかも娘の為で、献身的な自己犠牲を娘の将来のために捧げる、美しい母として、自分を観たい。
 そんな願望が客観を殺して、傍から見たら自分が何をしでかしているか、認識を阻害している。

 自分が加害的になりうる存在で、間違えたり傷つけたりする当たり前の人間なのだという事実を、まふゆの母はどうあっても……それこそ娘を精神的/肉体的死に追いやっても、認識したくないのだと思う。
 それはまふゆだってそこに浸っていたかった、愛に包まれお互い安らぎあえる幼年期が、未だに続いているのだと思い込みたい。
 そうすれば、自分は絶対の存在として娘を支配し、正しさをその人生から吸い上げて傷つく必要がないからだ。
 神様でいられるからだ。

 ニーゴの面々はそれぞれ自分たちなりの間違いにすっ転び、傷の痛みにワンワン泣いて、だからこそ転ぶ前より強くなって立ち上がる事を選んでいる。
 自分が弱くて間違いだらけの存在だと、客観的に認めたからこそ新たに進みだせる旅路の一切は、例えば絵名の物語に顕著だ。
 あるいは自分が間違っている、許されず救われない存在だと思いこむことでなんとか生きれていた危うさを、それだけが自分の全部ではなく、確かに愛され満たされていたからこそ今ここにいるのだと気づく歩みを、奏は進んできた。
 瑞希が自分をどういう人間だと認識し、世界にどう認識してもらいたいかについては未だヴェールに包まれているので、確たることは言えないけども、自分を神様だなんて思い込んでいないことは、明るい笑顔を引っ剥がして溢れてくる、山盛りのコンプレックスからも見て取れる。
 みな、自分が完璧なんかじゃなく間違えまくり、それでも少しは誰かと繋がったり、誰かを愛せる事実を、噛み砕いて生きている。

 まふゆも今回追い詰められた限界の中で、母と自分の過ちや弱さを、真っ直ぐ見据えることになる。
 お母さんは完璧なんかじゃなくて、そのネガイは窒息性の毒で、飲み干してあげることはどうしても出来ないと、認めたからその辛さを叫んだ。
 でもお母さんは、自分が叩きつけた真実から目をそらして、自分以外の誰かが間違っていて悪いのだと、壊すべき相手を未だ探している。
 自分が叫んでいる自分だけの真実に、よりそって一緒に同じモノを見てくれない孤独が、今まふゆを凄く傷つけていると思う。
 それは人間の必然で、他人のことなんて解り得ない断絶を前提にした上で、ニーゴは一瞬だけ何かが繋がる奇跡を求めて、みんなで歌を作ってきた。
 こういう所でも、まふゆ母の世界認識、人格形成とニーゴのそれは真逆に対立している。

 

 まふゆ母は賢く冷徹なので、大人である自分、母である自分が使える凶器がどんなものか、ここは凄く客観的に的確に認識しながら、今後を戦ってくるだろう。
 経済的優位、背負うべき責任、無条件の愛情を求められ差し出せる権力勾配。
 お母さんとして大人として、二重の意味で子どもであるニーゴが持っていないものを逆手に握って、時に正論で、時に強権的で陰湿な暴力で、彼らを追い込んでくるだろう。
 横から親子の関係に割り込んできたガキに、愛娘を奪われてしまったら、それを支えに確立される神の如き自己像も、同時に崩壊していくのだから。
 そらー、死にものぐるいにもなる。
 人間一人と本当に向き合うってのは、まぁそういう重たさと摩擦熱を宿すものなのだろう。

 しかしあっちが死にものぐるいなら、こっちはダチとどうにか生き延びて25時にもう一度会うために、生きぐるいに突っ走るしかもう道がないのだ。
 こんだけ傷つけられて、本気で叫んだのに本気では受け取ってもらえなくて、それどころか前と変わらない勝手な押しつけと支配を、『あなたのためなのよ?』という甘い嘘を、押し付けて殺されかけたまふゆを前に、皆が黙っていられないだろう。
 自分が望むようには、一番自分を愛してほしかった人が、自分を愛してくれなかった。
 そういうあんまりに残酷な事実が、世界にはゴミみたいに当たり前に転がっていて、その鋭利な切断面と触れ合うと、心から真っ赤な血が飛沫く。
 それを知ったまふゆに、それでも『大丈夫だよ』と告げてしまった以上、奏は戦うしか無い。
 それは今始まった闘争ではなく、自分の才能が愛すべき家族をぶっ壊した時、カーネーションを手渡してくれた母が死んだ時、もう始まっていた、生きるための闘いだ。

 死にたい消えたい以外ない。
 口から飛び出す呪いの奥に、燃え盛る『生きたい』を隠している百億の同志のために、ネットの海に歌を放流し続けてきたユニットは、真実の愛も愛の真実も当然には存在してくれない残酷に、ぶつかってなお、どんな歌を作るのか。
 25時ナイトコードでもう一度会うために、母の愛亡き世界で生きて生きていき続けるために、何を叫ぶのか。
 ひび割れた仮面の奥で、朝比奈まふゆはどんな顔を、自分の真実として選ぶのか。
 ニーゴ新章はこれまで以上に重苦しく、切なく痛く、寂しくて優しい物語になるだろう。
 とても楽しみだ。