イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

NieR:Automata Ver1.1a:第10話『over[Z]ealous』感想

 神の死に絶えた人形たちの土地で、赤い狂熱が燃え広がっていく。
 イヴの死が全てを狂わせていく、ニーアアニメ第10話である。

 旧約聖書に名高い熱心党、ゼロテの名を関するサブタイトルにふさわしく、今回機械生命体が擬するのは”信仰(あるいは狂信)”である。
 セックスにしろ家族にしろ、彼らが真似る人間性は気づけば捻じくれて醜悪に……だからこそ”人間”なるものの真実を露悪に暴くわけだが、それこそが人に似て人ではないものの宿命なのかもしれない。
 イヴを奪われて始めて、アダムは愛と憎悪と意味を真実理解し、瞳を赤く狂わせて闘争へと突き進んでいく。
 物分り良くキモい理念主義はどっかに押し流されて、死を世界唯一の真実として受け入れるのではなく、最悪の結末として憎い仇に、理不尽な世界に押し付けていく道へと突っ込んでいく。
 その実感が機械の教祖を殺し、ごろりと転げた頭が破滅のトリガーを引き、マトモに思えた教団は正気を保った連中を巻き込んだ自滅に転がり落ちる。
 ただ笑っているだけ、優しいだけに思えた役立たずのイヴこそが、機械生命体の通信ハブとして彼らの社会性と永遠を保っていたことと合わせて、皮肉な結末……というには、僕には不思議と納得が強い展開だ。
 創造主を殺してなお、意味もなく地上をさすらい殺し、別の生き方を探して満たされない人間モドキたちの末路としては、この正しくなさこそが正しいと思える。

 機械生命体の赤い狂気に反する形で、2Bは仲間を抱きかかえ、協力しながら生き延びようとする。
 悪しき神たるエイリアンも、善なる創造主たる人間も軒並み滅び倒した、虚無の地平にこそ、今2Bは立っている。 神になりうるモノたちがどこにもいないのであれば、世界唯一の意思保有者として人形たちこそが”人間”なのであり、彼らのヒューマニティが何に支えられ、何に傷つけられるかを、ここからの決戦は描いていくことになる。
 そこに信仰の居場所がないことを今回のエピソードは描くが、たとえ神が信じられないとしても共に闘った仲間たちは、それを信じる自分は信じられるのかもしれないと、眼帯の奥に強い意志を宿してきた2Bの姿は語っている……のか?
 社会的であり物理的でもあるネットワークに繋がれ、コピー可能な道具としての定めから逃れられない2Bにはたして、新世代の人間代表としての資格があるのか。
 自身を神と崇め接触してきた教祖を蹴り殺し、孤独な狂気に身を委ねるアダムと、破滅へと加速する世界の中でなお繋がりを保つ2Bには、僕らが感じるほどの差はないのかもしれない。
 残り三話の物語が、人に似て人ではない……だからこそあまりに人間的な彼らの在り方をどう描ききってくれるのか、とても楽しみになった。

 

 

 

画像は”NieR:Automata Ver1.1a”第10話より引用

 イヴの死はアダムと機械生命体の運命を狂わせていくが、その根本はイカれた過剰理性に侵され、『死こそが不完全な私を完成させる!』と、闘争を弄んだアダムの選択にある。
 実際身を焼かれるまで愛を奪われ二度と会えない理不尽と虚しさは実感を宿さないものだが、焼かれてしまえばそれは不可逆な傷となって、決定的に何かを壊す。
 それこそがアダムが求めていた、コピーも再生も不可能な彼だけの人の証……人を人たらしめる知恵の実だとするなら、なんとも悲しく愚かなことだ。
 楽園の意味は追放されて初めて解って、当たり前に自分の向こう側を埋めてくれていた笑顔がもうない事実が、アダムを赤く黒く狂わせていく。
 自分を神と崇めて不在の椅子に座った教祖を、アダムは激情のまま蹴り殺すが、それはそこにいるべきイヴへの絶対的な愛と、それが決定的に壊れた(しかも、自分の探求の結果として)事実が駆動させる、愚かで切実な殺意だ。
 演算に秀で何もかも理解しているはずの機械生命が、愛別離苦の定めをその身に受け止め感じるまで、真実理解は出来ていなかった。
 頬を伝う涙の実感は、愛するものが死んで始めて真実の熱量を宿して、アダムの頬を流れていく。
 そんな皮肉がアダムと機械生命体の運命を捻じ曲げていくけども、その計算しきれなさが、神なき現実を生きる人間らしくて、おぞましくも微笑ましい。

 アダムにとって神様になることよりもイヴがいてくれることのほうが、億倍も大事で満たされていた。
 馬鹿な弟と二人だけで、幸せに生きられていたのだと実感するのがその死後であるのは、戦いの中で仲間たちの意味を強く噛み締めてきた2Bと真逆の道だ。
 窮地を乗り切るために死を覚悟して超絶ビームを撃ち、倒れ伏したポッドたちを2Bは、その片腕に抱く。
 戦う機械としては死体を野ざらしに、剣を両手で構えるべき局面なのだろうけど、静かに怒り続けている僕らの主役は、剣を手放さないまま仲間の命をその手で抱く決断を、何度目か果たしている。
 一人ならば死に絶えていただろう戦いを、ポンコツの体をのっとった9Sの支援でもって乗り越えていく彼女は、月の上層部や仇敵たる機械生命体が持ち得ない、隣人への愛を刃に宿しながら、ずっと戦っている。
 それは狂気に堕した司祭たちが、黄色い瞳で正気と信仰を……『より善く生きる』という人間の証明をまだ保ち求めている信徒を虐殺するのとは、逆様の情景だ。
 そして彼らが機械であり人形であり……つまりは人間である以上、真逆に思えるこの光景もより大きなモノに一括りにされる、背中合わせの2つの顔なのだ。

 

 機械生命体はネットワークに繋がることで、永遠の存在となり狂気に感染していく。
 ”火の鳥 復活編”のロビタめいた溶鉱炉への投身は、死を以て失われたイヴへと回帰し一つになるという、彼らなりの信仰(というにはやけっぱちすぎるけど)の現れだ。
 運命に選ばれて生まれ、愛に身を投げて死んだイヴの特別な意思は、彼をハブとするネットワークの下位存在には生まれ得ず、機械人形たちは蟻や蜂のように群れとして繋がり、生き、死んでいく。
 ……とまとめきっては、個人として怯えながら殺されていった、黄色い瞳の人形たちに申し訳が絶たないだろう。
 ネットワーク全体から見ればエラーでしかない、集団意識に染まらない個性は常にそこにあり、しかしそれがあることが幸福の保証書ではない。
 狂えない人形は理不尽に湧き上がった狂気に染まれないまま、死にたくないと願いながら殺され終わっていく。
 それは運命に選ばれた2Bが飲み込まれない、脆弱で尊重すべきいのち、一つの終わり方だ。

 久々のスーパースタイリッシュアクションも交えつつ、2Bはネットワークと断線し、繋がり直し、その指示に飲み込まれない意思/自由を保ち続ける。
 アダムとイヴの殺害、機械生命体の抹殺という、アンドロイド全体の指令はそれを下した人間が消え去ってもなお、人形たちを縛っている。
 しかし電子のへその緒に縛り付けられたとしても、荒廃した地上で戦い続ける戦士たちは個別の意思と命、物語を抱えて戦い続けている。
 空に回収された9Sを思い、力尽きたポッドを片手に抱く絆こそ、自分を自分たらしめてくれるのだと、2Bは生きて戦うことで宣言していく。
 司令部は戦局を観測し差配する特権、損傷個体を回収し再生させる神めいた能力を持ちながら、アンドロイドの全てを支配できるわけではない。
 2Bがヨルハの定めに縛られつつ、それに抗う一個体であること……ネットワークに繋がりつつも、その意志に染まらない人間であることは、狂気を感染させる機械生命体の破滅を見た後だと、希望であり救済に思える。

 しかしそれはあまりに人間的な見方で、擬似的な不死とより大きなものに繋がる安心感を、我々よりも根本的に果たし得たアンドロイドにとって、自由であることは楽園から追放されるに足りる罪なのかもしれない。
 人間が消え去ってなお、人間を守るための戦いに従事し、滅び滅ぼされまた蘇って戦う、永遠の輪廻に身を置くこと。
 それを地獄だと感じるのは、そうはなれない人間だからこその感情であって、作られたときからそれが当然のアンドロイドにしてみれば、2Bが獲得し体現しつつある自由と尊厳こそが、訂正すべきエラーなのだろう。
 そしてその過ちは結構ポピュラーで、どうでもいいモブとして地上に切り捨てられたレジスタンスたちは、それぞれちっぽけな意思と尊厳と物語を抱えて、有限の命を生き続けている。
 大きなものに繋がれて、永遠の一部であることは、変質しきったこの世界においても絶対の真実ではないし、ネットワークの安寧から切り離されて個人でいるしかない孤独と自由には、ある種の侵食性(普遍性といっていいかもしれない)がまだあるのだ。

 それに縛られて、2Bは壊滅寸前のレジスタンスに視線を送る。
 選ばれたヨルハの戦士にくだされた使命は別にあるが、2Bは彼らと共有した時間と物語に引きずられて、ネットワークの命令を裏切っていくだろう。
 巨大な何かに繋がれ永遠と安寧を得る、アンドロイドらしい生き方。
 2Bが否定してきた一匹狼への道は、愛や友情や絆や……大きくくくって”人間らしさ”とい僕らが呼びたくなるもので舗装されている。
 それが、果たして幸福なのか。
 人であること、神様になりきれないことを掘り下げていくこの物語は、確定した答えを用意していないだろう。
 だからこそ、2Bが選び突き進む戦いを見届ける意義も必要も、ここにある。
 次回が楽しみだ。